第43話 精霊が見た人間
「エスタ」
もう一度呼んだ。
エスタは、何もない本を胸の前に抱えたまま、動かなかった。目だけが、頁の上を左から右へ、ゆっくりと滑っている。右手の指が、ときどき紙の端をつまむ形になって、何もない空気を一枚めくる。
「おい、どうすんだよ、これ」
キアリーが、嗄れた声で言った。さっきまで畝の上で大の字になっていたせいか、髪に土がついていた。土なんて、本当はどこにもないのに。
「揺すっても戻らねえんだろ。引っぱたくか?」
「やめて」
「冗談だよ」
冗談の声ではなかった。
エクリットは、少し離れたところに立っていた。両手を胸の前で軽く握って、その手の中を見下ろしている。何も持っていないはずの手のひらに、まだ何かの熱が残っているような握り方だった。頬の涙は乾きかけていて、目の縁だけが赤かった。
そのとき、足元が鳴った。
音ではなかった。床の石の、そのずっと下から、重いものが一度だけ寝返りを打ったような響きが上がってきた。靴の裏から膝へ、膝から胸へ。
畝の向こうに、あの一枚岩があった。
いつの間にか、そこにあった。薬草園の石垣を突き破るようにして、まっすぐ立っている。表面の青白い筋が、さっきよりずっと強く脈打っていた。明るくなって、暗くなって、また明るくなる。そのたびに、足元の響きが重なった。
薬草園が、溶けはじめた。
水を含ませた筆で絵をなぞったときのように、輪郭から色が抜けていく。ミズナ草の緑が薄れた。石垣の灰色が流れた。小屋の屋根が、端から暗がりに滲んでいった。畝の土の匂いが、最後まで残って、それから消えた。
冷たい石畳が、足の裏に戻ってきた。
暗がりだった。扉をくぐってすぐに見た、あの底の知れない暗がり。高いところで、無数の石の板がゆっくりと擦れ合っている。
肩の上で、コロンの形をしていた司書が、ただの小さな光に戻っていた。
アリアが、一枚岩の前に立っていた。
大人の姿のままだった。翅の色は、相変わらず落ち着かずに揺れている。けれど、その顔は、岩のほうを向いていた。僕たちを見てはいなかった。
「……これは、あなたたちの問いではないわ」
掠れた声だった。
「この塔が、この土地に最初の石が置かれたときから、ずっと見てきたもの。塔そのものの記憶よ」
岩の脈打ちが、一段と強くなった。
光が、溢れた。
青白い光が、岩の表面から流れ出して、床を這って、僕たちの足元まで来た。キアリーが一歩下がった。エクリットは動かなかった。
僕は、エスタのほうへ手を伸ばした。
エスタは、まだ何もない本を読んでいた。光が、彼女の足元を素通りしていくのが見えた。彼女のところだけ、光が避けているように見えた。
指先が、エスタの袖に届く前に、光が僕の胸まで上がってきた。
***
風の音がした。
乾いた風だった。草のない土を削るように吹いて、細かい砂を頬に叩きつけてくる。
丘の上に立っていた。
丘だ、と分かった。足の下の土の傾き方で。けれど、そこには何もなかった。学園の本館も、時計塔も、石垣も、中庭の像も。あるのは、痩せた草がまばらに生えた斜面と、ところどころに突き出した岩と、丘の下に広がる、灰色の平らな土地だけだった。
王都が、なかった。
丘のふもとに、小さな影がいくつか固まっていた。屋根だった。草を葺いた、低い屋根。煙が細く一本だけ上がっている。
キアリーが、隣にいた。エクリットも。
エスタは、いなかった。
「ここ、どこだよ」
「……学園の、丘だと思う」
自分で言っておいて、信じられなかった。けれど、足の裏の傾き方は、毎朝上ってくる坂と同じだった。
斜面の下で、誰かが土を掘っていた。
男だった。痩せていた。獣の皮を継ぎ合わせたような服を着て、木の棒の先に平たい石を縛りつけた道具で、固い土を少しずつ崩している。一振りごとに、肩が大きく上下した。土は崩れなかった。石の刃が、跳ね返されていた。
