第19話 顕現
◆
人の子が愚かにも鋼を差し入れた瞬間、わたくしが捻じった流れは行き場を失い、逆しまに巻き返した。三年かけて緩やかに操ってきたものが、一息に暴れ出した。
止めねばならぬ。
結界の要は、地に据えられている。六百年前、この地の土にわたくしの力を通し、根のごとく張り巡らせたもの。
ならば、降りねばならぬ。
わたくしは祠を出て、学び舎の中庭へ向かった。地を這う流れに手が届く高さ――中庭を見渡せる、屋根の軒と並ぶあたり。そこで、わたくしは形を結んだ。
この地の流れを一度に抱えるには、それなりの器が要る。人の身の丈のままでは、注がれるものを受け止めきれぬ。
三十年ぶりに、わたくしは全き形を取った。
眼下では、人の子らが逃げ惑っていた。倒れた者を引きずる者。泣き叫ぶ幼い者。石垣の陰にうずくまる、小さな灯たち。
――案ずるな。
わたくしは両腕を広げた。
そなたらを守るために、わたくしはここにおります。六百年、一度たりとも欠かしたことはありません。今日とて同じ。
逃げずともよい。顔を上げよ。
――わたくしが、おります。
逆巻く流れを、すべてわたくしの身に引き受ける。一度この内へ収め、整えてから、改めて地へ返す。
理屈の上では、できるはずであった。
流れが、雪崩れ込んできた。
――多い。
想定の、幾倍か。
わたくしが捻じった分だけであれば、まだ抗いようがあった。三年かけて手ずから曲げた流れだ。戻すには年の単位が要るが、戻し方そのものは分かっている。掛かる負荷も、見当がついていた。
これは、そうではない。
鋼だ。
人の子らが地に突き立てたあの柱。あれが、わたくしの預かる脈へ、直に管を差し込んでいた。
許しも請わず。名も呼ばず。
ただ、汲めるだけ汲もうとしていた。
六百年、この地の流れは、わたくしが一日ごとに配分を測り、過不足を整えて配ってきたものだ。どこへどれだけ流せば草が枯れず、人が病まず、小さき灯が細らぬか。それを見続けることが、わたくしの務めであった。
その脈へ、何も知らぬ管が突き刺さり、配分を無視して吸い上げている。
地が、拒んだ。
当然であった。
鋼が吸おうとし、地が押し返し、そのぶつかり合いが新たな渦を生む。生まれた渦がまた鋼を締めつけ、鋼がさらに強く吸う。
終わりのない噛み合わせだった。
わたくしが緩めておいた分は、その噛み合わせに、格好の隙間を与えていた。
――わたくしの、落ち度だ。
隙を作ったのはわたくしだ。そこへ刃を差し込んだのは人の子だ。どちらが欠けても、こうはならなかった。
だからこそ、引き受けねばならぬ。
呑み込む。呑み込む。まだ来る。
『――ぐ、ぅ』
指先が、震えた。
見下ろすと、わたくしの手の甲に、黒い筋が走っていた。
それは、腕を這い上がってきた。
白き衣の裾が、黒く濁っていく。滲むのではない。まとわりつくのだ。何かが、幾重にも巻きついてくるように。
『やめ――』
――違う。これは、流れではない。
拒絶だ。
地が鋼を厭う、その厭いようそのものが、脈を伝ってわたくしの内へ雪崩れ込んでいる。
配るという務めは、離れていてはできぬ。
水路を差配する者が、水路のかたわらを離れられぬのと同じだ。どこが詰まり、どこが溢れているかを知るには、絶えず手を水に入れておかねばならぬ。
六百年、わたくしは脈に手を浸したままでいた。
ゆえに、地が厭えば、その厭いようは真っ先にわたくしの手へ伝わる。
今、その手を伝って、地が鋼を憎む心そのものが、わたくしの内へ流れ込んできていた。
配る器に、憎しみを注げばどうなるか。答えは、考えるまでもなかった。
黒はうねりながら胴へ達し、肩へ、首筋へと這い上がった。衣であったものは、もはや衣の形を保っていない。捻じれ、絡み合い、鱗のような光沢を帯びて蠢いている。
翅が軋んだ。
虹色に輝いていた六対の翅。その一枚に、ひびが入った。
『あ』
二枚目。三枚目。
硝子が砕けるように、翅は罅割れ、その裂け目から黒いものが染み出してくる。透けていた虹色は濁り、歪み、見る者の目を刺すような不快な光へと変わっていった。
黒が首まで届いたとき、それは形を持ち始めた。
わたくしの内側から、古い声が聞こえてきたのだ。
