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第15話 三日

◆


『……いつから、ですか』


『三十と六度、月が満ちた頃からでしょうか』


 三年。


 三年も前から、この方は地の流れを捻じり続けていたのか。誰にも告げず。


『なぜ、わたくしたちにお知らせくださらなかったのですか』


『知れば、繕おうとする者が出ます。繕われては、割り当てた甲斐がありませぬ』


『では、弱った者たちは』


『冬を越えられぬ木は、もとより弱かったのです』


――その一言で、わたくしの中の何かが切れた。


『冬ですって』


 声が、震えた。


『あの子たちは、木ではありません!』


 祠の壁が、わたくしの声で震えた。


『時計塔の下層をご覧になりましたか。壁際にうずくまって、動けなくなっている者たちを。翅の色が抜けて、名前を呼んでも応えない者たちを!』


『アリア』


『百年です! わたくしは百年、あの子たちと同じ塔で過ごしてきました。名も持たない、力も持たない、ただそこに在るだけの者たちです。誰にも見られず、誰にも礼を言われず、それでも塔の針を回し続けてきた者たちです!』


『だからこそ、わたくしは――』


『だからこそ、切り捨てたのですか!』


 自分の声とは思えない叫びが、石室に反響した。


『……アリア。お鎮まりなさい』


『落ち着けません』


 わたくしは翅を大きく広げた。


『人間が愚かなのは、わたくしが誰よりも存じております。この二百年、ずっと見てまいりました。彼らを庇うつもりなど、毛頭ございません』


『ならば――』


『ですが、あなた様のなさったことは、それとは別の話です』


 祠の中が、しんと静まり返った。


『あなた様は、人間を試すために、わたくしたちを賭けた。しかもそれを、誰にも告げずに。……犠牲になったのは人間ではありません。わたくしたちです』


『目先の数を、全体と取り違えてはなりませぬ』


 イーリスの声には、揺らぎがなかった。


『三百年前、前の更新の折にも、同じことをいたしました。あのとき、確かに幾人かは失われた。されど、その後の百年、人は我らに祈り、地は潤い、そなたらの数は倍に増えました。……枯れた枝と、その後に伸びた枝と。いずれが多いとお思いか』


『数の話をなさっているのですか』


『わたくしは脈を預かる者。全体の過不足を見ずして、何を見よと仰るのです』


 わたくしは、言葉を失った。


 この方は、間違ったことを言ってはいない。幾百年を見渡す目で言えば、確かにそうなのだろう。


 けれど。


『……その数の一つひとつに、顔があることを、ご存じですか』


『――何と?』


『枯れた枝、と仰いました。ですがわたくしには、枝ではありません』


 わたくしは、顔を上げた。


『鐘楼の梁の裏で、針の軋みを受け止めていた子です。羽の片方が欠けていて、それでも百年、一日も休まなかった子です。……わたくしは、あの子に名前をつけていました。本当の名ではありません。わたくしが勝手に呼んでいただけの、ただの呼び名です』


『……』


『けれど、呼べば応えました』


『あなた様の目には、それは数の一つでしょう。増えた数と減った数を並べれば、増えたほうが多い。……その通りです』


『ならば――』


『ですが、わたくしは、あの子を数として数えることができません』


 それだけ言って、わたくしは頭を下げた。


『失礼を申し上げました。……ですが、どうか、お戻しください。今すぐに』


『……それはできませぬ』


『なぜ!』


『一度捻じった流れを急に戻せば、より大きな乱れとなって跳ね返ります。急がば回れというのは、人間の言葉でしたか』


『では、どれほどかかるのです』


『……十と二度、月が満ちるほどでしょうか』


 一年。


 わたくしは、しばらく声が出なかった。


『一年、あの子たちに耐えろと仰るのですか』


『耐えられる者は耐えましょう』


『耐えられぬ者は』


 イーリスは、答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


――ああ。


 そのとき、わたくしは理解した。


 この方は、戻すつもりがないのだ。


 正確には、人間が変わるまでは戻さない。一年と仰ったのは、そのくらいあれば人間も懲りるだろうという、ただの目安にすぎない。


 懇願しても無駄だ。理を説いても届かない。この方の中では、とうに答えが出ている。


 ならば。


 わたくしは、翅を畳んだ。


『……承知いたしました』


『物分かりがよろしいこと』


『いいえ。諦めただけでございます』


 イーリスの気配が、わずかに揺れた気がした。


『その上で、ひとつだけ、お願いがございます』


『申しなさい』


『流れを戻していただけぬのなら、場所をお教えください』


『場所、とは』


『この地のどこかに、捻じれの及んでいない場所があるはずです。地の流れが、元のまま保たれている場所が。……そこへ、弱った者たちを移します』


 長い沈黙があった。


『……この地へ入ってくる流れの、入り口がございます』


 ようやく、イーリスはそう言った。


『学び舎を出て、東の丘をひとつ越えた先。大いなる樹から届いた脈が、この土地へ落ちる場所です。古い木立がございましょう』


『そこは、無事なのですか』


『わたくしが手を入れたのは、この学び舎の周りだけ。入り口より上は、元のまま流れております。……連れて参りなさい』


『……感謝いたします』


 本心ではなかった。けれど、頭は下げた。この方から引き出せるものは、これが限界だと分かっていたからだ。


『三日、いただきます』


『三日?』


『時計塔に、薬草園に、中庭に。動けなくなっている者が、少なくとも三十はおります。一度に抱えられるのは二人。……一往復にひと刻として、わたくしの翅が保つのは、一日に十往復がせいぜいでしょう』


