第12話 見ててくれてありがとう
第一回の「祈りの会」は、快晴の朝に行われた。
学園の中庭に全校生徒が集められ、正面には、倉庫から運び出されたばかりの精霊像が据えられていた。長年しまい込まれていたせいで台座には白く埃の跡が残り、慌てて磨かれた表面だけが不自然に光っている。
「――では、全員、目を閉じて」
壇上の教師の号令で、生徒たちが一斉に手を組んだ。
わたしも目を閉じた。
中庭に、静寂が落ちる。
けれど、完全な静寂ではなかった。どこかで小さく囁き交わす声がする。誰かが欠伸を噛み殺す音。革靴が石畳を擦る音。目を閉じていると、そういうものばかりが耳に入ってきた。
「精霊たちよ、我らの学び舎をお守りください」
教師が読み上げる文言を、生徒たちが復唱する。何百人分の声が重なって、ひとつの低い唸りのように中庭に響いた。
「我らに安寧を。我らに加護を。我らの日々が、恙なく続きますように」
――我らに。
その言葉が、妙に耳に引っかかった。
薄目を開けて、周りをそっと窺う。
前の列の男子は、組んだ手の中で指をもぞもぞ動かしている。その隣の子は、はっきりと退屈そうな顔をしていた。教師たちですら、何人かは時計を気にしている。
「――以上をもって、本日の祈りの会を終わります」
その一言で、中庭の空気が一気に緩んだ。
何百もの目が、一斉に開く。
わたしは、それを見ていた。
見ていた、というより、待っていた。
目を開けた瞬間、正面には像がある。壇上に据えられた、今朝磨かれたばかりの精霊像が。嫌でも視界に入るはずの位置に。
けれど。
生徒たちは、開いた目で、まず隣の友達を見た。
それから伸びをして、鞄を持ち上げて、体の向きを変えた。
像に背を向けて、喋りながら歩き出した。
一人。二人。十人。何十人。
誰も、振り返らなかった。
像は、中庭に取り残されていた。
何百人がその前で手を組み、何百人分の声を浴びせられて、そして誰にも見られないまま、また一人になった。
倉庫から出されたのは、たぶん十数年ぶりだ。
その十数年と、今と、何か違っただろうか。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
祈りの会が終わって、生徒たちはあっという間に散っていった。
「思ったより早く終わったな」
「これ毎月やるんだろ? 面倒だなあ」
「でもまあ、朝の一時間潰れるだけなら」
すれ違う声が、断片的に耳に入ってくる。誰も悪気があるわけではない。ただ、行事がひとつ増えた、という程度の受け止め方なのだ。
「エスタ?」
キアリーに呼ばれて、わたしは足を止めた。中庭の真ん中で、一人だけ立ち尽くしていたらしい。
「どうした、具合悪いのか」
「ううん。そうじゃないんだけど」
言葉にしようとして、うまく形にならない。しばらく考えてから、わたしは言った。
「……さっきの祈り、なんか違う気がしたの」
「違うって?」
「守ってください、加護をください、安寧をください。……全部、こっちが欲しいものばっかり」
キアリーが、きょとんとした顔をした。
「そりゃ、祈りってそういうもんじゃないのか。願い事するもんだろ」
「そう、なんだけど」
そう。祈りとは願うことだ。神殿でも、人はそうしている。誰もそれを間違いだとは言わない。
それでも、あの瞬間に感じた違和感は消えなかった。
結界が緩んだのは、人間が感謝を忘れたからだと学園長は言った。それを取り戻すために祈りの会を復活させた。それなのに、その祈りの中身が「こっちに何かをよこせ」という要求の羅列になっている。
順番が、逆なんじゃないだろうか。
「うまく言えないんだけど」
「言えないなら、考えろ。俺は剣振ってくるわ」
キアリーはあっさりそう言って、歩き出した。けれど数歩進んだところで振り返り、こう付け加えた。
「……まあ、お前が引っかかってんなら、たぶん何かあるんだろ。俺には分からんけど」
