第10話 地脈の大樹
目を覚ますと、そこは花畑だった。
見たこともない色の花が、地平の果てまで続いている。青とも紫ともつかない花弁が、風もないのにゆらゆらと揺れ、そのたびに細かな光の粒が舞い上がった。空は薄紅と金に染まり、朝とも夕方ともつかない曖昧な明るさが、どこまでも広がっている。
そして、無数の光が漂っていた。
コロンよりも小さなもの、鳥ほどの大きさのもの。白、翡翠、琥珀――色とりどりの光が、花の上をゆっくりと流れていく。精霊だ。それも、こんな数は見たことがない。
空気は、驚くほど澄んでいた。息を吸い込むと、嗅いだことのない甘い香りが胸の奥まで満ちていく。遠くで水の流れるような音がするけれど、川らしきものはどこにも見当たらない。音も匂いも、全部がどこか現実離れしていた。
僕は起き上がって、自分の体を確かめた。痛みはない。服も汚れていない。飛龍に掴まれたはずの肩にも、傷ひとつなかった。
「……え」
途端に、血の気が引いた。
傷がない。痛みもない。周りには精霊が漂っていて、目の前には見たこともない美しい景色が広がっている。
「うそだろ、ここ、天国?」
思わず声に出していた。まだ十四だぞ。回復薬だってようやく形になってきたところだし、旅にも出ていない。世界中の美味しいものだって、ひとつも食べていない。
海の向こうの香辛料も、雪国の乳菓子も、南の島の果実も。『旅する薬師の手記』で読んだ、あの全部を。
「いや、待て待て。落ち着け、僕」
自分の頬を軽く叩いてみる。ちゃんと痛い。痛いということは、まだ生きているということじゃないのか。それとも死んだ後でも頬は痛むものなのか。そんなことは、どの本にも書いていなかった。
『――安んじよ、幼き調べよ』
背後から、柔らかな女性の声が響いた。
いや、「響いた」というのは正確じゃない。耳ではなく、頭の奥に直接染み込んでくるような、あの感覚。コロンの声と同じだ。
慌てて振り返って、僕は言葉を失った。
巨大な樹が、そこに立っていた。
見上げても、梢の先が見えない。幹は城の塔を何本も束ねたほどの太さがあり、樹皮の隙間からは淡い光が漏れ出している。根元は花畑の地面に溶け込むように広がり、その根の一本一本が、まるで血管のように微かに脈打っていた。無数の精霊たちが、その枝の間を出入りしている。
「……あなたが、喋ってるんですか」
『いかにも』
「あ、あなたは、誰、いや、何なんですか」
『我は脈なり。地の底を巡る流れを束ね、彼の王国へと繋ぐもの』
「……地脈?」
『そう呼ぶ者もある』
僕は一歩、後ずさった。相手の正体はさっぱり分からない。けれど、少なくとも人間ではない。それだけは確かだった。
「あの、聞きたいことが、たくさんあって」
『申すがよい』
「僕は、どうしてここにいるんですか。飛龍はどこに行ったんです? っていうか、学園は――学園はどうなったんですか!?」
一度堰を切ると、言葉が止まらなかった。
『汝は、我に呼びかけた。石の器を通し、ささやかな灯を差し出した。ゆえに我は、汝をこの懐へ招いた』
「石の器……?」
『大地に立つ、目を伏せし像よ』
――女神像のことか。
あの日、薬草園の中央で手を合わせたあの像。あの祈りが、この樹まで届いていたということだろうか。
「あの、招いたって……もしかして、あの飛龍」
『我が枝より生じ、我が枝へ還るもの』
僕は思わず、見上げた。
頭上には、際限なく枝葉が広がっている。あの中の、ほんの一握りが空を渡って学園まで飛んでいったというのか。
「……なんで、そんなことを」
『かの地の結界を司る者にとって、汝の灯はいささか都合が悪し。遠からず払われよう。ゆえに、先に迎えた』
「……すみません、全然、意味が」
『流れを緩めんとする者あり。されど汝の灯は、緩みを繕わんと働く。二つの理は相容れず』
言葉ひとつひとつは美しいのに、繋げて考えようとすると、途端に霧の中へ逃げていく。焦りだけが募った。
「あの、それより! 学園は無事なんですか!?」
『案ずるな。傷は浅し』
「傷って、怪我人が出たってことですか!? 死んだ人は――」
『失われし灯はなし』
「……つまり、誰も死んでない?」
『然り』
「本当に? 本当に、誰も?」
『我は偽らず』
何度も聞き返した僕に、樹は少しも苛立つ様子を見せなかった。ただ静かに、同じ答えを繰り返すだけだった。
僕はその場にへたり込みそうになった。
「……よかった」
エスタも、キアリーも、無事なのだ。それだけ分かれば、今はいい。
膝の力が抜けて、花の上に座り込む。押し潰された花弁から、また淡い光が舞い上がった。
安心したら、今度は別の思いが込み上げてきた。
「あの、じゃあ、僕を帰してもらえますか。学園に」
『今はまだ、その時にあらず』
「……え?」
『汝が彼の地に立てば、緩みは繕われ、目覚めるはずの者が眠り続けよう。実る前に摘めば、種は残らぬ』
「あの、ほんとに、全然、分からなくて」
『時が満ちれば、自ずと通ずる』