男の足元に、光がひとつあった。
小さかった。指先ほどの、白い光。透き通るような白さで、男の影の中にいても、それだけがはっきり見えた。
男が、手を止めた。
腰の袋から、何かを取り出した。麦の穂だった。三本。痩せた穂だった。それを、白い光の前に、そっと置いた。
それから、歌った。
声は低くて、節回しは単純で、言葉は僕の知らない言葉だった。けれど、何を歌っているのかは分かった。礼を言っていた。
白い光が、ふわりと浮いた。
麦の穂のまわりを、一度だけ回った。それから、男の足元の土の中へ、すっと沈んだ。
男がもう一度、道具を振り下ろした。
土が、割れた。
さっきまで刃を跳ね返していた固い土が、湿った柔らかな土の色を見せて、ほろりと崩れた。男が、声を上げて笑った。土の中から、白い光が顔を出して、男の指先にまとわりついた。
僕は、息をするのを忘れていた。
あの光の動き方を、知っていた気がした。どこで見たのかは、すぐには思い出せなかった。
***
景色が、一度まばたきするように揺れて、変わった。
丘の上に、穴が掘られていた。
人の背丈ほどの深さに掘り下げられて、壁と床に、平たい石が敷き詰めてある。入口には、木の板の戸がついていた。
穴の中に、人が何人か降りていった。さっきの男もいた。少し年を取っていた。
僕たちも、その後について降りた。誰も、僕たちに気づかなかった。
石室だった。
狭かった。大人が五、六人入れば、肩が触れ合うくらいの広さ。左右の壁に、木の棚が据えつけてあった。粗く削った板を、石の隙間に差しこんで渡しただけの棚だ。その棚に、細長い木の札が、何枚も並んでいた。
男が、懐から新しい札を一枚取り出した。
表面に、刻み目がついていた。字ではなかった。線と点と、いくつかの簡単な形。それを、男は棚の端に、大事そうに立てかけた。
「……今年の取り決め、か」
エクリットが、小さく言った。
「どこの畑を誰が耕すか。とれた麦を、どれだけ精霊に分けるか。たぶん、そういうのだ。刻み方で分かる。同じ形が、何度も出てくる」
男たちが、棚に向かって頭を下げた。それから、梯子を上って出ていった。戸が閉まった。
石室が、暗くなった。
暗がりの中で、白い光だけが残っていた。
光は、棚の前に浮いていた。並んだ札を、一枚一枚、確かめるように見ていた。それから、ふわりと奥へ漂っていった。
奥の壁には、棚がなかった。平らな、むき出しの石だった。
光が、その石に触れた。
かり、と、小さな音がした。
光の縁が、石の表面を削っていた。爪で引っかくような、頼りない線だった。一本引いて、離れて、確かめて、もう一本引いた。棚の札に刻まれていたのと、同じような形だった。
真似をしていた。
人が札に残したものを見て、自分も残したくなったのだ。誰に教わったのでもなく、誰に頼まれたのでもなく。
かり。かり。
光は、何度もやり直していた。線が曲がると、少し下がって、じっと見つめて、それから隣にもう一度引き直した。うまく引けると、ほんの少しだけ明るくなった。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
なぜだか分からなかった。小さな光が、石を引っかいているだけなのに。その一本の線に、どれだけの気持ちが込められているのかが、見ているだけで伝わってきた。好きだったのだ。この光は、あの人間たちのことが。真似をしたくなるくらいに。
「……可愛いな、あいつ」
キアリーが、ぼそりと言った。照れくさそうに、すぐ目を逸らした。
***
景色が、また揺れた。
今度は、揺れが長かった。季節が、何度も巡るのが分かった。丘の草が伸びて、枯れて、また伸びた。ふもとの屋根が増えた。煙が二本になり、五本になり、数えきれなくなった。
丘の上に、石が積まれはじめた。
