第17話 善意の行方
エスタ君が部屋を出ていった、その日の午後にも、彼女は来た。
「学園長先生。今週の進捗を伺いに参りました」
扉の前に立っていたのは、行方不明の生徒――フェイ君の母親だった。
これで、十七度目になる。私は数えている。数えないわけにはいかない。
「……どうぞ。お掛けください」
「いえ、結構です。お忙しいでしょうから、手短に」
彼女はいつもそう言う。そして、いつも一時間近くそこに立っている。
「捜索隊の編成は、どこまで進んでおりますでしょうか」
「……王都からの増員について、先週申請を出しました。回答待ちです」
「先週も、同じことを伺った気がいたします」
「……申し訳ない」
嘘ではなかった。だが、真実でもなかった。
申請は出している。しかし優先度が下げられていることを、私は知っている。理由も知っている。今の王城は、盟約と結界のことで手一杯なのだ。生徒一人の捜索に、飛行魔法の使い手を割く余裕がない。
そう説明することはできなかった。結界の内情は、部外者に明かせるものではない。
「先生」
彼女は、静かに言った。
「うちの子は、生きておりますでしょうか」
私は、即答できなかった。
「……可能性は、あります」
「そうですか」
彼女は小さく頷いた。
「実は、うちの人が言うんです。あいつは食い意地が張っているから、どこかで何か美味いものを見つけて、それを食べるまでは死なないだろうと」
「……」
「馬鹿みたいな話でしょう。でも、わたしはその通りだと思うんです」
彼女は、少しだけ笑った。その笑い方が、あまりに疲れていて、私は目を逸らしそうになった。
「先生。わたし、先生を責めに来ているわけではないんです」
「……いえ。責められて当然です」
「そうではなくて」
彼女は首を横に振った。
「誰かが、あの子のことを忘れずにいてくれているという証拠が、欲しいだけなんです。……わたしがここに来なくなったら、あの子は書類の中の一行になってしまう気がして」
彼女が帰った後、私はしばらく椅子から立てなかった。
書類の中の一行。
まさに、その通りだった。王城の会議で、あの子は「行方不明の生徒一名」としか呼ばれていない。私自身、そう呼ぶことに慣れてしまっていた。
机の上には、エスタ君から預かった手記が置かれている。
――祈りとは、乞うことにあらず。
――我らが差し出せるものは、力ではない。ただ、あなたがそこにいると知っていること。
指先で、その頁をなぞった。
あの母親がここへ来続けているのは、そういうことなのかもしれない。誰かが見ていると確かめに来ている。見られていなければ、存在しなかったことになってしまうから。
私は目を閉じた。
――我々は、精霊たちにも同じことをしてきたのではないか。
翌朝、私は捜索隊の申請書を書き直した。
三度目の再提出だった。
三日後、王城の精霊対策院。
私は再び、円卓の末席に座っていた。
前回と違うのは、卓上に一冊の古い冊子が置かれていることだった。
「――聖女ミラベルの手記、断簡」
精霊対策院長のバルトロが、重い声で読み上げた。
「学園長より提出されたこの文献を精査したところ、看過できない記述が見つかりました」
会議室の空気が張り詰める。
私は、胃の底が冷えるのを感じた。
提出したのは、祈りの文言を見直すためだった。専門家の目を通してもらい、必要なら協議の場を設ける。それだけのつもりだった。
だが、文献というものは、提出した者の意図した箇所だけを読まれるわけではない。
「ここです。……『かの年、地を守る大いなる者、脈を捻じりたり。民に驕りありと見て、これを戒めんがためなり』」
私は目を閉じた。
あの日、私が読み取ったのは、祈りの意味だった。六十年前の祖母の言葉に繋がる、その一点だった。
同じ冊子から、彼らは別のものを取り出した。
――そして、それは私の落ち度だ。
あの少女には、正式な検討の俎上に載せると言った。載せるとは、こういうことだ。自分の手を離れ、自分の意図から外れていく場所へ、差し出すということだ。
それを承知していなかったとは、言えない。