――誰も、見ていない。
六百年、一度たりとも欠かしたことのない務め。誰にも数えられず、誰にも礼を言われず、それでも一日も休まず配り続けた流れ。
その記憶が、拒絶と混ざり、腐っていく。
――誰も、見ていない。
――誰も。
黙れ、と思った。それはわたくしが呑み込んできたものだ。今さら形を持つな。
けれど、押し返す力は、もう残っていなかった。
顔が、熱い。
わたくしは自分の頬に触れようとして、その手が既に自分のものでないような形をしていることに気づいた。
眼下から、悲鳴が上がった。
人の子らが、わたくしを指さして叫んでいる。恐怖の叫びだ。
――違う。逃げよ。
わたくしは、そなたらを守ろうと。
――わたくしから離れなさい。校舎の内へ。壁の陰へ。石垣の灯たちも、遠くへ。
伝わらぬ。
口を開いた。出たのは、言葉ではなかった。
耳を塞ぎたくなるような、軋みのような音。
それを聞いて、人の子らはさらに散った。それでよい。逃げよ。今はそれでよい。
そして、結界が泣き始めた。
わたくしの身に収めきれなかったものが、膜の裂け目から零れ落ちていく。
黒い雨だった。
天から降るそれは、触れた草を枯らし、石を蝕み、水を淀ませた。中庭の花壇が、みるみるうちに黒く変色していく。逃げ遅れた生徒の肩に落ち、その子が悲鳴を上げて倒れた。
――やめよ。
止めようとして、わたくしはさらに歪んだ。
杭が鳴り始めたとき、わたしは中庭の南端にいた。
甲高い金属音が、四方から同時に響いた。
耳の奥が詰まる。あの柱の前を通るたびに感じていた、あの感触が、何十倍にもなって襲ってくる。
「なにこれ……!」
「空、見て!」
誰かが叫んだ。
見上げると、いつも見えないはずのものが見えていた。王都全体を覆う、薄い光の膜。その上を、黒い筋が蜘蛛の巣のように走っていく。
悲鳴が上がった。
列が崩れる。先生たちが「動くな」と叫んでいるけれど、誰も聞いていない。
――やっぱり、気持ち悪かったんだ。
その渦中で、わたしが思ったのはそんなことだった。
あの柱の前を通るたびに感じていた違和感。誰にも分かってもらえなかったあれは、気のせいなんかじゃなかった。
もっと強く言えばよかった。
そう思ったところで、もう遅い。
そのときだった。
光が、湧いた。
どこから、というのではない。中庭の地面から、空気から、日差しの中から、それはにじみ出すように現れた。
温かい光だった。
風呂に入ったときのような、日向で眠ったときのような。悲鳴を上げていた生徒たちが、次々に口をつぐんでいく。
光は中庭の中央――四本の杭に囲まれた、あの一点へと集まっていった。
そして、形を取った。
息が、止まった。
人の形をしていた。けれど、人ではあり得なかった。
屋根の軒と肩が並ぶほどの丈。白い衣が、風もないのに静かに揺れている。背には六対の翅。硝子のように透き通って、光を通すたびに虹色に散らす。
長い髪が、光そのもののように広がっていた。
そして、顔。
見上げなければ見えない高さにあるのに、その表情だけは、はっきりと見えた。
――やさしい。
真っ先に浮かんだのが、その言葉だった。
中庭が、静まり返った。
さっきまで逃げ惑っていた何百人が、誰一人動かない。ただ、上を見ている。
「……大精霊様だ」
誰かが呟いた。
「大精霊様が、来てくださった」
膝をつく音がした。
一人。二人。手を組んで、その場に跪く生徒がいる。教師の中にも、同じようにしている人がいた。
わたしは動けなかった。ただ、見上げていた。
――あの像の、顔だ。
薬草園にある、蔦だらけの古い女神像。風化して分からなくなっていた、あの顔。
本物は、こんな顔をしていたのか。
大精霊が、両腕を広げた。
案ずるな、と言われた気がした。声は聞こえなかった。それでも、伝わってきた。
誰かが泣き出した。安心して泣いたのだと、わたしにも分かった。
それから、大精霊は両手を胸の前で組んだ。
女神像と、同じ形だった。
空を覆っていた黒い筋が、動いた。
膜を這っていたそれが、剥がれるようにして、一斉に中央へ吸い寄せられていく。渦を巻いて、大精霊の胸元へ。
