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第41話 すれ違えない階段

「ちょっとだけ。覗くだけだから」


 言い終わる前に、エクリットはもう扉の隙間に体を滑り込ませていた。肩から先に入って、鞄の紐が扉の縁の鉄鋲に引っかかって、それを外す手つきまでもどかしそうだった。目が、扉の奥の暗がりに吸いついて離れない。


「おい、待て。勝手に――」


 キアリーが舌打ちして、すぐあとに続いた。襟をつかむつもりで伸ばした手は、あと少しのところで届かなかった。大きな背中が、扉の向こうの暗がりに半分呑まれた。


 二人とも、振り返らない。


 僕は一瞬だけ扉の前で足を止めて、それから、置いていかれないようにキアリーの背中を追った。


「ちょっと、フェイ――」


 後ろでエスタの声がした。少しだけよ、と言っていた人の声だった。敷石を蹴る足音が、慌ただしく僕のすぐ後ろに続いた。


 一歩で、西日が消えた。


 振り返ると、扉の隙間の向こう、アーチの下の通路はまだ橙色に明るい。敷石の上に、四人ぶんの影が長く伸びているのも見える。僕たちは、もう扉の内側にいるのに。


 こちら側には、光が一筋も入ってこない。肌に触れる空気が急に冷たくなって、乾いた埃と、古い油の匂いがした。


***


 扉の内側は、部屋ではなかった。


 いきなり、階段だった。


 一本の太い石の柱に巻きつくようにして、石の段が上へ回りながら伸びている。踏み石は扇の形をしていて、柱の側はほとんど足が載らないほど細く、外の壁の側だけが広い。壁と柱のあいだは、僕が両腕を広げたら両方に指が届いてしまうくらいしかなかった。


「狭っ」


 キアリーが言った。その声が、石の筒の中で上にも下にも跳ね返った。


「大人二人じゃ、すれ違えないわね」


 エスタが、後ろから覗き込んで言った。


「すれ違うようにはできてないんだよ」


 先頭のエクリットが、もう三段上から振り返った。


「上る人の右肩が、柱のほうに来るように回ってるだろ。古い塔の階段は、みんなこうなんだ。下から攻め上がってくる人が、右手で剣を振りにくいように」


「俺が振りにくいじゃねえか」


 キアリーが肩をすぼめて、体を斜めにして上りはじめた。大きな体が、右肩を柱にこすりながら窮屈そうに回っていく。


 僕も続いた。


 段の真ん中が、すり減って窪んでいた。スープの皿のように、なめらかな窪みだった。何百年ぶんかの靴の底が、少しずつ石を削っていったのだろう。窪みの縁に爪先をかけると、ずるりと滑りそうになる。壁に手をついた。石は、思っていたよりずっと冷たかった。


「足元、気をつけて」


 言ったそばから、後ろでエスタが小さく息を呑んだ。振り返ると、片手を壁につき、もう片方の手を僕の上着の裾に伸ばしかけて、引っ込めたところだった。


「……大丈夫よ」


 そのときだった。


 下のほうから、足音が上がってきた。


 重い足音だった。一段ごとに、石が低く鳴る。何か重いものを抱えた大人が、息をつめて上ってくるときの音だった。


 僕たちは、壁に背をつけた。つけても、この幅では人ひとり通れる隙間などない。


 足音は、エスタの後ろまで来た。


 僕の横を、通った。


 誰もいなかった。


 足音だけが、僕とキアリーのあいだを抜けて、エクリットの先へ、上へと上っていった。一段ごとに石が低く鳴って、それが回りながら遠ざかっていく。


 しばらく、誰も口をきかなかった。


「……職人さん、かな」


 エクリットが言った。自分でも信じていない声だった。


***


 階段を回りきると、開け放したままの低い扉があって、その先で急に広いところに出た。


 天井の低い、四角い部屋だった。床は平らな石で、ところどころに板が渡してある。足の裏から、かすかな震えが伝わってきた。すぐ下を、正門の通路が通っているのだ。誰かが門をくぐるたびに、その足音がこの床を揺らしているのかもしれない。


 部屋には、古いものが置かれていた。


 壁際に、柄の折れた箒と、錆びた鉄の輪をいくつも束ねたもの。蓋の歪んだ木箱が三つ積んであって、いちばん上の箱には「油 予備」と墨で書いた札が貼ってある。隅には、脚が一本だけ色の違う椅子と、天板に古い傷の走った机があった。机の上には、埃をかぶった帳面が一冊、閉じたまま置いてある。


