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第39話 開かれない本

目が覚めたとき、窓の外はまだ灰色だった。


体が勝手に起きる時刻だ。九月のあいだ、僕は毎朝この暗さの中で家を出て、授業の前に薬草園へ水を運んでいた。桶の取っ手の冷たさを、手のひらのほうが先に思い出している。


けれど今朝は、行かなくていい。


収穫は済んだ。三つの種を蒔き、ハシバミの苗も植え終えて、畝は土をかぶったまま黙っている。芽が出揃うまでは、朝に水をやるほどの仕事もない。昨日の夕方、コロンにもそう言われた。『朝は来るな。うるさい』。


布団の中で、しばらく天井を見ていた。梁の木目が、灰色から少しずつ茶色に戻っていく。夏のあいだ、朝というのはすぐに終わるものだった。起きて、走って、汲んで、撒いて、気がつけば始業の鐘が鳴っている。何もしなくていい朝には、こんなに長さがあったのか、と思った。


***


長持の底から、学園の厚手の上着を出した。


春に仕舞ったきり、半年触っていない。広げると、防虫に挟んでおいた乾いた葉の匂いが、埃と一緒に立ちのぼった。


袖を通して、肩をすくめた。


縫い目が、突っ張った。


腕を前へ伸ばすと、背中の布が引かれて、肩甲骨のあたりで止まる。去年の冬、この上着は僕の体の上で余っていた。帰ってきたばかりの頃だ。袖口から出る手首が自分のものに見えなくて、なるべく見ないようにしていた。母が黙って脇を詰めてくれたのも、あの頃だった。


その詰めた分が、今は窮屈になっている。


袖口から出ているのは、桶を何百往復もさせた手首だった。爪の際に、土の色が残っている。洗っても落ちない種類の色だ。


窮屈なのが、少しだけ嬉しかった。なぜ嬉しいのかはうまく言えないまま、僕は前の留め具をかけた。


***


食卓には、豆のスープと堅いパンと、茹でた卵が出ていた。父はもう仕事に出たあとだった。


僕は懐から小瓶を出した。ミズナ草を陰干しにして、乳鉢で挽いた粉だ。回復薬の主材料で、苦い。煮出しても粉にしても、舌の奥に居座るあの苦さは消えない。


夏の初めから、僕はこれを毎食、何かに少しずつ振りかけている。


苦さは効き目と同じところから来ているから、削れば効きも落ちる。だったら削らずに、飲む側の舌のほうをどうにかできないか。そう考えて始めたことだった。屋台の串焼きにかけ、揚げ菓子にかけ、ダンジョンの携帯食にまでかけた。手帳は三冊目に入っている。


まず、パンの端にひとつまみ。噛む。苦さは遅れてくる。パンの粉っぽさが舌を覆っていて、飲み込んだあとで喉の奥からじわりと上がってくる。


次に、スープにひとつまみ。こちらは早い。湯気と一緒に鼻へ抜けて、口に入れる前から苦い気がする。


卵には、黄身のほうにだけ。


「……あんた、朝から何やってるの」


母が、自分の椀を持ったまま僕の手元を見ていた。


「研究」


「卵がかわいそうよ」


「黄身の脂で、苦いのがどれだけ丸くなるか見てるんだ」


「丸くなった?」


「なった。……と思う」


母は呆れた顔のまま、自分の卵の殻を剥き始めた。止めはしない。夏の初めに一度「もったいない」と言われて、それきりだ。


手帳に、三つの味の順番を書きつけた。パンは遅い。スープは早い。卵は、苦さが来る前に一度、黄身の甘さが舌を塞ぐ。昨日も似たようなことを書いた。一昨日もたぶん書いた。似たようなことを何十回も書いて、その中のわずかな違いを拾うのが、今の僕の仕事だった。


***


外に出ると、風が変わっていた。


夏の風は重かった。肌にまとわりついて、汗と一緒に居座った。今朝の風は、上着の襟の隙間から入ってきて、そのまま抜けていく。


職人町の坂を上る。石垣の割れ目の猫じゃらしが、穂を茶色くしていた。井戸端の欅はまだ緑だけれど、葉の縁がほんの少し乾いている。夏のあいだ道端を埋めていた白い小花は、もう実になって、種を落とす支度をしていた。


