第14話 名前のない者たち
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時計塔の針が、鈍い音を立てて一つ進む。
二百年、この音を聞き続けてきた。わたくしにとっては、呼吸と同じようなものだ。
その針の音の合間に、いつもと違う気配が混じったのは、三日ほど前からだった。
塔の梁に留まっていた小さな光が、ひとつ、力なく床へ落ちた。
『……どうしたの』
声をかけても、応えはない。翅の輪郭はぼやけ、色はほとんど抜け落ちている。塔の埃に住まう、名も持たない小さな者。百年以上、ここで共に過ごしてきた。
床にしゃがみ込むようにして、わたくしはその光を掬い上げた。
軽い。あまりにも軽すぎる。
翅の付け根に触れてみる。かろうじて、微かな明滅が返ってきた。生きてはいる。だが、それだけだ。
『しっかりなさい。まだ針は回っているでしょう』
応えはない。わたくしは梁の隅の、埃の柔らかい場所へその子を運んだ。
塔の下層へ降りると、同じような光が、いくつも壁際にうずくまっていた。
一つ、二つではない。数えるのが嫌になるほどの数だった。
この塔には、名もない小さな者たちが数え切れぬほど棲んでいる。
歯車の油に宿る者。鐘の裏の影に眠る者。針が一つ進むたび、その軋みを受け止めて逃がす者。誰にも知られず、誰にも名を呼ばれず、それでも百年、二百年と同じ務めを続けてきた者たち。
彼らが弱れば、いずれ塔そのものが軋み始める。
人間たちは、時計の針が狂ったと言うだろう。修理を呼ぶだろう。そして歯車を新しいものに取り替えて、それで解決したと思うだろう。
誰も、本当に何が起きたかなど、知りはしない。
薬草園まで飛んだ。
畝の合間、石垣の隙間、女神像の台座の陰。そこかしこに、弱った光が転がっていた。ミズナ草の葉は縁から黄色く変色し始めている。
『ねえ、あなた。どうしてこんなことに』
『……分からない。ただ、流れが、噛み合わない』
『噛み合わない?』
『引き合うはずの流れが、押し合っている。触れると、身を裂かれるようで』
わたくしは黙って立ち尽くした。
結界が緩んでいることは知っていた。だがそれは、三百年という年月による自然な摩耗だと、誰もがそう思っていた。摩耗ならば、力は静かに薄れていくだけのはずだ。
けれどこの弱り方は、違う。
流れそのものが、互いに反発し合っている。まるで、噛み合っていた歯車の一枚だけを、わざとずらしたような――
そこまで考えて、わたくしは辺りを見回した。
『……そういえば』
いない。
あの緑の光が、どこにも見当たらない。
この薬草園に、百年以上も居着いていた小うるさい下位精霊。わたくしより五十年は若いくせに、人間の子の面倒を見ているだの見ていないだの、つまらない問答を交わした相手。
『コロン?』
呼んでも、返事はない。
畝の間を一周し、女神像の裏側まで覗き込んだ。いない。倒れているわけでもない。ただ、気配そのものが、この場から消えていた。
『……どこへ行ったのよ、あなた』
弱った者たちを残して、勝手にいなくなるような者ではない。少なくとも、わたくしの知る限りでは。
最後に言葉を交わしたのは、いつだったか。
――あの子、あの子って。買いかぶりすぎじゃない?
