第42話 精霊図書館
アリアの背中で、石の扉が開いた。
音はしなかった。見上げるほどの石の板が、誰も触れていないのに、内側へ静かに退いていく。下に軸があるのだろう、とエクリットなら言ったかもしれない。けれど誰も、何も言わなかった。
扉の向こうは、暗かった。
塔の外から見た幅は、二十歩ほどしかないはずだった。その二十歩が、どこにもなかった。壁が見えない。天井も見えない。足元の石畳だけが、扉の敷居から数歩ぶん先まで続いて、その先は暗がりに溶けている。
暗がりの高いところで、何かが動いていた。
石だった。大きいもの、小さいもの、板のように薄いもの。それが何十、何百と宙に浮かんで、ゆっくりと位置を入れ替えている。縁と縁が触れるたびに、乾いた音がした。扉の外で聞いた、あの擦れる音だった。
そして、その真ん中に、一枚の岩が立っていた。
浮かんではいなかった。床から生えたように、まっすぐ上へ伸びている。上の端は暗がりに隠れて見えない。表面一面に、青白い光の筋が走っていた。文字のようにも見えた。けれど人の字ではなかった。筋は、息をするように明るくなっては暗くなり、また明るくなった。
「……何、これ」
エクリットが、かすれた声で言った。キアリーが、半歩前に出た。エスタは、僕の後ろで息を詰めていた。
アリアは、扉の脇に退いていた。大きな翅を畳もうとして、うまく畳めずにいた。色の揺らぐ翅の縁が、暗がりの中で紫に、灰に、青白く明滅していた。
数秒だった。
足元を、光が走った。
水晶の欠片に朝日が当たったとき、床に落ちる光に似ていた。淡くて、鋭くて、端のほうが七つの色にほどけている。それが石畳の上を、扉のほうから奥へ、すっと撫でるように通り過ぎた。
僕の足を、通った。
カチリ、と、どこかで歯車が一枚ぶん進むような音がした。
***
土の匂いがした。
湿った、少し冷たい土の匂い。その上に、青い葉の匂いが重なっている。
足元を見ると、畝があった。
黒い土が、僕の膝の高さくらいまで盛り上げられて、まっすぐ奥へ伸びている。畝の肩には、ミズナ草が並んでいた。細長い葉が夕方の風に揺れて、裏の白いところを見せている。
薬草園だった。
石垣があった。井戸があった。小屋の屋根があった。畑の真ん中には、去年の冬に僕が蔦を落とした大地の女神像が、いつものように目を伏せて立っていた。どれも、僕が毎朝桶を運んできた場所のままだった。
しゃがんで、畝の土に指を入れた。冷たかった。指の腹に、湿りが第一関節までついてくる。夕方に水をやったあとの、ちょうどいい湿り方だった。鼻を近づけると、ミズナ草の葉の、少し苦い青さがした。
本物にしか思えなかった。本物でないことだけが、分かっていた。
ただ、空がなかった。
見上げても、そこには夕焼けも雲もなかった。ただ高いところに、ぼんやりとした暗がりがあるだけだった。
肩のあたりで、何かがふわりと浮いた。
白い翅だった。小さな体に、光をまとっている。
「コロン?」
それは、僕の顔の前まで下りてきた。コロンの形をしていた。白い翅も、少女の輪郭も、首をかしげる角度まで、同じだった。
『……ここ、は』
声が違った。
石を一つずつ並べるような、ぎこちない響き。階段で聞いた、あの小さな司書の声だった。
コロンではない。コロンは、薬草園から出られない。
「……君、さっきの子だね」
コロンの形をしたものは、小さく上下した。
振り返ると、キアリーがいた。エクリットも、エスタもいた。三人とも、畝の上に立っていた。ミズナ草を踏んでいるのに、誰もそれを気にしていなかった。三人とも、それぞれ別の方向を見ていた。
「キアリー。ここ、薬草園だよね」
