第11話 大樹のもとで
目が覚めても、そこはやはり花畑だった。
薄紅と金の空は昨日と変わらず、時刻の見当がつかない。大樹の根元に背中を預けたまま、僕はしばらくぼんやりしていた。
腹が鳴った。
考えてみれば、攫われてから何も口にしていない。いつ帰れるとも知れない以上、ここで待っているだけでは干からびてしまう。僕は立ち上がって、花畑の外へ向かって歩き出した。
『どこへ行く』
背後から声がした。振り返ると、緑色の光がふわりと追いかけてくる。
「腹が減ったから、何か食べ物を探しに行こうと思って」
『……ちょっと待て。聞いてくる』
コロンはそう言って、大樹の根元へすっと飛んでいった。しばらく光を明滅させたあと、戻ってきてこう言った。
『向こうの森がいい。こっちは避けろとのことだ』
「聞いてくれたのか。ありがとう」
花畑を抜けると、そこは深い森だった。
苔むした巨木が天を衝くように立ち並び、重なり合った葉の隙間から、細い光の筋が幾条も差し込んでいる。踏みしめる地面は柔らかく、落ち葉と土の匂いが立ち上った。花畑の非現実的な美しさとは違って、こちらは生々しいほど「自然」だった。
しゃがみ込んで、足元の植物を見て回る。
「これは……ノビル草だ。食べられる」
見覚えのある葉を摘み取って、口に入れる。青臭いが、悪くない。学園の薬草学で、食用にもなると習った覚えがあった。
そのまま歩き回るうちに、いくつか知っている実も見つかった。けれど、それ以上に知らない植物のほうが圧倒的に多い。見たこともない形の葉、毒々しい色の実。手を出す気にはなれなかった。
「……あの手記、ちゃんと読んでおけばよかった」
思わず声に出してしまった。
『旅する薬師の手記』には、確か食糧が尽きたときの野外での過ごし方について、まとまった章があったはずだ。何しろあの人は、道も宿もない土地を何十年も歩き回っていた人だ。そういう知恵が書いていないはずがない。
けれど当時の僕は、回復薬の調合に関係ない部分だと思って、ほとんど飛ばし読みしていた。
今になって、あの頁の内容が喉から手が出るほど欲しい。
それでも、思い出せることもあった。座り込んで植物を一つひとつ調べていると、「ああ、これは薬の材料にも使うけど、若い葉なら食べられるはずだ」という記憶が、ぽつぽつと浮かんでくる。
そうやって少しずつ、僕は空腹を満たしていった。
不思議なもので、腹が減っていると、知識の引き出し方まで変わってくる。学園の教室で暗記していたときは、「この草の根は解熱に使う」という一行でしかなかったものが、ここでは「じゃあ葉のほうはどうなんだ」「若い芽なら苦味が少ないはずだ」と、勝手に手が伸びていく。
生えている場所も関係するらしかった。日当たりのいい斜面のものは葉が厚く、味も濃い。木陰のものは柔らかいけれど、風味は薄い。同じ草でも、育った場所で別物になる。
そんなことは、どの教科書にも書いていなかった。
木の根元に、赤い実がいくつも生っているのを見つけた。
「これ、知ってる。カムの実だ」
学園の近くの市場でも、秋になると安く売られている実だった。甘いだけでたいして美味しくもない、子供のおやつ程度のもの。
大して期待もせず、僕は一粒を口に放り込んだ。
そして、動きが止まった。
甘い。けれど、それだけじゃない。噛んだ瞬間に舌の奥で渋味が広がり、その後ろから、微かな苦味が追いかけてくる。三つの味が、ひとつずつ順番に立ち上がって、最後に溶け合って消えていく。
こんな味だったのか、この実は。
飲み込むと、喉から胸へ、そして体の芯へと、じんわりと何かが広がっていった。強張っていた肩の力が抜け、足の疲れがほどけていく。回復薬を飲んだときの感覚に似ている。けれど、もっと穏やかで、もっと深い。
「……ごちそうさま。ありがとう」
無意識に、そう口に出していた。
その瞬間だった。
周りを漂っていた精霊たちが、一斉に動いた。
白い光がくるくると回転し、琥珀色の光が枝の間を駆け上がる。翡翠色の小さな光が、僕の周りを二度、三度と円を描いて舞った。仄かな明滅が、森のあちこちで波のように広がっていく。
言葉は、何も聞こえない。
それでも、伝わってくるものがあった。喜んでいる。嬉しがっている。そんな気がした。
僕はしばらく、その光景から目を離せなかった。
光は、やがて少しずつ落ち着いていった。それでも、しばらくの間、翡翠色の小さな光が一つだけ、僕の肩の辺りをふわふわと漂っていた。
手を差し出してみる。触れられるはずもないのに、光はその上を一度だけ横切って、それから森の奥へと帰っていった。