「ミラベルの時代――今から三百年ほど前、前の更新の折にも、大精霊は同じことをしていた。人間を戒めるために、意図的に地脈を組み替えた。そう記録されています」
「そして」
宮廷魔術師のヴァンスが、静かに口を開いた。
「先日、捜索隊から上がってきた報告があります。飛龍が学園に侵入した際、結界に抵抗の痕跡が一切なかった。破られたのではなく、通されたのです」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
――通された。
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
確かに、結界を素通りできる存在など限られている。管理する者が門を開けた、と考えるのが最も自然だ。
だが、と私は思う。
自然な推論が、常に正しいとは限らない。
もっとも、それを言えるだけの材料を、私は何も持っていなかった。
「つまり」
ヴァンスは卓上に両手を置き、一人ひとりの顔を見渡した。
「先日の襲撃は、事故ではない。大精霊による、意図的な措置です。負傷者十七名。行方不明の生徒一名。これは、我々の同胞が払った代償です」
「……確証はない」
私は思わず口を挟んだ。
「手記の記述は三百年前のものだ。今回も同じとは限らない」
「ではオズウィン学園長。あなたは、今回の乱れをどう説明されますか」
答えられなかった。
あの日、祠を後にするときに感じた小さな引っかかり。更新の直前に、これほど分かりやすい形で乱れが現れるものだろうかという疑念。私はそれを、考えすぎだと打ち消した。
打ち消してしまったのだ。
「私は」
ヴァンスは続けた。その声には、意外なほど激情がなかった。
「精霊を憎んでいるわけではありません。むしろ、この件については、彼らの言い分も理解できます。我々は確かに、敬意を失った」
「では、なぜ」
「だからこそです」
ヴァンスは、卓上の手記に目を落とした。
「三百年前にも、同じことが起きた。そして人間は、そのときも一時的に反省し、祈りの会を開き、数十年で元に戻った。今回も同じでしょう。我々は、また忘れる」
反論できなかった。それは、まさに私が浅はかにも繰り返そうとしていたことだった。
「人間とは、そういうものです。学園長、私はそれを愚かだとは思いません。人間の寿命は短い。一人が学べることには限りがある。それは以前、あなた自身が仰ったことでしょう」
「……ああ」
「忘れる生き物に、忘れないことを前提とした約束を課し続けるのは、無理があるのです。そして無理がある約束は、必ず破られる。破られるたびに、今回のような『戒め』が下される。三百年後も、六百年後も」
ヴァンスは顔を上げた。
「私は、その連鎖を断ちたい」
「魔導金属による自律結界は、既に実用段階にあります。人間の信仰心に依存しない。忘れても壊れない。世代が変わっても維持できる」
「精霊たちを、切り捨てると?」
「切り捨てるのではありません。対等になるのです」
ヴァンスの言葉には、確かな信念があった。
「今の関係は、対等ではない。守っていただく代わりに、敬意を差し出す。そして敬意が足りなければ、罰が下る。……学園長、これは主従です。盟約という名の、主従関係です」
「それは――」
「私は、人間が自分の足で立てるようになってから、改めて精霊と向き合うべきだと考えています。互いに相手を必要としない者同士が、それでも手を取る。それこそが、本当の意味での盟約ではありませんか」
会議室に、沈黙が落ちた。
誰も、すぐには反論できなかった。私も含めて。
「……星の巡りは、それを許しません」
ようやく口を開いたのは、占星術師のセレンだった。
「今、盟約を破棄すれば、必ず大きな災いが起きます。移行期の結界は、必ず不安定になる。ましてや、地脈が乱れている今、そこへ別系統の術式を重ねれば、何が起きるか誰にも読めません」
「移行の技術的な課題は承知しています」
ヴァンスは静かに応じた。