「は?」
キアリーが、怪訝な顔で僕を見た。
「どこ見て言ってんだ。鍛錬場だろ。……いや、なんか中庭も混じってるな。像が、あっちに」
キアリーが指さした先には、石垣と、ミズナ草の畝しかなかった。
「……うちの、作業場だ」
エクリットが、ぽつりと言った。
「図書室……?」
エスタが、小さく呟いた。見上げているのは、空のない空のほうだった。高い書架を見上げるような目の動きだった。
同じ場所に立っている。声も届く。けれど、見えているものが、四人とも違う。
「ここは、大昔から精霊たちが、その記憶を石に移して残してきた場所よ」
アリアの声が、どこからともなく響いた。姿は見えなかった。声だけが、薬草園の空のない空から降ってきた。落ち着いた大人の声だったけれど、言葉の切れ目に、かすかな疲れが混じっていた。
「あなたたちの胸にある問いが、似た記録を引き寄せる。迷ったら、案内の者に訊きなさい」
少しの間があった。
「ただし、石は記録を見せるだけ。答えそのものは、渡さないわ」
アリアの声が途切れると、四人のあいだに、ばらばらの沈黙が落ちた。
同じ沈黙ではなかった。キアリーは何かを睨んでいて、エクリットは何かに目を奪われていて、エスタは何かを見上げたまま息を浅くしていた。僕だけが、ミズナ草の畝の真ん中で、三人の顔を順に見ていた。
コロンの形をした司書が、僕の肩に下りてきた。重さはなかった。
◆
鍛錬場の砂を踏んだ感触が、靴の裏から来た。
いつもの砂だ。朝の素振りで蹴り散らかして、夕方の稽古でまた蹴り散らかす、あの粗い砂。左の奥に打ち込み用の丸太が三本並んでいて、真ん中の一本だけ、俺がこの夏ずっと叩いてたせいで腰の高さが削れてる。
なのに、右を向くと中庭だった。
精霊の像が立っている。その周りの敷石が、ところどころ割れて、めくれ上がっていた。去年の冬の、あの日のまんまだった。
鍛錬場と中庭が、真ん中で縫い合わされたみたいにくっついていた。
「……なんだこれ」
手の中に、重みがあった。
見下ろすと、木剣を握っていた。いつ持ったのか覚えてない。柄の巻き革が、俺の手の汗で黒ずんでいるところまで、俺のやつだった。
「なんだこれ、じゃないよ」
すぐ横から声がした。
振り向いた。
メリィ先輩が、腕を組んで立っていた。
「先輩!? なんでここに――」
言いかけて、止まった。
先輩の顔だった。背の高さも、腕を組むときに右肘が上に来る癖も、いつもの不機嫌そうな眉も、全部そうだった。けど、目が違った。先輩の目は、もっと面倒くさそうに笑ってる。目の前のこれは、笑ってなかった。帳場の窓口の向こうから、こっちの懐を値踏みするみたいな目をしていた。
「構えな」
「は?」
「来てるよ」
先輩の形をしたものが、顎で俺の後ろをしゃくった。
振り返った。
心臓が、一回、変な打ち方をした。
飛龍だった。
去年の冬、中庭の空を塞いだ、あの翼。俺が剣を握ったまま、膝の震えを止められなかった、あの影。それが、鍛錬場の砂の上に、翼を半分広げて立っていた。その後ろに、見たこともない獣が何頭も並んでいる。
全部、口に何かを咥えていた。
石の板だった。
飛龍が、吼えた。吼えたせいで口の板が落ちるかと思ったら、落ちなかった。板を咥えたまま、砂を蹴って突っこんできた。
「うおっ!」
木剣で受けた。
受けた瞬間、木剣ごしに、板が俺の額にぶつかった。
痛くはなかった。代わりに、頭の中に何かが叩きこまれた。
〈秋の雨に対する対価、麦四十束。湿気による目減り、三割二分。目減りは何束か〉
「はあ!?」
「答え!」
先輩の声が、横から飛んできた。