どれも、先週にはなかった。


夏が終わった、と誰かに言われたわけではない。草のほうが先に次の準備を始めていて、僕はそれを横目に見ながら歩いていた。薬草園の畝も同じだ。土の下で、今ごろ何かが割れかけている。


***


一限目は素材学だった。


先生が黒板に、魔法具や薬の材料になる鉱物の名を並べていくあいだ、僕はノートの隅に今朝の結果を書き写していた。パン、遅い。スープ、早い。卵、黄身が塞ぐ。


「フェイ」


隣からキアリーが囁いた。


「それ、試験に出んの」


「出ない」


「だよな」


キアリーは満足そうに頷いて、自分のノートに戻った。戻った先には、剣の握りの絵が描いてあった。


「二人とも」


前の席のエスタが、振り返らずに言った。


「聞こえてるわよ」


それで僕たちは黙った。いつものことだった。


ただ、今日のエスタは、いつもと少し違った。


休み時間に、何か言おうとしてこちらを向いたとき、彼女の目は僕の顔ではなく、肩のあたりで止まった。それから窓のほうへ逸れた。言おうとしていたことは、結局言わなかった。


そのあとも、何度か窓を見ていた。窓の外には中庭と、その向こうに時計塔がある。針を見ているのかと思ったが、見ている時間が短すぎた。見て、戻って、また見る。ペンの尻で机を叩く小さな音が、ずっと続いていた。


季節の変わり目だからかもしれない、と思った。それ以上は考えなかった。


***


昼の食堂は、焼いた麦の匂いで満ちていた。


今日は根菜の煮込みと、例の固いパンだった。僕が小瓶の蓋を開けると、向かいのキアリーが匙を止めた。


「またやってる」


「煮込みはまだ試してないんだ」


「昨日も同じこと言ってたぞ。昨日は焼き魚だったけど」


「焼き魚と煮込みは違う」


人参の多いあたりにひとつまみ落として、混ぜて、口に運ぶ。根菜の甘さのあとに、苦さが来る。来るけれど、角がない。


「エスタ、ちょっと食べてみて」


「……わたしも?」


「一人だと分からないから」


エスタは少しためらってから、自分の匙で僕の椀の端をすくった。口に入れて、三つ数えるくらいのあいだ黙っていた。


眉が寄った。


「……これは、ちょっと」


「そう? 昨日より苦くないと思うんだけど」


「苦いわよ」


「減ったんじゃねえよ」


キアリーが、パンをちぎりながら言った。


「毎日食ってるから、お前の舌が慣れたんだろ」


僕は、匙を持ったまま止まった。


言われてみれば、そうだった。夏の初めにこの粉を舐めたときは、思わず水を探した。今は探さない。探さなくなったのが、粉のせいなのか、合わせたもののせいなのか、僕の舌のせいなのか、僕一人では見分けがつかない。


何十日ぶんの記録の、どこまでが粉の記録で、どこからが僕の舌の記録なのか。


手帳を開いて、一行足した。〈自分の舌は、もう物差しにならない〉。書いてから、少し悔しくなった。それでも、書かないよりはずっといい。


「キアリー、明日から毎日味見してくれない?」


「やだよ」


即答だった。


***


午後の授業のあいだも、エスタのペンの音は止まらなかった。


終業の鐘が鳴る少し前には、もう鞄を膝に乗せていた。鐘の一打目で立ち上がりかけて、二打目で座り直した。そういう動き方をする人ではなかった。


「エスタ」


僕は声をかけた。


「何かあるの」


エスタは鞄の留め金に指をかけたまま、こちらを見た。


「別に。なんでもないわ」


それだけだった。


僕は「そう」と言った。言ってから、口の中に何かが残った気がした。粉の苦さとは違う、もっと形のないものだった。訊いたのだから、答えはもらった。もらったのに、何も分かっていない。