石室の真上だった。人々が、ふもとから石を運び上げてくる。四角く切り出した石を、一段、また一段。やがてそれは、低い塔のような形になった。今の時計塔の、半分の高さもない。窓もない。ただ、丘のいちばん上に、ずんぐりと立っている。
「……下のほうの石だ」
エクリットが呟いた。
「さっき見た、矢狭間のあたりの。積み方が同じだ。これが、いちばん古いんだ」
塔のまわりに、人が集まるようになった。
その中心に、白い光がいた。
もう、指先ほどの大きさではなかった。人の背丈ほどもある光の塊になって、塔の前に浮いていた。翅のようなものが、何枚も重なって広がりかけている。人々が、その前にひざまずいて、麦を供え、歌を歌っていた。たくさんの声だった。
たくさんの声が重なるたびに、光は、少しずつ大きくなっていった。
石室を覗いた。
棚の札が、減っていなかった。増えてもいなかった。最後に立てかけられた札の上に、薄く埃が積もっていた。人は、もう札を刻みに降りてこなくなっていた。
奥の壁だけが、変わっていた。
最初の頼りない線の隣に、新しい線が、びっしりと並んでいた。何百、何千。壁の端まで埋まって、隣の壁の端にまで回りこんでいる。白い光は、塔の前で人々に囲まれながら、それでも夜になると石室に降りてきて、壁に記憶を刻み続けていた。
人が忘れたものを、光だけが、覚えていた。
***
景色が変わるたびに、空気が変わっていった。
塔のまわりに集まる人々の顔つきが、変わっていった。最初は、歌っていた。それから、頼みはじめた。雨を。もっと雨を。隣の丘より、うちの畑に。
ふもとの屋根の群れが、いくつにも分かれた。それぞれの群れの真ん中に、それぞれの光がいた。赤い光。青い光。土色の光。どれも、大きく育っていた。
人々の手に、石の板があった。
何かが刻まれていた。数字だった。
「……これ、さっきの」
キアリーの声が、低くなった。
「さっき俺が殴った、帳簿だ」
麦を何束。雨を何日。足りないぶんは、来年に。利子をつけて。
人々が、自分たちの光を指さして、何か叫んでいた。言葉は分からなかった。けれど、その指の向け方で分かった。我々の。あれは、我々の精霊だ。隣の丘の光を指さすときの指は、違う形をしていた。
白い光の前でも、同じことが起きていた。
人々が、光を囲んでいた。歌ではなく、要求の声だった。光は、それに応えていた。応えるたびに、少しずつ、光の色がかすかに濁っていくように見えた。
それでも、夜になると、光は石室に降りてきた。
壁に、刻んでいた。
その線は、もう最初のころのように、うまく引けたからといって明るくなったりはしなかった。ただ、淡々と、刻んでいた。
***
火の匂いがした。
丘の向こうの空が、赤かった。
叫び声がした。人の声と、人ではないものの声が、混じり合っていた。
赤い光と、青い光が、空でぶつかっていた。ぶつかるたびに、地面が揺れた。光の欠片が雨のように降ってきて、落ちた先の草が燃えた。その下で、人と人が、石の刃を振り回していた。
人の争いなのか、精霊の争いなのか、分からなかった。たぶん、どちらでもあった。
キアリーが、拳を握っていた。剣を探すように、腰に手をやって、そこに何もないことに気づいて、拳を握り直した。
エクリットが、立ち止まった。
僕たちは、ふもとの屋根の群れの中を抜けていくところだった。火の粉が舞っていた。エクリットだけが、一軒の小屋の前で、足を止めていた。
小屋の戸が、開いていた。
中に、炉があった。鍛冶場だった。床に、鉄の屑が散らばっている。壁際に、作業台。台の上に、道具が並んでいた。槌。鏨。ヤスリ。
作業台の脇に、何かがあった。
鉄の枠だった。人の背丈ほどの、四角い枠。枠の内側に、太い鉄の楔が、何本も打ちこまれていた。その楔の先端が、枠の真ん中に集まっていた。
真ん中に、光がいた。
