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第16話 差し出した手

◆


 学園長室の扉を叩く手が、少し震えていた。


「失礼します。三年のエスタです」


「……入りなさい」


 机の向こうから返ってきたのは、事務的な声だった。


 部屋に入ると、学園長は書類から顔も上げなかった。この数週間で、目の下の隈がずいぶん濃くなっている。


「手短に頼む。何の用かね」


 わたしは冊子を胸に抱えたまま、一息に言った。


「祈りの会のことで、お話があります。……あの祈りは、間違っています」


 ようやく、学園長の顔が上がった。


「……ほう」


 老眼鏡越しの視線が、わたしを捉えた。


「エスタ君。君が優秀な生徒であることは、教師たちから聞いている。だからこそ、言っておかねばならん」


 椅子に深く座り直し、学園長は指を組んだ。


「あの祈りの会は、私が国の専門家と協議し、過去の記録を精査した上で復活させたものだ。文言も、六百年前の記録に残るものをほぼそのまま用いている。……それを『間違っている』と断ずるには、それなりの根拠が要る」


「根拠なら、あります。これを」


 わたしは机の上に冊子を置いた。


「先代の聖女ミラベル様の手記です。図書室の奥で見つけました」


 学園長は冊子に目をやったが、手には取らなかった。


「君は、こう考えたのだろう。古い文献に自分と同じことが書いてあった。ゆえに自分は正しい、と」


「そういうわけでは」


「文献というものはな、都合のよい箇所だけを読めば、どのようにも読める。専門の研究者が生涯を費やして、それでも解釈が割れる。……君はまだ十四だ。三日や四日、図書室にこもって読んだだけで、何が分かったつもりになっている」


 顔が熱くなった。


 言い返したかった。けれど、学園長の言っていることは、たぶん正しい。わたしはただの生徒で、専門家でも何でもない。


「……それでも」


 それでも、と、わたしは言った。


「あの祈りは、こっちが欲しいものばかり並べています。守ってください、加護をください、恙なくありますように。……精霊たちが何をしてくれているのか、見ようともしていません」


「文言の趣旨は、加護を願うことにある。祈願とは本来そういうものだ」


「はい。でも」


 わたしは冊子の頁を開いた。


「ミラベル様は、こう書いています。祈りとは、乞うことにあらず、と。盟約とは、双方が何かを差し出す約束である、と」


「……」


「わたしたちが差し出せるのは、力でも恵みでもなくて、ただ『あなたがそこにいると知っている』ことだって。……あの祈りの会が終わったあと、目を開けてから、誰か一人でも、あの像のほうを見たでしょうか」