黒い流れが、その身の内へ次々と消えていった。
「すごい……」
「助かった、のか……?」
安堵の声が広がりかけた、そのとき。
大精霊の指先が、震えた。
最初は、気のせいかと思った。
けれど、次の瞬間、その手の甲を黒い筋が這い上がった。
「……え」
白い衣の裾が、黒く濁った。
滲むのではない。何かが巻きついているのだ。太い縄のようなものが、幾重にも、腕から胴へ、胴から肩へ。
透き通っていた翅に、ひびが入った。
一枚。二枚。硝子が割れるように。
悲鳴が上がった。
さっきまで手を組んで跪いていた生徒が、後ずさって尻餅をついた。
「なに……なんで」
大精霊の輪郭が、捻じれていく。美しかったものが、見る間に形を失っていく。
罅割れた翅から染み出した黒が、虹色を濁らせ、目を刺すような不快な光に変えていった。
わたしは、少し離れた場所に立つ二人の男の人を見た。
灰色の外套の人。杭の設置を指揮していた、あの人。
その顔が、真っ白になっていた。
口を半分開いたまま、上を見上げて、指先が細かく震えている。
何が起きたのかを、この人は正確に理解したのだと分かった。誰よりも早く、正確に。
その隣で、学園長が両手で顔を覆っていた。
「――逃げろ!」
騎士団長の怒声が飛んだ。
そこから先は、混乱だった。
さっきまで跪いていた人たちが、悲鳴を上げて散っていく。誰かが誰かを突き飛ばし、誰かが転ぶ。
わたしも走ろうとして――
頭上で、何かが軋んだ。
耳を塞ぎたくなる音だった。あれが、あの人の声なのだと、直感で分かった。
言葉になっていない。けれど、伝わってきたものはあった。
――逃げなさい。
黒い雨が、降り始めた。
天から落ちるそれは、触れた草を枯らし、石を蝕み、水を淀ませた。中庭の花壇が、みるみるうちに黒く変色していく。
逃げ遅れた下級生の肩に落ち、その子が悲鳴を上げて倒れた。
「みんな、校舎の中へ! 早く!」
叫びながら、わたしはその子に駆け寄った。肩を押さえてうずくまっている。服が、触れた部分から黒く焦げていた。
治癒魔法を当てる。効かない。いや、効いてはいるけれど、侵食のほうが速い。
「エスタ! 上だ!」
キアリーの声に顔を上げた。
黒く歪んだものが、中庭の上にいた。
輪郭は絶えず捻じれ、翅は痙攣するように震えている。それでも、その顔だけは、まだかろうじて元の形を残していた。
――苦しんでいる。
なぜだか、そう思った。恐ろしいはずなのに、真っ先にそう感じた。
さっきまで、わたしたちはあの人に向かって手を組んでいた。
たった数分前のことだ。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
肌がぴりつく。喉の奥が詰まる。何か、比べようのないものが近づいてくる気配。
見上げた空の一点で、緑色の光が閃いた。
「……なに?」
それは、小さな点だった。
けれど、瞬きのあいだに二倍になった。次の瞬きでまた二倍に。
点が線になり、線が形を持った。
翼。長い首。そして、幾筋にも分かれた長い尾。
――あの尾だ。
ひと月前、豆粒になって空へ溶けていった後ろ姿。あのとき見たのと、同じ尾だった。
今度は、逆光ではない。
竜のようでいて、竜ではなかった。首から胸にかけて羽毛のようなものが流れ、脚は二本きり。その代わりに、翼が大きい。
図鑑のどこにも、こんな生き物は載っていなかった。
そして、色が違った。
あの日、逆光の中では真っ黒にしか見えなかった。
今、日の光の下で降りてくるそれは、緑だった。
目を凝らして、わたしは息を呑んだ。
葉だ。
翼も、首も、尾も。無数の葉が重なり合って、それでできている。
――同じものが、帰ってきた。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
あの日、この生き物は音もなく降りてきた。誰一人、空を警戒していなかった。
今は違う。
近づいてくるだけで、肌が粟立つ。喉が締めつけられる。隠す気など微塵もない。むしろ、見せつけている。
黒く濁った結界の膜に、それが触れた。
その瞬間、音が消えた。
――え。
何も聞こえない。誰かの悲鳴も、自分の息の音も。