「いや、そういうのじゃなくて、僕はただ、家に帰りたいだけで――」
樹は、それきり黙ってしまった。花畑を渡る精霊たちの光だけが、静かに流れていく。
途方に暮れて、僕はその場に座り込んだ。
言葉は通じているのに、意味が通じない。帰りたいのに、帰してもらえない。周りには美しい景色が広がっているのに、それがかえって心細さを掻き立てた。
膝を抱えたまま、どれくらいそうしていただろうか。
視界の端を、見慣れた色がよぎった。
緑色の、小さな光。
「……コロン?」
『やっと見つけた』
その声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
「コロン! どうしてここに!」
『薬草園からずっと追いかけてきたんだ。……まったく、面倒をかけさせる』
素っ気ない言い方だったが、その光の明滅は、いつもより速かった。よく見ると、光そのものも、心なしか弱々しい。ここまで飛んでくるのに、相当の力を使ったのだろう。
「……ありがとう。来てくれて」
『礼はいい。それより、話がある』
「なあコロン、この樹が何を言ってるのか、さっぱり分からないんだ。通訳してくれよ」
『……古い言葉だからな。仕方ない』
コロンは大樹の根元まで飛んでいくと、しばらく何かを交わすように光を明滅させた。それから僕のところへ戻ってきて、こう言った。
『順番に話す。まず、学園の結界が緩んだのは、偶然じゃない』
「偶然じゃないって……」
『結界を管轄している大精霊が、わざと緩めた』
息が止まった。
「わざと? どうして」
『人間に、思い知らせるためだ。近頃、人間たちは自然や精霊への敬意をすっかり失っている。盟約の更新も近い。言葉で訴えても届かないなら、身をもって知らせるしかない――そう考えたんだろう』
――まるで、わざとバランスを崩すために、反発し合う素材を放り込んだような。
女神像の前で感じたあの違和感が、一気に形を結んだ。あのとき打ち消した考えは、正しかったのだ。
『そして、お前の祈りだ。お前がやっていたことは、緩んだ結界を繕う方向に働いていた。……つまり、大精霊にとっては邪魔だった』
「じゃあ、あの飛龍は、大精霊が……?」
『いや。……順に話す』
コロンは一度、大樹のほうを振り返った。
『地の流れは、元はすべてこの樹から出ている。枝分かれした先を管理しているのが大精霊で、この樹はその大元だ。……だから、末端で誰が何をしようと、この樹には直に伝わる』
「直に? こんなに離れてるのに」
『同じ一本の流れだからな。距離は関係ない。……逆に、大精霊のほうはどうだったと思う』
「え」
『あの方は、あの土地に届いた分を預かって、それをどう配るかを決めているだけだ。流れそのものと繋がっているわけじゃない。……お前の祈りも、たぶん「なんだか思ったより整っているな」くらいにしか感じ取れなかっただろう』
「じゃあ、僕が何をしてるかまでは」
『分からなかったはずだ。人間が何か手を出しているらしい、という程度だな』
僕は、ようやく腑に落ちた気がした。
『そして、あの飛龍だ。あれは、この樹の枝から生まれたものだ』
「え」
『この樹は流れの大元だから、末端の結界にも手を出せる。……あの日、飛龍が結界を素通りできたのは、そういうことらしい』
「素通りって、そんな簡単に」
『簡単ではないだろう。……ただ、あの飛龍は、気配というものを一切出していなかった。緩んだ結界の隙間を、音もなく滑り込んだだけだ』
「気配を、消せるのか」
『出さないようにすることはできる。……あれは、お前を連れ出すためだけに来た。それ以外は何もしないと決めていたから、できたんだろう』
コロンは少し考えるように黙ってから、続けた。
『大精霊のほうからすれば――何か通ったか、と思う程度だったはずだ。気づいたときには、もう終わっていた』
僕は、あの日のことを思い出した。
あのとき、校庭にいたのは学園に常駐している十数人の騎士と、杖を取った先生たち、それに剣術科の上級生が何人か。突然のことで、王都からの増援なんて影も形もなかった。
その頭上を、あの飛龍は何の妨げも受けずに降りてきた。誰一人、空を警戒していなかった。結界が無抵抗だったのだ、とあのとき感じた違和感の正体が、ようやく分かった気がした。
『この樹は、お前を守るためにここへ招いたと言っている。……ただし、しばらくは戻せない、とも』
「コロンは、知ってたのか」
『……いや。僕も、ここへ来て初めて聞かされた』
コロンの声が、わずかに硬くなった。
『下位の精霊には、何も知らされていなかった。結界が緩んでいるのも、ただの異変だと思っていた。……まさか、意図的なものだったとはな』
その言い方に、僕はハッとした。
コロンも、騙されていた側なのだ。あの日、薬草園で「心当たりはある」と言いながら口を濁していたのも、本当に何も分かっていなかったからなのだろう。
僕は、しばらく言葉が出なかった。