 学園長の指が、組んだまま止まった。


「……何と言った」


「え?」


「今の、最後の一文だ。もう一度」


「……あの祈りの会が終わったあと、目を開けてから、誰か一人でも、あの像のほうを見たでしょうか」


 長い沈黙があった。


 学園長は、何も答えなかった。


 椅子に沈み込んだまま、天井の辺りを見ている。老眼鏡の向こうの目が、どこにも焦点を合わせていない。


 わたしは、自分の心臓の音が聞こえるくらい、その沈黙が長く感じられた。


 やがて、学園長は口を開いた。


「……エスタ君。君は、その手記をどこで見つけたと言ったかね」


「図書室です。奥の、精霊学の棚の、いちばん端でした」


「棚の端の、どのあたりだ」


「下から二段目です。背表紙の字が消えていたので、一冊ずつ引き出して確かめました」


「何冊」


「……数えていません。三日かけたので、たぶん、百は超えていると思います」


 学園長の視線が、ようやくわたしのほうを向いた。


「なぜ、そこまでした」


「祈りの会で、違和感があったからです」


「それだけか」


「はい」


「誰かに頼まれたわけでも、課題でもなく」


「違います」


 また、沈黙があった。


 学園長は老眼鏡を外し、指で目頭を押さえた。


 その仕草を、わたしは初めて見た気がした。いつも背筋を伸ばして、生徒の前では隙を見せない人だったから。


「……君は、今の話が何を意味するか、分かっているかね」


「え?」


「私が君の言い分を受け入れれば、どうなるか、という話だ」


 学園長は、机の上に手を置いた。


「祈りの会は、私が独断で始めたものではない。国の専門家、精霊対策院、王城の使者。十数人が何日もかけて協議し、過去の記録を突き合わせて決めたものだ」


「……はい」


「それを、私が『一人の生徒に指摘されたので改めます』と言えば、どうなる。……協議に加わった全員の判断を、私が一人で否定したことになる」


 顔から血の気が引いた。


 そこまで、考えていなかった。


「わ、わたしは、そんなつもりじゃ」


「分かっている。君にその意図がないことは、見れば分かる」


 学園長は、ゆっくりと首を振った。


「だが、意図がどうであれ、結果はそうなるのだ。……ここから先は、君の正しさの問題ではない。この学園が、国と、どう向き合うかという問題になる」


 わたしは、何も言えなかった。


 自分の考えが正しいと思っていた。それを伝えれば、何かが変わると思っていた。


 けれど、目の前の人は、そんな単純な場所に立っていなかった。


「……すみません。出過ぎたことを」


「謝るな」


 低い声だった。


「君は、何も間違ったことはしていない」


 学園長は、初めてその手を冊子へ伸ばした。


 表紙を撫でるように触れ、それから、ゆっくりと頁をめくり始めた。


 読む速度が、途中から変わった。


 一度めくった頁を戻し、指で文字をなぞり、また戻る。老眼鏡を掛け直し、身を乗り出すようにして読んでいる。


 長い時間が経った。


 その間、わたしはずっと立っていた。座りなさいとは言われなかったし、座る気にもならなかった。


 やがて学園長は顔を上げ、静かに冊子を閉じた。


 その表情を、わたしは何と呼べばいいのか分からなかった。


 納得したようにも、困り果てたようにも見えた。たぶん、その両方だったのだと思う。


「……私が、まだ君と同じくらいの年だった頃の話だ」


 思いがけない言い出し方に、わたしは戸惑った。


「私はな、王都で育ったわけではないのだよ。耳が使えると分かって迎えに来られるまでは、母方の村にいた。血が散らばっていくと、そういうことになる」


 何の話が始まったのか分からなかったけれど、わたしは黙って聞いていた。


「祖母に連れられて、村の外れの古い祠に通っていた。祖母は、毎朝そこで手を合わせていた。私は退屈で仕方なくてな。ある日、聞いたのだよ。何をお願いしているのか、と」


 学園長は、少しだけ笑ったように見えた。


「祖母はこう答えた。お願いなんてしていない。いつもありがとうと言っているだけだ、と。……当時の私には、まるで意味が分からなかった」


「……」


「あの言葉が、ずっと引っかかっていた。六十年だ。六十年、引っかかったままにしておいた」


 学園長は冊子の上に手を置いたまま、しばらく黙っていた。


「……エスタ君。はっきり言っておく」


「はい」


「今この場で、私が君の意見を認めることはできない」


 分かっていたつもりだった。それでも、言葉にされると、胸の奥が冷たくなった。


「私には、そうする立場がない。専門家の協議を経て決まったものを、一人の教育者の判断で覆すことは、筋が通らない。……たとえ、君の言うことが正しくとも、だ」


「……はい」


「だが」


 学園長は、冊子を両手で持ち上げた。


「これを、預からせてもらいたい」


「え」


「写しを取り、王城へ提出する。文献として、正式な検討の俎上に載せる」


 わたしは、顔を上げた。


「……いいん、ですか」


「よくはない。私は、私が主導して決めたことを、自分で蒸し返すことになる。……恥をかくだろうな」


 学園長は、苦いものを噛んだような顔をした。


「それでも、これは検討に値する。私の面目より、そちらのほうが重い」


「そして、次の祈りの会は一度延期する」


「延期……」


「文言の見直しには、時間がかかる。関係各所と協議する必要がある。……三月か、半年か。もっとかかるかもしれん」


「そんなに」


「そういうものだ。一人が納得すれば変わる、というものではない」


 学園長は冊子を机の引き出しへ収め、鍵をかけた。


「今、君に約束できるのはそこまでだ。……不満かね」


 不満だろうか。


 わたしは、少し考えた。


 正直に言えば、期待していたのとは違う。もっとこう、分かってもらえて、明日から何かが変わるような。そんな返事を、心のどこかで待っていた。


 けれど。


 この人は、わたしの話を最後まで聞いた。手記を三日かけて探したことを確かめた。自分の立場を明かして、できないことをできないと言った。その上で、できる範囲の最大を差し出した。


「……いいえ」


 わたしは首を横に振った。


「ありがとうございます」


 学園長は、少し意外そうな顔をした。


「意外だな。もっと食い下がるかと思ったが」


「食い下がって、先生に無理をさせても、結局何も変わらないと思うので」


「……ほう」


「それに」


 わたしは、机の引き出しのほうを見た。


「あの手記を読んで、先生が何も感じなかったなら、預かるなんて言わなかったはずです」


 学園長は、しばらく黙っていた。


 それから、初めて口元を緩めた。


「……よく見ている」


「はい」


「君のような生徒を教える立場でいられるのは、幸運なことだな」


「先生」


 部屋を出る前に、わたしは振り返った。


「ひとつ、伺ってもいいですか」


「何かね」


「文言を直せば、それで中身は変わりますか」


 学園長の顔から、笑みが消えた。


「……いや」


 正直な答えだった。


「変わらんだろうな。文言をいくら整えても、唱える者が本気でなければ、今と同じだ」


「……ですよね」


「君はどう思う」


「分かりません」


 わたしは、素直にそう答えた。


「わたしも、三週間前までは、あの像の前を素通りしてました。誰かに言われて変わったわけじゃなくて……自分で、どうしても知りたくなったから、変わったんです」


「うむ」


「だから、たぶん、押しつけても駄目なんだと思います。……でも、どうすればいいのかは、まだ分かりません」


 学園長は、深く頷いた。


「それは、私にも分からん」


「え」


「六十年考えて、まだ分からんのだ。……君が一週間で答えを出せたら、私は立つ瀬がない」


 思いがけず、わたしは笑ってしまった。


「では、こうしよう」


 学園長は、机越しにわたしを見た。


「私は私の場所で考える。君は君の場所で考えなさい。……そして何か思いついたら、また来なさい。今度は、追い返さない」


「……はい」


 学園長室を出たとき、わたしの中に残っていたのは、安堵ではなかった。


 宿題だ。


 わたしが持ち込んだつもりだった問題は、そっくりそのまま、わたしの側にも返ってきていた。


 祈りの会を、形だけでないものにするには。


 その答えは、あの部屋の中にはなかった。たぶん、どこにもない。誰かが持っていて教えてくれるようなものではないのだ。


 廊下を歩きながら、わたしは自分の手のひらを見つめた。


 まだ、切り傷ひとつを治すのがやっとの手。


――わたしに、何ができるだろう。


 分からない。けれど、考えるのをやめる気はなかった。


 そのときのわたしは、まだ何も知らなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!

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