第21話 共鳴
◆
東の木立で、わたくしはその光を見た。
『……何、あれは』
西の地平。学び舎のある方角から、真っ直ぐに天へ伸びる緑の柱。
何が起きているのかは、分からなかった。ここへ移ってから、わたくしは学び舎の様子を一度も見に行っていない。誰からも、何も聞いていない。
分からないまま、わたくしはその光を見つめていた。
木の根元に身を寄せ合っていた小さな者たちが、一斉に顔を上げた。
『アリアさま』
『あの光……』
けれど、ひとつだけ分かることがあった。
理屈ではない。あれは、呼びかけの光だ。
何のために、誰に向けて呼んでいるのかは分からない。それでも、あの向きだけは間違えようがなかった。幾百年ぶりに、誰かが正しい向きで手を伸ばしている。
『……あの、小うるさい下位精霊』
薬草園から消えたきり、どこへ行ったのかと思えば。
わたくしは翅を広げ、木立の中央へ進み出た。
『みなさん』
三十三の光が、こちらを向いた。
『わたくしは、人間が嫌いです。二百年、ずっとそうでした。……ですが』
言葉を切って、わたくしは光の柱を見上げた。
『あの向こうに、わたくしたちを呼んでいる者がおります』
『……どうすれば』
『応えるのです。ただ、それだけ』
わたくしは、翅を畳んで頭を垂れた。二百年、一度も欠かしたことのない作法の通りに。
『届きますように』
三十三の光が、それに倣った。
緑色の光が空へ立ち上がるのを、わたしは中庭で見上げていた。
治癒魔法の手を止めたまま、動けなかった。
あの光の中心に、フェイがいる。
黒く歪んだ大精霊に、両手で触れている。
――なんで。
助けようとしている。攫われて、ひと月も帰ってこられなくて、みんなを傷つけたその相手を。
理解できなかった。
けれど、そのとき。
光が、わたしの頬に触れた。
温かかった。
それは魔法の熱ではなかった。誰かに手を握られたときの、あの温度だった。
気づけば、わたしは腰の物入れを押さえていた。
無意識だった。何かに縋るように、手がそこへ伸びていた。
指に当たったのは、小さなガラス瓶だった。
取り出して、掌に乗せる。
少し濁った緑色。あの日、フェイのお母さんから預かったもの。ひと月以上前の、まだ馴染ませが安定していなかった頃の一本。
正直に言えば、出来のいい薬ではない。沈殿が少し残っているし、色も濁っている。今のフェイなら、たぶん作り直すと言うだろう。
けれど。
――あの子は、あの小屋で育ったようなものよ。
――草も、水も、火も、あの子が使ってきたもの全部。それに、あの子が名前を呼んでたっていう、なんだか小さいのも。
――そういうものが全部あって、それであの子は毎日笑ってたんだと思うの。
握りしめた掌に、ガラスの冷たさが伝わってくる。
やがてそれは、わたしの体温を吸って、少しずつ温かくなっていった。
――ああ。
分かってしまった。
この一本には、最初から入っていたのだ。
ミズナ草を揉む手。カイエンの実を潰す手。火加減を見て、泡が輪を描くのを待って、余熱の中で四十を数える手。片付けまでを調合の一部だと言い張る、あの生真面目さ。
そのひとつひとつが、素材に向けた「ありがとう」だった。
本人は、そんなつもりじゃなかっただろう。ただ丁寧に扱っていただけだと言うだろう。
――違うのよ、フェイ。
あんたはずっと、それをやってたの。
技法だと思ってたものは、ぜんぶ祈りだったの。
――我らが差し出せるものは、力ではない。恵みでもない。ただ、あなたがそこにいると知っていること。
――十四年、見ててくれてありがとう。
――汝は、癒そうとしているのではない。己の無力を埋めようとしているのだ。
「……ああ」
声が漏れた。
ずっと、届かせようとしていた。治してやろうとしていた。追いつこうとしていた。
違ったのだ。
わたしは瓶を両手で包んだまま膝をつき、目を閉じた。
倒れた騎士の傷を思った。キアリーの口の端の血を思った。泣いている下級生を思った。ひと月、学園長室に通い続けたあの人を思った。
そして、この土地を思った。
わたしたちがここに立っていられるように、ずっと巡り続けてきたものを。
誰にも見られないまま。
「――ありがとうございます」
声に出した。
「気づくのが、遅くなりました」
掌の中で、瓶がわずかに熱を持った気がした。
