第16話 差し出した手
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学園長室の扉を叩く手が、少し震えていた。
「失礼します。三年のエスタです」
「……入りなさい」
机の向こうから返ってきたのは、事務的な声だった。
部屋に入ると、学園長は書類から顔も上げなかった。この数週間で、目の下の隈がずいぶん濃くなっている。
「手短に頼む。何の用かね」
わたしは冊子を胸に抱えたまま、一息に言った。
「祈りの会のことで、お話があります。……あの祈りは、間違っています」
ようやく、学園長の顔が上がった。
「……ほう」
老眼鏡越しの視線が、わたしを捉えた。
「エスタ君。君が優秀な生徒であることは、教師たちから聞いている。だからこそ、言っておかねばならん」
椅子に深く座り直し、学園長は指を組んだ。
「あの祈りの会は、私が国の専門家と協議し、過去の記録を精査した上で復活させたものだ。文言も、六百年前の記録に残るものをほぼそのまま用いている。……それを『間違っている』と断ずるには、それなりの根拠が要る」
「根拠なら、あります。これを」
わたしは机の上に冊子を置いた。
「先代の聖女ミラベル様の手記です。図書室の奥で見つけました」
学園長は冊子に目をやったが、手には取らなかった。
「君は、こう考えたのだろう。古い文献に自分と同じことが書いてあった。ゆえに自分は正しい、と」
「そういうわけでは」
「文献というものはな、都合のよい箇所だけを読めば、どのようにも読める。専門の研究者が生涯を費やして、それでも解釈が割れる。……君はまだ十四だ。三日や四日、図書室にこもって読んだだけで、何が分かったつもりになっている」
顔が熱くなった。
言い返したかった。けれど、学園長の言っていることは、たぶん正しい。わたしはただの生徒で、専門家でも何でもない。
「……それでも」
それでも、と、わたしは言った。
「あの祈りは、こっちが欲しいものばかり並べています。守ってください、加護をください、恙なくありますように。……精霊たちが何をしてくれているのか、見ようともしていません」
「文言の趣旨は、加護を願うことにある。祈願とは本来そういうものだ」
「はい。でも」
わたしは冊子の頁を開いた。
「ミラベル様は、こう書いています。祈りとは、乞うことにあらず、と。盟約とは、双方が何かを差し出す約束である、と」
「……」
「わたしたちが差し出せるのは、力でも恵みでもなくて、ただ『あなたがそこにいると知っている』ことだって。……あの祈りの会が終わったあと、目を開けてから、誰か一人でも、あの像のほうを見たでしょうか」
学園長の指が、組んだまま止まった。
「……何と言った」
「え?」
「今の、最後の一文だ。もう一度」
「……あの祈りの会が終わったあと、目を開けてから、誰か一人でも、あの像のほうを見たでしょうか」
長い沈黙があった。
学園長は、何も答えなかった。
椅子に沈み込んだまま、天井の辺りを見ている。老眼鏡の向こうの目が、どこにも焦点を合わせていない。
わたしは、自分の心臓の音が聞こえるくらい、その沈黙が長く感じられた。
やがて、学園長は口を開いた。
「……エスタ君。君は、その手記をどこで見つけたと言ったかね」
「図書室です。奥の、精霊学の棚の、いちばん端でした」
「棚の端の、どのあたりだ」
「下から二段目です。背表紙の字が消えていたので、一冊ずつ引き出して確かめました」
「何冊」
「……数えていません。三日かけたので、たぶん、百は超えていると思います」
学園長の視線が、ようやくわたしのほうを向いた。
「なぜ、そこまでした」
「祈りの会で、違和感があったからです」
「それだけか」
「はい」
「誰かに頼まれたわけでも、課題でもなく」
「違います」
また、沈黙があった。
学園長は老眼鏡を外し、指で目頭を押さえた。
その仕草を、わたしは初めて見た気がした。いつも背筋を伸ばして、生徒の前では隙を見せない人だったから。
「……君は、今の話が何を意味するか、分かっているかね」
「え?」
「私が君の言い分を受け入れれば、どうなるか、という話だ」
学園長は、机の上に手を置いた。
「祈りの会は、私が独断で始めたものではない。国の専門家、精霊対策院、王城の使者。十数人が何日もかけて協議し、過去の記録を突き合わせて決めたものだ」
「……はい」
「それを、私が『一人の生徒に指摘されたので改めます』と言えば、どうなる。……協議に加わった全員の判断を、私が一人で否定したことになる」
顔から血の気が引いた。
そこまで、考えていなかった。
「わ、わたしは、そんなつもりじゃ」
「分かっている。君にその意図がないことは、見れば分かる」
学園長は、ゆっくりと首を振った。
「だが、意図がどうであれ、結果はそうなるのだ。……ここから先は、君の正しさの問題ではない。この学園が、国と、どう向き合うかという問題になる」
わたしは、何も言えなかった。
自分の考えが正しいと思っていた。それを伝えれば、何かが変わると思っていた。
けれど、目の前の人は、そんな単純な場所に立っていなかった。
「……すみません。出過ぎたことを」
「謝るな」
低い声だった。
「君は、何も間違ったことはしていない」
学園長は、初めてその手を冊子へ伸ばした。
表紙を撫でるように触れ、それから、ゆっくりと頁をめくり始めた。
読む速度が、途中から変わった。
一度めくった頁を戻し、指で文字をなぞり、また戻る。老眼鏡を掛け直し、身を乗り出すようにして読んでいる。
長い時間が経った。
その間、わたしはずっと立っていた。座りなさいとは言われなかったし、座る気にもならなかった。
やがて学園長は顔を上げ、静かに冊子を閉じた。