――ああ、そうか。
うまく言葉にはできない。けれど、何かが腑に落ちた気がした。
感謝を捧げるというのは、義務でも儀式でもないのかもしれない。ただ、美味しかったと思ったから、そう言った。それだけのことで、こんなふうに返ってくる。
居心地がいい。ただ、それだけの理由で、昔の人は手を合わせていたんじゃないだろうか。
腹が満たされると、今度は別のことが頭を占め始めた。
学園は本当に無事なのか。エスタとキアリーは。父さんと母さんは、僕がいなくなったと聞いてどうしているだろう。
母さんはきっと泣いているだろう。あれだけ小言を言われていたけれど、いなくなったらいなくなったで、心配するに決まっている。父さんは、こういうときこそ黙って仕事に行くような人だ。それはそれで、たぶん一番こたえている。
考え始めると、止まらなかった。
「コロン、やっぱり一度戻れないかな。せめて、無事だって伝えるだけでも」
『無理だ』
即答だった。
『ここへ来るだけで、僕はかなりの力を使った。今の僕には、お前を連れて戻る力はない。……それに、戻れば危ない』
「危ないって、大精霊に?」
『向こうがどう出るかは分からん。だが、少なくとも歓迎はされないだろう』
分かっていた答えだった。それでも、はっきり言われると気が滅入る。
「……待つしかないのか」
『そういうことだ』
落ち着かない気持ちを紛らわせたくて、僕は何か作業がしたくなった。調合をしていれば、余計なことを考えずに済む。
けれど、道具がない。秤も、乳鉢も、鍋も、何ひとつ。
肩を落としていると、コロンがぽつりと言った。
『……人間は昔、そんなものがなくても薬を作っていたぞ』
「え?」
『調合の技術が今みたいに整う、ずっと前の話だ。石で潰し、木の葉で包み、湧き水で煮出す。道具は作るものじゃなく、そのへんから見つけてくるものだった』
コロンの声は、どこか遠くを見ているようだった。
『……もっとも、そういう技は、今ではすっかり忘れられてしまったがな』
その言葉に、僕の頭の中で何かが弾けた。
「――探してくる」
『は?』
「道具。探してくる!」
その気になって探してみると、森は道具の宝庫だった。
手のひらに収まる大きさで、片面が平らな石。硬い木の実を叩き潰すのにちょうどいい。ちょうどよく湾曲した木の板は、器の代わりになる。真っ直ぐな枝を折って、太さの違う棒を何本か。かき混ぜる用と、練る用だ。
大きな葉を何枚か摘んで、包む用に。平らな石の窪みには、水を溜められそうだった。
探し始めると、森の見え方が変わった。
昨日までは、ただの木、ただの石、ただの葉だった。それが今は、全部が「何かに使えるかもしれないもの」に見える。倒木の樹皮は剥がせば器になりそうだし、細い蔓は縛るのに使えそうだ。
道具は作るものじゃなく、見つけてくるもの。コロンの言葉の意味が、少しずつ分かってきた気がした。
「……いけるかもしれない」
集めた道具を花畑の一角に並べて、僕は思わず笑った。
もちろん、最初はまるでうまくいかなかった。
石で潰した実の繊維が粗すぎて、成分が全然出てこない。かき混ぜても水と油のように分離したまま。加減が分からず練りすぎて、ベトベトの塊になったこともある。
「うわ、これ最悪だ」
『言わんこっちゃない。潰しが足りてない』
「そっちの石のほうがよかったかな」
『もう少し重いやつを使え』
コロンとああでもないこうでもないと言い合いながら、僕は何度も作り直した。
不思議と、少しも苦にならなかった。むしろ、楽しかった。
学園にいた頃は、本に書かれた手順を正確になぞることばかり考えていた。けれどここには、手本になる本も、正しい手順もない。あるのは、目の前の素材と、自分の手と、コロンの助言だけだ。
失敗するたびに、何が悪かったのかを考える。次はこうしてみようと思いつく。試す。また失敗する。
その繰り返しが、たまらなく面白かった。
コロンの助言も、学園にいた頃とは質が変わってきた気がする。
『その実は、日が高いうちに採ったほうがいい。朝露を含んでいると水っぽくなる』
「え、そうなの? 初耳なんだけど」
『……昔の人間は、知っていたことだ』
そんなやり取りが、日に何度もあった。コロンの中には、誰にも聞かれないまま何百年も眠っていた知識が、まだいくらでも残っているらしかった。
もちろん、コロンの助言が外れることもある。そういうときは二人で首を捻って、また別の方法を試す。
「今のは絶対コロンのせいだろ」
