第38話 苦くない薬
手帳のいちばん新しい頁に、昨日の夜に清書した字が並んでいた。
朝の三つ。昼の煮込み。〈自分の舌は、もう物差しにならない〉。三つ目の杯。
朝の光はまだ薄くて、紙の白さがかえって目についた。清書の最後の行の下に、昨日の夜は、それ以上何も書けなかった。書くことがなかったわけではない。
エスタのことを考えていた。
訊き方を、いくつか並べてみる。病院に何しに行ってたの。それは坂の上から覗いていた人間の訊き方だ。大丈夫? それなら昨日と同じで、別に、で終わる。どちらも、口に出す前から答えの形が見えていた。
薬草なら、分からないことは葉を一枚ちぎって噛めばいい。人には、それができない。
手帳を閉じて、階段を下りた。
***
台所では、母が竈の火を起こしていた。
小鍋を借りて、昨日の三つ目を作り直した。ミズナ草の煎じ液に、蜂蜜を指先ほど。砕いた干しハシバミをひとつまみ。昨日は人肌まで冷ましたけれど、今朝はそこからもう少し待った。湯気が立たなくなって、指を入れてもぬるいと感じないくらいまで。
口に含む。
苦さが、舌の上に留まらなかった。喉の奥へ細く引いていって、そこで消える。自分の舌が当てにならないのは分かっている。それでも、昨日とははっきり違った。
手帳に温度を書いた。
「それ、結局おいしくなったの?」
母が、パンを切る手を止めずに訊いた。
「おいしくはない」
「あら」
「……でも、飲めるようになった」
「それなら十分じゃない?」
母はそう言って、切ったパンを皿に並べた。
十分なのかもしれない。回復薬は、おいしくするためのものではない。飲めれば効く。
けれど、パンを齧りながら、何かが舌の奥に残った。飲めることと、おいしいことは違う。それはさっき分かった。なら、飲めることと、飲みたいことも違うのではないか。
苦くない薬を、それでも飲みたくない人はいるのだろうか。
いるとしたら、それは薬のせいなのだろうか。
***
教室に入ると、エスタはもう前の席にいた。
教科書を開いて、頁の端を指で押さえている。窓は見ていない。ペンで机を叩いてもいない。朝の光が肩に落ちて、髪の結び目のところだけが明るかった。
昨日のは、気のせいだったのかもしれない。
そう思ったら、肩が少し軽くなった。訊き方をひと晩考えていた自分が、少し可笑しくなった。
一限目が終わると、エスタが振り返った。
「フェイ」
「うん」
「その上着」
「え?」
「肩、きついんじゃないの」
僕は自分の肩を見た。昨日の夜、母に言いそびれたままだった。
「……分かる?」
「分かるわよ。さっき鞄を棚に上げたとき、肩のところが突っ張ってたもの」
言ってから、エスタは口を閉じた。僕が教室に入ってきたとき、彼女は教科書から顔を上げていなかったはずだった。言うつもりだったのとは違うことを言ってしまった、という顔だった。教科書の角を指で揃えて、揃え終わってから、もう一度こちらを見た。
「……ちょっと、来て」
***
廊下の突き当たりの窓からは、中庭の欅が見えた。
エスタは窓枠に手を置いて、外を向いたまま言った。
「昨日のことだけど」
「昨日?」
「病院に行ってたこと。……見てたでしょう、坂の上から」
「……うん」
気づかれていた。当たり前だ。あれだけ長く立ち止まっていたのだから。
「ごめん」
「謝らなくていいわよ。わたしも、あんな返し方したし」
エスタの指が、窓枠の塗りの剥げたところをなぞっていた。
「なんでもないって言ったあと、あなた、変な顔したでしょう」
「した?」
「したわよ。苦いものを飲み込み損ねたみたいな顔」
昨日、口の中に残ったものを思い出した。顔に出ていたらしい。
