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第40話 長い一秒

 一限目の終わりの鐘が鳴ったとき、教室のあちこちで同じ顔をした者がいた。


「……今日、長くなかった?」


 後ろの席の誰かが言った。


「そう? 俺はむしろ短かったけど」


「嘘だろ。三回くらい寝かけたぞ」


「それはお前がいつも寝てるだけだ」


 笑い声が起きた。先生はもう教室を出ていて、黒板には素材学の図が消されないまま残っていた。


 僕は、どちらとも言えなかった。長かった気もするし、そうでもない気もする。ノートを見返すと、書いた量はいつもと変わらない。書いた量が同じなら、時間も同じだったはずだ。


「フェイはどっちだ」


 隣でキアリーが伸びをしながら訊いた。


「分からない。いつもと同じくらい書いてる」


「お前の基準はノートかよ」


「舌よりは当てになるよ」


 キアリーが鼻で笑った。前の席のエスタは、振り返らなかった。ただ、窓の外を一度だけ見た。窓の向こうに、時計塔の文字盤が見える。針は、鐘の鳴った時刻をきちんと指していた。


 時計が遅れているのかもしれない。昨日、誰かがそんなことを言っていた。遅れているなら、授業が長く感じるのも分かる。短く感じる人がいるのは、よく分からないけれど。


 僕はそれ以上考えずに、次の授業の教本を出した。


***


 二限目は移動だった。


 中庭の南を回る石畳の道は、時計塔の足元をかすめるように通っている。見上げると、灰色の石の壁が空をまっすぐ切り取っていて、そのてっぺんに文字盤がある。塔の影が、道の敷石の上に斜めに落ちていた。


 そこを通りかかったとき、音が聞こえた。


 カチ。


 塔の中から、針の刻む音が落ちてくる。普段は、ここまで来ないと聞こえない音だ。


 カチ。


 僕は、足を止めた。


 …………カチ。


「どうした」


 キアリーが振り返った。


「今の、聞こえた?」


「何が」


「時計の音。間が、変じゃなかった?」


 キアリーは眉を寄せて、塔を見上げた。エスタも立ち止まって、同じほうを見た。三人で黙って、耳を澄ませた。


 カチ。


 カチ。


 ………カチ。


「……長いな」


 キアリーが言った。


「長いわね」


 エスタも言った。


 言ったあとで、三人とも黙った。長い、ということは分かる。けれど、どのくらい長いのかは、誰も言えなかった。ほんの一拍のはずなのに、その一拍のあいだに、何か別のものが挟まっているような長さだった。


 初夏に、コロンが言っていたのを思い出した。針の音が、前より間が長い気がする。あのときは、気のせいだろうで済んだ。


「壊れてるんだろ。職人が来るって聞いたぞ」


 キアリーが歩き出した。僕とエスタも、少し遅れてそれに続いた。


***


 昼の食堂は、その話でもちきりだった。


「さっきの授業、絶対に長かった」


「短かったって。先生が途中で切り上げたのかと思った」


「昼休み、もう半分過ぎた? まだ?」


「時計見ろよ」


「見てるよ。見てるのに、なんか合わないんだって」


 どのテーブルでも、誰かが時計塔のほうを見ていた。見て、首をかしげて、また匙を動かす。時計の針は普通なのに、体のほうが納得していない。そういう顔だった。


「鐘が、ずれてるのよ」


 エスタが、煮込みの皿から顔を上げずに言った。


「実習の交代、鐘で決めてるの。昨日から、前の組の人が戻ってこないうちに次の鐘が鳴ったり、待っても鳴らなかったり。病院の人たちも困ってたわ」


 言い方が、少し尖っていた。朝からずっと、そういう顔をしている。一昨日、廊下の窓の前で話したときとは違う、もっと手前の苛立ちだった。


「時計塔ってさ、アリアさんがいるんだよね」


 僕が言うと、二人がこちらを見た。


「アリア?」


「時計塔の精霊。二百年、あそこで針を見張ってる人。夏の初めに、三十三人を連れて塔に戻ってきたんだ。一度だけ会った」


「……ああ、あの光の帯か」


 キアリーは覚えていたらしい。あの日、鍛錬場からも見えたのだろう。


「人間が嫌いだって、はっきり言われたけど」


「言われたのかよ」


「礼は言いません、って」


「最悪じゃねえか」


「でも、時計のことなら、時計塔にいる人に訊くのがいちばん早いと思う」


 そう言ったところで、横から声がした。


「時計塔、行くの?」


 振り返ると、エクリットが盆を持って立っていた。同じ組で、いつも窓際の席で何かを分解している。錠前屋の息子で、先生に隠れて筆箱の留め金を組み替えては、元に戻せなくなっているのを何度か見た。