小さな、緑色の光だった。楔の先端に、縫い留められていた。動こうとするたびに、楔が光の縁に食いこんで、光が細く震えた。
枠の下に、歯車があった。
いくつもの歯車が噛み合って、その先で、太い軸がゆっくりと回っていた。光が震えるたびに、軸が回った。光が弱るほど、軸の回りが速くなった。
絞り出していた。
光の中にあるものを、歯車で、一滴ずつ。
エクリットの顔から、色が抜けていくのが見えた。
彼の目は、光ではなく、楔を見ていた。楔の表面を。
僕にも、見えた。楔の側面に、細かな筋が走っていた。ヤスリの跡だった。きれいな、揃った筋だった。同じ角度で、同じ力で、何度も何度も削った跡。腕のいい誰かが、時間をかけて、丁寧に仕上げた楔だった。
さっき、エクリットが手の中で見ていたのと、同じ種類の跡だった。
光が、震えた。軸が、回った。
火の粉が、戸口から舞いこんで、景色をかき消した。
エクリットは、何も言わなかった。
両手を、体の脇で握りしめていた。指の関節が白くなるほど、強く。さっきまでヤスリの熱を包んでいた手だった。その手を、自分で押さえつけるように握っていた。
僕は、声をかけようとした。
何と言えばいいのか、分からなかった。口を開けて、閉じた。
エクリットは、僕のほうを見なかった。前を向いて、歩き出した。少しだけ、足元がおぼつかなかった。
***
塔が、燃えていた。
丘の上の、ずんぐりとした低い塔。そのまわりで、人々が叫んでいた。さっきまで歌っていた人々の子か、孫か。その手に、鉄の楔があった。
白い光が、塔の前にいた。
大きかった。翅が、何枚も広がっていた。けれど、その光の縁が、裂けていた。楔が、何本も、光に向かって突き出されていた。光は、それを避けようとして、避けきれずに、また裂けた。
光は、反撃しなかった。
人々に向かって、何もしなかった。ただ、裂けながら、後ろへ下がった。下がって、下がって、丘の裏へ消えた。
僕は、その後を追おうとして、足が動かなかった。
***
寒かった。
吐く息が白かった。丘の上に、霜が降りていた。
塔は、崩れていた。石が、あちこちに転がっていた。ふもとの屋根の群れは、ほとんどなくなっていた。煙は、一本も上がっていなかった。
風の音しか、しなかった。
それが、ずっと続いた。景色は揺れなかった。ただ、寒さだけが、何年も、何十年も、変わらずに続いているのが分かった。
人の姿は、ほとんど見えなかった。たまに見かけても、痩せて、うつむいて、精霊のいるほうを決して見ようとしなかった。
精霊たちも、小さくなっていた。かつて空でぶつかり合っていた大きな光たちは、どこにもいなかった。残っているのは、指先ほどの、名前もない光ばかりだった。その光たちも、声を出さなかった。人に近づかなかった。
地の果てのほうに、何かが見えた。
遠すぎて、形は分からなかった。ただ、金色の光が、地平線の向こうに、ぼんやりと立っていた。とてつもなく大きな、木のようなもの。
そこへ向かって、光がいくつも、這うように移動していた。
大きな光だった。かつては大きかった光。今は、どれも裂けて、欠けて、色が濁っていた。
その中に、白い光があった。
翅が、何枚も破れていた。光の縁が、ぼろぼろにほつれていた。それでも、地平線の金色に向かって、少しずつ、少しずつ、進んでいた。
一度だけ、白い光が振り返った。
丘のほうを。崩れた塔のほうを。
それから、また前を向いて、遠ざかっていった。
僕は、拳を握っていた。いつの間にか、握っていた。
***
石室は、まだあった。
崩れた塔の下で、半分土に埋もれていた。戸は朽ちて落ちていた。中に、霜が入りこんでいた。
左右の壁の棚が、崩れていた。板が腐って、黒い粉のようになって床に積もっていた。木の札は、もう札の形をしていなかった。土と見分けがつかなかった。
人の残したものは、土に還っていた。
奥の壁だけが、残っていた。
