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第20話 レタグィの祈り

『――退け、幼き調べよ』


 大樹の声が、頭の奥を打った。


 さっきまでの、どこか眠たげな柔らかさはどこにもない。飛龍の顎が大きく開き、咆哮が中庭を震わせた。石畳の破片が、音の圧だけで跳ね上がる。


『この者は、誤った!』


「誤ったって、そんな」


『幼子から目を離すことが、どれほど危ういか。それを知らぬまま、この地と、ここに芽吹いた命のすべてを、幼子の手に委ね放ったのだ!』


 飛龍は、押さえつけた黒い塊を見下ろした。


『六百年! 六百年、我はこの者に人の世を預けさせた! 芽を出させ、根を張らせ、ここまで育てさせたのだ! それを――』


 言葉が途切れ、代わりに脚が動いた。


 大精霊の頭を掴んだまま、飛龍はそれを持ち上げ、地面へ叩きつけた。


 轟音。


「やめてください!」


『幼子が刃を持ち出したのではない。この者が、垣根を低くしておいたのだ!』


 二度目。


『己の手に負えると驕り、地の脈に手を入れ、そこへ穴を空けたまま人を試した。……その穴に、幼子が鋼を差し込んだ!』


 三度目。


『試すな。育てよ。それが預かった者の務めであろうが!』


 叩きつけられるたび、黒い塊から絡みついたものが千切れ飛び、石畳を焦がした。


「やめて、お願いします、やめてください!」


 僕は、飛龍の左の脚のすぐ脇にへたり込んだままだった。


 立ち上がる。膝が笑って、二歩でよろけた。


 それでも、そこから数歩の距離だった。


 四度目。右の脚が、黒い塊を掴んだまま振り上げられる。叩きつける先は、さっきまで三度打ちつけられた、あの砕けた石畳の一点だ。


 僕は、そこへ入った。


 振り上げられた脚が、真上にある。


 鳥のそれに似た、太い三本指。爪の一本が、僕の腕くらいの長さがある。掴まれた黒い塊の一部が、僕の頭のすぐ上でぶら下がって揺れていた。


 両腕を広げる。


 意味などない。振り下ろされれば、僕ごと潰れるだけだ。


 止まるはずがない。


 それでも、止まった。


『退け』


「退きません」


『なぜ庇う!』


 咆哮が、真上から降ってくる。鼓膜が痛んで、体が芯から震えた。


「分かりません!」


 僕は叫び返した。


「この人が何をしたか、僕は聞きました。許せないとも思いました。今だって、思ってます。でも――」


 僕は、中庭の四隅に立つ黒い柱を見た。


「あれを刺したのは、僕らです」


『……何?』


「この人が垣根を低くしたって、さっき言いましたよね。でも、そこに鋼を突き刺したのは人間です。……だったら、半分は僕らのせいだ」


 言葉が、そこで続かなくなった。


 理屈はない。正しさもない。ただ、目の前で誰かが潰されていくのを見ていられなかった。それだけだった。


「半分こっちのせいなのに、この人だけ取り除くのは――」


 僕は両手を広げたまま、叫んだ。


「見捨てるのは、絶対に違うと思うんです」


 そのときだった。


 中庭の四隅から、金属の軋む音が響いた。


 魔導鉄の杭が、震えていた。


 黒曜石のような柱の表面に、亀裂が走る。その隙間から、どろりとした黒いものが染み出してきた。


「な――」


 あとになって考えれば、当たり前のことだった。


 あの杭は、地脈から力を吸い上げるために作られている。吸い上げ口を、地面に突き刺したまま。


 そこへ、地が拒絶を流し込んだ。頭上からは、大精霊が抱えきれなかった黒い雨が降り注いだ。


 下からも、上からも。


 吸うようにできているものが、吸ってはいけないものを、吸えるだけ吸ってしまった。


 杭が、内側から膨らんだ。


 弾けるように外皮が剥がれ、中から現れたのは、四つの巨体だった。


 黒光りする金属質の体。関節の代わりに継ぎ目のある四肢。大型の犬ほどの胴に、人の腰の高さまである脚が四本。頭部にあたる場所には目も口もなく、ただ滑らかな面が、こちらを向いている。


