第08話 知らないことだらけ
翌日の放課後、僕は薬草園にエスタを呼んだ。
「わたしをこんなところに呼び出して、一体何の用――」
言いかけたエスタの声が、途中で止まった。ミズナ草の葉陰から、緑色の小さな光がふわりと浮かび上がったからだ。
「エスタ、紹介する。コロンだ。……喋る精霊」
『よろしく』
コロンが短くそう告げると、エスタはしばらく口を開けたまま固まっていた。夕陽を背にした彼女の影が、畝の上で長く伸びている。
「……本当に、喋ってる」
「驚くよな。僕も最初はそうだった」
エスタはゆっくりとしゃがみ込み、コロンと視線の高さを合わせようとした。その顔には、驚きよりも、どこか感激したような色が浮かんでいる。
「初めまして……その、突然でごめんなさい。わたし、エスタです」
丁寧に頭を下げるエスタに、コロンは少し戸惑ったように黙っていた。それから、ぽつりとこう言った。
『……そういう風に挨拶されたのは、久しぶりだ』
「今回の結界のこと、僕一人じゃ何も分からなくて。エスタなら、古い文献とか詳しいだろ。コロンも、昔のことをよく知ってるし」
「……なるほど、それで」
「あと、もうひとつ話しておきたいことがあって」
僕は、薬草園の中央を指さした。
蔦に半分覆われた、古い石像。
「昨日、あそこで祈ったんだ」
「……祈った?」
エスタが、目を丸くした。
「うん。結界の乱れをどうにかできないかと思って、コロンに相談したら、あの像なら土地の流れに触れられるかもしれないって」
「ちょっと待って。あんた、あれが何の像か知ってるの?」
「大地の女神像だろ。この土地を預かってる大精霊様を象ったものだって、コロンが」
「……知ってて、祈ったの」
「うん」
エスタは石像のほうを見て、それからまた僕を見た。
「わたし、あの像の前を毎日通ってたけど」
「うん」
「一度も、手を合わせたことなかった」
「……まあ、普通そうだと思う」
「あんたは普通じゃないってこと?」
「そういう意味じゃなくて」
エスタは何か言いかけて、やめた。
代わりに、こう聞いてきた。
「それで、何か分かったの」
「分かったっていうか……乱れを、感じた」
僕は、あのときの感覚を思い出しながら説明した。
大きな流れがぶつかり合って、渦を巻いていたこと。反発し合う素材を、わざと混ぜたときみたいな手触りだったこと。両手で押さえようとしたけれど、まるで湖の波を止めようとするようなもので、魔力が尽きるだけだったこと。
「……それ、誰かに言った?」
「いや。信じてもらえる気がしなくて」
「わたしには言ったじゃない」
「エスタなら、笑わないと思ったから」
エスタはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「……笑わないわよ、そんなの」
エスタは居住まいを正すと、真剣な顔で切り出した。
「わたしが読んだ文献だと、精霊への感謝が薄れ始めたのは、ここ百年くらいの話みたい。魔導金属の技術が発達して、畑も、灯りも、精霊の力を借りなくても回るようになったから」
『それは知っている。人間の生活は、随分と楽になったようだな』
「楽になった分、感謝を捧げる理由も、なくなっていったってことなのかな……」
「便利になることと、感謝を忘れることは、本来は別の話のはずなんだけどな」
僕がそう言うと、エスタは小さく頷いた。
「そうなんだけど……実際問題として、目の前の生活が便利になれば、わざわざ手を合わせる理由なんて、忘れていくものなのかもね」
「でも、結界は今もちゃんとあるわけだろ? 盟約とやらのおかげで」
「そういえば、盟約って具体的に何をしてるものなの? 結界を維持してくれる代わりに、人間側は何をしてるわけ?」
『……さあ。詳しい取り決めまでは、僕も知らない』
「コロンでも知らないのか」
『下位の精霊にまで、盟約の細かい中身が伝わっているわけじゃない。知っているのは、もっと上位の――』
コロンはそこで、言葉を濁した。
「もっと上位のって、大精霊様とか、そういうこと?」
『……その辺で勘弁してくれ。話せることと、話せないことがある』
コロンにしては歯切れの悪い返事だった。それ以上追及しても無駄だと悟って、僕とエスタは顔を見合わせた。
三人であれこれ話し合ってみたものの、話はどんどん広がるばかりで、一向にまとまらなかった。
精霊のこと、信仰心のこと、学園のこと、王国のこと、結界のこと、外の魔物のこと、最近の技術の進歩のこと、人間の意識の変化のこと――どれも大事な話のはずなのに、繋げて考えようとすると、途端に輪郭がぼやけてしまう。