白い光が刻んだ、無数の線。壁一面を埋めて、隣の壁にまで回りこんでいる線。それは、霜の下でも、少しも崩れていなかった。
その壁の前に、小さな光が、いくつか浮いていた。
指先ほどの、名もない光たち。白ではなかった。淡い黄色や、薄い緑や、灰色の光。
その一つが、壁に近づいた。
かり、と、音がした。
白い光の刻んだ線の、いちばん端の続きに、新しい線が一本、引かれた。頼りない線だった。曲がっていた。
光は少し下がって、それを見つめて、隣にもう一本、引き直した。
最初に、白い光がそうしたのと、同じように。
かり。かり。
誰に頼まれたのでもなかった。誰も見ていなかった。寒さの中で、名前もない光たちが、それでも、記録を続けていた。
アリアが、どこかで息を詰める気配がした。
***
景色が、ゆっくりと温まっていった。
霜が溶けた。丘の斜面に、草が戻ってきた。
ふもとに、屋根が一つ、また一つ増えた。煙が上がった。
一人の女が、丘の中腹に座っていた。火を焚いていた。小さな火だった。その火のそばに、光がひとつ、おずおずと近づいてきた。指先ほどの、淡い緑の光。
女は、光を見た。光も、女を見ているようだった。
長いあいだ、どちらも動かなかった。
それから、女が、手のひらを火のほうへ向けて、少しだけ横にずれた。火の前の、自分の隣に、場所を空けた。
光が、そこへ降りた。
女は、何も言わなかった。光も、何もしなかった。ただ、同じ火にあたっていた。
それだけだった。
それだけのことが、何年も、何十年も、あちこちで少しずつ起きていくのが分かった。
そして、遠くで、金色の光が強くなった。
地平線の向こうの、大きな木。その枝から、光が放たれた。いくつも、いくつも。流れ星のように、空を渡って、四方へ散っていく。
あの木のもとへ這っていった、傷ついた光たちだった。けれど、もう傷ついてはいなかった。大きく、澄んで、静かに光っていた。木の中から溢れた金色が、その光の芯に流れこんでいるのが見えた。
その中に、白い光があった。
ほかのどの光よりも、静かだった。冷たいと言ってもいいくらいの白さだった。破れていたはずの翅は、幾重にも重なって、まっすぐに張っていた。何枚あるのかは、眩しすぎて数えられなかった。
それは、まっすぐに、こちらへ向かってきた。
この丘へ。崩れた塔のほうへ。
僕は、その光を見上げていた。
冷たい白さだった。満月の夜、二百七十段を下りた底で、ランプの明かりに照らされていた白さ。どこかで、似たものを見た気がした。
――祠の底で、本の山に囲まれて、結晶のほうを向いて座っていた、あの背中。
そこまで思ったとき、別のことを思い出した。
去年の冬。中庭で、あの人の記憶が、僕の中に流れこんできたとき。
岩ばかりの大地に、細い流れが届いて、最初の苔が生えた。小さな影が、二本足で立った。人だった。小さな光たちが、人のあいだを飛び交って、ここを掘れば水が出ると告げた。人が両手を組んで、ありがとう、と言った。光が、嬉しそうに舞った。
それから、村ができた。町になった。城が建った。盟約が結ばれて、学び舎が建って、人は少しずつ、像の前で足を止めなくなっていった。
最初に人が立ったところから、全部。あのとき、僕はあの人にそう言った。
全部では、なかった。
あの記憶には、燃える塔がなかった。光に向けられた鉄の楔も、裂けながら丘の裏へ消えていく白い光も、なかった。霜の降りた丘で、名前もない光たちが黙って石を引っかき続けていた、あの長い寒さも。
ありがとう、のすぐあとに、村があった。そのあいだには、何もなかった。
まるで、そこだけ頁が抜き取られていたみたいに。
僕は、遠ざかっていく白い光を見上げていた。
そこまで思って、思うのをやめた。やめたのに、胸の奥が、ずっとざわざわしていた。
***
光が、引いていった。
