第07話 遠い約束
その夜、僕は薬草園の小屋で一人、調合の作業を続けながら、今日一日のことを考えていた。
結界の乱れ。エスタの不安。どちらも、僕には直接どうにかできることじゃない。それでも、頭の片隅で何かが引っかかっていた。
――魔力は、常に揺らぎ続けている。その揺らぎを制御し、固定する過程こそが魔法の本質だと、先生は言っていた。
――そして、僕がやっている馴染ませの技法は、魔力を材料に馴染ませることで、成分同士の反発を抑え、吸収されやすくする。
もし、結界の乱れというのが、魔力が「固定」されていないからじゃなくて、「馴染んでいない」からだとしたら?
そういえば、あの『旅する薬師の手記』の最後の章にも、似たような記述があった気がする。異国の街を守る結界が弱まったとき、その土地の薬師たちが「土地の魔力と、結界の魔力を馴染ませる儀式」を行った、という一文だ。
あの章は、馴染ませの技法が載っているところまでは何週間もかけて読んだけれど、その先はあまりに難解で、途中で放り出したままになっている。当時は意味もよく分からず読み飛ばしていた一文が、今になって、妙に引っかかった。
漠然とした思いつきだった。けれど、器の中で薬液がゆっくりと馴染んでいく様子を見つめているうちに、その考えはだんだん確信に近づいていった。
「コロン、聞いてもいいか」
『何だ』
「結界の乱れって、力が足りないんじゃなくて、何かと馴染んでないから起きてるってことは、ないのかな」
コロンは、しばらく黙っていた。羽虫のような小さな体が、器の上でぴたりと止まっている。
『……お前、それ、どこで聞いた』
「どこでって、誰にも聞いてない。ただ、今日の授業と、いつもの調合を考えてたら、なんとなく」
『……なんとなく、か』
コロンの声には、これまで聞いたことのない色があった。驚きとも、警戒ともつかない、奇妙な響きだった。
『……フェイ。お前、案外馬鹿にできないな』
「え、それ褒めてる?」
『さあな』
はぐらかすようにそう言うと、コロンはそれ以上何も語らなかった。けれど、その沈黙は、いつもの素っ気なさとは少し違う気がした。
翌日の放課後。
薬草園は、いつもより静かだった。
授業が終わったばかりの校舎からは、まだ遠くに生徒たちの話し声が聞こえてくる。けれどこの石垣の内側に一歩入ると、その喧騒はまるで水の底に沈むように遠のいて、風が葉を撫でる音だけが残る。西に傾いた陽射しが石垣の上を滑り、畝と畝の間に細長い影を落としていた。
僕は作業台の前に座り込んだまま、しばらく何もせずにいた。手の中で空の小瓶を弄びながら、頭の中では昨日からずっと同じことを考えている。
「なあ、コロン。昨日の話の続きなんだけど」
葉陰から、緑色の小さな光が浮かび上がった。夕方の光の中では、その輝きはいつもより淡く、頼りなく見える。
『……ろくでもない顔をしているな』
「やっぱり、あの馴染ませの技法。結界の補強に使えないかな」
コロンの光が、ほんの一瞬、揺れたように見えた。
『それは、お前がやるという話か』
「他に誰がやるんだよ」
『……』
コロンは答えなかった。小さな光は、ふわりと浮き上がって、僕の頭上をゆっくりと一周した。値踏みされているような、奇妙な間だった。
「昨日、馬鹿にできないって言ってくれただろ」
『言った。だが、見立てが正しいことと、手が届くことは別だ』
「分かってる。……でも、思いついたのに何も試さないのは、なんか嫌なんだ」
またしばらく、沈黙があった。
『……ふん』
コロンは短くそう言うと、薬草園の中央のほうへ、すっと飛んでいった。
『来い。見せたいものがある』
畝の間を抜けて薬草園の中央まで行くと、そこには蔦に半分覆われた石像が立っていた。
両手を胸の前で組み、静かに目を伏せた女性の像。長い年月に晒されて輪郭はすっかり丸くなり、顔立ちの細部はもう判別できない。台座の下半分は苔に覆われ、風化した文字らしきものがかろうじて刻まれている。
入学してからずっと、ここを何度も通り過ぎてきた。それなのに、この像をまともに見たのは、今日が初めてかもしれない。
「これ……女神像、だっけ」
『大地の女神だ。……もっとも、今ではただの飾りだと思われているだろうがな』
「大地の女神って、誰のこと?」
『この地を預かっている大精霊のことだ』
思わず、僕は像を見上げ直した。