「行くっていうか、ちょっと見に行こうかなって」


「じゃあ、僕も行く」


 エクリットは許可を待たずに、盆を僕の隣に置いた。


「職人が朝から塔に入ってるんだって。事務室の人が話してた。まだ出てこないらしいよ。……ねえ、あの塔の中、見たことある? 僕、ずっと入ってみたかったんだ。あれ、歯車だけで動いてるんじゃないんだよ。どこかに調速の仕組みがあるはずなのに、図面が残ってないって、魔道具の先生が言ってた」


 一息で言って、それから少しだけ声を落とした。


「……壊れてるなら、中が見られるかもしれないだろ」


 目が光っていた。僕が新しい草の芽を見つけたときも、たぶんこういう顔をしている。


 キアリーが、深く息を吐いた。腰の袋に、無意識のように手をやっている。遠征の稼ぎの残り、十四万ネイが入った袋だ。先輩に分け前を渡し、僕に素材代を押しつけても、まだそれだけ残っている。持たされてから、どこへ行くにも外せないでいる。


「……お前らだけで行くと、また怒られるぞ」


「キアリーも来る?」


「行くとは言ってねえ」


 言ってない、と言いながら、もう行く顔をしていた。


 エスタは、しばらく黙って煮込みの人参を匙で寄せていた。


「……少しだけよ」


「え?」


「放っておくと、ろくなことにならないでしょう。あなたたち」


 それから、小さく付け足した。


「そのあと、病院に寄るから。ほんとに、少しだけ」


◆


 時計塔のすぐ脇にある事務棟は、朝から紙の匂いがしていた。


「塔の時計の件ですが」


 私は窓口の若い事務員に言った。


「技師に、一度見てもらってください」


「……確認します」


 事務員はそう答えて、帳面を繰った。私は頷いて、部屋を出た。


 廊下に出て、三歩目で足が止まった。


 今の言葉を、私は前にも言った。


 職人を呼ぶことは、昨日のうちに手配してある。祠でイーリス様にも、そうお伝えした。ならば、なぜ今、同じことを頼みに来たのか。


 忘れたのだろうか。七十を過ぎれば、そういうこともある。


 けれど、引っかかっているのはそこではなかった。今の窓口の、あの言い方。帳面を繰る指の動き。確認します、の、語尾の下がり方。


 それを、私は何度も聞いた気がした。一度ではなく、何度も。


 私は廊下の窓から、塔を見上げた。灰色の壁の向こうで、針がひとつ刻む音がした。耳ではなく、もっと奥のほうで。


 六百年前、王弟が大精霊の声を聞いた。その耳が、薄まりながら私にまで流れてきている。精霊の声が聞こえるだけの、たいして役にも立たぬ耳だと、長いこと思っていた。


 その耳の奥で、何かが擦れていた。布の継ぎ目を、指でなぞったときのような感触だった。


***


 昼を過ぎて、もう一度事務室へ寄った。


 用があったわけではない。朝の引っかかりが、腹の底に残っていた。


 窓口の事務員が、私を見るなり立ち上がった。


「学園長。時計塔の技師のことなのですが」


「ええ」


「朝から塔に入ったきり、戻っておりません。弟子が見に行ったのですが、中にいないと。塔の出口はひとつしかないのに、出ていった者もおらず……」


 行方が、分からない。


「……ああ、そうでしたな」


 言ってから、自分の口が勝手に動いたことに気づいた。


「騎士団の詰所に出した捜索の件は、返事が来ましたか」


 事務員が、きょとんとした。


「いえ……まだ、今しがた知らせが来たばかりで。今後どうするか、学園長とご相談しなければと、事務長が……」


 私は、眉間に皺が寄るのを感じた。


 騎士団に、捜索を頼んだ。頼んだ覚えがある。詰所の窓口の若い騎士の顔まで、目に浮かぶ。


 だが、まだ頼んでいない。今、初めて聞いたのだから。


「では、もう一度――」


 言いかけて、止まった。


 もう一度。


 何を、もう一度だ。


「……いや。失礼しました。事務長は奥ですかな」


「はい」


 私は礼を言って、窓口を離れた。杖を持つ手が、わずかに湿っていた。


***


 事務長は、書類の積まれた机の前に立っていた。


 座っていなかった。私が扉を開けたとき、彼女は何かを探すように机の上を見下ろしていて、顔を上げた瞬間、その目が私の目と合った。


 同じだ、と思った。


 言葉にする前に、分かった。彼女もまた、何かを掴み損ねている。今日という日の、どこかの継ぎ目に指をかけて、それが何なのか分からずにいる。


「学園長」


「ええ」


「技師のことで……」


「聞きました」


「……わたし、今朝、同じことを学園長に申し上げませんでしたか」


 私は、すぐには答えられなかった。


「いえ。今朝は、お会いしておりませんな」


「そう、ですよね」


 事務長は、落ち着かない手つきで眼鏡を押し上げた。三十年、この部屋で帳面を預かってきた人だ。取り乱すところを、私は一度も見たことがない。


 そこへ、扉が勢いよく開いた。


「学園長! 技師が戻りました!」


 窓口の事務員だった。息を切らしている。


 私と事務長は、顔を見合わせた。戻った。それなら喜ぶべきだ。なのに、二人とも、何も言わなかった。


***


 技師は、事務室の隅の椅子に座らされていた。


 五十がらみの、腕の太い男だった。怪我はない。疲れた様子もない。膝の上に工具の袋を載せて、差し出された茶を不思議そうに見ていた。湯気が、窓からの風で左へ流れていた。