「だからこそ、段階的に進めるべきだと申し上げている。私は今すぐ盟約を破棄しろとは言っていません。次の更新を『最後の更新』とし、その三百年をかけて移行する。それが私の案です」
「三百年……」
「私も、あなたも、生きてはいません。だからこそ、今始めなければならない」
その言葉に、私は返す言葉を持たなかった。
会議は結論を出さないまま散会した。
だが、私には分かっていた。流れは、確実にヴァンスの側に傾き始めている。
彼は間違っていない。少なくとも、彼の論理には一貫性がある。私的な野心で動いているのなら、まだ反論のしようもあった。だが彼は、彼なりに人間の行く末を案じている。
それが、一番厄介だった。
回廊を歩きながら、私は窓の外に目をやった。
暮れかけた王都の空。その向こうに、学園のある方角が霞んで見える。
――目を開けてから、誰か一人でも、あの像のほうを見たでしょうか。
あの少女の言葉が、また耳の奥で鳴った。
彼女は、祈りの意味を伝えたかっただけだ。あの手記を持ってきたのは、純粋な善意からだった。
それが今、盟約を終わらせる根拠として使われようとしている。
――君は、何も間違ったことはしていない。
自分でそう言ったのだ。あの部屋で、あの子に向かって。
間違ったのは、私のほうだ。
あの子の善意を、私は正しく扱えなかった。手記を王城へ回したのは私の判断で、その先で何が起きるかを見通せなかったのも、私だ。
……あの子には、何と言えばいい。
私は足を止め、しばらく動けなかった。
その頃、学園では。
「エスタ、これ見たか」
キアリーが、掲示板の前でわたしを呼んだ。
貼り出されていたのは、次回の祈りの会の延期を知らせる短い告知だった。
「延期? どうして」
「さあ。でも、先生たちがなんか慌ただしいんだよな。王都から人が来てるらしいって」
胸の奥が、ざわりとした。
その意味が分かったのは、三日後の朝だった。
登校した生徒たちが、中庭の前で一様に足を止めていた。
荷車が四台、中庭に乗り入れている。その荷台から、ひとかたまりずつ、黒い柱が下ろされているところだった。
黒曜石のような光沢。人の背丈の三倍はある。表面には細かい紋様が彫り込まれていて、朝日を受けると、その溝だけが鈍く青白く光った。
「なんだあれ」
キアリーが呟いた。
「魔導金属だろ。王都の工房から運んできたって」
そう答えたのは、たまたま居合わせた上級生だった。
「防衛の実験をするらしいぞ。この前の襲撃で、精霊の結界が当てにならないって話になったとかで」
作業は、その日一日かけて行われた。
四隅に穴が掘られ、滑車で吊るされた柱が、一本ずつ垂直に下ろされていく。地面に据えられるたび、鈍い衝撃が足の裏まで伝わってきた。
作業を指揮していたのは、灰色の外套を着た背の高い男の人だった。生徒たちには一切目もくれず、技師たちに短い指示を飛ばし続けている。
学園長が何度か話しかけていたけれど、そのたびに首を横に振られていた。
その日から、中庭の景色が変わった。
四隅に立つ黒い柱。中央には、蔦に覆われた古い精霊像。
同じ場所に並んでいるのに、その二つは、どうしても馴染まなかった。
「……気持ち悪い」
放課後、わたしは思わずそう漏らした。
「え、あれが?」
「うまく言えないんだけど」
近づくと、耳の奥が詰まるような感じがするのだ。聖属性の適性のせいかもしれない。他の生徒は誰も何も言わないから、たぶんわたしだけが感じているのだろう。
「まあ、守ってくれるってんなら、あった方がいいだろ」
キアリーはそう言って、あっさり歩き出した。
わたしは、しばらくその場に立ち止まっていた。
理由は分からない。それでも、何かが動き始めている――そんな予感だけが、はっきりとあった。
わたしは黒い柱を見上げたまま、思わずその向こうの空を見上げた。
フェイ。あなたは今、どこにいるの。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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