「見張り番の部屋だったんだよ、たぶん」


 エクリットが、椅子の背を指でなぞった。指先が灰色になった。


「門を通る人を、ここから見てたんだ」


 僕は部屋を見回した。


 向かいの隅に、別の階段の口が開いていた。上へ続いている。


 その暗がりに、足が見えた。


 革の靴だった。踵のすり減った、大人の男の靴。それが一段上がって、もう一段上がって、階段の曲がりの向こうへ消えた。


「……今の」


「見えた」


 キアリーが言った。腰の袋を、いつもより強く押さえていた。


***


 上の階段は、下のものよりさらに狭かった。


 外側の壁に、縦に細長い窓が切ってあった。指を三本並べたくらいの幅しかない。壁が分厚いので、窓というより、石に掘った溝のようだった。そこから夕方の光が一本の帯になって差し込んで、階段の埃を斜めに切っていた。


 溝に顔を寄せると、細く切り取られた外が見えた。


 中庭の端。欅の梢。その向こうに、東の校舎の屋根。僕は毎日、あの屋根の下の窓から、この塔の文字盤を見上げていた。


「こんなふうになってたんだ」


 思わず言った。毎日くぐっている門の上に、こんな階段があって、こんな窓があって、こんなふうに学園が見えていた。


「この窓、矢狭間って言うんだ」


 エクリットが、隣の溝を覗きながら言った。


「外からは狙いにくくて、中からは射やすい。この塔、もともと時計塔じゃなかったんだと思うよ。時計はあとから載せたんだ。壁の石の積み方が、下と上で違うもの。下のほうが古い。それに、文字盤の裏の……」


「待て待て待て」


 キアリーが、前を向いたまま手を振った。


「何言ってるか半分も分かんねえ。お前、試験のときもそれくらい喋れよ」


「試験には出ないもん」


「出ねえのかよ」


 僕は笑ってしまった。


「よく知ってるね」


「こういうの、好きなんだ」


 エクリットは、少し照れたように溝から顔を離した。


「古いものの中には、昔の人が考えたことが、そのまま残ってるだろ。石の積み方とか、階段の回る向きとか。書いたものじゃなくて、形で残ってる。それを読むのが――」


 足音が、した。


 下からだった。重い足音が、一段ずつ石を鳴らして上がってくる。


 エクリットが、口を閉じた。


 足音は僕たちの後ろまで来て、横を通って、前へ、上へ、回りながら遠ざかっていった。今度は、誰も壁に背をつけなかった。つけても無駄だと、もう分かっていた。


 話の続きを、誰も言わなかった。


***


 二つ目の部屋に出たとたん、音が変わった。


 カチリ。


 それまで石の筒の奥で遠く聞こえていた針の音が、ここでは部屋じゅうの壁に跳ね返っていた。


 部屋の真ん中に、機械があった。


 鉄と真鍮の枠が、大人の背丈より高く組まれている。その中で、大小の歯車が何重にも噛み合っていた。大きいものは僕が腕を広げたほど、小さいものは指先ほど。天井の滑車から太い綱が下りていて、その先に、鈍い灰色の重りが吊るされている。枠の下のほうでは、長い棒の先についた円盤が、ゆっくりと左右に揺れていた。


 古い油と、真鍮の匂いがした。


「うわあ……」


 エクリットが、機械の前に駆け寄った。


「振り子だ。あの長さなら、片道でちょうど一秒のはず。で、あそこ。振り子の上の、錨みたいな形の部品。あれが調速機。振り子が一往復するたびに、あの爪が歯車を一枚ぶんだけ放すんだ。だから歯車は勝手に回りきらずに、一枚ずつ、一枚ずつ――」