「どこへ、行っておられたのです」


 私が訊くと、技師は首をかしげた。


「どこへ……? 塔ですが。朝からずっと、機械を見ておりました」


「何か、問題は」


「いえ、特に何も。歯車の摩耗もたいしたことはありませんし、油も足りておりました。遅れる理由が、見当たりませんで」


 事務長が、私の横で小さく息を呑んだ。


「しかし、針の音が――」


「針の音?」


 技師は、私と事務長の顔を順に見た。それから、困ったように笑った。


「……何か、あったんですか?」


「何かって……」


***


「学園長! 技師が戻りました!」


 窓口の事務員だった。息を切らしている。


 私と事務長は、顔を見合わせた。戻った。それなら喜ぶべきだ。なのに、二人とも、何も言わなかった。


 技師は、事務室の隅の椅子に座らされた。


 五十がらみの、腕の太い男だった。膝の上に工具の袋を載せて、差し出された茶を不思議そうに見ている。湯気が、左へ流れていた。


「どこへ、行っておられたのです」


「どこへ……? 塔ですが。朝からずっと、機械を見ておりました」


「何か、問題は」


「いえ、特に何も。歯車の摩耗も――」


 たいしたことはありませんし、と技師が続けるより先に、私はその言葉を知っていた。知っていた気がした。


 気のせいだろう、と思った。年を取ると、人の話の先が読めるようになる。そういうものだ。


「――遅れる理由が、見当たりませんで」


「しかし、針の音が――」


「針の音?」


 技師は、私と事務長の顔を順に見た。それから、困ったように笑った。


「……何か、あったんですか?」


「何かって……」


***


「学園長! 技師が戻りました!」


 窓口の事務員だった。息を切らしている。扉の同じ位置に、同じ手のかけ方で、立っていた。額に張りついた髪の、一筋の形まで同じだった。


 私は、事務長の机の前に立っていた。


 つい今しがたまで、私は事務室の隅にいた。技師の前に立って、茶の湯気が左へ流れるのを見ていた。何かって、と言いかけた口の形が、まだ唇に残っている。


 それなのに、技師はここにいない。これから、戻ってくるのだ。


 三度目だった。


 一度目も、二度目も、私はこの扉が開くのを見た。この言葉を聞いた。聞くたびに、初めて聞いたような顔をして、事務長と顔を見合わせた。


 事務長を見た。


 彼女も、私を見ていた。唇が、わずかに開いている。言葉にはならなくても、その目が、同じものを数えていた。


 私は、目を見開いていた。


 耳の奥で、何かが軋んだ。継ぎ目が、今度ははっきりと鳴った。一枚の布の端と端を無理に縫い合わせて、その縫い目の上を、何度も同じ針が通っている。


 これは、時計の故障ではない。


 時計塔の中で、同じ刻が繰り返されている。


***


 二百七十段を、私は休まずに下りた。


 最初の踊り場に、腰掛けがひとつ置いてあった。昨日のうちに、用務の者に運ばせたものだ。座らずに、その横を通り過ぎた。膝が悲鳴を上げていたが、それどころではなかった。


 祠の扉を開けると、イーリス様は立っていた。


 本は、床に散らばったままだった。昨日私が運んだ三冊も、木箱の中で閉じたままだ。