「え、えっと、四十の一割が四だから、三割で十二……」
「遅い! 十二・八束だ! 〇・八が抜けてる! 次!」
「束を八分に切れってのかよ!」
「切れ! 次!」
二頭目が、左から来た。牙の生えた猪みたいな獣だった。咥えた板を、横殴りに振ってくる。
しゃがんでかわした。かわしたのに、板の縁が肩をかすめた。
〈土の精霊の働き、二日半。一日あたり麦三束。払うべき麦は何束か〉
「二日半って何だよ半って! 精霊も半日で帰んのかよ!」
「文句はいい! 答え!」
「三束が二日で六、半日で、えー、一束半だから……七束半!」
「遅い! 次!」
「今のは合ってたろ!」
「合ってても遅い! 動きを止めるな! 動きながら考えろ!」
止めてねえ、と言い返そうとして、右から三頭目の気配がした。振り向きざまに木剣を振った。手応えがあった。獣が下がった。下がりながら、板を突き出してきた。額に当たった。
〈差額、麦八束と大豆二升が未納。大豆一升は麦一束半に換える。未納の総額を麦で答えよ〉
「待て待て待て、今、前の問題の続きが――」
「戦場で敵が待つのか!?」
「待たねえけど!」
「じゃあ答え!」
「八束と、豆が、えー、一升で一束半なら二升で三束で、八足す三で――十一!」
「次!」
四頭目。五頭目。砂が跳ねる。木剣が鳴る。板が当たる。当たるたびに、数字が頭に流しこまれてくる。
〈火の精霊を働かせた代わり、鉄滓七十斤〉
〈純度が足りなかった埋め合わせ、麦二十束のうち十七束を納入〉
〈残り三束に、年に一割二分の利子〉
〈二百年後の総額を答えよ〉
「二百年!?」
「二百年!」
「俺、生きてねえよ二百年後!」
「あんたが生きてるかどうかは帳簿に関係ない! 次!」
〈風の精霊に、歌三晩で風一日。歌が一晩足りなかったので、翌年の風は何刻減らすか〉
〈減らされた風のぶん、麦が何束減ったか〉
〈減ったぶんの麦を、隣の集団から借りる。利子は――〉
「おい、これ」
木剣を振りながら、叫んでた。
「これ、誰が誰に何払ったとか、足りねえとか、借りがあるとか、そんなのばっかじゃねえか! 最初は、雨を降らせてもらったから麦を分けてた、ってだけの話だろ! なんで利子とか、半日とか、二百年とか――」
六頭目の板が、こめかみに当たった。
〈この取引で、最後に得をしたのは誰か〉
「誰も得してねえよ!」
口が勝手に叫んでた。
「人のほうも、精霊のほうも、ずっと足りてねえ! 足りねえぶんを次の取引で埋めようとして、また足りなくなってんじゃねえか! なんだこの帳簿!」
「答えになってない! 次!」
先輩の声が、さっきより近かった。
七頭目。八頭目。前から、横から、後ろから。木剣を振っても振っても、板が当たる。数字が入ってくる。麦の束と、豆の升と、歌の晩と、雨の日数と、利子の割と、二百年が、全部いっぺんに頭の中で回りはじめた。
十二・八束から七束半を引いて、豆を麦に換えて、歌が一晩足りなくて、風が何刻減って、二百年後に利子が――
どれが誰の借りなのか、もう分からなかった。
目の前がちかちかした。
「遅い!」
「次!」
「止まるな!」
「答えは!?」
先輩の声と、獣の唸り声と、頭の中の数字が、全部混ざった。耳の奥で、何かがぶちっと切れた音がした。
正面から、飛龍が来た。
板を咥えたまま、口を大きく開けて。
俺は、木剣を捨てた。
「うるせええええええええ!!!!!」
拳を、握った。
踏みこんだ。砂が爆ぜた。腰を回した。肩から先を、全部、拳に乗せた。
殴った。
飛龍の顎に、まっすぐ入った。
手応えがあった。骨じゃない。石だった。咥えていた板が、拳の下で真っ二つに割れた。飛龍の巨体が、首から後ろへ持っていかれて、砂の上を三回転がって、丸太にぶつかって止まった。