『大樹から届いた流れを、この土地に合う形に整えて配る。それが大精霊の役目だ。昔の人間は、その働きを「恵み」と呼んで、預かっている方を大地の女神と呼んだ。……この像は、その方を象ったものだ』
「じゃあ、これ、実在する人の像なのか」
『人ではないがな。……顔を合わせたことのある者が彫ったと聞いている』
夕陽が像の横顔を照らし、伏せた瞼の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。その表情は、悲しんでいるようにも、ただ静かに眠っているようにも見えた。
『昔は、こういう像が学園のあちこちにあった。いや、学園だけじゃない。国のあちこちの村や街角にもな。朝、水を汲みに行く前に手を合わせる。畑仕事を始める前に感謝を告げる。……そういうのが、当たり前だった時代があった』
「今は、ほとんど見ないけど」
『ああ。この像の前で足を止める人間なんて、もう何十年と見ていない』
コロンの声には、皮肉というより、ただ事実を確認するような静かさがあった。
『……試してみるか。お前のその技法とやらが、本当に何かの役に立つのかどうか』
「ここで?」
『ここで、だ。この像は、土地の魔力と繋がっている。結界そのものに手を出すには遠すぎるが、その端っこくらいには触れられるかもしれん』
僕は頷いて、像の正面に立った。足元の土は、昼間の陽射しの名残でまだ温かい。
両手を胸の前で組み、目を閉じる。
いつも回復薬に対してやっているように、体の奥からゆっくりと魔力を送り出す。器に注ぐときとは違って、送り出した先に受け止めるものがない。魔力は水面に広がる波紋のように、石像の表面をすっと通り抜けて、そのまま霧散していった。
何の手応えもない。
「……これで合ってるのか? なんか、ただ魔力を捨ててるだけみたいなんだけど」
『焦るな。一度や二度で届くものじゃない』
僕はもう一度、目を閉じた。
風が薬草園を渡っていく。ミズナ草の葉が擦れ合う音、遠くで鳴く鳥の声、石垣の向こうから微かに届く誰かの笑い声。目を閉じていると、それらの音がいつもよりずっと近くに感じられた。
何度目かの試みのとき、ふと、指先に何かが触れた気がした。
調合のときと同じ、あの感覚だ。かすかに、けれど確かに。
ハッとして目を開け、コロンを振り返る。コロンは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その反応だけで、間違っていないのだと分かった。
もう一度、目を閉じて集中する。
祈りを続けるうちに、その感覚は少しずつ輪郭を帯びていった。指先の向こう側に、広い空間が横たわっているような感覚。そこには、何かが流れている。いくつもの、質の違う流れが。
これは……何かに似ている。
いろんな素材が、ただ混ざり合っているだけで、全く調和していない感じ――いや、それだけじゃない。まるで、わざと調合のバランスを崩すために、反発し合う素材を意図的に放り込んだときのような、あの嫌な感触。
自然に起きた乱れじゃない。誰かが、わざとそうしているみたいな――そこまで考えて、僕は慌ててその考えを打ち消した。まさか、そんなはずはない。
けれど、一度浮かんだその考えは、簡単には消えてくれなかった。もしこれが誰かの意志によるものなら、それを鎮める方法もまた、力業では通用しないはずだ。
僕は集中して、素材同士の反発を抑えるようなイメージを思い描きながら、祈り続けた。
けれど、うまくいかない。
まるで、大きな湖の波を、自分の両手だけで押さえ込もうとしているような感覚だった。どれだけ力を込めても、波は指の隙間からこぼれ落ちていく。押さえ込んだそばから、別の場所で新しい波が立ち上がる。
やがて、体の奥から魔力がすっと引いていくのを感じた。
膝から力が抜けて、僕はその場にへたり込んだ。空っぽだ。荒い息を吐きながら顔を上げると、いつの間にか陽はすっかり落ちていて、女神像の輪郭は薄闇に溶けかけていた。
「……全然、駄目だった」
徒労感で、頭の中まで真っ白になりそうだった。それでも――
『悪くない』
え、と顔を上げる。
『今のは、悪くなかった。少なくとも、お前が感じ取った「違和感」の正体は、そう的外れじゃない』
コロンにしては珍しく、まっすぐな褒め言葉だった。僕はへたり込んだまま、その言葉を嚙み締めた。