『……吸ったな』


 コロンが呻いた。


『地の憎しみを、あるだけ吸って、形にしてしまった。……あれはもう、鋼じゃない』


「じゃあ、何なんだ」


『この土地が、鋼を厭う心そのものだ』


――厭う心が、鋼の形をして立っている。


 そう思った瞬間、背筋が凍った。


 地が嫌がっていたものが、そっくりそのまま姿を持ってしまったのだ。


「うわああ!」


 最初の悲鳴が上がった。避難しきれていなかった生徒たちの群れへ、一体が突進していく。


 飛龍が動いた。


 右の脚で大精霊を押さえたまま、上体だけが跳ね起きる。


 尾が鞭のようにしなり、一体を胴の真ん中から貫いた。金属の破片が飛び散る。


 空いているほうの左の脚が、二体目を鷲掴みにした。指が閉じると、金属の板が折れるような音がして、それきり動かなくなった。


 三体目には、首を伸ばして噛みついた。顎に力が入り、鈍い破砕音とともに、その体が二つに折れる。


 三体を、三つの動作で。中庭の中ほどに伏せたまま、この体は端まで届いてしまう。


 だが、四体目は違った。


 飛龍の顎をかいくぐり、地面すれすれを這うようにして、生徒たちの列へ向かって走り出した。


「――行かせるかよ!」


 その進路に、剣を構えた影が立ちはだかった。


 キアリーだった。


「後ろは俺たちが引き受ける! 騎士団、頼む!」


「小僧、下がれ!」


 騎士団長が怒鳴りながら、キアリーの前へ出た。十数人の騎士が、瞬く間に半円の陣を組む。


 金属の魔物が突っ込んだ。


 最初の一撃で、盾を構えた騎士が三人まとめて弾き飛ばされた。剣が命中しても、火花が散るだけで刃が通らない。


「関節を狙え! 継ぎ目だ!」


「くそ、硬い……!」


「エスタ! こっちだ!」


 呼ばれてわたしは駆け出した。


 吹き飛ばされた騎士の一人が、肩から血を流して倒れている。膝をついて手をかざすと、傷口が熱を持っているのが伝わってきた。


「動かないで。今、止めます」


 淡い光が灯る。傷は塞がりきらない。それでも、血の流れは細くなった。


 立ち上がって、次へ。


 少し離れた場所では、教師たちが杖を構えて防御陣を張っていた。半透明の壁に魔物の体当たりが叩きつけられるたび、術者の膝が沈む。


「加護を切らすな! 剣に纏わせ続けろ!」


「魔力が保ちません!」


「保たせるんだ!」


 キアリーが跳んだ。


 魔物の膝の継ぎ目に、体重を乗せて刃を差し込む。


 火花。


 刃が半ばまで食い込んで、止まった。


「――っ!」


 魔物の腕が横に払われ、キアリーの体が宙を舞った。地面を二度跳ねて、止まる。


「キアリー!」


 わたしが駆け寄るより早く、彼は肘をついて起き上がった。口の端から血が垂れている。


「まだ、いける」


「無茶よ!」


「無茶なのは知ってる」


 キアリーは剣を拾い上げ、もう一度、構え直した。


――このものの選択の帰結が、この現状である。


 頭の奥に、飛龍の声が響いた。


 さっきまでの怒号とは違う、静かな声だった。


『今、取り除かねば、たとえこの諍いが起きていなかったとしても、早晩、滅びの道は開いたであろう』


「……」


『汝の情は尊い。されど、情は地を巡らせぬ』


 顎の奥に、また光が集まり始めた。


『この者、すでに理を外れたり。実らぬ枝は、切り落とすが理であろう』


「待ってください、それは」


『案ずるな。脈が絶えるわけではない』


 長い首が、ゆっくりと下がってくる。無数の葉でできた顔が、僕のすぐ目の前まで近づいた。


『我、自ら根を下ろそう。この地の脈を継ぎ、膜を張り直そう。さすれば、この地は再び芽吹く』


「……それって」


『なれば、除くべきは一つのみ』


『あとは我に委ねよ。愛しき、小さな調べよ』


 その呼び方に、僕は顔を上げた。


 そして、目が合った。