「なにそれ」
「結界が乱れてるって先生が言ったとき、盟約がどうこうって最初に言い出したのお前だろ。俺なんか、何の話だかさっぱりだった」
「あんなの、授業でやったことでしょ」
「授業でやったことを覚えてて、それが今と繋がってるって気づけるのは、お前だけだったって言ってんだよ」
そう言い残して、キアリーは鍛錬場のほうへ歩いていった。相変わらず単純だ。でも、たぶん彼なりの励まし方なのだと思う。
言われてみれば、そうかもしれない。分からないままにしておくのは、性に合わなかった。
昼休み、職員室の前を通りかかったときだった。
半分開いた扉の向こうから、声が漏れてきた。
「――王都からの返事は」
「増員は難しいそうだ。飛行魔法の使い手は、いま全部そっちに回されている」
「では、捜索は」
「規模を縮小する。今ある人員で、範囲を絞って続ける」
わたしは、足を止めた。
「……そろそろ、ご家族にも状況をお伝えしないと」
「学園長が毎週会っておられる。あの方に任せよう」
「三週間ですからね。……正直、そろそろ」
その先は、言われなかった。
言われなくても、分かった。
そろそろ、諦める頃合いだ。
そういう話だ。
わたしはその場を離れて、廊下の窓辺まで歩いた。
三週間。
あの日、目の前でフェイが連れ去られてから、三週間が過ぎていた。
行かなきゃ、とは何度も思っていた。
あの子の家へ。ご家族に、あの日のことを話しに。
けれど、そのたびに足が止まった。何を言えばいいのか分からなかったし、何より、責められるのが怖かった。
明日にしよう。明後日にしよう。そうやって、三週間が過ぎた。
けれど、今日の話を聞いてしまった。
捜索は縮小される。書類の上では、たぶんもう「継続中」の一行になっている。そのうち、その一行も消える。
そうなってから行っても、遅い。
「……今日、行こう」
窓ガラスに映った自分に、そう言い聞かせた。
その日の帰り道、わたしは遠回りをした。
職人町の一角。細い路地の突き当たりに、木材の匂いのする小さな家がある。何度か場所だけは聞いていたけれど、訪ねるのは初めてだった。
扉の前で、わたしは十分近く立ち尽くしていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
――目の前にいたのに、何もできませんでした。
――わたしが「校舎の中に戻ろう」と言われて、すぐに動いていれば。
三週間、ずっとそれを考えていた。
扉を叩く音は、自分でも驚くほど小さかった。
それでも、中から足音がした。
「……はい?」
顔を出したのは、四十くらいの女の人だった。目の下に濃い隈がある。髪を後ろで結んでいるけれど、いくつもほつれていた。
似ている、と思った。目元のあたりが、あの子に。
「あの……学園の、エスタといいます。フェイくんの、同級生で」
言った瞬間、その人の顔色が変わった。
「エスタさん……!」
手を掴まれた。
「あなたね、あの子の。フェイから聞いてるわ。治療師を目指してる子でしょう。あの子、時々あなたの話をしてた」
「……え」
「よく来てくれたわね。ああ、こんなところで。上がって、上がって」
通されたのは、小さな居間だった。
出されたお茶に手をつけられないまま、わたしは何度も口を開きかけては、また閉じた。
「あの……わたし、あの日、その場にいたんです」
ようやくそれだけ言うと、お母さんは静かに頷いた。
「聞いてるわ。あなたが学園長さんに詰め寄ってくれたって」
「はい。でも」
言葉が、詰まった。
「でも、間に合いませんでした。……すみません。わたし、すぐそばにいたのに、何もできなくて」
言い終える前に、両手を握られた。
「何を言ってるの」
その声が、思ったよりずっと優しくて、わたしはかえって顔を上げられなくなった。
