第18話 鋼の朝
その日も、僕は大樹の根元に座っていた。
膝の上には、昨日作ったばかりの軟膏を詰めた木の器がある。傷薬として作ったものだが、思ったより粘度が高くなってしまった。伸びが悪いのだ。
「なあコロン、これ、油分が多すぎたのかな」
『あの実の殻を混ぜたのが効きすぎたんだろう。次はもっと減らせ』
「やっぱりそうか」
答えたのは、コロンだけではなかった。
『――幼き調べよ。器に足らぬは油にあらず』
頭の奥に、あの柔らかな声が響いた。大樹だ。
『欠けたるは、練りの間に置くべき静けさである。土が水を含むにも、時を要すのと同じく』
「……ええと」
僕はコロンを見た。
『練った後、しばらく放置しろと言っている』
「それ最初からそう言ってくれればいいのに」
『言い方は選べないんだろう。……何百年もそういう喋り方をしてきたんだ』
大樹と話せるようになったのは、ここ数日のことだ。
いや、数日というのが正しいのかも分からない。この場所には夜が来ない。空が少し翳って、また明るくなる。それを一度と数えて、僕は指を折って数えていた。たしか、百回は超えたはずだ。
最初はまるで意味が取れなかったのに、今では三回に一回くらいは自力で理解できるようになった。慣れというのはすごい。あとは、コロンが根気強く通訳してくれたおかげだ。
「なあコロン。僕、ここに来てもう百日以上経つよな」
『……さあな』
「さあなって」
『ここの巡りは、外とは違う。数えても意味がない』
「え、どういうこと」
『そのままの意味だ。……気にするな』
『幼き調べよ』
「はい」
『汝は、この地にて何を得たか』
唐突な問いだった。
僕は少し考えてから、素直に答えた。
「たくさんあります。道具がなくても薬が作れること。同じ草でも育った場所で全然違うこと。あと――」
言葉を探す。
「失敗するのが、楽しいってことです」
『ほう』
「学園にいた頃は、失敗するのが怖かったんです。本の通りにやれば正解があるって思ってたから、間違えるのは自分が悪いからだって。でもここには本がないから、何が正解か誰も知らない。だから失敗しても、それはただの一つの結果で。次はこうしてみようって思えるんです」
僕は器を持ち上げて、少し笑った。
「こんなに毎日楽しかったの、久しぶりでした。ここに来られて、よかったと思ってます」
『……』
大樹は、しばらく黙っていた。
やがて、梢のほうから、風もないのに葉擦れの音が降ってきた。
『よきかな』
たった一言だった。
けれどその声には、これまで聞いたことのない温度があった。
『幼き調べよ。緑の灯よ』
大樹は続けた。
『汝らが石を打ち、葉を摘み、水を汲み、互いに足らぬを補いて実を結ぶさま。我は久しく、その光景を見ずにおった』
コロンが小さく補足する。
『……「懐かしかった」と言っている』
『土に問う者あれば、土は応えた。炎に名を呼ぶ者あれば、炎は温もりを返した。与え、返され、また与える。その巡りこそが、我が脈を養うものであった』
「じゃあ、僕らがやってたことって」
『幼き調べよ。汝は知らずして、古き作法を辿っておる』
僕は、思わずコロンを見た。コロンは何も言わなかった。ただ、緑の光が少しだけ強くなった気がした。
そのとき、異変に気づいた。
葉擦れの音が、止まらない。
さっきまでは緩やかだったそれが、だんだん激しさを増している。風はないのに、梢全体が波打つように揺れていた。
「……コロン?」
『静かに』
コロンの声が硬い。
『――事が動いた』
大樹の声が、これまでと違っていた。抑揚が乱れ、言葉が急いている。
『脈の巡り、乱れたり。人の手、鋼を差し入れたり。噛み合わぬものが噛み合わぬまま、なお押し込まれておる』
「え? 待ってください、意味が」
『器に、混ざらぬものを重ねて注ぐ者あり。すでに逆巻く流れの上に、さらに逆巻く流れを』
その比喩だけは、僕にもすぐ分かってしまった。
反発し合う素材の上に、さらに反発する素材を放り込んでいる。
調合でそれをやったら、どうなるか。
「……破裂する」
『幼き調べよ』
大樹の声が、切迫していた。
『汝、帰れ』
「え」
『留まる理由は失せた。繕い手を欠いては、あの地は保たぬ』
「帰れって、今ですか!?」
『疾く』
「でも、どうやって――」
言いかけて、僕は口をつぐんだ。
頭上で、音がした。
見上げると、大樹の枝という枝から、無数の葉が一斉に舞い上がっていた。
それは、渦を巻きながら空中で集まり始めた。
何千、何万という葉が、まるで一つの意志を持つように折り重なっていく。緑の渦が凝縮し、輪郭を帯びていく。胴が伸び、四肢が形作られ、そして――
長い首。鋭い爪。広げれば空を覆うほどの、巨大な翼。
飛龍だ。
葉でできた飛龍が、大樹の前に舞い降りた。
「――あの、これ」
『掴まれと言っている』
「掴まれって、どういう」
言い終わる前に、影が落ちた。
葉の飛龍の爪が、僕の体を掴み上げる。あの日と同じ、内臓が浮き上がる感覚。
「うわああああ!?」
『騒ぐな、舌を噛むぞ!』
コロンが慌てて僕の襟元に飛び込んでくるのが見えた。
花畑が、大樹が、みるみる小さくなっていく。
風が耳元で唸る中、僕は最後に一度だけ振り返った。
梢の向こうから、あの声が届いた気がした。
『――往け』
杭が中庭に据えられてから、十日が過ぎていた。