――教えたことをちゃんと考えて、次の日にはもっと良い聞き方をしてくる。失敗しても、こっちのせいにしない。
あの調子で、あの人間の子の面倒ばかり見ていた。わたくしは呆れていたはずだった。
『……まさか、あの子を追って行ったの』
学び舎の生徒が一人、飛龍に攫われたという話は、風の噂に聞いていた。攫われたのがどの子かまでは知らない。だが、あの緑の光が姿を消した時期と、どうにも重なる。
胸の奥に、薄い不安が広がった。
心配しているわけではない。あんな小うるさい下位精霊のことなど。
そう自分に言い聞かせながら、わたくしはもう一度、誰もいない薬草園を見渡した。
わたくしは時計塔へ戻り、地下へ降りた。
長らく降りていない階段は、苔と埃で滑りやすくなっていた。突き当たりの石室には、この学び舎が建つ以前からの記録が眠っている。人間の書いた紙ではなく、精霊の記憶を石に移したものだ。
今では同胞ですら、誰も降りていかない。わたくし自身、かつて口にした言葉だ。
まさか、自分が見に来ることになるとは思わなかった。
石壁に手を触れ、記憶を辿る。
――七十年目。結界、緩やかに薄れ。流れに乱れなし。
――百四十年目。北面に綻び。力は減ずれど、巡りは整う。
――二百二十年目。全面にわたり減衰。されど流れは澄み、精霊に障りなし。
どの記録も同じだった。力は年月とともに薄れていく。けれど、地の流れそのものは、静かなまま保たれている。
当たり前だ。摩耗とは、そういうものだ。
そして、今回。
わたくしは今の学び舎の状態を思い浮かべ、記録と重ねた。
力が薄れているだけではない。地脈の流れが、いくつも別の向きに捻じれ、互いにぶつかり合っている。その乱れが結界の守りを内側から削いでいる。
風化では、こうはならない。
『……そんな』
石室の冷えた空気の中で、わたくしは自分の羽が震えるのを感じた。
これは、組み替えられている。
地の流れを読み、望んだ向きに捻じることができる者。この地に、ただ一人しかいない。
祠は、学び舎の真下にある。
地下へ続く石段を、わたくしは翅を畳んで降りていった。人の子らは灯りを持たずに降りると聞くが、わたくしたちには灯りそのものが要らない。
段の数は、二百と七十。降りきった先の、苔むした石壁の奥に、その気配はあった。
この地を見守り続けてきた大精霊。わたくしが生まれるより、この学び舎が建つより、この国に人が住み着くより、ずっと前から。
『イーリス様。お目通りを願います』
『久しいな、アリア。何用か』
わたくしは翅を畳み、深く頭を垂れた。
『学び舎の様子について、お伺いしたいことがございます。……近頃、下位の者たちが弱っております。時計塔に、薬草園に、中庭に。名も持たぬ小さき者から順に、力を失っております』
『左様か』
『地の流れを見ましたところ、単なる摩耗ではないように思われます。流れが互いに反発し、噛み合わぬまま渦を巻いている。……このようなこと、記録の中にも前例がございません』
『ほう。塔の底まで降りましたか』
『はい』
『殊勝なこと』
その声には、咎める響きはなかった。むしろ、どこか感心しているような。
だからこそ、わたくしは慎重に言葉を選んだ。
『差し出がましいこととは存じますが。……この乱れ、何者かの手によるものではございませんか』
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
『――そう問うたのは、そなたが二人目です』
『二人目、とは』
『お気になさらず。昔の話です』
そう言ったきり、イーリスはしばらく黙っていた。
やがて、静かにこう続けた。
『アリア。畑を耕す者は、時に土を掘り返します。眠る根を裂き、住まう虫を追う。……それを咎める者が、おりますか』
『……何を、仰っておられるのです』
『実りを得るためです。掘り返さねば、土は痩せる。痩せた土からは、何も生まれませぬ』
祠の空気が、ゆっくりと重くなっていった。
『幾千年、わたくしはこの地を見てまいりました。人が我らを敬うたび、地は潤い、そなたらの器も満ちた。人が忘れるたび、地は痩せ、そなたらは細った。……今がどちらであるか、そなたにも分かりましょう』
『……イーリス様』
『わたくしは、痩せた土を掘り返したまで』
わたくしは、自分の中で何かが軋む音を聞いた。
『それは――それは、あなた様が、流れを』
『言葉をお選びなさるな。そなたはもう、答えを持っておいででしょう』
『……お認めになるのですね』
『認めるも何も、隠したことはありませぬ。問われなかっただけです』
その言い草に、わたくしは一瞬、耳を疑った。
『問われなければ、告げずともよいと』
『告げて何になりましょう。畑の虫に、明日ここを掘ると告げますか』
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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