気づけば、薬草園はすっかり夕闇に包まれていた。石垣の向こうの空だけが、まだ橙色の名残を留めている。
「結局、盟約が何なのか、誰も具体的には知らないってことよね」
「知らないことだらけだな、僕ら」
『人間とは、そういうものだろう』
コロンの言葉には、皮肉というより、ただの事実を述べるような響きがあった。
「……歴史の先生になら、詳しいこと聞けるかもしれない」
エスタの提案に、僕も頷いた。
「明日、一緒に聞きに行こう」
「うん。……もう今日は遅いから、また明日」
石畳を踏む音が遠ざかっていく。門のところで一度だけ振り返ったエスタに手を振ると、彼女は小さく手を振り返して、夕闇の向こうへ消えていった。コロンは何も言わず、その背中を見送っていた。
家に帰ると、夕食の席で、僕は最近の学園の様子を両親に話した。結界の乱れのこと、盟約のこと。話しながら、両親がどんな反応をするのか、少し気になっていた。
「盟約ねえ……」
父は箸を止めて、少し考え込むような顔をした。ランプの灯りが、日焼けした横顔に深い陰影を落としている。
「そういえば、俺の親方から聞いた話だが、大工にも似たようなのがあるぞ」
「大工に?」
「木を切り出すとき、山の恵みに感謝してから斧を入れる、って作法だ。今じゃ、そんなことしてる大工はほとんどいないがな。俺の親方くらいの世代までは、当たり前だったらしい」
「へえ……」
思いがけない話だった。学園や王国の話だとばかり思っていたのに、身近な父の仕事にも、同じような習慣が根付いていたなんて。
「母さんも知ってた?」
母は苦笑しながら頷いた。
「うちの実家じゃ、水を汲むとき、井戸に向かって一言お礼を言う習わしがあったわね。今はもう、誰もやってないけど」
「それも、感謝の作法ってことか」
「さあ、どうかしらね。ただの習慣だと思ってたけど……フェイの話を聞いてると、そういうことだったのかもしれないわね」
父が、思い出したように付け加えた。
「そういえば、お前が薬を作るときにやってる、あの魔力を込める作業。あれも、似たようなものなんじゃないのか」
「え?」
「材料に感謝しながら、丁寧に扱う。焦らず、時間をかける。……お前がいつもやってることだろう」
言われてみれば、そうなのかもしれなかった。今まで、ただの「技法」だと思っていたものが、急に違う形をして見えてきた気がした。
食卓を囲みながら交わされる、何気ない会話。けれど、その一つひとつが、今の僕には妙に重く響いた。
食事を終えて自室に戻ると、僕は本棚から『旅する薬師の手記』を取り出した。
窓の外は、すっかり夜の色に染まっている。机の上のランプだけが、開いた頁の上に小さな光の輪を落としていた。
開いたのは、最後の章だ。
馴染ませの技法が載っているあたりから、もう少し先へ。専門用語ばかりで歯が立たず、途中で投げ出したまま放置していた数頁。
今日の話を踏まえて読み返すと、以前は読み飛ばしていた一節が、急に違って見えてきた。
――土地の魔力と結界の魔力を馴染ませる儀式は、単なる技術ではない。その土地に根付く感謝の作法を、正しく理解している者にしか、本当の意味では扱えない。
以前読んだときは、技術書の中に紛れ込んだただの精神論だと思って、読み飛ばしていた一文だった。
けれど今は、そこに込められた意味が、少しだけ分かる気がした。
――あの人は、レタグィ村の葡萄酒の話も書いていた。
各地の料理の味も、地脈の走り方も、村の古い習わしも、同じ一冊に書き留めていた人だ。あの人の中では、たぶんそれらは全部、地続きのものだったのだろう。
技術としての「馴染ませ」と、感謝としての「馴染ませ」。もしかしたら、それは同じものの、二つの側面なんじゃないだろうか。
ノートを開き、今日考えたことを書き留めながら、僕は明日、歴史の先生に何を聞くべきか、頭の中で整理し始めた。
聞きたいことは、山ほどあった。盟約の具体的な中身。結界の仕組み。そして――もし本当に、誰かが意図的に乱れを起こしているのだとしたら、その「誰か」は何を望んでいるのか。
ペン先が止まるたび、あの女神像の伏せた瞼が脳裏に浮かんだ。明日には、少しでも答えに近づけるだろうか。そんなことを考えながら、僕はランプの灯りを落とした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




