第05話 聞こえない声と、聞いていない声
「――なあ、フェイ」
肩を叩かれて我に返る。キアリーだった。
一限目はいつの間にか終わっていて、今は二限目――精霊史の時間だ。魔法理論の教室から移動してきたことすら、僕はほとんど覚えていなかった。
「今、先生なんて言った?」
「え……」
しまった。僕も聞いていなかった。
「ご、ごめん、ちょっと考え事してて」
「マジかよ。俺、お前が聞いてるだろうと思って油断してたのに」
二人して顔を見合わせていると、前の席からため息が飛んできた。振り返らなくても誰だか分かる。
「まったく、二人とも」
エスタだった。教科書を指で軽く叩きながら、呆れた顔でこちらを見ている。
「序説の第一章。昨日の範囲でしょ。……あんたたち、ちゃんと読んできたの」
「あー」
「読んでないのね」
「読んだよ。読んだけど、あの言い回しは頭に入らない」
「入らないじゃ済まないの。試験に出るんだから」
キアリーが、隣から教科書を覗き込んできた。
「なあ、結局どういう話なんだ、あれ」
「要約してあげるほど暇じゃないわよ」
「頼むって」
「……自分で読みなさい」
にべもなかった。
「あと、これ」
エスタは、頁の隅にある小さな挿絵を指さした。
両手を胸の前で組み、目を伏せた女性の姿。台座の上に立っている。
「ここ、出るわよ。たぶん」
「像?」
「昔の人は、この国の大精霊様を『大地の女神』って呼んで、こういう像をあちこちに建てたの。井戸の脇とか、畑の境とか。……薬草園にもあるでしょ、蔦だらけの古いやつ」
「あー、あるな」
「あれよ」
「じゃああれ、本物を見て彫ったってこと?」
「そこまでは書いてないわよ。……ただ、どの土地の像も、だいたい同じ顔をしてるって」
「なあ、その樹ってどこにあるんだ?」
キアリーの問いに、エスタは肩をすくめた。
「どこにもないわよ。神話だもの」
「なんだ、つまんねえの」
僕も、そのときは同じように思っていた。神話は神話で、どこかにある話ではないのだと。
エスタの説明は、教科書に忠実な、きれいにまとめられた歴史だった。共存、盟約、守護者――どれも聞こえのいい言葉が並んでいる。
けれど、ほんの一時間ほど前、この校舎のすぐ裏でコロンとアリアが交わしていたやり取りを、僕はもちろん知らない。もし聞いていたら、この授業の内容が、精霊たちの目にはずいぶん違って映っているのだと知っただろう。最初の契約が六百年前のもので、前の更新からも三百年が過ぎ、そろそろ限界を迎えつつあることも。
「分かった分かった、次からちゃんと聞くよ」
キアリーが降参するように両手を上げ、僕もそれに合わせてノートを開き直した。けれど頭の片隅では、まだあの技法のことが引っかかったままだった。
授業が終わると、キアリーが伸びをしながら声をかけてきた。
「なあ、今日の放課後、鍛錬場に見に来いよ。新しい型を教わることになってるんだ」
「見てるだけでいいなら行くよ。怪我しても薬は持ってきてないけど」
「そこは自分でなんとかする。……たぶん」
「たぶんって何だよ」
隣でエスタが呆れたようにため息をついた。
「二人とも、少しは緊張感を持ちなさいよね。わたしは治療の自主練があるから、鍛錬場には付き合えないけど」
「エスタも頑張れよ」
「言われなくても」
そう言い残して、エスタは足早に教室を出ていった。その背中を見送りながら、キアリーは「相変わらずだな、あいつも」と苦笑していた。
放課後、僕はまず鍛錬場に顔を出した。
砂を敷いた広い円の中で、二十人ほどの生徒が木剣を構えている。土埃と汗の匂い。号令に合わせて、一斉に木剣が振り下ろされる音が腹に響いた。
キアリーはすぐに見つかった。一番前の列で、誰よりも高く木剣を振り上げている。
「――そこ、肩に力が入りすぎだ」
教官が横から声を飛ばした。
「振り下ろすときに力を込めるな。上げた腕の重さで落とせ。腕で斬るな、剣に斬らせろ」
「はいっ!」
キアリーは素直に構え直した。何度も振り直しては、そのたびに教官に何か言われている。他の生徒がとっくに休憩に入っても、彼一人だけが振り続けていた。
僕は石段に座って、それをぼんやり眺めていた。
同じ動作を、何十回も繰り返す。少しずつ角度を変えて、確かめて、また振る。
――ああ、これは僕と同じだ。
そう思った。僕が乳鉢の中で同じ草を何度も潰し直しているのと、たぶん何も変わらない。うまくいったかどうかは、自分の手にしか分からない。誰も褒めてくれないし、誰も見ていない。
ようやく木剣を下ろしたキアリーが、こちらに気づいて手を振った。
「見ててくれたのか」
「ずっと見てた。……なあ、さっき、二十三回目で一回だけ音が違ったの、気づいてた?」
キアリーが目を丸くした。
「お前、数えてたのか」
「暇だったから」