「イーリス様。時計塔で――」


『存じております』


 短い声だった。


『昨日から、脈が一拍ずつ長くなっております。……アリアを呼びました。返事がありませぬ』


「塔の中で、同じ刻が繰り返されております。技師が一人、朝から戻らず、戻ったと思えば、その知らせが三度」


 私は、見たことを順に話した。窓口の言葉。騎士団のこと。事務長の目。三度開いた扉。


 イーリス様は、黙って聞いていた。聞き終えて、しばらく何も言わなかった。


「……何か、ご存じですか」


『わたくしが、何でも知っているとお思いですか』


「……いいえ」


『塔の内が、見えませぬ』


 その言葉に、私は背筋が冷えるのを感じた。この地の上で起きることで、この方に見えないものがあるとは、考えたこともなかった。


『人を、近づけてはなりませぬ』


「すぐに、塔を閉じさせます」


 私は踵を返した。二百七十段が、今度は上りだった。


◆


 放課後の時計塔は、昼間より大きく見えた。


 西日が塔の片側だけを照らして、もう片側は影に沈んでいる。正門のアーチの下は、石の天井に覆われた短い通路になっている。その側面の壁に、小さな扉がある。背丈は大人ひとりぶんほどしかないが、厚い樫の板に鉄鋲がびっしり打たれていて、見るからに重い。塔の中へ通じる扉だ。いつもは閉じているその扉が、半分開いたままだった。職人が出入りしたあと、誰も閉めていないらしい。


「おお……」


 エクリットが、扉の足元にしゃがみ込んで声を漏らした。


「見て、この扉。蝶番で吊ってないんだ。下に太い軸があって、床の石が受けてる。重さを、柱じゃなくて地面に逃がしてるんだよ。昔これを考えた人、すごいよ」


「扉で感心してどうすんだよ」


 キアリーが呆れて言った。腰の袋を、また押さえている。


「本当に入っていいのか、これ」


「入っちゃ駄目とは、書いてないわね」


 エスタが、塔を見上げたまま言った。夕日が顔の半分に当たって、もう半分は影の中にあった。少しだけよ、と言っていたのに、帰る素振りはまだない。


 僕は、扉の向こうの暗がりを見ていた。


 アリアに会えたら、すぐに分かるだろう。時計が遅れる理由も、鐘がずれる理由も。人間が嫌いでも、塔のことなら話してくれるかもしれない。職人が戻らないのだって、中で道具でも探しているだけかもしれない。


 そのくらいに、思っていた。


 扉の向こうから、音がした。


 カチ。


 四人とも、顔を上げた。


 次の音が、来なかった。


 来ない。まだ来ない。風が止まっていた。塔の上の空を、鳥が一羽、翼を広げたまま横切っていく。その鳥が、ひどくゆっくり見えた。


 ――カチ。


 エクリットが、扉の縁から手を離した。キアリーの手が袋を離れて、拳を握った。エスタが、僕の袖を、指先で小さくつまんでいた。たぶん、本人は気づいていない。


「……やっぱり、変だね」


 僕は、そう言った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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