その表情を、わたしは何と呼べばいいのか分からなかった。
納得したようにも、困り果てたようにも見えた。たぶん、その両方だったのだと思う。
「……私が、まだ君と同じくらいの年だった頃の話だ」
思いがけない言い出し方に、わたしは戸惑った。
「私はな、王都で育ったわけではないのだよ。耳が使えると分かって迎えに来られるまでは、母方の村にいた。血が散らばっていくと、そういうことになる」
何の話が始まったのか分からなかったけれど、わたしは黙って聞いていた。
「祖母に連れられて、村の外れの古い祠に通っていた。祖母は、毎朝そこで手を合わせていた。私は退屈で仕方なくてな。ある日、聞いたのだよ。何をお願いしているのか、と」
学園長は、少しだけ笑ったように見えた。
「祖母はこう答えた。お願いなんてしていない。いつもありがとうと言っているだけだ、と。……当時の私には、まるで意味が分からなかった」
「……」
「あの言葉が、ずっと引っかかっていた。六十年だ。六十年、引っかかったままにしておいた」
学園長は冊子の上に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
「……エスタ君。はっきり言っておく」
「はい」
「今この場で、私が君の意見を認めることはできない」
分かっていたつもりだった。それでも、言葉にされると、胸の奥が冷たくなった。
「私には、そうする立場がない。専門家の協議を経て決まったものを、一人の教育者の判断で覆すことは、筋が通らない。……たとえ、君の言うことが正しくとも、だ」
「……はい」
「だが」
学園長は、冊子を両手で持ち上げた。
「これを、預からせてもらいたい」
「え」
「写しを取り、王城へ提出する。文献として、正式な検討の俎上に載せる」
わたしは、顔を上げた。
「……いいん、ですか」
「よくはない。私は、私が主導して決めたことを、自分で蒸し返すことになる。……恥をかくだろうな」
学園長は、苦いものを噛んだような顔をした。
「それでも、これは検討に値する。私の面目より、そちらのほうが重い」
「そして、次の祈りの会は一度延期する」
「延期……」
「文言の見直しには、時間がかかる。関係各所と協議する必要がある。……三月か、半年か。もっとかかるかもしれん」
「そんなに」
「そういうものだ。一人が納得すれば変わる、というものではない」
学園長は冊子を机の引き出しへ収め、鍵をかけた。
「今、君に約束できるのはそこまでだ。……不満かね」
不満だろうか。
わたしは、少し考えた。
正直に言えば、期待していたのとは違う。もっとこう、分かってもらえて、明日から何かが変わるような。そんな返事を、心のどこかで待っていた。
けれど。
この人は、わたしの話を最後まで聞いた。手記を三日かけて探したことを確かめた。自分の立場を明かして、できないことをできないと言った。その上で、できる範囲の最大を差し出した。
「……いいえ」
わたしは首を横に振った。
「ありがとうございます」
学園長は、少し意外そうな顔をした。
「意外だな。もっと食い下がるかと思ったが」
「食い下がって、先生に無理をさせても、結局何も変わらないと思うので」
「……ほう」
「それに」
わたしは、机の引き出しのほうを見た。
「あの手記を読んで、先生が何も感じなかったなら、預かるなんて言わなかったはずです」
学園長は、しばらく黙っていた。
それから、初めて口元を緩めた。
「……よく見ている」
「はい」
「君のような生徒を教える立場でいられるのは、幸運なことだな」
「先生」
部屋を出る前に、わたしは振り返った。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「何かね」
「文言を直せば、それで中身は変わりますか」
学園長の顔から、笑みが消えた。
「……いや」
正直な答えだった。
「変わらんだろうな。文言をいくら整えても、唱える者が本気でなければ、今と同じだ」
「……ですよね」
「君はどう思う」
「分かりません」
わたしは、素直にそう答えた。
「わたしも、三週間前までは、あの像の前を素通りしてました。誰かに言われて変わったわけじゃなくて……自分で、どうしても知りたくなったから、変わったんです」
「うむ」
「だから、たぶん、押しつけても駄目なんだと思います。……でも、どうすればいいのかは、まだ分かりません」
学園長は、深く頷いた。
「それは、私にも分からん」
「え」
「六十年考えて、まだ分からんのだ。……君が一週間で答えを出せたら、私は立つ瀬がない」
思いがけず、わたしは笑ってしまった。
「では、こうしよう」
学園長は、机越しにわたしを見た。
「私は私の場所で考える。君は君の場所で考えなさい。……そして何か思いついたら、また来なさい。今度は、追い返さない」
「……はい」
学園長室を出たとき、わたしの中に残っていたのは、安堵ではなかった。
宿題だ。
わたしが持ち込んだつもりだった問題は、そっくりそのまま、わたしの側にも返ってきていた。
祈りの会を、形だけでないものにするには。
その答えは、あの部屋の中にはなかった。たぶん、どこにもない。誰かが持っていて教えてくれるようなものではないのだ。
廊下を歩きながら、わたしは自分の手のひらを見つめた。
まだ、切り傷ひとつを治すのがやっとの手。
――わたしに、何ができるだろう。
分からない。けれど、考えるのをやめる気はなかった。
そのときのわたしは、まだ何も知らなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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