『僕は助言しただけだ。判断したのはお前だろう』
「うわ、ずるいぞそれ」
そんな軽口を叩き合いながら、僕らは失敗を積み上げていった。
日が暮れると――この空に日は沈まないけれど、光が少し翳ると――僕は大樹の根元に戻って眠った。
根の窪みに体を収めると、背中に樹皮の凹凸が当たる。硬いのに、不思議と冷たくない。
見上げれば、枝の間を精霊たちの光がゆっくりと流れていく。白、翡翠、琥珀。数えているうちに、どれがどれだか分からなくなる。
昼のあいだは、いい。
手を動かしていれば、頭は目の前のことでいっぱいになる。石の重さ、水の量、火の遠さ。考えることが山ほどあって、余計なものが入り込む隙がない。
けれど、手を止めた途端に、それは来る。
――エスタは、泣いてないだろうか。
――キアリーは、無茶をしていないだろうか。
――母さんは。父さんは。
分からない。何ひとつ分からない。
学園は無事だと、大樹は言った。誰も死んでいないとも。それは本当なのだろう。あの樹が嘘をつくとは思えない。
けれど、それだけだ。
その先が、何も分からない。
こういうとき、いつもなら誰かに聞けた。
分からないことがあれば図書室へ行けばよかったし、それでも駄目ならコロンに聞けばよかった。ゲルダ先生に頼んでもよかった。
ここには、何もない。
聞く相手も、調べる本も、帰る道も。
寝返りを打つと、根の窪みが軋んだ。
この場所は美しい。花は絶えないし、空は柔らかいし、精霊たちは絶え間なく舞っている。食べるものにも困らない。
そういう場所だからこそ、時々、無性に息が詰まる。
夜が来ないというのは、朝も来ないということだ。この空はずっと同じ明るさで、同じ色で、僕がどれだけここにいるのかを教えてくれない。
家の小屋なら、窓の外が暗くなれば、そろそろ片付けようと思えた。
「……コロン、起きてる?」
『起きている』
葉陰から、短い返事があった。
「なんでもない。……ちょっと、声が聞きたかっただけ」
『そうか』
コロンはそれ以上何も言わなかった。
けれど、しばらくして、緑の光が僕の頭のすぐ横まで降りてきて、そこに留まった。
それだけで、少し楽になった。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか眠ってしまう。
朝になると――空が少し明るくなると――森へ採集に出かけ、食事をして、それから明るいうちはずっと調合に没頭する。
そんな日々が、どれくらい続いただろうか。ひと月、あるいはもう少し。
その日は、朝から妙に調子がよかった。
手が勝手に動く感覚。素材の量も、潰す強さも、混ぜる速さも、考える前に体が正解を知っている。そういう日が、たまにある。
木の板の器の中で、暗褐色の液体を、なめらかになるまで混ぜていく。
最後の工程。両手をかざし、ゆっくりと魔力を送り込む。端から端へ、波を送るように。コロンに教わった通りに。
液体が、光を帯び始めた。
暗褐色が、少しずつ透き通っていく。濁りが底へ沈み、澄んだ層が上へ浮かび上がる。その色が、褐色から緑へ、緑から――
「……青?」
透き通るような、鮮やかな青。
木の器の中で、その液体は仄かに光を放っていた。顔を近づけると、爽やかな香りが立ち上る。
僕はこの色を知っている。一度だけ、王都の有名な薬品店のショーケースの中で見たことがある。体力と魔力の両方を大幅に回復するという、値札を見て諦めた高級ポーション。あれと、同じ色だ。
『できたな』
コロンは、それだけ言った。
たった一言。いつも通りの素っ気なさ。それなのに、なぜかその声には、いつもと違う実感がこもっているように聞こえた。
僕は器を両手で持ち上げると、コロンの前に差し出した。
『……どうした』
「これ、コロンにあげるよ」
『なぜ』
「なぜって……助けに来てくれたでしょ。だいぶ力を使ったって、言ってたじゃん」
『……そうか』
コロンはそう言ったきり、黙ってしまった。
沈黙が続く。僕は器を持ったまま、だんだん居たたまれなくなってきた。
「なんか言ってよ。恥ずいじゃん」
『……そうか。そうだな』
緑色の光が、ゆっくりと明滅した。
『……ありがとう』
「うん!」
なんだか妙に嬉しくなって、僕は大きく頷いた。
「ほら、飲んでみてよ。効くかどうか、感想教えて」
キアリーにいつもそうしていたように、僕はそう言った。
緑色の光が、器の上へ降りてくる。青い液体の表面を、くるくると円を描くように回り始めた。
一周。二周。三周。
四周目に入っても、コロンは降りてこなかった。