丘も、火も、白い光も、薄れて消えた。暗がりと、冷たい石畳と、高いところで擦れ合う石の音が戻ってきた。一枚岩の青白い筋は、さっきより穏やかに脈打っていた。
誰も、すぐには口をきかなかった。
「はじめに、大樹があった」
僕は、呟いていた。
小さいころから、何度も聞かされた話だった。
「大地はことごとく岩であった。命と呼べるものは、ひとつとして無かった。……大樹は、己が力より幾柱かを分かち、これを各地へ遣わした」
命が生まれる前に、大樹が大精霊を遣わした。そういう話だった。
「……全然、ちげえじゃねえか」
キアリーが言った。
「命が生まれる前とか、そんなんじゃなかったろ。人がいて、精霊がいて、それで……あんなことになって。大精霊って、あれ、傷ついて帰ってった精霊じゃねえか。人に、ぼろぼろにされて」
声が、少し震えていた。
「なんで、そういうふうに伝わってねえんだよ」
誰も、答えなかった。
答えは、たぶん、みんな分かっていた。人のほうが、覚えていたくなかったのだ。自分たちがしたことを。
エクリットは、何も言わなかった。まだ、手を握っていた。
「……あの方は」
アリアの声がした。
一枚岩の前で、アリアは、自分の両腕を抱くようにして立っていた。
「この国に人が住み着くより、ずっと前から、ここにおられた。……わたくしは、そう聞かされていました」
聞かされていた、と言った。
アリアの言葉遣いが、一瞬だけ、夏の初めのものに戻っていた。本人は、気づいていないようだった。
「誰も、疑わなかった。わたくしも」
翅の色が、紫から灰へ、灰から白へ、揺らいだ。
***
足元が、明るくなった。
見下ろすと、一枚の葉が、僕の足元に降りてきていた。
鮮やかな緑だった。さっき、薬草園の畝のずっと奥で光っていた葉。いくら歩いても近づかなかった葉が、音もなく、僕の目の前まで来ていた。葉脈が、光の筋になって脈打っている。
『……いま、なら』
小さな光に戻った司書が、肩の上で言った。
僕の問い。
時計塔は、どうすれば直るのか。
しゃがんで、葉に手を伸ばした。
指先が、葉脈に触れた。
流れこんできた。
城の一室だった。
石の壁に、織物が掛けてある。高い窓から、昼の光が差しこんでいる。その真ん中で、若い男が、白い衣の人と向かい合っていた。
見覚えのある場面だった。去年の冬に流れこんできたあの人の記憶の中にも、これがあった。あのとき僕は、この若い男を王様だと思った。上等な服を着て、城の一室で、大精霊と向かい合っていたから。
けれど、今度は部屋の隅まで見えた。
壁際に、もう一人、男が立っていた。若い男より年上で、頭に細い冠をのせている。腕を組んで、白い衣の人のほうを見ていた。何を言われても聞き取れない相手を見るような、苦い顔だった。
冠をのせているのは、あちらだった。
なら、この若い男は誰なのだろう。
若い男が、手を差し出した。白い衣の人も、手を差し出した。
盟約、という言葉が、どこかから聞こえた。
双方が、何かを差し出す約束。
指先が触れた一点から、光が立ち上がった。何が差し出されたのかは、見えなかった。ただ、光は広がって、部屋を越え、城を越え、城壁を越えて、王都の全体を包むほど大きな膜になった。
結界だった。
景色が流れた。
石室の奥の壁。白い光の刻んだ線の、ずっと先。名もない光たちが刻み継いだ線の、さらに先に、少しだけ新しい刻み目があった。読めないはずの形なのに、読めた。
――七十年目。結界、緩やかに薄れ。流れに乱れなし。
――百四十年目。北面に綻び。力は減ずれど、巡りは整う。
――二百二十年目。全面にわたり減衰。されど流れは澄み、精霊に障りなし。
薄れていった記録だった。
最初は、人が祈っていた。盟約のことを覚えていた。精霊に礼を言っていた。結界は、その祈りを受けて、張られたときの形を保っていた。
