第13話 差し出すもの
その日から、わたしは図書室に通い詰めるようになった。
放課後の図書室は、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。高い天井まで届く書架の間を歩くと、自分の足音だけが妙に大きく響く。窓から差し込む西陽が、舞い上がった埃を金色に照らしていた。
精霊学の棚。魔法史の棚。聖属性魔法の棚。手当たり次第に開いては、「感謝」という言葉を探した。
――感謝を捧げることで、精霊の加護を得ることができる。
――精霊への敬意を欠いた者には、しばしば災いが降りかかるとされる。
どの本にも、似たようなことが書いてある。感謝は大事だ。敬意を払え。そうすれば良いことがある。
けれど、それって結局、見返りを期待しているだけじゃないの?
頁をめくる手が、だんだん重くなっていった。
感謝とは何だろう。
日常で感謝することなら、いくらでもある。誰かに物を貸してもらったとき。手伝ってもらったとき。ありがとう、と口にする。それは自然なことだ。
けれど、あのお母さんが言っていた「ありがとう」は、それとは違う気がした。
誰かに何かをしてもらったから言う言葉ではなかった。むしろ、息子を奪われた後で、それでも言っていた言葉だ。
――返してくださいって言うと、あの子がまだ返ってきてないってことばっかりになるでしょう。
見返りがないどころか、失った後で。
でも、今わたしが探しているのは、たぶんそれとは違う。
あの日、フェイが女神像の前で手を合わせていたと聞いたとき。薬草園の精霊が、わたしの挨拶に「久しぶりだ」と応えたとき。あのとき感じたものは、日常の「ありがとう」とは少し違う何かだった気がする。
でも、何がどう違うのか、まるで言葉にできない。
司書の先生に尋ねてみたこともある。
「感謝について書かれた本、ありませんか」
「感謝? 神学の棚なら、礼拝の作法について書かれたものがあるけれど」
案内された棚の本を数冊めくってみたが、どれも「いつ、どこで、どのような手順で礼を捧げるか」ばかりだった。作法は事細かに決まっている。けれど、なぜそれをするのかについては、どの本も驚くほど言葉少なだった。
――たぶん、書く必要がなかったのだ。
昔の人にとっては、当たり前すぎて。
そう思い当たったとき、わたしはむしろ探す場所を変えるべきだと気づいた。作法の本ではなく、それを実際にやっていた人が書いたものを。
三日目の夕方、わたしは書架の一番奥まで足を延ばした。
ほとんど人の来ない一角。背表紙の文字が擦れて読めない本ばかりが並んでいる。指先で埃を払いながら、一冊ずつ確かめていく。
その中に、革の装丁が半分剥がれかけた、薄い冊子があった。
『聖女ミラベル手記 断簡』
聞いたことのある名前だった。以前読んだ歴史書に、先代の聖女として名前だけが載っていた人。精霊との交流が盛んだった時代の、最後の聖女。
慎重に頁を開くと、古い紙の匂いが立ち上った。手書きの文字は所々かすれていて、虫食いで抜け落ちている箇所もある。
わたしは机に本を広げ、ランプを引き寄せて読み始めた。
内容の多くは、日々の記録だった。
どの村を訪ねたか。誰の傷を癒したか。その日の天気。淡々とした記述が続く。
けれど、何頁か進んだところで、ふと筆致が変わった。
――今日、村の者に問われた。なぜ祈るのか、と。
――我らが祈らずとも、精霊は在る。祈らずとも、雨は降り、麦は実る。ならば祈りとは、何のためのものかと。
わたしは息を詰めた。
わたしが知りたかったのは、まさにそれだった。
――我はこう答えた。
――祈りとは、乞うことにあらず。
――人は久しく、祈りを願いと取り違えてきた。守れ、恵め、災いを退けよと。
――されどそれは、ただ手を差し出しているに過ぎぬ。差し出された手に、いつまで応え続けられようか。
――盟約とは、双方が何かを差し出す約束である。片方のみが差し出し、片方のみが受け取る関係を、人は盟約とは呼ばぬ。
紙面の上で、文字が滲んだ気がした。
――では、我ら人が差し出すものは何か。
――それは、見ているという事実である。
――土に根を張る者がいる。水を巡らす者がいる。風を運ぶ者がいる。
――彼らは誰に見られずとも、その務めを果たす。百年、千年と。誰にも知られぬまま。
――人がそれに気づき、名を呼び、礼を述べるとき、彼らは初めて「独りではない」と知る。
――我らが差し出せるものは、力ではない。恵みでもない。ただ、あなたがそこにいると知っていること。それだけである。
――ゆえに、祈りとは感謝である。感謝とは、相手の存在を認めることである。
ランプの灯りの下で、わたしはしばらく動けなかった。
頁を戻して、もう一度読み返す。それからもう一度。
さらに読み進めると、こんな一節もあった。
――我、若き頃は癒しの術をもって人を救わんと願い、日毎に励んだ。されど術は伸びず、幾度も己を恥じた。
意外だった。聖女と呼ばれた人にも、そんな時期があったのか。
――ある日、老いた薬師に問うた。いかにすれば力が増すかと。彼は言った。汝は、癒そうとしているのではない。己の無力を埋めようとしているのだと。
――以来、我は術を使う前に、必ず一度手を止めるようになった。この傷が癒えるのは、我の力によるものではない。この者の内にある力と、それを助ける流れと、我の術と、その三つが噛み合ったときだけである、と。
――思い上がりが去ったとき、術は初めて伸び始めた。
わたしは、自分の手のひらを見つめた。
思い当たることが、ありすぎた。
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
図書室にはもう誰もいない。書架の間に落ちた影が、昼間よりずっと濃い。
わたしは頁の上に手を置いたまま、頭の中を整理しようとした。
祈りとは、乞うことではない。感謝とは、相手の存在を認めること。
――十四年、見ててくれてありがとう。
あのお母さんの言葉が、頭の中で重なった。
あれは、返してくださいではなかった。守ってくださいでもなかった。ただ、あの子が十四年そこにいて、その日々を支えていたものがあったと認めて、それに礼を言っていた。
――そのほうが、朝を始められるのよ。
見返りを求めていないどころか、既に失った後で。それでも成立する言葉。
相手の存在を認める。あの人は、それを理屈ではなく、生きるためにやっていた。
あれが、答えだったのだ。
――そういうことか。
あの日、薬草園でコロンに挨拶したとき。コロンは何と言った?