割れた板の破片が、きらきらと宙に舞った。
ほかの獣たちが、動きを止めた。
息が、ぜえぜえ鳴っていた。拳が、じんじん痺れていた。
「俺は――」
叫んだ。喉が裂けてもいいと思った。
「こんなクソ細けえことで悩まねぇ男になるんだ!!!!!」
鍛錬場に、声が響いた。中庭の像の上まで、跳ね返っていった。
「めちゃくちゃ強くなって、ドーンと稼いで、金の計算なんか二度としねえ! 必要なやつがいたら、必要なだけ、黙って渡す! それで足りなきゃ、また稼ぐ! 以上だ!」
腰の袋を、ばんと叩いた。中で、十四万ネイが鳴った。フェイもエスタも俺も、誰も自分の取り分としては受け取らなかった金だ。必要なやつに必要なだけ渡せって、本物の先輩に押しつけられた金だ。
しんとした。
獣たちが、一頭、また一頭と、板を咥えたまま砂の上に伏せていった。
先輩の形をしたものが、腕を組んだまま、俺を見ていた。
さっきまでの、値踏みするような目じゃなかった。
「……知ってる」
それだけ言って、そっぽを向いた。
本物の先輩が、袋を押しつけたときと同じ言い方だった。
膝から、力が抜けた。
砂の上に、仰向けに倒れた。空がなかった。ぼんやりした暗がりだけが、高いところにあった。頭の中で、まだ十二・八束がぐるぐる回っていた。
首だけ横に向けると、鍛錬場の隅で、フェイがしゃがみ込んで、砂に指を突っ込んで匂いを嗅いでいた。
あいつは、どこにいても同じことしてやがる。
◆
作業場の匂いがした。
油と、真鍮の削り屑と、炭。それから、父さんの手の匂い。何十年も鉄を握ってきた手からしか出ない、錆に少し似た匂い。
僕は、うちの作業場に立っていた。
通りに面した小さな窓。窓の下の作業台。台の端に据えつけた万力は、口の片側が少しだけ欠けている。僕が八つのとき、加減を知らずに締めすぎて欠いたところだ。壁には、ヤスリが大きさの順に並んで掛けてある。いちばん右の、いちばん目の細かいやつだけ、柄の色が違う。父さんの父さんの代から使ってるやつだ。
作業台の前に、父さんがいた。
背を丸めて、何かを削っていた。振り返らなかった。いつもそうだ。僕が作業場に入ってきても、父さんは手を止めない。
「……父さん?」
返事の代わりに、ヤスリの音がした。
違う、と分かっていた。
さっき、アリアが言った。案内の者に訊きなさいって。これは、たぶんそれだ。父さんの形をした、何か。それでも、背中の丸め方が、肘の角度が、ヤスリを引くときに一瞬だけ息を止める癖が、全部父さんだった。
父さんの形をしたものが、手を止めた。
振り返らないまま、ヤスリを一本、肩越しに差し出した。
「このヤスリの目を見ろ」
父さんの口癖だった。
小さいころから、何度言われたか分からない。錠前の仕組みを訊いても、父さんは答えなかった。ただヤスリを突き出して、目を見ろ、と言った。お前の知りたいことは、全部ここに書いてある、と。
受け取った。
重かった。
見た目より、ずっと重い。柄は木で、握るところが手の形に窪んでいる。僕の手より大きな手の形だった。親指の腹が当たるところだけ、木が黒く艶を帯びている。何千回、何万回と同じ場所を握られて、手の脂が染みこんだ艶だ。
目を見た。
ヤスリの目は、片側だけが潰れていた。
全体が均等にすり減ってるんじゃない。刃の、向かって右の縁から三分の一くらいのところだけ、目が寝ている。指の腹でなぞると、そこだけ引っかかりがない。つるりと滑る。
同じところばかりで削った跡だ。
それも、同じ角度で。同じ力で。何千回も。
「……なんで、ここだけ」