 振り上げられた脚に掴まれたまま、黒く絡みついたものの隙間から、かろうじて残った顔が、こちらを向いていた。


 罅割れた翅。歪んだ輪郭。それでも、その目だけは、まだ人の形をしていた。


『……もう、よいのです』


 はじめて、その声を直接聞いた。


 かすれてはいたが、取り乱してはいなかった。


『わたくしは、もう配れませぬ。地の声を聞く耳が、先に潰れました。……務めを果たせぬ者が、務めの座に居座るものではありません』


「そんな」


『この樹であれば、明日には脈を継げましょう。わたくしがしがみつけば、その分だけ、この地に力の届かぬ日が増える』


 罅割れた翅が、わずかに震えた。


『……六百年、配り続けてきた者が言うのです。間違いありませぬ』


 諦めとは、少し違った。


 抗うでもなく、恨むでもなく――帳簿を締めるような目だった。


 自分を一つの数として置き直して、差し引きを済ませてしまった目。


――どうすればいい。


 僕は分からなかった。


 飛龍の言っていることは、たぶん正しい。大精霊はもう自分を止められない。ここで取り除けば、大樹が代わりに結界を張り直す。それで学園は救われる。


 助ける方法なんて、何ひとつ思いつかない。


 僕はただの十四歳で、回復薬がようやく形になってきただけの、見習いですらない薬師で、両手で湖の波を止めようとして失敗した人間だ。


 それでも。


「――それでも、違う」


 そのとき。


 襟元から、緑色の光が飛び出した。


『フェイ!』


 コロンだった。


『レタグィ村の祈りだ!』


「え」


『思い出せ! 葡萄酒だ!』


――村の者らは、鍬を取らなかった。祓いの術師も呼ばなかった。


――代わりに彼らは、その年一番の出来の葡萄酒を樽ごと運び、石像の頭から静かに注いだのだという。


――あれは我らの心を映しただけのものだ。ならば、我らが一番よいものを見せるほかにあるまいと。


 頭の中で、あの頁が開いた。


 黒く濁った何か。人の恨みを映して、井戸を腐らせ、家畜を病ませたもの。


 祓わなかった。壊さなかった。


 一番よいものを、注いだ。


「――コロン、なんでそれを」


『お前が毎日そればかり読んでいたんだ、嫌でも覚える!』


 緑の光が、僕の頭上へ飛んだ。


 その手に、小さな瓶が握られていた。


 木の実の殻を半分に割って、蓋をこしらえたもの。あの森で、僕が保存用にといくつも作ったうちの一つだ。


 その中で、透き通るような鮮やかな青が揺れていた。


 あの日、大樹の下で作り上げた、僕の最高の一本。


「それ……持ってきてたのか」


『置いていけるか』


「あのとき、いつか要るときが来るって言ってたけど」


『来たな』


 コロンは、そう言って蓋を弾き飛ばした。


『……よこせと言われても、飲まずに取っておいてよかった』


 そして、それを傾けた。


 青い液体が、黒く歪んだものの頭上へ、ゆっくりと注がれていく。


 黒いものが、ぴくりと震えた。


 注がれた青は、蠢く黒の表面を伝い、幾筋にも分かれて流れ落ちた。触れた場所から、黒がわずかに薄れていく。ほんのわずかに。


 それだけだった。


 けれど。


『――繋がった!』


 コロンが叫んだ。


『通り道ができた! やってみろ、フェイ!』


 手が届く。


 振り上げられたままの脚。その爪に掴まれて、黒い塊が僕の頭のすぐ上にぶら下がっている。


 背伸びをして、両手を伸ばした。


 指先が、蠢く黒に触れる。


 冷たくもなく、熱くもなかった。ただ、ぬめるように指を押し返してくる。


 目を閉じる。


――濁流だった。


 あの日、女神像の前で感じたものとは、桁が違った。


 あれが湖なら、これは海だ。行き場を失った流れが、互いにぶつかり、渦を巻き、砕け、また巻き上がる。触れているだけで、腕が持っていかれそうになる。


 足が震えた。


 無理だ、と本能が言った。


 それでも。