『……そういう風に挨拶されたのは、久しぶりだ』
あのとき、コロンの声に滲んでいたもの。あれは、喜びだったのかもしれない。
何百年も、誰にも見られないまま、あの薬草園にいた。手を合わせる人間はいなくなり、通り過ぎるだけの生徒たちは、その存在にすら気づかない。
そこへ、フェイが来た。
虫と間違えて払いのけようとして、話しかけて、名前を呼んで、調合の相談をして、「ありがとう」と言った。
――ああ。
胸の奥が、熱くなった。
フェイがやっていたのは、技術でも儀式でもなかった。ただ、コロンがそこにいると知っていて、それを毎日、態度で示し続けていただけだ。
だから、コロンはフェイを助けに行ったのだ。
そして、もうひとつ。
祈りの会の文言が、頭に浮かんだ。
――我らに安寧を。我らに加護を。
あれは、乞う祈りだ。差し出しているのではなく、要求している。
精霊たちが何をしてくれているかを見ようともせず、ただ結果だけを求める。「守ってくれ」とは言うけれど、「守ってくれていることに気づいている」とは、一言も言っていない。
そんなものを何百人で唱えたところで、届くわけがない。
むしろ――
そこまで考えて、わたしは背筋が寒くなった。
むしろ、逆効果なんじゃないだろうか。
忘れられていたほうがまだましだったのに、思い出したかと思えば、要求だけを突きつけてくる。もしわたしが精霊の側だったら、それをどう受け取るだろう。
「……学園長に、伝えないと」
声に出して、わたしは立ち上がった。
けれど、すぐに座り直した。
わたしは、まだ十四歳の三年生だ。文献を一冊見つけただけの生徒の言うことを、学園長が聞いてくれるだろうか。
それに――と、わたしは自分の手のひらを見つめた。
聖属性の適性があると言われてから、ずっと訓練してきた。それでも、切り傷をひとつ治すのがやっとだった。あの襲撃の日も、必死に手を動かし続けたけれど、自分の魔法が誰かを本当に救えたのか、確信が持てないままだ。
――汝は、癒そうとしているのではない。己の無力を埋めようとしているのだと。
聖女の手記の一節が、そのままわたしに突き刺さっていた。
思い返せば、わたしはずっとフェイの回復薬を目の敵にしてきた。効き目が上がったと聞くたびに焦って、追いつかなきゃと必死になって。
でも、あれは何のための焦りだったんだろう。
怪我をした人を治したかったのか。それとも、自分が認められたかっただけなのか。
正直に言えば、たぶん後者だ。
わたしは、まだ何者でもない。
――それでも。
フェイは、誰にも頼まれていないのに、あの像の前で手を合わせた。誰にも認められていないのに、独学で技法を試し続けた。
わたしだって。
わたしは冊子を閉じ、胸に抱えて立ち上がった。
図書室を出ると、廊下はもう真っ暗だった。
窓の外に目をやると、遠くに中庭の精霊像の影が見える。今朝、何百人もの声を浴びたはずのその像は、夜の中でただ静かに立っていた。
わたしは足を止め、窓越しにその影を見つめた。
それから、そっと両手を組んだ。
「――いつも、ありがとうございます」
声に出したのは、たったそれだけだった。
守ってくださいとも、助けてくださいとも言わなかった。
返事はない。当たり前だ。
それでも、朝の祈りの会よりも、今のほうがずっと届いた気がした。
ポケットの中で、小さなガラス瓶が指に当たった。
あの日、お母さんから預かったもの。あの子が作った、少し濁った緑色の回復薬。
わたしはそれを取り出して、しばらく手のひらの上で眺めた。
――必ず、本人に返します。
そう言った。言ってしまった。
だったら、わたしにできることをするしかない。
窓ガラスに映った自分の顔を見て、わたしは少しだけ笑った。
「……明日、学園長のところに行こう」
冊子を抱きしめて、わたしは暗い廊下を歩き出した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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