 カチリ。


「――ほら、今の。今のが爪の音。針の音って、ほんとはこの音なんだよ。で、重りが下がる力で歯車が回って、それが上の文字盤の針まで」


「触るなよ」


 キアリーが、エクリットの襟首をつかんだ。今度は届いた。エクリットの指先は、真鍮の枠のあと一寸のところで止まっていた。


「触ってないよ」


「触る顔してた」


 エクリットは口を尖らせて、それでも機械から目を離さなかった。


 僕は、部屋の中を見回した。


 誰もいなかった。


 工具も、脚立も、油差しも置かれていない。職人が朝から入って、機械を見ていたはずの部屋だった。


「職人さん、いないね」


「さっきの足音が、そうなんじゃないの」


 エスタが言った。言ってから、自分の言葉にかすかに眉をひそめた。


「フェイ」


 エスタが、僕の袖を軽く引いた。


「もう見たでしょう。降りましょう」


「で、どこが壊れてんだよ」


 キアリーが、エクリットに訊いた。


 エクリットは、しばらく黙って振り子を見ていた。


 振り子が、右の端まで行く。


 止まる。


 右の端で、止まっている。


 戻ってくる。


「……分からない」


 エクリットが言った。


「歯車は噛み合ってるし、爪も欠けてない。油も足りてる。どこも、壊れてない。壊れてないんだけど……」


 振り子が、左の端まで行った。


 止まった。


 さっきより、少しだけ長く。


「何か変なのは、分かるんだ。でも、何が変なのか、うまく言えない」


 エクリットの声が、機械の音に紛れて小さくなった。


***


 部屋の奥に、もう一つ階段の口があった。上へ続いている。


「この上って、鐘だよね」


 僕が言うと、エスタがこちらを見た。


「行くの?」


「原因は、そこにあるのかもしれない。職人さんとも、まだ会えてないし。上にいるのかも」


「フェイ」


「いたら、どこが悪いのか訊ける。いなかったら、もう帰ったってことだから。そしたら、僕たちも帰るよ」


 エスタは口を開けて、閉じた。矢狭間のほうを見た。溝の中の光は、まだ橙色だった。


「……鐘のところまでよ」


「うん」


「ほんとに、そこまでよ」


「うん」


 エスタは溜め息をついて、僕の後ろについた。


***


 階段は、さらに狭くなった。


 キアリーは体を斜めにしたまま、ほとんど横歩きで上っていた。先頭のエクリットは、ときどき振り返っては、振り子の話の続きを言いかけてやめた。


 一周。二周。


 矢狭間から、光の帯が差し込む。


 三周。四周。


 鐘は、まだ見えなかった。


「……長くない?」


 エスタが言った。


「さっきの部屋から、もうずいぶん上ったわよね。外から見たとき、機械の部屋と鐘のあいだって、そんなに高さはなかったと思うんだけど」


 誰も答えなかった。


 僕は溝から外を覗いた。欅の梢が、溝のちょうど真ん中に見えた。見張り番の部屋の上で覗いたときも、梢は溝の真ん中にあった。


「ねえ」


 エクリットが、足を止めた。


 壁を見ていた。


 僕の顔の高さに、黒い染みがあった。上から染み出した油が、石肌を伝って流れた跡だ。手のひらほどの大きさで、下の端が三つに分かれて、鳥の足跡のような形をしている。


「これ、さっきも見た」


 エクリットが言った。


「一周前にも。その前にも。同じ形。同じ高さ」


 指で、三つに分かれた先を順番に指した。


「油の染みって、同じ形には垂れないんだ。絶対に」


 カチ。


 針の音が、頭の上から降ってきた。


 カチ。


 次は、背中のほうから聞こえた。


 振り返っても、そこには上ってきた階段しかない。


「……鐘が、鳴らないわ」


 エスタの声が、細くなっていた。


「次の鐘が鳴っていい頃なのに。面会、終わっちゃう」


 キアリーが、腰の袋から手を離して、拳を握った。誰も、先へ進もうとしなかった。戻ろうとも言わなかった。どちらへ行っても、同じ染みの前に出る気がした。


 そのとき、階段の上から、光の粒がひとつ降りてきた。


 僕の頭の上まで来て、そこで止まった。止まって、慌てたように少し戻った。それから、もう一度下りてきた。


 見覚えのある動き方だった。


 夏の初めに、アリアが三十三人を連れて塔に戻ってきた日。帯の中から、僕の頭の上まで下りてきかけては、慌てて戻っていく光がいくつかあった。


「君……」


 光は、光の玉ではなかった。


 形が、できかけていた。指先ほどの小さな体に、細い手足のようなものがあって、胸のところに何か白いものを抱えている。巻いた紙のように見えた。輪郭はまだぼやけていて、ときどき光の玉に戻りかけては、また形を取り直す。