父さんの形をしたものが、作業台の上を顎で示した。
万力に、真鍮の歯車が挟んであった。
覗きこんだ。手のひらに載るくらいの大きさで、歯が六十ほど並んでいる。どの歯も、きれいに揃っている。揃いすぎている。
いや。
一枚だけ、違う。
爪の当たる面の、ほんのわずかな傾き。光にかざさないと分からないくらいの差だ。その一枚の歯だけが、ほかの歯より、ほんの少しだけ深く削られている。
ヤスリの、潰れた目の幅と、ちょうど同じだった。
「……ここだけを、削るために」
僕の手の中のヤスリが、急に温かくなった気がした。
違う。温かいのはヤスリじゃない。僕の手だ。誰か別の人の手の熱が、柄を通して、僕の手のひらに流れこんでくる。
目の前の作業場が、揺らいだ。
窓が、消えた。石の壁が、代わりに立ち上がった。天井が低くなって、炭の匂いが濃くなって、ランプの灯が一つ、作業台の上で揺れていた。
男がいた。
父さんじゃなかった。もっと若い。腕まくりした腕は太くて、肘のところに古い火傷の痕がある。額に汗が光っていて、油で汚れた指で、ときどきそれを拭う。顔は見えない。見えているのは、手だけだ。
その手が、僕の手と重なっていた。
僕は、その男の手でヤスリを握っていた。
重さが分かった。男の腕の重さで、ヤスリの重さを感じていた。肩の力の抜き方が分かった。どこに体重をかけて、どこで止めるのか。息をどこで吸って、どこで止めるのか。全部、自分のことみたいに分かった。
男の肩に、何かが止まっていた。
小さな、紫の光だった。
『そこ、半目ずれています』
光が言った。
ずいぶん生意気な言い方だった。けれど、男は怒らなかった。
「うるせえな。地脈の波を待ってんだよ」
男が言った。言いながら、ヤスリを歯の上に置いたまま、動かさなかった。
待っていた。
何を、と思った瞬間、足の裏から何かが上がってきた。床の石の、そのずっと下から。ゆっくりと、大きく、寄せては返す波のようなもの。地面が、息をしている。
男の手が、その波を聞いていた。
僕の手も、聞いていた。
『……三』
光が数えた。
『二』
波が、来る。
『一』
男の指先に、ほんのわずか、力が入った。
『今です』
引いた。
ヤスリが、歯の上を一度だけ滑った。
カン。
澄んだ音が、石の部屋に鳴った。
真鍮の粉が、ランプの光の中に、金色の霧になって舞った。
男が、息を吐いた。それから、笑った。声を出さずに、肩だけ揺らして笑った。肩の上の紫の光が、翅を震わせた。笑ったのだと思う。光に顔なんかないのに、そうとしか見えなかった。
僕は、その一歯を見た。
さっき、万力で見た一歯と、同じ深さだった。
分かった。
図面が残っていないんじゃない。図面には、描けなかったんだ。
どこを削るかは、紙に描ける。でも、いつ削るかは、描けない。地脈の波が来た瞬間に、その波に合わせて一歯だけ削る。その一歯が、振り子の一往復と、地面の一呼吸を、つないでいる。
精霊が波を数えて、人が手を動かした。
二人で、一歯ずつ。
何百枚もの歯を、全部、そうやって。
目の奥が、熱くなった。
壊れてなんか、いない。あの機械は、二百年前に、こうやって二人で息を合わせて作られて、二百年ずっと、地面の息に合わせて刻んできたんだ。遅れてるのは、機械じゃない。たぶん、地面のほうだ。
景色が、薄れた。
石の壁が消えて、うちの作業場が戻ってきた。窓。万力。並んだヤスリ。父さんの背中。
手の中に、ヤスリが残っていた。
さっきより、少しだけ軽く感じた。
父さんの形をしたものが、振り返った。
顔は、父さんの顔だった。でも、表情は、僕の知らない顔だった。父さんがこんな顔をするのを、僕は一度も見たことがない。
