第06話 歪みの兆し
◆
王城の一角、精霊対策院の会議室に呼び出されたのは、前触れもない急な話だった。私――この学園の長を務めるオズウィンは、末席に座りながら、円卓を囲む三人の顔を順に見た。
窓のない部屋に、独特の緊張が張り詰めている。
「学園周辺の魔力反応の乱れについては、既にご存じの通りです」
口火を切ったのは、精霊対策院の長を務めるバルトロだった。分厚い書類の束を机に置きながら、疲れた声で続ける。
「盟約の更新時期が近いことは、我々も把握しております。三百年周期のこの取り決めについては、代々の記録にも残っておりますから」
バルトロは書類の一枚を指でなぞった。
「最初の盟約が六百年前。一度目の更新が三百年前。そして此度が、二度目の更新にあたります」
「では、今回の乱れも、想定の範囲内だと?」
私が尋ねると、バルトロは首を横に振った。
「いいえ。過去の記録を見る限り、更新前にこれほど明確な乱れが観測された前例はありません。……大精霊イーリス様が、我々に何か示そうとしておられるのではないか、と懸念しております」
「三百年前の更新のときは」
「記録は残っております。ただ、ごく事務的なものです。『滞りなく更新を了す』――その一行きりで」
バルトロは書類を閉じた。
「当時、何があったのかまでは、分かりません」
「示す、とは」
「不満、でしょうな」
そう答えたのは、宮廷魔術師のヴァンスだった。
「今どき、精霊の機嫌など気にせずとも、魔導金属を組み込んだ結界術式であれば、同等以上の防御力を維持できる時代です。私としては、この機会に、旧来の盟約に頼らない防衛体制への移行を進言したいところですが」
「ヴァンス殿、それは些か性急では」
割って入ったのは、占星術師のセレンだった。
「星の巡りを見る限り、今は慎重に動くべき時です。大精霊の意向を無視して事を進めれば、取り返しのつかないことになりかねません」
「星占いに国政を左右されては困りますな」
ヴァンスが皮肉めいた笑みを浮かべる。セレンは眉をひそめたが、言い返しはしなかった。
「お二人とも、落ち着いてください」
バルトロが割って入り、疲れた様子で額を押さえた。
「率直に申し上げます。近年、王国全体で、自然や精霊への信仰心は薄れる一方です。魔導金属の精錬技術が発達し、土に頼らぬ栽培法まで広まった今、民衆が自然の恵みを実感する機会そのものが減っている。若い世代ほど、その傾向は顕著です」
その言葉に、私は胸の内で小さく頷いた。学園でも、同じことを感じていた。
「かつては、当たり前のように精霊への感謝を口にしていた生徒たちも、今では魔法を、単なる便利な技術としか捉えていない節がある。……無理もないのかもしれません。目に見える結果を出すことばかりが評価される時代ですから」
「だからこそ、盟約の更新は形式的なもので済ませるべきです。過度な譲歩は、無用な混乱を招く」
ヴァンスの言葉に、バルトロは苦い顔をした。
「形式的に済ませられるかどうかは、イーリス様次第でしょう。……学園長。此度の交渉、あなたに一任することになりました」
「私に、ですか」
「他に誰がおりますか」
バルトロは、当たり前のことを確かめるように言った。
「この場で、あの方の声を受け取れるのは、あなただけだ」
返す言葉はなかった。
六百年前、この国の王は大精霊と言葉を交わすことができなかった。
いくら言葉を尽くしても、返ってくるものが何ひとつ聞き取れない。伝わっているのかどうかすら分からない。そういう相手だったのだ。
交渉が成ったのは、王ではなく、その弟が呼ばれてからだった。
幼い頃から人には見えぬものが見え、聞こえぬものが聞こえると言われて、王宮では気味悪がられていた王弟。彼だけが、頭の奥に響く「声」を受け取ることができた。
盟約は、その王弟の手で結ばれた。
以来、取り決めができた。
聞く者は、王位に就かない。国政からは離れ、盟約の座だけを預かる。
その代わり、祠の上に学び舎を建て、そこを終生の居場所とする。
――王家の血のうち、聞く耳を持って生まれた者が、学園長となる。
六百年、そうやって続いてきた。私で二十四代目になる。
もっとも、血というのは薄れるものだ。
初代は精霊と自在に語り合ったと記録にある。三代目までは、下位の精霊とも言葉を交わせたらしい。
私はどうか。
かろうじて、思念を受け取れる。それだけだ。こちらから伝えたいことは、声に出して喋るしかない。祠に立つたびに、自分の耳の鈍さを思い知らされる。
……次の代は、もっと聞こえないかもしれない。
そのことを、私は誰にも言っていない。
「……ただし」
バルトロはこちらを見据えて続けた。
「過度な約束は控えてください。予算にも、政治的な事情にも限りがある。あなたの誠意だけで、国全体の方針を動かすことはできません」
釘を刺すようなその一言に、私は黙って頷くしかなかった。
朝、教室に入った瞬間から、何かがいつもと違う気がした。
先生たちの顔つきが、心なしか硬い。廊下では、普段は雑談ばかりしている教師たちが、声を潜めて何事か話し込んでいる。
魔法理論の授業が始まると、担当の先生はいつもより早口でこう言った。
「最近、学園周辺の魔力反応にわずかな乱れが観測されています。原因は調査中ですが、皆さんは普段通り過ごして構いません。ただ、体調に異変を感じたり、妙な気配を察知したりした場合は、すぐに教師に報告するように」
教室がざわついた。
「乱れって何だよ」
キアリーが小声で聞いてくるが、僕にも分かるはずがない。
「たぶん、盟約の更新時期が近いからだと思う」