『……計算高いこと』


『翅を休める分も勘定に入れております。三日で、全員を移します』


『お好きになさい』


 わたくしは背を向けた。


 そして、扉の手前で足を止めた。


『イーリス様』


『まだ何かありますか』


『三日の後、もう一度、伺います』


『……ほう』


『そのときまでに、流れを戻すご意志がないと分かりましたら』


 わたくしは、振り返らずに言った。


『わたくしは、あなた様に何も申し上げません。二度と』


 祠の空気が、しんと静まった。


『……それは、脅しですか』


『いいえ』


 脅しになど、なるはずがない。わたくしのような下位の者が沈黙したところで、この方は何ひとつ困らない。


 それでも。


『ただ、そうなるというだけのことでございます』


 わたくしはそれだけ言って、祠を後にした。


 背後で、イーリスが何か言いかけた気がした。けれど、振り返らなかった。


 二百七十段を上がりきって地上へ出ると、空がやけに広く感じられた。


 三日。


 それが、わたくしに残された時間だった。三日で運びきれなければ、間に合わなくなる者が出る。


 大精霊に逆らえる下位精霊など、いはしない。わたくしにできることなど、たかが知れている。


 それでも、翅を動かすことだけはできる。


 屋根の高さまで昇ると、中庭が見下ろせた。


 人間の子らが、何やら列を作って並んでいる。像の前で手を組み、何かを唱えているようだった。


『……祈っているつもり?』


 翅を止めて、しばらく見下ろした。


 誰一人、像を見ていない。目を閉じて、口だけを動かしている。


『滑稽なこと』


 そう吐き捨てて飛び去ろうとした、そのときだった。


 下で、何かが動いた。


 祈りが終わったらしい。何百もの目が一斉に開き、そして一斉に――像に背を向けた。


 喋りながら、笑いながら、散っていく。


『……本当に、見ないのね』


 誰一人、振り返らなかった。


 けれど。


 人の波が引いた後の中庭に、一人だけ残っている娘がいた。


 像の前に立ち尽くして、それをまっすぐ見上げている。


――あの顔には、見覚えがある。


 いつだったか、薬草園であの緑の光と言葉を交わしていた娘だ。丁寧に頭を下げて、名乗って、何かを尋ねていた。


 わたくしは、しばらくその姿を見つめていた。


 一人。たった一人だ。何百人の中で、たった一人。


『……それが何だというの』


 わたくしは翅を翻し、時計塔へと戻った。


 けれど、その姿は妙に頭から離れなかった。


 三日は、あっという間に過ぎた。


 一度に運べるのは、二人が限度だった。翅の力の弱った者を両腕に抱えて、東の木立まで飛ぶ。丘ひとつ分とはいえ、二人を抱えたままでは、行きだけで半刻はかかった。置いてきて、また戻る。一往復で、ひと刻あまり。


 夜も止めなかった。止めれば、次に戻ったときに数が減っているかもしれなかったからだ。


『……もう少しですよ。しっかりなさい』


 腕の中の光は、ほとんど応えなかった。ただ、時折、かすかに明滅する。それだけで、まだ生きていることが分かった。


 薬草園の畝の間から、五人。時計塔の下層から、十四人。中庭の敷石の隙間から、七人。鐘楼の梁の裏から、三人。校舎の軒下から、四人。


 三十三人いた。


 三日目の終わりに、わたくしは最後の一人を木立に置いた。


 古い木立の下は、確かに静かだった。捻じれの気配はなく、地の流れは元のまま、ゆっくりと巡っている。


 いや、ゆっくりというのは正しくない。ここは、この土地に注ぎ込む流れの入り口だ。足元の地面からは、遠い彼方から届いた力が、絶えず湧き上がってくるのが感じられた。捻じられる前の、まっすぐな流れ。


 運ばれてきた者たちは、木の根元に身を寄せ合うようにして、少しずつ色を取り戻し始めていた。


『……よかった』


 それだけ呟いて、わたくしはその場に座り込んだ。


 翅が、思うように動かない。三日も休まず飛び続けたのだから当然だった。


 それでも、一人も失わずに済んだ。


 しばらく休んでから、わたくしは学び舎へ戻り、地下の石段を降りた。


 約束の、三日目だった。


『イーリス様』


『……戻りましたか』


『流れを、ご確認いただけましたでしょうか』


『……』


『お戻しになる、ご意志はございますか』


 長い沈黙があった。


 わたくしは、その沈黙のあいだ、ずっと待っていた。何か一言でも、たった一言でもあれば。


 やがて、イーリスは言った。


『時が満ちれば、自ずと戻します』


 それが、答えだった。


 わたくしは頭を下げた。深く、丁寧に。二百年、一度も欠かしたことのない作法の通りに。


 そして、何も言わずに祠を出た。


 木立へ戻ると、小さな光たちが、ゆっくりと明滅しながらわたくしを待っていた。


 わたくしはその輪の中に降りて、翅を畳んだ。


 もう、祠へは行かない。


 学び舎へも、しばらくは戻らないだろう。時計塔の針は、いずれ狂い始めるはずだ。人間たちは修理を呼び、歯車を新しいものに取り替えて、それで解決したと思うだろう。


 それでいい。


『……あなたたちだけは、必ず守りますから』


 誰にともなく、わたくしはそう言った。


――だから、わたくしは知らなかった。


 その数日後、あの学び舎で何が起きていたのかを。


 人間たちが何を始め、あの方が何をなさり、そして、あの緑の光が誰を連れて帰ってきたのかを。


 木立の空は静かで、地の流れは澄んでいて、三十三の灯は日ごとに色を取り戻していった。それだけが、わたくしの見ていたすべてだった。


 知る由もなかったのだ。


――あの日、西の空に、一本の緑の光が立ち昇るまでは。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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