けれど、その先に何を訊けばいいのか、僕には見当がつかなかった。


鐘が鳴り終わる前に、エスタは教室を出ていった。


***


薬草園へ向かう途中、石垣の切れ目から坂の下が見えた。


学園の塀の外、東の坂へ下りていく石段を、エスタが歩いていた。早足だった。治療科の実習着ではなく、学園の上着のままだ。向かう先には、王立病院の白い屋根がある。


今日は、当番の日ではなかったはずだ。


背中が角を曲がるまで見ていた。それから、薬草園の閂を外した。


『来たか』


葉陰から、緑の光がひとつ、ふらりと上がってきた。石垣の内側は相変わらず光で埋まっていて、夕方の低い日が畝を斜めに照らしている。


山芹の畝にしゃがみ込んだ。出ていた。土の表面に、爪の先ほどの芽がいくつか、折りたたまれた葉をほどきかけている。指の腹で周りの土に触れると、しっとりと冷たい。明日の朝まで保つ湿りだ。鼻を近づけても、まだ芹の匂いはしない。土の匂いに、ほんのわずか青さが混じっているだけだった。


小屋の北側の陰陽草は、まだだった。日の当たらない土は色が濃く、指を差し込むと湿りが第二関節まで来る。多すぎるかもしれない。手帳に書いた。


畝の端の、木札の前で止まった。〈コロンの草〉。三粒を蒔いたあたりの土は、平らなままだった。


「まだだね」


『……』


「コロン、毎日見に来てるでしょ」


『来てない』


僕は、それ以上は言わなかった。


***


井戸の縁に腰を下ろして、小瓶を出した。コロンが肩に下りてきて、瓶を見た。


『まだそれをやってるのか』


「夏からずっとだよ」


『知っている。飽きないな』


「飽きるほど分かってないから」


手のひらに少し出した。緑がかった灰色の粉が、夕日を受けて、縁だけ金色に見えた。


ここ何十日かの記録を、頭の中で並べた。串焼きの脂。揚げ菓子の甘さ。携帯食の塩。今朝のパンとスープと卵。昼の煮込み。


粉は、どこでも同じ粉だった。変わっていたのは、粉の隣にあったものだ。


脂があると、苦さは遅れて丸くなる。熱いと、香りと一緒に早く来る。甘いものが先にあると、舌がそちらに気を取られて、苦さの入ってくる場所が狭くなる。昼の煮込みが苦くなかったのは、僕の舌の慣れもある。けれど、人参の甘さと、煮込んだ脂と、ほどよく冷めた温度が、同時に並んでいたからでもある。


一日で分かったことではない。何十回も同じ粉を舐めて、何十回も似たことを書いて、そのばらばらだった点が少しずつ同じ方を向きはじめて、今ようやく一本の線に見えてきた。