そして、手のひらが光った。
これまでとは違う色だった。淡い金色が、指の先から溢れ出す。
それは傷口へ向かうのではなく、まっすぐ上へ――緑の光の柱へと、細い筋を引いて昇っていった。
同時に、東の空から、別の光が届いた。
無数の小さな光が、糸のように連なって、東の地平から飛んでくる。それは中庭の上空で金色の筋と交わり、絡み合い、渦を巻いた。
祈りが、共鳴していた。
渦は膨れ上がり、緑の柱へ収束した。
その余波が、衝撃となって中庭を薙いだ。
「伏せろ!」
騎士団長の号令が飛ぶ。
金属の魔物が、光の波に呑まれた。
黒い装甲が白く灼け、継ぎ目から砕けていく。
けれど、砕けた破片は地面に落ちなかった。
厭う心でできたものだ。厭う理由を上から塗り替えられれば、形を保っていられるはずがない。
四つの体は、一呼吸のうちに輪郭を失い、塵にすらならずに消えた。
静寂が落ちた。
倒れた者。膝をつく者。剣を杖にして立つ者。誰もが、言葉もなく空を見上げていた。
キアリーが血を拭いながら、掠れた声で言った。
「……あいつ、なにやってんだ」
濁流は、まだ終わらなかった。
コロンから流れ込む魔力を、僕はそのまま濁流に注ぎ込み続けていた。解けた分だけ、また新しい渦が生まれる。追いつかない。
感じるのは、後悔だった。
失望でも、怒りでもない。
――なぜ、あのとき。
――なぜ、人を信じきれなかったのか。
――なぜ、待てなかったのか。
六百年ぶんの後悔が、僕の中を通り抜けていく。
指先の感覚が、なくなっていた。
見下ろすと、右手の指が黒ずんでいた。爪の先から、灰のように崩れて、風に吹き飛ばされていく。
「……あ」
痛みはなかった。それが、かえって怖かった。
崩れは手首まで来た。
やめろと頭の中で誰かが叫んでいる。手を離せと。まだ間に合うと。
離さなかった。
両手が、肘の先まで消えた。
――やっぱり、力不足だったのか。
そう思った。
けれど。
おかしい。
手応えが、増している。
消えたはずの腕の先で、濁流を確かに押している感覚がある。しかも、さっきより強く。
それだけじゃない。
大精霊の後悔が、僕の中を通り抜けて――背中から、抜けていっている。
溜まらない。留まらない。誰かが、後ろから受け止めて、流してくれているように。
そして、背中から。
膨大な力が、流れ込んできた。
コロンの魔力とは比べものにならない。太く、まっすぐで、どこまでも尽きない流れ。
――知っている、この感じ。
大樹の下で、朝ごとに触れていた。あの森の地面から湧き上がっていた、捻じられる前の、まっすぐな流れ。
僕は、それを受けた。
そして、濁流に向かって、まっすぐに押し出した。
黒が、退いていく。
渦が解け、逆巻いていた流れが向きを揃え、ひとつの方向へ流れ始める。
僕は塗りつぶした。
六百年ぶんの後悔も、失望も、孤独も、その上から。
――大丈夫です。
誰にともなく、僕はそう思った。
――ちゃんと、見てます。
そのとき、指先に感覚が戻った。
指先。
――指先?
僕は、消えたはずのものを見下ろした。
肘の先から、白い光が伸びていた。
その光の中で、何かが組み上がっていく。細い骨のような筋が走り、それを包むように形が生まれ、先端が五つに分かれた。
芽が伸びるようだった。枝が張るようだった。木の若枝が、目に見える速さで育っていくときの、あの手つきで。
前腕ができた。手首ができた。
掌ができて、指が一本ずつ、順番に形を取った。
爪が生えた。
光が薄れると、そこには両手があった。
どこも欠けていない。ただ、肌の色が、生まれたばかりみたいに薄かった。
僕は、その手をゆっくりと握ってみた。
握れた。
背中から流れ込む力は、まだ止まらない。
濁流を押し返しながら、同時に、僕の失ったものを組み直している。片手間のように。
――この人にとっては、腕の一本や二本、たぶん枝と同じなんだ。
そんなことを、僕はぼんやりと考えていた。
『――良き実を結べ』
そう聞こえた気がした。
僕は組み上がったばかりの両手で、濁流の最後の一筋を、しっかりと押さえ込んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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