第15話 三日
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『……いつから、ですか』
『三十と六度、月が満ちた頃からでしょうか』
三年。
三年も前から、この方は地の流れを捻じり続けていたのか。誰にも告げず。
『なぜ、わたくしたちにお知らせくださらなかったのですか』
『知れば、繕おうとする者が出ます。繕われては、割り当てた甲斐がありませぬ』
『では、弱った者たちは』
『冬を越えられぬ木は、もとより弱かったのです』
――その一言で、わたくしの中の何かが切れた。
『冬ですって』
声が、震えた。
『あの子たちは、木ではありません!』
祠の壁が、わたくしの声で震えた。
『時計塔の下層をご覧になりましたか。壁際にうずくまって、動けなくなっている者たちを。翅の色が抜けて、名前を呼んでも応えない者たちを!』
『アリア』
『百年です! わたくしは百年、あの子たちと同じ塔で過ごしてきました。名も持たない、力も持たない、ただそこに在るだけの者たちです。誰にも見られず、誰にも礼を言われず、それでも塔の針を回し続けてきた者たちです!』
『だからこそ、わたくしは――』
『だからこそ、切り捨てたのですか!』
自分の声とは思えない叫びが、石室に反響した。
『……アリア。お鎮まりなさい』
『落ち着けません』
わたくしは翅を大きく広げた。
『人間が愚かなのは、わたくしが誰よりも存じております。この二百年、ずっと見てまいりました。彼らを庇うつもりなど、毛頭ございません』
『ならば――』
『ですが、あなた様のなさったことは、それとは別の話です』
祠の中が、しんと静まり返った。
『あなた様は、人間を試すために、わたくしたちを賭けた。しかもそれを、誰にも告げずに。……犠牲になったのは人間ではありません。わたくしたちです』
『目先の数を、全体と取り違えてはなりませぬ』
イーリスの声には、揺らぎがなかった。
『三百年前、前の更新の折にも、同じことをいたしました。あのとき、確かに幾人かは失われた。されど、その後の百年、人は我らに祈り、地は潤い、そなたらの数は倍に増えました。……枯れた枝と、その後に伸びた枝と。いずれが多いとお思いか』
『数の話をなさっているのですか』
『わたくしは脈を預かる者。全体の過不足を見ずして、何を見よと仰るのです』
わたくしは、言葉を失った。
この方は、間違ったことを言ってはいない。幾百年を見渡す目で言えば、確かにそうなのだろう。
けれど。
『……その数の一つひとつに、顔があることを、ご存じですか』
『――何と?』
『枯れた枝、と仰いました。ですがわたくしには、枝ではありません』
わたくしは、顔を上げた。
『鐘楼の梁の裏で、針の軋みを受け止めていた子です。羽の片方が欠けていて、それでも百年、一日も休まなかった子です。……わたくしは、あの子に名前をつけていました。本当の名ではありません。わたくしが勝手に呼んでいただけの、ただの呼び名です』
『……』
『けれど、呼べば応えました』
『あなた様の目には、それは数の一つでしょう。増えた数と減った数を並べれば、増えたほうが多い。……その通りです』
『ならば――』
『ですが、わたくしは、あの子を数として数えることができません』
それだけ言って、わたくしは頭を下げた。
『失礼を申し上げました。……ですが、どうか、お戻しください。今すぐに』
『……それはできませぬ』
『なぜ!』
『一度捻じった流れを急に戻せば、より大きな乱れとなって跳ね返ります。急がば回れというのは、人間の言葉でしたか』
『では、どれほどかかるのです』
『……十と二度、月が満ちるほどでしょうか』
一年。
わたくしは、しばらく声が出なかった。
『一年、あの子たちに耐えろと仰るのですか』
『耐えられる者は耐えましょう』
『耐えられぬ者は』
イーリスは、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
――ああ。
そのとき、わたくしは理解した。
この方は、戻すつもりがないのだ。
正確には、人間が変わるまでは戻さない。一年と仰ったのは、そのくらいあれば人間も懲りるだろうという、ただの目安にすぎない。
懇願しても無駄だ。理を説いても届かない。この方の中では、とうに答えが出ている。
ならば。
わたくしは、翅を畳んだ。
『……承知いたしました』
『物分かりがよろしいこと』
『いいえ。諦めただけでございます』
イーリスの気配が、わずかに揺れた気がした。
『その上で、ひとつだけ、お願いがございます』
『申しなさい』
『流れを戻していただけぬのなら、場所をお教えください』
『場所、とは』
『この地のどこかに、捻じれの及んでいない場所があるはずです。地の流れが、元のまま保たれている場所が。……そこへ、弱った者たちを移します』
長い沈黙があった。
『……この地へ入ってくる流れの、入り口がございます』
ようやく、イーリスはそう言った。
『学び舎を出て、東の丘をひとつ越えた先。大いなる樹から届いた脈が、この土地へ落ちる場所です。古い木立がございましょう』
『そこは、無事なのですか』
『わたくしが手を入れたのは、この学び舎の周りだけ。入り口より上は、元のまま流れております。……連れて参りなさい』
『……感謝いたします』
本心ではなかった。けれど、頭は下げた。この方から引き出せるものは、これが限界だと分かっていたからだ。
『三日、いただきます』
『三日?』
『時計塔に、薬草園に、中庭に。動けなくなっている者が、少なくとも三十はおります。一度に抱えられるのは二人。……一往復にひと刻として、わたくしの翅が保つのは、一日に十往復がせいぜいでしょう』