「それで、帰ってから、ずっと……」
エスタはそこで言葉を切った。窓の外を見たまま、小さく息を吸った。
「……何か、訊きたいんじゃないの」
訊いていいのだ、と思った。ひと晩並べた訊き方は、どれも使わなかった。
「病院に、誰かいるの」
「……兄」
「お兄さん」
「二つ上。入院してるの」
「具合が、悪いの?」
エスタは少し考えた。答えを探しているというより、どの言葉なら嘘にならないかを選んでいるように見えた。
「悪い、というより……ずっと、そこにいるの。わたしが治癒魔法の勉強を始めるより、ずっと前から」
ずっと。
その言葉は廊下の床に落ちて、転がらずにそこに留まった。
入学したとき、エスタはもう治療師になると決めていた。十二のときには、もう。一年生の頃の彼女を思い出す。回復薬を作っている僕を、なぜかいつも睨んでいた。効き目が上がったと聞くたびに、悔しそうな顔をしていた。
あれは、そういうことだったのだろうか。分かったような気になるのは、たぶん失礼だ。僕は黙っていた。
「だから、昨日もちょっと顔を見に行っただけ」
エスタは、声の調子を少しだけ明るくした。
「毎日じゃないわ。当番の日と、あとは時々」
夏にメリィ先輩が言っていたことが浮かんだ。当番じゃない日にも出てるだろ。あのとき、エスタの返事は一拍遅れた。
「そっか」
僕はそれだけ言った。
***
「薬は、飲んでるの」
訊いてから、薬師志望の癖だと思った。けれど引っ込める前に、エスタは頷いていた。
「ええ」
「効いてる?」
「……分からない」
窓の外で、欅の葉が一枚、枝を離れた。それが地面に届くまで、エスタは何も言わなかった。
「でも、治療は続いてるわ。治る見込みがあるなら、続けるでしょう。普通」
迷いのない声だった。迷うことを、もうずっと前にどこかへ置いてきた人の声だった。僕は何も言えなかった。
代わりに、別のことが口から出た。
「お兄さんは、どうしたいの」
「……え?」
エスタが、初めてこちらを向いた。
「治したいのか、とか。どうしたいのかなって」
「そんなの」
ほとんど間がなかった。
「治りたいに決まってるでしょう。治って、あそこから出たいに決まってるわ」
「……そっか。そうだよね」
言われてみれば、当たり前のことだった。病院にいる人が、治りたくないはずがない。どうしてそんなことを訊いたのか、自分でもよく分からなかった。今朝台所で考えていたことが、まだ頭のどこかに引っかかっていたのかもしれない。
始業の鐘が鳴った。
エスタは窓枠から手を離して、それから僕の上着の肩を、指先で軽くつまんで引いた。
「それ、お母さんに言いなさいよ。縫い目、そのうち裂けるから」
「……うん」
先に教室へ戻っていく背中は、昨日坂の上から見たものより、ずっとゆっくりだった。
***
昼の食堂は、今日も根菜の煮込みだった。
朝の配合を小瓶に詰めてきていた。匙に少し取って、煮込みの汁で割る。冷めきらないうちに舐めて、手帳に書く。
「またやってる」
キアリーがパンをちぎりながら言った。
「でもそれ、薬なんだろ。効けばいいじゃん」
手が止まった。
キアリーは本気でそう思っている。一年生の頃から、僕の試作品を中身も聞かずに一息で飲んできたのはこいつだ。苦いと顔をしかめて、次の日にはまた手を出してくる。効くなら味はどうでもいい。それはキアリーの本音で、キアリーにとっては正しい。
でも、誰もがキアリーみたいに飲めるわけじゃない。
「……効けば、いいのかな」
「何だよ急に」
「いや」
手帳を開いて、〈効くことと、飲みやすいことは別〉と書いた。少し考えて、その下に足した。〈でも、飲めなければ効かない〉。