「あなたが最後にあの子と一緒にいてくれたのよ。……わたしね、それを聞いたとき、少しだけ救われたの」
「そんな」
「一人じゃなかったってことでしょう。あの子、最後に一人じゃなかった」
お母さんは、わたしの手を握ったまま続けた。
「学園から届いた手紙には、状況しか書いてなかったの。『飛龍により連れ去られた』『捜索隊を編成する』。それだけ。……あの子がどんな様子だったのかも、何を言ったのかも、何も」
「……」
「だから、教えてくれてありがとう。来てくれてありがとう」
わたしは、何も言えなかった。
責められるほうが、ずっと楽だった。
なぜ助けなかったのかと詰め寄られたら、すみませんと頭を下げられた。泣かれたら、一緒に泣けた。
でもこの人は、わたしにお礼を言っている。
――あの日、わたしが一秒でも早く動いていれば。
――あの子は「校舎の中に戻ろう」と言った。わたしの腕を引こうとして、それで空を見上げるのが遅れた。
そこまで考えて、わたしは息が詰まりそうになった。
あの子が攫われたのは、わたしを庇おうとしたからじゃないのか。
言えるわけがなかった。この人に、そんなことは。
握られた手が、温かかった。それが、たまらなかった。
この温かさは、わたしが受け取っていいものじゃない。もし本当のことを話したら、この人はどんな顔をするだろう。それでもまだ、ありがとうと言えるだろうか。
言えないでほしい、と一瞬思った自分に気づいて、わたしは自分が嫌になった。
責めてほしかったのだ。楽になりたくて。
「……どうしたの、顔が真っ青よ」
「いえ。……大丈夫です」
わたしは顔を上げて、無理やり笑った。それが精一杯だった。
「……あの、お父さんは」
話を変えたくて、わたしは尋ねた。
「仕事よ。いつも通り、朝から」
お母さんは少しだけ笑った。
「あの人ね、あれからずっと同じなの。いつも通り起きて、いつも通り出かけて、いつも通り帰ってくる。何も変わらないの」
「……そう、ですか」
「でもね。ひとつだけ、変わったことがあるの」
お母さんは、湯呑みに残ったお茶を見つめながら言った。
「先週、あの人の弟子の子がうちに寄ったの。それで、教えてくれたんだけどね。……あの人、現場で妙なことを始めたって」
「妙なこと?」
「材木に鑿を入れる前に、一度手を止めて、木に向かって何か呟くんですって。弟子の子は最初、寸法でも確かめてるのかと思ったらしいんだけど」
湯呑みを置いて、お母さんは続けた。
「あの人の親方の代までは、そういう作法があったらしいの。山の恵みに礼を言ってから刃を入れる、って。今どきそんなことする大工なんて一人もいないのに、急に」
「……いつから、ですか」
「あの子がいなくなった次の日からだって」
お母さんは、少しだけ笑った。
「弟子の子が理由を聞いたら、うるさい手を動かせって怒鳴られたそうよ。……あの人、昔からそうなの。辛いときほど、何も言わない」
わたしは、湯呑みを持つ手に力が入るのを感じた。
言わないのではなくて、言えないのだと思った。
「わたしはね」
お母さんは立ち上がり、台所の奥の窓を開けた。
裏庭が見えた。物置小屋と、井戸がある。
「毎朝、あそこで水を汲むときにね。実家にそういう習わしがあったの。井戸に一言お礼を言ってから桶を下ろす、って。子供の頃はやらされてただけで、意味なんて考えたこともなかった」
物置小屋の扉が、半分開いていた。
梁からは、乾きかけた薬草の束がいくつも吊るされている。その下の作業台には、使いかけの乳鉢と、空の小瓶がいくつも並んでいた。埃ひとつ被っていない。
薬草のほうは、とっくに乾ききっているはずだった。それでも、降ろされないまま吊るされている。
誰かが、毎日そこを拭いているのだ。
「……何を、お祈りしてるんですか」
「祈るっていうか」
お母さんは、少し困ったような顔をした。
「返してくださいとは、言えないのよ」
「え?」
「言ったらね」