前の席からエスタが振り返って言った。声にいつもの勢いがなく、心なしか硬い。
「盟約? 何だそれ」
「知らないの? この学園、精霊たちとの盟約があって、その代わりに結界を維持してもらってるのよ。三百年に一度、更新の時期があるの。ちゃんと歴史の授業でやったでしょ」
「聞いてたっけ、そんなの」
「聞いてなかったんでしょ、どうせ」
エスタは呆れたようにため息をついたが、すぐに表情を曇らせた。
「……前に読んだ古い文献に、先代の聖女様の記録が残ってたの。今よりずっと昔、精霊との交流が盛んだった時代の話。聖女様は、毎朝欠かさず、精霊への感謝の祈りを捧げていたんだって」
「へえ、真面目だったんだな」
「真面目とか、そういうことじゃなくて」
エスタは少し苛立ったように言葉を続けた。
「治癒魔法の講義でも、精霊の力を借りることがあるのに、講師の先生たちですら、精霊に対する敬意なんて、ほとんど口にしないの。自然に対する畏れとか、そういうものも。……ただの技術として教わってるだけ。それが、なんだか妙に引っかかってて」
「引っかかるって?」
「分からない。でも、今回の乱れと、無関係な気がしないの」
エスタはそれだけ言うと、また前を向いてノートに向き合った。その横顔が、いつもより張り詰めて見えた。
その日の実技の時間、先生が手本として放った光の球が、一瞬だけ歪んで見えた。ほんの瞬き程度の出来事だったけれど、教室の空気が僅かにざわついたのを、僕は肌で感じた。
「今のは……」
誰かが小さく呟いたが、先生は何事もなかったかのように授業を続けた。だが、先生自身の手元が一瞬固まったのを、僕は見逃さなかった。
放課後、僕はいつも通り薬草園に向かった。だが、コロンの様子はいつもと違っていた。
「コロン?」
声をかけても、返事までにわずかな間があった。
『……ああ、悪い。何の用だ』
「何の用って、いつも通り採集の相談だよ。……なんか今日、変じゃない?」
『気のせいだ』
以前も似たようなやり取りをしたのを思い出す。あのときも「気のせいだ」の一点張りで、結局何も教えてもらえなかった。今日のコロンは、それに輪をかけて上の空だった。ミズナ草の葉が、心なしかいつもより萎れて見えるのも気のせいだろうか。
「植物、元気ないみたいだけど」
『……そうだな。心当たりはある』
「え、あるの? 何が原因なんだ?」
『言えない。……いや、正確には、まだ僕にも分からないことのほうが多い。心配するな、お前にできることじゃない』
「できることじゃないって言われても、心配になるだろ。コロンがそんな態度取るの、珍しいし」
コロンはしばらく黙っていた。ミズナ草の茎に留まったまま、小さな光がゆっくりと明滅している。
『……悪い。八つ当たりだった』
素直に非を認めるコロンを見るのは、初めてかもしれない。それだけで、事態がただ事ではないのだと、なんとなく察しがついた。それでも、これ以上は踏み込まないほうがいい気がして、僕はそれ以上何も聞かなかった。
数日前から、エスタの様子がどこかおかしいことには気づいていた。今日、鍛錬場の隅で治癒魔法の自主練習をしている彼女を見かけたときも、僕は思わず足を止めた。
「エスタ、まだやってるのか。もう暗くなってきたぞ」
声をかけたキアリーに、エスタは肩で息をしながら振り返った。顔色が悪い。
「あと少し……もう少しで、大きい傷にも効くようになりそうなの」
「無理しすぎだろ。顔、真っ青だぞ」
心配そうに眉を寄せるキアリーに、エスタは強がるように言い返す。
「無理してるわけじゃ……」
言いかけて、エスタは急に黙り込んだ。手のひらに浮かんだ淡い光が、力なく消えていく。
しばらくの沈黙のあと、エスタがぽつりとこぼした。
「……今日、治療科の先生たちが上級生だけ集めて、何か話してたの、知ってる? わたしたちには詳しいことは教えてくれなかったけど、『もしものときに備えて』って言ってるのが聞こえたの。もし結界が本当に弱くなってるなら、外の魔物がここまで来るかもしれない。そうなったら、怪我人が増える。……そのとき、わたしみたいなのがちゃんと役に立てるかどうか」
エスタの声が、初めて弱々しく震えた。いつも勝ち気な彼女からは想像できない表情だった。
「エスタ……」
僕がそれだけ言うと、キアリーも、いつもの明るさを潜めて続けた。
「俺だって、正直不安がないわけじゃない。剣の稽古だって、これまでは訓練用の的が相手だったけど、本物の魔物が相手になったら勝手が違う。それでも、今できることを積み重ねるしかないだろ」
キアリーの言葉に、エスタは俯いたまま呟いた。
「……分かってる、それくらい」
「別に、慰めてほしいわけじゃないから」
強がるようにそう言って、エスタは立ち上がった。けれどその足取りは、いつもよりずっと頼りなく見えた。
見かねたキアリーが、あえて軽い口調で声をかける。
「今日はもう休めよ。根を詰めすぎても、いい結果には繋がらないだろ」
「……分かってる。分かってるけど、じっとしてるほうが怖いのよ」
エスタは小さく頷きながら、消え入りそうな声でそう答えた。それ以上、僕らに掛けられる言葉はなかった。ただ、彼女が一人で抱え込んでいるものの大きさを、少しだけ感じ取った気がした。
夕暮れの鍛錬場を後にするエスタの背中を見送りながら、僕は自分にできることの少なさを、もどかしく思った。回復薬なら作れる。けれど、彼女が本当に欲しがっているものは、たぶんそれとは違う種類の何かだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