僕が魔法技師になりたいと言ったとき、父さんは何も言わなかった。反対もしなかった。ただ、作業場の戸を、少しだけ強く閉めた。
中で何が起きてるか見えねえ道具は、道具じゃねえ。
いつか、酔ったときにそう言っていた。
僕は、ずっと、それを父さんの答えだと思っていた。錠前屋の息子が、錠前を継がずに、中の見えない道具を作りに行く。それが、父さんには面白くないんだと。
でも。
あの男の手は、錠前屋の手と同じだった。ヤスリの目を読んで、一歯の深さを手で決めて、目に見えない地面の息に、手を合わせていた。中で何が起きているか見えない道具を、見える手で作っていた。
父さんの形をしたものが、手を伸ばした。
僕の手からヤスリを取って、柄をこちらに向けて、もう一度差し出した。
柄を先に。
うちの作業場で、父さんが道具をそうやって渡すのは、相手にその道具を使っていいと言うときだけだ。僕は、まだ一度も、そうやって渡されたことがない。
受け取った。
「……ありがとう」
声が、ひどく掠れた。
頬を、何かが伝った。拭わなかった。
作業場の隅で、キアリーが床に大の字になって、天井を見上げたまま、十二・八、十二・八、とうわごとのように呟いていた。その向こうで、フェイがこちらを見ていた。何か言いたそうな顔で、でも、何も言わずに見ていた。
◆
図書室だった。
学園の、東棟の図書室。三年生のとき、放課後ごとに通い詰めた場所。高い天井まで届く書架のあいだに、自分の足音だけが妙に大きく響く。窓から差し込む西陽が、舞い上がった埃を金色に照らしている。紙と、古い革と、埃の匂いがする。
書架の一番奥が見えた。
ほとんど人の来ない一角。背表紙の文字が擦れて読めない本ばかりが並んだ棚。三年生のとき、聖女の手記を見つけた場所だ。
けれど、その棚の前に、誰かが立っていた。
母だった。
わたしは、足を止めた。
母が、図書室にいるはずがない。母がこの学園の門をくぐったことは、入学の日の一度きりだ。わたしの知っている母は、家の台所と、病院の四階の廊下と、そのあいだの道を行き来している人だ。
その母が、書架の前に立って、わたしを手招きしていた。
病院で、兄の寝台の脇の椅子から立ち上がるときと同じ顔をしていた。疲れているのに、疲れを見せまいとして、少しだけ口元を上げている顔。
分かっている。
あれは、母ではない。アリアの言った、案内の者。わたしの胸の中にあるものを、いちばん探しやすい形にして見せているだけ。
分かっているのに、足が、勝手に母のほうへ向かった。
母の形をしたものは、棚に手を伸ばした。
迷わなかった。たくさん並んだ背表紙の中から、一冊だけ、抜き出した。分厚い本だった。両手で抱えるようにして、わたしに差し出した。
母は、兄の薬を受け取るとき、いつもこうやって両手で受け取る。両手で受け取って、両手で兄に渡す。
わたしは、それを受け取った。
重かった。
表紙に、字があった。読めるはずのない形なのに、読めた。
〈病の記録〉
開いた。
一頁目に、熱のことが書いてあった。三日下がらない熱。咳。原因の分からない、長い眠り。
わたしは、治療科で教わった目で、それを読みはじめた。
二頁目。三頁目。
頁をめくるたびに、図書室の音が遠くなった。書架の軋みが聞こえなくなって、窓の外の気配が消えて、母の形をしたものが、いつの間にか見えなくなった。
紙の上の字だけが、残った。
どこか遠くで、誰かがわたしの名前を呼んでいた。
フェイの声だった、と思う。
わたしは、顔を上げられなかった。
◆