それでも、今の自分の力じゃ、とてもこの乱れを鎮められそうにない。分かったのは、ただ「何かがおかしい」ということだけだ。それでも、何も分からないまま焦り続けるよりは、ずっとましだった。
薄闇の中で、女神像は変わらず目を伏せたまま、静かに立っていた。
――その夜。
学園の地下深く、創立の時に盟約が交わされたと伝わる古い祠へ向かう石段を、私は一人で下りていった。灯りは持たない。ここに至る道すがら、明かりを灯すこと自体が、精霊への礼を欠く行為だと、代々の学園長から伝えられてきたからだ。
祠の中央に立つと、冷えた空気の中に、かすかな圧を感じた。言葉にできない、けれど確かにそこに「何か」がいる気配。
「――お呼び立てして申し訳ありません、大精霊イーリス様」
私は深く頭を下げた。返事はない。それでも、応じてくださっていることは分かる。声ではなく、頭の奥に直接、思考そのものが叩き込まれるような感覚があるからだ。
『久しゅうございますね、人間』
頭の奥に響いたその「声」に、私は思わず息を呑んだ。
学園長の座に就いてから、この祠に降りたのは三度目になる。それでも、慣れるということがない。他人の考えが、こちらの都合も聞かずに頭の内側へ置かれていく感覚。毎度、心臓が一拍飛ぶ。
「盟約の更新について、率直にお話ししたいのです」
『申してごらんなさい』
「此度、我々人間側からの提案として、三点を申し上げます。まず、下位精霊が生徒に害されることのないよう、実技の授業には必ず教師が立ち会うことを義務付けます。次に、薬草園や中庭など、精霊の気配が濃い区画については、正式に『精霊の領域』として、生徒であっても許可なく踏み入れぬよう取り決めを設けます。そして――一度きりの約束ではなく、毎年見直しの場を設けたく存じます。イーリス様にも、その都度お越しいただく形で」
しばらくの沈黙があった。祠の中の空気が、わずかに重くなった気がした。
『……悪くない申し出です。ですが、それだけでは足りませぬ。この三百年、そなたたちの誠意を測る目盛りは、言葉ではなく、続けられたかどうか。……一年で絶える約束など、割り当ての計算にも入れられませぬ』
「仰る通りです。……つい先日も、実技の授業中に、下位の風精霊を術式の的にしていた生徒がいたと報告を受けました。既に厳重に注意いたしましたが、二度と起きぬとは、私の口からは容易く言えません」
正直にそう告げると、頭の奥の「気配」が、わずかに揺れた気がした。呆れられたのか、あるいは――試されているのか。
『正直な男です。……よろしい。此度も、盟約はこれまで通りの条件で更新いたしましょう。ですが、次の更新までに何ら誠意を見せられぬようであれば――わたくしは、この地に力を配り続ける理由を、改めて考え直さねばなりませぬ』
「……感謝いたします」
私は深く頭を下げながら、内心で小さな引っかかりを覚えていた。今回の乱れは、本当にただの偶然だったのだろうか。更新の直前になって、これほど分かりやすい形で現れるとは。……いや、考えすぎだろう。大精霊ほどの御方が、そのような回りくどい真似をするとも思えない。私はその思考を、静かに打ち消した。
顔を上げると、頭の奥の「気配」が、ふと違う方向へ意識を向けたのが分かった。
『――時に』
「はい」
『そなたの学び舎に、妙な手つきで脈に触れる人間の子がおるようです。心当たりは』
予想もしない問いに、私は思わず言葉に詰まった。
「……申し訳ございません、心当たりが……いえ、少し、確認してみます」
『よろしい。急ぐ話ではありませぬ』
「は」
『割り当てた流れの一角が、思うたより整うておりましてね。地が自ずと直すにしては、手つきが人臭い。……帳尻に響くほどではありませぬが』
そう言った「声」には、苛立ちとも興味ともつかない色があった。
『放っておけば消えましょう。……もっとも、繕う手が増えては、いささか差し支えます』
それきり、頭の奥の気配は静かに引いていった。祠に一人残された私は、しばらくその場から動けなかった。
脈に触れる人間の子――一体、誰のことを言っているのだろうか。心当たりがまるでないことに、私は言いようのない不安を覚えながら、石段を上り始めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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