黒曜石のような光沢を持つ魔導金属の柱。人の背丈の三倍ほどもあるそれが、四隅に立っている。設置そのものは「防衛設備の実地調査」という名目で通っており、稼働の可否はまだ保留されたままだった。
この十日、私は何度も工事の中止を申し入れた。そのたびに、王城からは同じ文面の返答が届いた。
――調査は防衛上必要な措置であり、直ちに危険を生じるものではない。
危険を生じるのは、動かしたときだ。私はそう書いて送り返した。返事は来なかった。
そして、その朝。
私は、中庭にいた。
その日は半年に一度の避難訓練の日で、全学年が学年ごとに中庭へ集められることになっていた。皮肉な話だ。万一に備えるための訓練のために、私は生徒たちを外へ出していた。
訓練の日程は、ひと月前に決めてある。そのときは、杭の稼働などまだ当分先の話だと思っていた。認可がいつ下りるとも知れず、下りたところで準備に半月はかかると聞いていたからだ。
一学年目の点呼が終わり、二学年目が列を作り始めた頃だった。
「オズウィン学園長」
ヴァンスが、私の前に立っていた。
「先ほど、正式な認可が下りました。試験稼働を行います」
「……いま、何と」
「試験稼働を行います」
私は、思わず周囲を見回した。
中庭には、二百人近い生徒が並んでいる。
「正気か。生徒がいるのだぞ」
「承知しています」
「今日だとは聞いていない。準備に半月かかると、そちらの技師が言っていたはずだ」
「済ませました。設置と並行して」
「待て。今日は駄目だ。せめて明日、生徒を校舎に入れてから――」
「明日では遅い」
ヴァンスは、初めて声を強めた。
「盟約の更新は明後日です。更新の場で、我々には交渉材料が必要だ。この結界が機能することを示せなければ、また同じ条件を呑まされるだけだ」
「それは分かる。だが、今日でなくともよいだろう」
「今日でなければならないのです」
彼は、懐から一枚の書状を取り出した。
「認可は、今朝下りました。有効期限は本日限りです」
「……何だと」
「王城の側も、割れているということです。認可を出した方々は、明日には出せなくなる。だから今日に限って出した」
私は書状を受け取り、目を通した。
日付。署名。確かに、本日限りと明記されている。
「これは……」
「政治です。学園長」
「生徒を校舎へ入れさせてくれ。それからにしろ」
「二百人を動かすのに、どれだけかかりますか」
「半刻もあれば」
「その半刻のあいだに、認可が撤回されない保証はありますか」
答えられなかった。
私は、この男を止める理由を三つ持っていた。地脈が乱れていること。セレン殿の反対。生徒がいること。
その三つとも、彼には「だから今日やるのだ」と返される。
「……せめて、生徒を杭から遠ざけさせろ。中庭の南端に寄せる」
「それは結構です」
ヴァンスは書状を折り畳んだ。
「学園長。私は、恨まれる役目を引き受ける覚悟でここにいます」
その目に、驕りはなかった。
「三百年後の人間が、精霊と対等に向き合えるようになっていれば、それでいい。そのとき私の名など、誰も覚えていないでしょう。……始めます」
私は、すぐに教師たちへ指示を出した。
生徒を南端へ。学年ごとに、走らず、順に。
避難訓練の最中だったことが、このときばかりは幸いした。生徒たちは指示に従うことに慣れていた。
だが、二百人が動くには時間が要る。
その時間は、与えられなかった。
魔力が、杭に流し込まれた。
黒い柱の表面に、紋様が走る。青白い光が四本の杭を結び、地面を這うように広がっていく。
「――出力、安定」
「第二段階へ」
技師たちの声が飛び交う。
最初の数十秒は、何も起きなかった。
青白い光の網が、既存の結界の内側に静かに張り巡らされていく。整然としていて、美しくさえあった。
「見てください、学園長。これが、人が自らの手で――」
ヴァンスの言葉が、途中で止まった。
光の網が、一箇所、ぶれた。
最初は、ほんの小さな揺らぎだった。
北東の杭の付近で、青白い線が細かく震えた。技師の一人が計器を覗き込み、眉を寄せる。
「反応値、上昇……いえ、これは」
「どうした」
「地脈側から、逆向きの圧が」
次の瞬間、その杭が甲高い音を立てた。
金属が軋む音。いや、擦れ合う音だ。噛み合わない歯車を、無理やり回したときのような。
「出力を落とせ!」
ヴァンスが叫んだ。
「落としています! ですが、止まりません!」
青白い光が、急激に膨れ上がった。
空が、鳴った。
王都を覆っていた透明な結界――普段は目に見えないはずのそれが、輪郭を現した。
淡い光の膜。六百年、この地を守り続けてきたもの。
その膜の上を、黒い筋が走った。
一本、二本。ひび割れのように。
「な――」
黒い筋は瞬く間に広がり、結界全体に網の目のように行き渡った。膜の内側で、何かが逆巻いている。押し戻された流れが、行き場を失って渦を巻いている。
中庭にいた者たちが、一斉に空を見上げた。
生徒たちの悲鳴が上がる。
「学園長! これは!」
「……逆流だ」
私は、ようやくそれだけを絞り出した。
「押し込んだ力が、そのまま返ってきている」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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