僕の見ている前で、キアリーは、何もないところへ見えない剣を振り回し、何かに文句を叫び続けていた。それから急に拳を握って、空気を思いきり殴りつけ、喉が裂けそうな声で何か叫んで、畝の上に仰向けにひっくり返った。エクリットは、何もない空中から何かを受け取って、泣いていた。
そのあいだ、エクリットの前の空気に、もう一枚の景色が重なっていた。
水に映った影のように、薄く透けていた。石の部屋。ランプ。作業台。背を丸めた男の、太い腕。その肩に止まった、小さな紫の光。
男の手は、ヤスリを歯の上に置いたまま、何かを待っていた。僕の足の裏にも、畝の土のずっと下から、寄せては返すかすかな揺れが伝わってきた。
『今です』
光が言った。
カン、と、澄んだ音がした。薬草園の畝の上に、その音だけがはっきりと届いた。
男が笑った。光が、翅を震わせた。
景色が、消えた。
僕は、空のない空を見上げた。
アリアの姿は、どこにも見えなかった。けれど、どこかで誰かが、息を詰めているのが分かった。
「……くだらない」
声が、降ってきた。
「遠い昔の記録よ」
その声の終わりが、かすかに震えていた。
あの光は、今です、と言った。礼は言いません、と夏の初めに言った声と、同じ言い方だった。今のアリアは、もう、ときどきしかそういう言い方をしない。
僕は、畝の奥を見た。
自分の問いは、何だろう。
時計は、どうすれば直るのか。
エクリットは、壊れていないと言った。機械は、壊れていない。なら、何が狂っているのか。
そう思ったとたん、遠くで何かが光った。
畝のずっと奥、石垣のさらに向こう。見えるはずのない距離に、一枚の葉があった。鮮やかな緑だった。葉脈が光の筋になって浮かび上がっている。あの真ん中の岩の、青白い筋と同じ脈打ち方だった。
遠かった。
畝に沿って、何歩か歩いてみた。歩いたぶんだけ、畝が奥へ伸びた。石垣は少しも近づかなかった。葉は、同じ遠さのまま、同じ場所で光っていた。
『……まだ、とおい』
肩の上で、司書が言った。
「おい、フェイ」
キアリーの声がした。さっきまで畝の上で大の字になっていたのが嘘のように、いつもの調子に戻っていた。叫びすぎたのか、声がすっかり嗄れていた。
「エスタのやつ、動かねえぞ」
振り返った。
エスタは、僕たちから十歩ほど離れた畝の端に立っていた。
まっすぐ立っていた。背筋を伸ばして、両手を胸の前に持ち上げている。何かを抱えるような形だった。指が、何かの縁を握っていた。目を落として、その手の中を見ていた。
けれど、手の中には何もなかった。
「エスタ」
呼んだ。返事はなかった。
近づいた。横顔が見えた。
目が、大きく開いていた。瞬きをしていなかった。唇がわずかに開いている。息をしているのかどうか、すぐには分からなかった。胸が、ほんの少しだけ、浅く上下していた。
その唇が、動いた。
「……お母さん」
声とも呼べない、かすかな音だった。
肩に手を伸ばした。
「エスタ」
揺すった。
エスタは、揺れただけだった。目は、手の中の何もないところから離れなかった。頁をめくるように、右手の指が、ほんの少しだけ動いた。
また、動いた。
僕は、その横顔を見ていた。
二日前、廊下の窓の前で見た顔とも、病院へ向かう坂道の背中とも違った。誰かに呼ばれて、ずっと遠いところへ、ひとりで降りていってしまった人の顔だった。
肩の上で、コロンの形をした司書が、黙ってエスタを見ていた。
畝のミズナ草が、ないはずの風に揺れていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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