薬の味を、変えなくてもいい。薬の隣に何を置くか、だ。


「……コロン」


『何だ』


「たぶん、分かってきた」


コロンは何も言わなかった。けれど、肩から離れもしなかった。


***


小屋の作業台で、試した。


ミズナ草の煎じ液を小鍋で温めて、三つの杯に分ける。


一つ目には、カイエンの実の搾り汁を一滴。辛さを先に置けば、苦さを後ろへ送り出せるかと思った。送り出せなかった。二つが舌の上で喧嘩をして、喉が焼けた。


二つ目には、蜂蜜を匙に半分。甘ったるいのに苦い。甘さのほうが先に引いて、苦さだけが舌に取り残される。妙な味だった。


三つ目は、人肌まで冷ました。そこへ蜂蜜を指先ほど。それから、市場で買った干しハシバミの実を砕いて、ひとつまみ。脂を含んだ粉だ。


口に含んだ。


苦い。苦いのだけれど、苦さの来る場所が、舌の奥の一点に縮まっていた。前は口じゅうに広がっていたものが、今は喉へ抜けていくひとすじだけになっている。


ほんの少しだ。キアリーなら、たぶん違いが分からない。


手帳を開いて、三つ目の配合を書いた。温度。量。舌のどこで、いつ苦かったか。書いているうちに、字がだんだん大きくなっていった。


『そこまでして、飲ませたいのか』


鍋の縁にとまったコロンが言った。呆れているような、そうでもないような声だった。


「飲ませたいっていうか」


僕は杯を洗いながら考えた。


「飲む人が、苦い顔しないで済むほうがいいから」


『……そうか』


窓の外で、光たちが畝の上をゆっくり回っていた。


***


家に着くと、台所から湯気の匂いがした。


上着を脱いで壁の釘に掛けた。肩の縫い目が、布の上からでも分かるほど張っている。母に言えば、たぶん出してくれる。


手を洗って台所に入った。夏の終わりから、夕飯の支度を手伝わせてもらっている。正確には、手伝わせてほしいと頼んだ。


母は大鍋で、鶏の骨と玉葱の皮と香草の茎を煮出していた。表面に浮いてくる脂の粒を、お玉の背で寄せては掬う。


「脂、全部取るの?」


「全部は取らないわよ。取ったら味が痩せるもの」


「どのくらい残すの」


「どのくらいって……見て決めるのよ」


根菜を刻みながら、鍋の表面を見ていた。脂の粒が小さくなって、金色の膜が薄く残る。あの膜が、苦さを遅らせる。昼の煮込みと同じだ。


「母さん。この煮出し汁、調合に使えるかもしれない」


母の手が止まった。


「……あんた、料理を習いたいって言ったの、それが理由なの」


「半分くらいは」


「半分」


母は笑った。お玉を持ったまま、肩を揺らして笑った。


「残りの半分は?」


「……旅に出たら、自分で作らなきゃいけないから」


「そっちを先に言いなさいよ」


鍋から上がる湯気が、窓の硝子を白く曇らせていた。


***


夕飯は、その煮出し汁で根菜を煮たスープと、パンだった。


僕はスープに粉をひとつまみ落とした。熱いうちに一口。苦さは香りと一緒に早く来た。朝と同じだ。少し置いて、冷めかけたところでもう一口。脂の膜が舌を覆って、苦さは遅れ、丸くなって、喉の奥で細くなった。


同じ粉。同じ量。違うのは、温度と、隣にあるものだけ。


料理というのは、材料そのものの話ではないのかもしれない。何と何を、どの順番で、どのくらいの熱さで口に入れるか。それで、受け取る側の感じ方が変わる。調合も、たぶん同じだ。


顔を上げると、仕事から戻った父がこちらを見ていた。


「……それ、うまいのか」


「まずい」


「そうか」


父はそれ以上何も訊かず、二杯目をよそった。


***


湯で体を拭いて、部屋に戻った。


窓辺に、壺が一つある。満月草だ。収穫で小屋の窓辺が干し束に埋まったので、この壺だけ家に連れて帰ってきた。


月は、また丸くなりかけている。あと何日かで満ちる。葉はまだ閉じたままだけれど、その縁が、ほんのわずかに白く光っているように見えた。


宿題を済ませて、手帳を開いた。今日のぶんを清書する。朝の三つ。昼の煮込み。キアリーの一言。三つ目の杯。母の煮出し汁。夕飯の、熱いときと冷めたとき。


明日は、温度をもう少し細かく刻んでみよう。人肌の手前と、その少し上。蜂蜜の代わりに、甘くて脂のあるものも試したい。


ペンを置くと、窓の外はもう暗かった。職人町の屋根の向こうに、王都の灯がまばらに見える。坂の下の白い屋根は、ここからは見えない。


夕方の、早足の背中を思い出した。


僕の肩のあたりで止まった目のことも。鐘の一打目で立ち上がりかけて、二打目で座り直したことも。


なんでもないわ、と言っていた。僕はそれを聞いて、そう、と言った。


それで済ませたことが、今になって、上着の縫い目のように少しだけ突っ張っていた。


明日、もう一度訊いてみようか。そう思って、けれど何を訊けばいいのかは、やっぱり分からなかった。


「……エスタ、何かあったのかな」


声に出すと、部屋が少し広くなった気がした。返事をする者はいない。


布団に入った。窓辺の満月草の縁が、暗がりの中でまだ白かった。満ちるまでの何日かを、あの葉は閉じたまま待つのだろう。


僕はそれを見ながら、目を閉じた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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