「……うわ、嬉しいんだかなんだか」
そう言いながらも、キアリーは妙に嬉しそうだった。
そのとき、彼が木剣を握り直した手が目に入った。
手の甲に、真新しい擦り傷が走っている。血は止まっているが、砂が入ったままだ。
「うわ、それ」
「ん? ああ、これか」
キアリーは手の甲を裏返して、こともなげに言った。
「さっき、振り抜いた勢いで柵に擦った。よくあるやつだ」
「洗ってないだろ」
「洗う暇があったら一本でも多く振るわ」
僕はため息をついて、鞄を探った。
「あった」
取り出したのは、昨日仕上げたばかりの瓶だった。今日の分はまだ薬草園に置いてある。これは持ち歩き用の一本だ。
「ほら」
「お、悪いな」
キアリーは瓶を受け取ると、蓋を開けて、中身も聞かずに一息に呷った。
「毎回思うけど、よく確認もせず飲めるな」
「毒だったら困るけど、お前が毒作るわけないだろ」
「そういう問題じゃなくてさ」
「じゃあどういう問題だよ」
答えに詰まった。
たぶん、僕は毎回ほんの少し怖いのだ。効かなかったらどうしよう、悪くなったらどうしようと。
そのたびに、こいつは何も考えずに飲んでくれる。
「……で、どうだ」
「ん、待て。今……」
キアリーは手の甲を見つめて、しばらく黙っていた。
「――お、引いた。痛みが」
「早さは? 前と比べて」
「たぶん、早い。前は数えて三十くらいだったけど、今のは二十くらいだったと思う」
「二十」
僕は鞄からノートを出して、その場で書き留めた。
「あと、味は」
「苦い」
「それは知ってる」
「いや、でも前より飲みやすい。後味が残らなくなった」
「それだ」
思わず声が大きくなった。
「そこを直したんだよ。煮出す時間を短くして、代わりに魔力を通す時間を長くしたんだ。やっぱり分かるか」
「分かるっつーか、飲まされてる側は嫌でも気づくわ」
キアリーは空になった瓶を返しながら、呆れたように笑った。
「なあ、フェイ」
「うん」
「お前さ、自分で飲んでみたりしないの」
「するよ。でも、あんまり当てにならないんだ」
「なんで」
「効いてほしいって思いながら飲むから。効いた気がしちゃうんだよ、実際どうでも」
「ああ、それはあるかもな」
キアリーは納得したように頷いてから、にやりと笑った。
「じゃあ俺、大事な仕事してんじゃん」
「してる。すごくしてる」
「もっと感謝しろよ」
「ありがとう」
「素直か」
「その代わり、次のができたらまた頼む」
「おう。……あ、でも、そろそろ傷が足りなくなるかもな」
「足りなくなる?」
「最近、稽古で怪我しにくくなってきたんだよ。型が固まってきたっつーか」
そう言って、キアリーは木剣を担ぎ直した。
「困ったな。お前の実験に協力できなくなる」
「いや、それは喜ぶところだろ」
「それもそうか」
二人で笑った。
夕陽が鍛錬場の砂を橙色に染めていた。
「あ、そうだ」
帰り支度をしながら、キアリーが思い出したように言った。
「北門の焼き串、今度一緒に行こうぜ」
「いいな。塩だれで」
「香辛料も足してもらうんだろ?」
「もちろん」
キアリーと別れてから、僕はまっすぐ薬草園へ向かった。今日教わった「魔力の揺らぎ」の話を、コロンにも聞かせてみようと思ったのだ。
「コロン、聞いてくれよ。今日の授業でさ――」
葉陰から緑色の光が浮かび上がる。心なしか、いつもより少し静かな気がした。
『ああ、聞かせてくれ』
「魔力って、体の中でずっと揺らぎ続けてるんだって。それを一定の形に固定するのが魔法なんだって、先生が言ってた。もしかしたら、僕がやってる馴染ませの技法にも関係あるんじゃないかと思ってさ」
『……悪くない視点だ。その調子で考え続けろ』
コロンの声はいつも通り素っ気なかったが、どこか上の空のようにも聞こえた。
「コロン? どうかした?」
『……いや、何でもない』
「絶対なんかあるだろ、その間の取り方」
『気のせいだ。人間は勘だけは無駄に鋭いんだから、困る』
コロンはそう言って、ふい、と体の向きを変えるように光を揺らした。図星を突かれたときにいつもする仕草だと、僕はもう知っている。
『それより、今日はどの薬草から手をつける?』
はぐらかされたような気がしたけれど、深くは追及しなかった。僕はカゴを手に取り、いつものように作業を始めた。
まだ知らない――結界の契約のことも、アリアという精霊のことも。夕暮れの光がミズナ草の葉を橙色に染める中、コロンはいつも通り軽口を叩きながら僕の作業を手伝ってくれた。けれどこの日、静かに何かが動き始めていたのだと、僕が気づくのはもう少し先の話になる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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