窓の桟に手を置いたまま、お母さんは外を見ていた。
「もし言ってしまって、それで返ってこなかったら。……わたし、その相手を恨むと思うの」
わたしは、息を呑んだ。
「あの子が調合を始めたばかりの頃ね、家中が変な匂いになって、近所からも苦情が来て。わたし、毎日毎日怒ってたの。やめなさい、片付けなさいって。……あの子、それでも一度もやめなかった」
「……はい」
「なんでやめないのって聞いたことがあるの。そしたらあの子、何て言ったと思う? 『失敗しても、また明日やればいいから』って」
お母さんは、少し笑った。
「馬鹿でしょう。でも、わたしはあの言葉に、ずっと助けられてるの」
「今もね、毎朝井戸の前で、そのことを思い出すの」
お母さんは、ゆっくりと振り返った。
「あの子は、あの小屋で育ったようなものよ。小さい頃から、変な匂いをさせて、怒られて、それでも毎日楽しそうだった。……あれは、うちだけで作ったものじゃないと思うのよ」
「……というと」
「草も、水も、火も、あの子が使ってきたもの全部。それに、あの子が名前を呼んでたっていう、なんだか小さいのも」
コロン、とわたしは心の中で呟いた。
「そういうものが全部あって、それであの子は毎日笑ってたんだと思うの。……それって、誰かが見ててくれたってことでしょう」
お母さんは、また窓の外に目をやった。
「だから、返してくださいじゃなくて」
「……」
「十四年、見ててくれてありがとう、って」
わたしは、何も言えなかった。
「変でしょう。連れて行かれた後で、ありがとうもないもんだって、自分でも思うわ」
お母さんは、少し照れたように肩をすくめた。
「でもね。返してくださいって言うと、あの子がまだ返ってきてないってことばっかりになるでしょう。ありがとうって言うと、あの子がここにいた十四年のほうを思い出せるの」
「……」
「そのほうが、朝を始められるのよ」
それだけ言って、お母さんは窓を閉めた。
そのとき初めて、わたしはこの人の手が細かく震えていることに気づいた。
窓を閉めたのは、外が寒かったからではなかったと思う。
帰り際、玄関先で、お母さんはわたしの手に何かを握らせた。
小さなガラス瓶だった。中には、薄い緑色の液体が入っている。
「あの子が作ったやつ。まだいくつか残ってるの。……持って行って」
「そんな、受け取れません」
「いいのよ。置いておいても、効き目が落ちるだけだって、あの子が言ってたから」
わたしは瓶を握りしめた。掌に、ひやりとした重みがあった。
「……必ず、お返しします」
「え?」
「これ。……フェイくんが帰ってきたら、本人に返します」
お母さんはしばらくわたしを見つめて、それから、初めて泣きそうな顔をした。
「……そうね。そうしてちょうだい」
家を出ると、外はもう暗くなっていた。
路地を歩きながら、わたしはさっきの言葉を何度も反芻していた。
――十四年、見ててくれてありがとう。
今朝、何百人で唱えたあの祈りには、なかった言葉だ。
守ってください。加護をください。恙なくありますように。
あの中には、ありがとうが一つもなかった。
そして、もうひとつ違うことがある。
朝の祈りは、これから何かをしてもらうための言葉だった。あのお母さんの言葉は、もう終わってしまったことに向けられていた。
見返りを期待していない。というより、期待できる立場にない。それでも言っている。
「……そういうこと、なの?」
けれど、まだ形にならない。あの人の言葉と、朝の祈りの何がどう違うのか。なぜこちらのほうが正しいと感じるのか。説明ができない。
分からないままにしておくのは、性に合わなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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