 矢狭間から差し込む光の帯を、それが、つっと追いかけた。薬草園で、撒いた水の筋を追いかけ回していた光たちと、同じ追い方だった。


「……薬草園にいた子?」


 光が、僕の目の前で小さく上下した。頷いた、のだと思う。


「……何と喋ってんだ、お前」


 キアリーが、僕の目の先を覗き込んだ。


「塔の精霊。たぶん、アリアさんと一緒に戻ってきた子の一人」


 そのとき、頭の中に、何かが落ちてきた。


 声ではなかった。言葉を覚えたばかりの子供が、石を一つずつ並べるような、ぎこちない響きだった。


『うえ、では、ない』


 光が、階段の下を向いた。


『した、だ』


◆


 事務室の窓口で、私は言った。


「時計塔を閉じなさい。門に錠を。今日はもう、誰も入れてはなりません」


 若い事務員は顔を上げて、帳面を繰った。


「……確認します」


 私は頷いて、窓口に背を向けた。


 扉の前まで歩いて、足が止まった。


 振り返ると、私は窓口の前に立っていた。


「時計塔を閉じなさい。門に錠を。今日はもう、誰も入れてはなりません」


 自分の声だった。自分の口が、そう言っていた。


「……確認します」


 帳面を繰る指。語尾の下がり方。三度目の技師の知らせと、同じだった。


 奥の机から、事務長がこちらを見ていた。眼鏡の奥の目が、何かを言いかけて、言えずにいた。


 指示が、前に進まない。


 言っても、言っても、この部屋の中で同じところへ戻ってくる。私が塔に踏み込めば、あの技師と同じように、何事もなかった顔をして帰ってくるのだろう。何を見たのかも、覚えずに。


 私は杖を握り直して、事務室を出た。


***


 事務棟を出ると、塔はすぐそこだった。正門のアーチの下、その側面の壁にある、塔の中へ通じる小さな扉。


 アーチの口から差し込む西日が、その扉の鉄鋲に斜めに当たっている。扉は半分開いたままだった。下の軸で重さを受ける古い造りで、半分開いた扉は、その角度のまま少しも揺れていなかった。


 その扉の前に、四つの影があった。


 先頭の少年が扉をくぐった。大柄な少年が続き、フェイ君が続き、最後に、髪を結った少女が入った。


 影が消えた。


 扉の前に、四つの影があった。


 先頭の少年が扉をくぐった。大柄な少年が続き、フェイ君が続き、最後に、髪を結った少女が入った。


 影が消えた。


 三度目の四人は、扉の前で少しだけ薄かった。夕日が彼らを透かして、敷石の上に影を落とさなかった。くぐって、消えた。


「フェイ君!」


 叫んだ。声は、アーチの石の天井に吸われるように途中で消えた。自分の耳にも、ほとんど届かなかった。


 私は扉まで歩いて、鉄鋲の並ぶ樫の板に手をかけた。冷たかった。力をこめて押すと、重い扉がゆっくりと回って、石の枠に当たって止まった。


 閉じた。


 手を離して、一歩下がった。


 扉は、半分開いていた。


 さっきと同じ角度で、少しも揺れずに。


 耳の奥で、継ぎ目が軋んでいた。四人は、あの継ぎ目の向こうへ呑まれたのだ。私には、それを追う手立てがない。


 私は踵を返した。


***


 二百七十段を下りるのは、今日二度目だった。


 最初の踊り場で、膝が言うことを聞かなくなった。


 昨日運ばせた腰掛けに、崩れるように座り込んだ。息が上がって、しばらく声が出なかった。この腰掛けを置けと言ったのは、あの方だ。足音で分かります、と言った。


 こんなふうに使うとは、思っていなかった。


 三つ数えて、立ち上がった。残りを下りた。


 祠の扉を開けると、イーリス様は、さっきと同じ場所に立っていた。床に散らばった本も、そのままだった。


「イーリス様」


 声が掠れた。


「生徒が四人、塔に入りました」


 イーリス様は、動かなかった。


「その中に、フェイ君がおります」


 ランプの火が、小さく揺れた。


 イーリス様は、何も言わなかった。足元の本を一冊、拾い上げた。藍色の表紙だった。それを、閉じたまま、本の山の上にそっと置いた。


 それから、私の横を通り過ぎた。


 白い衣の裾が、私の杖の先をかすめた。六対の翅が、畳まれたまま、わずかに震えていた。


 私は振り返った。


 石段を、あの方が上っていく。段の脇の燭台の炎が、ひとつずつ揺れて、道を空けるように傾いだ。石段を行き来していた光たちが、左右の壁へ寄って、黙ってそれを見送っていた。