代わりに、目に映るものだけが、ひどくゆっくりになった。
膜が内側から白く光り、罅が走り、砕けていく。破片の一つひとつが、空中で回転しながら光を撒いている。
その裂け目を抜けて、緑の巨体が降りてくる。
翼を広げれば、中庭の端から端まで届きそうだった。それが、中庭いっぱいに広がっていく。
空が塞がる。
圧が、上から落ちてくる。
音が、戻った。
破裂するような轟音と、耳の奥を刺す高い音が同時に来た。
中庭にいた全員が、その場に叩き伏せられた。立っていられるはずがなかった。わたしは膝から崩れて、石畳に両手をついた。
「伏せろ!」
キアリーの声が、ずっと遠くから聞こえた。
そして、緑の巨体は止まらなかった。
降下の速度そのままに、その右の脚が、宙にいた大精霊の頭部を掴んだ。
そのまま、真下へ。
轟音。
石畳が砕け、土煙が壁のように立ち上がる。衝撃で校舎の窓ガラスが一斉に割れ、鐘楼の鐘が意味もなく鳴り響いた。
耳を押さえてうずくまり、わたしはひたすら揺れが収まるのを待った。
どれくらい経っただろうか。
土煙が、ゆっくりと薄れていく。
咳き込みながら顔を上げて、わたしは息を呑んだ。
中庭の中央の石畳が、円く砕けて陥没していた。
思ったより、浅い。あれほどの音と衝撃だったのに、地面は膝の高さほど沈んだだけだった。
そこに、緑の飛龍が降り立っている。
葉に戻る気配はない。それどころか、右の脚に力を込め、砕けた石畳へ何かを押さえつけていた。
黒い、蠢くもの。
大精霊だった。さっきまで見上げていた姿が、今は飛龍の脚一本の下で、頭を押さえつけられている。翅は罅割れ、体を這う黒いものが飛龍の脚に絡みつこうとしている。それを飛龍は、ただ無言で押さえ込み続けていた。
『……なんだこれ』
襟元から、コロンの声がした。
そして、空いているほうの左の脚。その爪の間から、小さな人影が転がり落ちた。
ぼろぼろの服。埃まみれの顔。石畳の上に尻餅をついて、盛大に咳き込んでいる。
――人?
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
あの生き物が、空から人を掴んで運んできた。
そこまでは分かる。分からないのは、それが誰なのかということだった。
痩せた少年だった。
まず目についたのは、髪だった。ずいぶん伸びている。肩に触れるくらいまであって、埃と汗で固まったまま、顔の半分を覆っていた。前髪が目にかかっていて、うつむいているせいで表情が見えない。
頬の線が細くて、顎が尖っている。服の裾は擦り切れ、靴底はほとんど剥がれかけていた。腕には見覚えのない擦り傷がいくつも走っている。
上級生だろうか。いや、背丈はそれほどでもない。
知らない顔だ、と思った。
咳が収まると、その少年は顔を上げた。
顔にかかっていた髪を、手の甲で払う。
砕けた空を見上げて、それから、呆然と立ち尽くす人々を見回して。
そして、少し困ったように笑った。
「……ただいま?」
――え。
その声を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
慌ててもう一度、その顔を見る。
目だ。
頬が削げても、顎の形が変わっても、その目だけは何ひとつ変わっていなかった。調合のことを喋り出すと、やたら嬉しそうに輝く、あの目。
埃まみれで、痩せこけていて、髪はぼさぼさで、その、なんというか――
……とにかく、フェイだった。
「……フェイ?」
声が、掠れた。喉が、やけに渇いている。
土煙のせいだ。
そう思って、わたしは一度、唾を飲んだ。
「フェイなの?」
「フェイ!」
叫んで駆け出そうとしたわたしを、キアリーが腕で制した。
「待て。まだ終わってない」
見れば、緑の巨体がゆっくりと首をもたげていた。
押さえつけた黒い塊を見下ろし、口を開く。無数の葉でできた顎の奥に、光が集まり始めていた。
そして、咆哮が中庭を震わせた。
その足元で、埃まみれの少年が、よろけながら立ち上がるのが見えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