つまり、あの日の襲撃も、負傷した騎士たちも、エスタが泣いていたかもしれないことも、全部――誰かの意図の上で起きたことだったのか。
「そんなの……そんなのって、ないだろ」
声が震えた。
「怪我した人がいるんだぞ。みんな怖い思いをしたんだぞ。それを、思い知らせるためって、そんな理由で」
『……お前の気持ちは分かる』
コロンの声は、静かだった。
『だが、フェイ。お前なら、大精霊の考えていることも、分かるんじゃないか』
その一言に、僕は何も言い返せなかった。
分かってしまうのだ。悔しいことに。
もし僕が精霊の側で、六百年も同じ場所を守り続けていて、その間に人間たちが少しずつ感謝を忘れていって、注意しても変わらなくて――それでも、あの土地を見捨てられないのだとしたら。
きっと、何かをしたくなる。
「……分かるよ。分かるけど」
『けど?』
「分かっちゃう自分が、なんか、嫌だ」
コロンは何も言わなかった。ただ、僕の肩の辺りで、小さな光がゆっくりと明滅していた。
見上げれば、大樹の枝の間を、無数の精霊たちが静かに行き交っている。あの光の一つひとつにも、きっと長い時間の積み重ねがあるのだろう。
僕は膝を抱えたまま、その光の流れをぼんやりと見つめていた。
――その頃、学園の大講堂。
集められた生徒たちの前に、学園長オズウィンが立っていた。
壇上に上がった彼の顔には、いつもの穏やかさはなかった。数日前の襲撃の痕は、まだ校庭のあちこちに残っている。誰もが、次に何を告げられるのかを固唾を呑んで待っていた。
「まず、負傷した諸君と、その家族に、心からの見舞いを申し上げる」
低い声が、静まり返った講堂に響いた。
「そして、諸君には、今回の事態の原因について、包み隠さず伝えねばならない」
ざわめきが走る。
「先の結界の乱れは、外部からの攻撃によるものではない。……我々人間の側の問題だ」
オズウィンは、ゆっくりと講堂を見渡した。
「この学園の結界は、六百年前に大精霊と交わした盟約によって維持されている。その前提には、我々が自然と精霊に敬意を払い続けるという、当然の約束があった。だが――」
言葉が、そこで一度途切れた。
「だが我々は、その約束を、少しずつ忘れてきた。技術が発達し、生活が便利になるにつれ、感謝を捧げる理由そのものを見失ってきた。私自身も、その一人だ」
学園長が頭を下げると、講堂の空気が、目に見えて変わった。
「よって本日より、いくつかの措置を講じる。ひとつ、学園各所の精霊像および祠の修復と清掃。ひとつ、実技授業における下位精霊の扱いに関する規則の厳格化。そしてひとつ――」
オズウィンは顔を上げた。
「かつてこの学園で、毎月行われていた『祈りの会』を、復活させる」
講堂がざわついた。
「祈りって、本気か?」
「今どき、そんな……」
近くの席から、そんな囁きが聞こえてくる。半信半疑の顔、戸惑った顔。中には、露骨に面倒そうな表情を浮かべている生徒もいた。
けれど、壇上の学園長は引かなかった。
「諸君の中には、形だけの儀式だと感じる者もいるだろう。私も、かつてはそう思っていた一人だ」
一度言葉を切って、オズウィンは続けた。
「だが、我々は既に一度、その代償を目の当たりにしている。……このままでは済まされないということを、どうか忘れないでほしい」
講堂の空気が、少しずつ変わっていくのが分かった。
講堂を出た後も、その言葉はわたしの頭から離れなかった。
「祈りの会、か」
隣を歩くキアリーが、どこか居心地悪そうに呟いた。
「正直、俺、精霊なんてほとんど意識したことなかったな」
「わたしだって、文献で読んで知ってただけよ。ちゃんと敬ってたかって言われたら……自信ない」
薬草園の前を通りかかって、わたしは足を止めた。
石垣の内側。誰もいない畝の向こうに、蔦に覆われた古い石像が立っている。
――昨日、あそこで祈ったんだ。
あの日、フェイはそう言って、この像を指さした。大地の女神像。この土地を預かる大精霊様を象ったものだと。
あのとき、わたしは「一度も手を合わせたことがなかった」と答えた。
畝の間には、手入れされないまま伸びた雑草が目立ち始めていた。ここに毎日通っていた人が、いなくなったからだ。そう思うと、胸の奥が重くなった。
「……行こう」
門をくぐり、像の前に立った。
夕暮れの光が、伏せられた瞼の輪郭を柔らかく照らしている。長い年月に晒されて、顔立ちはもうほとんど分からない。それでも、その表情は静かだった。
わたしは両手を組んで、目を閉じた。
「――どうか、フェイを守ってください」
隣で、キアリーが黙って手を合わせるのが気配で分かった。
風が薬草園を渡り、ミズナ草の葉を揺らしていく。返事はない。当たり前だ。
それでも、祈らずにはいられなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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