「……コロン?」
『飲まん』
「え、なんで」
『飲まん』
「いや、そのために作ったんだけど」
『分かっている』
そう言いながらも、コロンは液体の上を回り続けていた。
『分かっているが、これは飲めん』
「効くかどうか確かめないと、意味ないだろ」
『効くに決まっている』
即答だった。
『お前が百日かけて、石を拾って、葉を摘んで、何度も失敗して、今日ようやく作ったものだ。……効かないはずがあるか』
僕は、何と言えばいいのか分からなくなった。
「……じゃあ、どうするんだよ」
『取っておく』
「取っておくって」
『いつか、要るときが来る』
「そんな日が来るとは限らないだろ。効き目だって落ちるし」
『来る』
コロンは、なぜか断言した。
しばらく押し問答をして、結局、僕が折れた。
森で拾った木の実の殻を半分に割って、蓋をこしらえる。保存用にいくつか作ってあったうちの、一番きれいなものを選んだ。
青い液体を、一滴もこぼさないように移していく。
蓋をすると、殻の隙間から淡い光が漏れた。
「……ほんとに飲まないんだな」
『飲まん』
コロンは、その小瓶をそっと抱えるようにして持ち上げた。羽虫ほどの大きさしかない体で、両腕どころか全身で抱えるような格好だった。
そして、動かなくなった。
「コロン?」
答えはなかった。
緑色の光が、小瓶を抱えたまま、細かく震えている。
「おい、大丈夫か」
『……ああ』
声が、掠れていた。
『……百五十年だ』
「え?」
『百五十年、誰にも何も、もらったことがなかった』
その言葉の意味を、僕はうまく呑み込めなかった。
薬草を摘んでいく生徒はいた。畝を踏み荒らしていく者もいた。像の前を通り過ぎていく者は、数え切れないほど見てきたのだろう。
けれど、何かを差し出された記憶は、この精霊には一度もなかったのだ。
百五十年。
緑の光が、大きく揺れた。
次の瞬間、光が弾けた。
思わず腕で顔を覆う。指の隙間から恐る恐る覗くと、そこには――
緑の光が、大きく広がっていた。
両手を広げたほどの幅の、蝶の翅のような形。縁が淡く発光し、無数の細かな光の粒が、翅の上を流れていく。
そして、その中心。
ぼんやりとした輪郭の中に、小さな人の姿が見えた。
その腕の中に、木の実の小瓶がしっかりと抱えられているのが見えた。
一滴も、こぼれていなかった。
――我は、その様を静かに見ていた。
石を握り、葉を摘み、水を汲む。倦むことなく手を動かし、失敗を重ね、そのたびに笑う幼子の姿を。
傍らには、緑の灯。助言を与え、時に呆れ、けれど一度もその場を離れなかった小さき者。
二つの異なるものが、互いに欠けたところを補い合い、ひとつの実を結ぶ。
――かつては、当たり前のことであった。
野を耕す者は土に礼を述べ、土に住まう者はその手に応えた。器を焼く者は炎に名を呼びかけ、炎に宿る者はその求めに温もりを返した。
与え、返され、また与える。その巡りが絶えぬ限り、この脈もまた、滞ることはなかった。
いつからであろうか。人が、呼びかけることをやめたのは。
――あの日、我は久方ぶりに、脈の上を撫でるものを感じた。
遠い地の、末の末。それでも、我が流れである以上、手のひらに触れられたも同然であった。
石の器を通して差し出された、頼りないほど小さな灯。器用でもなく、正しくもない。ただ、繕おうとしていた。
見返りを求めず。誰にも命じられず。
この地に残る人のうち、我らのために手を動かせる者は、もはやそれ一つであった。
ゆえに我は、枝を割いた。
幼子は、己が最も良く作れたものを差し出した。
灯は、それを飲まなかった。抱えて、震えた。
――与えられるということを、あの小さきものは知らなんだのだ。
百五十年、呼ばれず、礼を言われず、それでもあの畑を離れずにいた。与えるばかりで、受け取ったことがなかった。
受け取り方を知らぬ者が、初めて受け取った。
ゆえに、器が割れたのだ。
灯が弾け、翅の形を結ぶのを、我は見届けた。
長らく忘れられていたはずの光景が、いま、我が根の上で再び結ばれている。
――久しいことよ。
――そして、種は芽吹きつつある。
まだ細く、まだ脆い。されど、根は確かに下りている。
この芽が実を結ぶまで、我はこの地を離すまい。
願わくは、間に合うことを。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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