 この方がご自分の足で祠を出ていくところを、私はこれまで数えるほどしか見ていない。思い返せば、この一年のそれは、どれもあの少年に関わることだった。


 私は杖をついて、そのあとを追った。膝が、また悲鳴を上げた。


◆


 光について、階段を下りた。


 不思議なことに、下りる階段は、ちゃんと下りていた。機械の部屋を過ぎ、見張り番の部屋を過ぎ、入ってきた扉の高さを過ぎても、段はまだ下へ回り続けていた。


 下りきってすぐに、おかしいと分かった。


 塔の外から見た幅は、せいぜい二十歩だ。なのに、階段を下りた先の通路は、左右に果てが見えないほど長く伸びていた。石の壁が両側に続いて、ところどころで枝分かれしている。どの角を曲がっても、同じような石の壁が続いていた。


 壁には、石の欠片がいくつも埋め込まれていた。拳ほどのものから、爪ほどのものまで。どれも鈍い灰色で、目を凝らすと、奥のほうにかすかな光の名残が見える。消えかけた熾火のような色だった。


「これ、何の石かしら」


 エスタが指を伸ばしかけて、止めた。


「触らないほうがいい気がする」


「僕もそう思う」


 小さな光は、迷わずに進んでいった。角を三つ曲がり、また二つ曲がった。ついていくうちに、自分たちがどちらから来たのか分からなくなった。エクリットが歩数を数えていたけれど、百を越えたところで諦めた。


 足元の石が、湿りはじめた。


 やがて、下へ降りる石段が現れた。


 段の縁に、苔が生えていた。埃が積もって、その上にまた苔が生えている。長いあいだ、誰も踏んでいない段だった。


「滑るわよ。気をつけて」


 エスタが言った。言った本人が、二段目で足を取られかけた。キアリーが後ろから肘をつかんだ。


 一段ずつ、下りた。


 どのくらい下りたのか分からない。数えるのをやめた頃、石段が終わった。


 突き当たりに、扉があった。


 石の扉だった。見上げるほど高く、表面には細かい文字のような溝が一面に刻まれている。人の字ではなかった。扉の下の隙間から、青白い光が細く漏れていた。


 その扉の前に、誰かが立っていた。


***


 背の高い女の人だった。


 僕の母より、たぶん頭ひとつぶん背が高い。長い髪が背中を覆っていて、その背中から、大きな翅が広がっていた。紫がかった色をしている。けれどその色は、じっとしていなかった。縁のほうから波が寄せるように揺らいで、紫から灰に、灰から青白く、また紫に戻る。翅の輪郭そのものが、ときどき霞んではまた形を取り直していた。


 誰だろう、と思った。


 案内してきた小さな光が、その人の足元まで飛んでいって、胸の白いものを抱えたまま、深く頭を下げた。


 女の人が、ゆっくりと振り返った。


「……迷い子が、四人」


 低く、落ち着いた声だった。


「ここまで、降りてきてしまったのね」


 その声の奥に、聞き覚えのある響きがあった。


 夏の初めに、目の高さまで降りてきた、一回り大きな光。紫がかった翅。お礼を言うつもりはありません、と言った声。


「……アリア、さん?」


 女の人は、僕を見た。


 少しのあいだ、何かを思い出そうとするような顔をした。


「フェイ。……ええ、あなたのことは、知っています」


 それから、言い直すように続けた。


「わたくしは、人間が嫌いです。この二百年、ずっと――」


 そこで、止まった。


 アリアは、自分の喉元に指を当てた。細くて長い指だった。夏に見たときには、そもそも指と呼べるものがあったかどうかも分からない。その指で、自分の声の出てくる場所を、確かめるように押さえていた。


「……嫌い、だったかしら」


 眉が、わずかに寄った。自分で言ったことに、自分で戸惑っている顔だった。


 エクリットが、扉の隙間から漏れる光を見て息を呑んだ。エスタが一歩前に出て、僕の半歩前で止まった。その手のひらが、薄く金色に光りかけていた。キアリーは、何も言わずに四人のいちばん前に立っていた。


 アリアは、扉に背を預けた。翅が、石の扉に触れて、また色を変えた。


「ここは、時計の針が逆に進む場所よ。……ねえ、あなたたちは、自分の『問い』を探し出すための『答え』を、もう持っているのかしら?」


 扉の隙間から漏れる青白い光が、少しだけ強くなった。


 その奥で、石と石が擦れ合うような、乾いた音がしていた。ひとつではない。何十、何百という石が、どこか高いところでゆっくりと動いて、互いの縁を擦り合わせている音だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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