けれど、人は忘れていった。祈らなくなった。精霊に関心を持たなくなった。差し出すものがなくなった。
結界は、一度張れば終わりの壁ではなかった。
双方が差し出し続けて、通わせ続けて、初めて保たれるものだった。誰も手入れをしなくなった結界は、少しずつ、少しずつ薄れていった。
景色が、また流れた。
冬だった。
中庭だった。
僕がいた。
去年の冬の、あの日の僕だった。自分の後ろ姿を、少し離れたところから見ていた。指先を、誰かの指先に触れさせている。白い衣の人の指先に。
二人のあいだに、膜が生まれた。
けれど、その膜は、六百年前のものとは違っていた。ところどころ、色が違った。厚さが違った。まるで、別々の布を何枚も継ぎ合わせて、一枚に縫い上げたような膜だった。
ツギハギだった。
僕の魔力が、足りなかったのだ。足りないところを、借りたもので埋めた。誰かの、何かのかけらで。だから、継ぎ目ができた。
景色が、また流れた。
膜の継ぎ目が、ゆっくりと、静かに、滑らかになっていった。季節が巡るごとに。僕の中で、借りたものが、少しずつ自分のものに入れ替わっていった。
けれど、継ぎ目は、消えてはいなかった。
地面の下を、何かが流れていた。大きくて、ゆっくりとした、息のような流れ。エクリットが、あの職人の手で感じていた、地脈の波。
その流れが、膜の継ぎ目に、引っかかっていた。
ほんのわずかに。気づかないほどに。けれど、引っかかったぶんだけ、流れが淀んだ。淀んだものが、少しずつ、少しずつ、低いほうへ溜まっていった。
塔の下へ。石室へ。
溜まって、溜まって、春が来て、夏が来て、秋が来て、そして、溢れた。
時計の針の音が、一拍、長くなった。
***
指先が、葉から離れた。
僕は、しゃがんだまま、しばらく動けなかった。
時計は、壊れていなかった。
壊れていたのは、僕だった。僕が張った結界の、継ぎ目だった。
それなら、直し方は分かる。
継ぎ目を均せばいい。引っかかりをなくして、溜まった流れを、もとのように抜いてやればいい。薬草園の畝で、湿りすぎた土に溝を切って、水を逃がすのと同じだ。
けれど。
結界は、僕一人で張ったものではなかった。
あの冬、指先を触れ合わせて、二人で張った。均すのも、二人でなければできない。僕の魔力と、もう一人の魔力を、もう一度通わせて。
イーリス様の手が、要る。
立ち上がった。膝が、少し震えていた。
あの人は、手を貸してくれるだろうか。
雨の日のことを思い出した。結晶の前で、それは何ですか、と訊いた僕に、あの人は、人が知るものではありません、と言った。そのあとも、手は貸さぬ、と言われた。
戸を閉められたような気がした、あの日。
それでも、行かなければならなかった。
「……おい」
キアリーの声がした。
さっきまでの、怒ったような声ではなかった。低くて、少しかすれていた。
「エスタ」
振り返った。
エスタは、僕たちから少し離れた石畳の上に、立っていた。
さっきと、同じ姿勢だった。何もない本を、胸の前に抱えている。一枚岩の光が、彼女の顔を青白く照らしていた。
その目は、暗かった。
大きく開いているのに、何も映していなかった。瞬きもしなかった。唇が、かすかに動いていた。声にはならなかった。
右手の指が、震えながら、何もない頁を、めくった。
また、めくった。
僕たちが丘の上で風を受けていたあいだも、石室の壁の線を見ていたあいだも、塔が燃えるのを見ていたあいだも、エスタは、ずっとここで、ひとりで、あの本を読んでいたのだ。
「エスタ!」
呼んだ。
声は、彼女に届く前に、暗がりに吸いこまれて消えた。
エスタの指が、もう一枚、頁をめくった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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