『……計算高いこと』
『翅を休める分も勘定に入れております。三日で、全員を移します』
『お好きになさい』
わたくしは背を向けた。
そして、扉の手前で足を止めた。
『イーリス様』
『まだ何かありますか』
『三日の後、もう一度、伺います』
『……ほう』
『そのときまでに、流れを戻すご意志がないと分かりましたら』
わたくしは、振り返らずに言った。
『わたくしは、あなた様に何も申し上げません。二度と』
祠の空気が、しんと静まった。
『……それは、脅しですか』
『いいえ』
脅しになど、なるはずがない。わたくしのような下位の者が沈黙したところで、この方は何ひとつ困らない。
それでも。
『ただ、そうなるというだけのことでございます』
わたくしはそれだけ言って、祠を後にした。
背後で、イーリスが何か言いかけた気がした。けれど、振り返らなかった。
二百七十段を上がりきって地上へ出ると、空がやけに広く感じられた。
三日。
それが、わたくしに残された時間だった。三日で運びきれなければ、間に合わなくなる者が出る。
大精霊に逆らえる下位精霊など、いはしない。わたくしにできることなど、たかが知れている。
それでも、翅を動かすことだけはできる。
屋根の高さまで昇ると、中庭が見下ろせた。
人間の子らが、何やら列を作って並んでいる。像の前で手を組み、何かを唱えているようだった。
『……祈っているつもり?』
翅を止めて、しばらく見下ろした。
誰一人、像を見ていない。目を閉じて、口だけを動かしている。
『滑稽なこと』
そう吐き捨てて飛び去ろうとした、そのときだった。
下で、何かが動いた。
祈りが終わったらしい。何百もの目が一斉に開き、そして一斉に――像に背を向けた。
喋りながら、笑いながら、散っていく。
『……本当に、見ないのね』
誰一人、振り返らなかった。
けれど。
人の波が引いた後の中庭に、一人だけ残っている娘がいた。
像の前に立ち尽くして、それをまっすぐ見上げている。
――あの顔には、見覚えがある。
いつだったか、薬草園であの緑の光と言葉を交わしていた娘だ。丁寧に頭を下げて、名乗って、何かを尋ねていた。
わたくしは、しばらくその姿を見つめていた。
一人。たった一人だ。何百人の中で、たった一人。
『……それが何だというの』
わたくしは翅を翻し、時計塔へと戻った。
けれど、その姿は妙に頭から離れなかった。
三日は、あっという間に過ぎた。
一度に運べるのは、二人が限度だった。翅の力の弱った者を両腕に抱えて、東の木立まで飛ぶ。丘ひとつ分とはいえ、二人を抱えたままでは、行きだけで半刻はかかった。置いてきて、また戻る。一往復で、ひと刻あまり。
夜も止めなかった。止めれば、次に戻ったときに数が減っているかもしれなかったからだ。
『……もう少しですよ。しっかりなさい』
腕の中の光は、ほとんど応えなかった。ただ、時折、かすかに明滅する。それだけで、まだ生きていることが分かった。
薬草園の畝の間から、五人。時計塔の下層から、十四人。中庭の敷石の隙間から、七人。鐘楼の梁の裏から、三人。校舎の軒下から、四人。
三十三人いた。
三日目の終わりに、わたくしは最後の一人を木立に置いた。
古い木立の下は、確かに静かだった。捻じれの気配はなく、地の流れは元のまま、ゆっくりと巡っている。
いや、ゆっくりというのは正しくない。ここは、この土地に注ぎ込む流れの入り口だ。足元の地面からは、遠い彼方から届いた力が、絶えず湧き上がってくるのが感じられた。捻じられる前の、まっすぐな流れ。
運ばれてきた者たちは、木の根元に身を寄せ合うようにして、少しずつ色を取り戻し始めていた。
『……よかった』
それだけ呟いて、わたくしはその場に座り込んだ。
翅が、思うように動かない。三日も休まず飛び続けたのだから当然だった。
それでも、一人も失わずに済んだ。
しばらく休んでから、わたくしは学び舎へ戻り、地下の石段を降りた。
約束の、三日目だった。
『イーリス様』
『……戻りましたか』
『流れを、ご確認いただけましたでしょうか』
『……』
『お戻しになる、ご意志はございますか』
長い沈黙があった。
わたくしは、その沈黙のあいだ、ずっと待っていた。何か一言でも、たった一言でもあれば。
やがて、イーリスは言った。
『時が満ちれば、自ずと戻します』
それが、答えだった。
わたくしは頭を下げた。深く、丁寧に。二百年、一度も欠かしたことのない作法の通りに。
そして、何も言わずに祠を出た。
木立へ戻ると、小さな光たちが、ゆっくりと明滅しながらわたくしを待っていた。
わたくしはその輪の中に降りて、翅を畳んだ。
もう、祠へは行かない。
学び舎へも、しばらくは戻らないだろう。時計塔の針は、いずれ狂い始めるはずだ。人間たちは修理を呼び、歯車を新しいものに取り替えて、それで解決したと思うだろう。
それでいい。
『……あなたたちだけは、必ず守りますから』
誰にともなく、わたくしはそう言った。
――だから、わたくしは知らなかった。
その数日後、あの学び舎で何が起きていたのかを。
人間たちが何を始め、あの方が何をなさり、そして、あの緑の光が誰を連れて帰ってきたのかを。
木立の空は静かで、地の流れは澄んでいて、三十三の灯は日ごとに色を取り戻していった。それだけが、わたくしの見ていたすべてだった。
知る由もなかったのだ。
――あの日、西の空に、一本の緑の光が立ち昇るまでは。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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