『よせ、幼き調べよ! そなたが呑まれる!』


 飛龍の制止が、遠くで小さく聞こえた気がした。


 構わなかった。


 僕は、魔力を注ぎ込んだ。


 次の瞬間、何かが逆流してきた。


――光が見えた。


 若い光だった。


 見たこともない土地。岩がむき出しの荒れた大地に、細い流れが届き、そこに最初の苔が生える。草が伸びる。木が育つ。獣が現れ、鳥が舞い、そして――


 小さな影が、二本足で立った。


 人だ。


 土地の声が凝って生まれた、無数の小さな光たち。


 それらが人のあいだを飛び交っている。ここを掘れば水が出る、と告げる。人が掘る。水が湧く。人が両手を組んで、何かを言う。


――ありがとう。


 光が、嬉しそうに舞った。


 村ができた。町になった。


 道が敷かれ、橋が架かり、石畳が敷かれ、井戸が掘られた。井戸の脇には、必ず小さな像が置かれた。朝、水を汲みに来る者は、必ずそこで一度足を止めた。


 城が建った。城壁が伸びた。


 国と呼ばれるものが、形を持った。


――そして、あの日。


 城の一室。若い王が、白い衣の姿と向かい合っている。


 言葉が交わされ、手が差し出され、触れた一点から光が立ち上がった。


 盟約が結ばれた日だ。


 そのとき彼女が何を思っていたのか、僕には痛いほど伝わってきた。


――これで、共に歩める。


 学び舎が建った。


 若い者たちが集まってきた。教室の窓辺には小さな灯がいくつも留まり、生徒たちはそれに手を振って、笑いながら通り過ぎていった。


――少しずつ、何かが変わっていった。


 井戸の脇の像の前で、足を止める者が減った。


 立ち止まらずに通り過ぎる者が、増えた。


 像に蔦が絡んでも、誰も払わなくなった。


 百年。二百年。


――そして、二度目のあの日。


 盟約を更新する年。初めて、脈を捻じった日。


 地が乱れ、人が怯え、そして――思い出した。


 人々は像を磨き、花を供え、手を合わせた。


『ああ』


 その声を、僕は聞いた。


『やはり、見ていてくれるのですね』


 けれど、それは長く続かなかった。


 十年。二十年。五十年。


 花は枯れたまま置かれ、誰も取り替えなくなった。像は再び蔦に覆われた。


 また、百年。二百年。


 そして今。


――私たちを、忘れようとしている。


「――っ、あ」


 胸が潰れそうだった。


 これは僕の感情じゃない。六百年ぶんの失望と、悲しみと、その底に沈んだ、途方もない孤独。


 六百年。


 一度も休まず、一日も欠かさず、この土地の流れを整え続けて。


 その間ずっと、誰にも見られずに。


「……うああああああ!」


 僕は叫びながら、濁流へ手を伸ばした。


 呑まれる。押し戻される。また伸ばす。指先が触れた分だけ、ほんの少し流れが解ける。それ以上に、新しい渦が生まれる。


 足りない。全然足りない。


 そのとき、背中が温かくなった。


 振り返れなかった。けれど、分かった。


 コロンだ。


 コロンが、後ろから僕の背中を包み込んでいる。


 その気配が、みるみる大きくなっていく。羽虫ほどだったものが、蝶になり、そして――


 背中に触れているものが、人の手の形になった。


 僕の肩越しに、白い光が広がった。


 大人の背丈ほどもある翅。透き通るような白に、縁だけが緑に発光している。その中心に、小さな少女の姿があった。


『……手伝う』


 いつもの素っ気ない声だった。けれど、その声は、もう頭の中だけに響くものではなかった。


 緑色の光が、僕らを中心に溢れ出した。


 光は渦を巻き、上へ伸び、やがて――


 中庭から空へ、一本の光の柱が立ち上がった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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