書いてみると、どちらも当たり前のことだった。当たり前を二つ並べたら、そのあいだに何かが挟まっている気がした。まだ名前はつかない。
「エスタも、飲む?」
向かいのエスタに小瓶を差し出した。エスタは少しだけ瓶を見て、それから受け取った。
小さく口に含んで、目を閉じる。三つ数えるより長く、黙っていた。
「……昨日より、ずっといいわ」
「本当?」
「苦さが奥に引っ込んでる。飲んだあと、舌の横が少しざらつくけど。ハシバミ?」
「うん」
「粉、もう少し細かくしたら消えると思う」
急いで書き留めた。舌の横。ざらつき。挽き方。自分の舌では、もう拾えなかったことだ。
「ありがとう。すごく助かる」
「……別に。訊かれたから答えただけよ」
エスタは自分の煮込みに目を落とした。匙の先で人参を二つに割って、割ったまま、口に運ばなかった。
「……でも、お兄ちゃんは、たぶん嫌がると思う」
キアリーが顔を上げた。僕も上げた。
エスタは自分の言ったことに気づいたらしく、耳の縁がじわりと赤くなった。
「……兄は」
言い直した。キアリーが「お前、兄貴なんて――」と言いかけて、僕の顔を見て、口を閉じた。
「苦いから?」
「それもあるけど……そういうことじゃない気がする」
「じゃあ、何?」
エスタは、割った人参を見ていた。
「……分からない。ごめん、変なこと言ったわ」
それきり、彼女はその話をしなかった。キアリーも訊かなかった。煮込みはいつもの味で、食堂のざわめきはいつもの大きさだった。
僕の小瓶だけが、テーブルの真ん中に置かれたままになっていた。
***
終業の鐘の一打目で、エスタは鞄を持った。今日は座り直さなかった。
「また明日」
「うん。また明日」
彼女は昨日と同じ石段を下りていった。王立病院の白い屋根のほうへ。僕は、反対の坂を上った。
昨日は、エスタは何をしているんだろうと思っていた。今日は違うことを考えている。エスタのお兄さんは、何を思っているんだろう。苦くない薬でも嫌がるかもしれない人は、何を嫌がるんだろう。
追いかけようとは思わなかった。追いかけて何を訊けばいいのか、まだ分からなかった。
薬草園の閂を外すと、夕方の光が畝の上に斜めに伸びていた。桶に水を汲んで、山芹の畝に撒く。芽は昨日より少し開いていた。小屋の北側の陰陽草は、土が昨日と同じで湿りすぎている。今日はそこには撒かない。
「水って、やればやるほど育つわけじゃないんだよな」
柄杓を止めて、独り言のつもりで言った。
「土が受け止めきれないと、根が息できなくなって腐る。一年生のとき、それで一畝だめにした」
葉陰から、緑の光がひとつ上がってきた。
『当たり前だ』
「うん」
『人間は、多く与えればいいと、すぐ思う』
コロンは陰陽草の畝の上を、確かめるように一度だけ回った。
「……そうだね」
なぜ今それを言ったのか、僕は訊かなかった。コロンも、それ以上は言わなかった。〈コロンの草〉の木札の前は、今日も平らな土のままだった。
***
夜、自室で手帳を開いた。
温度。蜂蜜の量。ハシバミはもっと細かく挽く。エスタの言った、舌の横のざらつき。一つずつ清書してから、新しい行に書いた。
〈飲む人が、誰なのかを考える〉
しばらく、ペン先を紙の上に浮かせていた。
キアリーは、効けばいいと言う。母は、飲めれば十分だと言う。エスタは、たぶん嫌がると言った。同じ一本の薬でも、誰の手に渡るかで、別のものになる。
もう一行、書きかけた。
〈効くことと、望むことは〉
そこで止まった。続きが書けなかった。書いたら何かが決まってしまいそうで、二本線を引いて消した。
代わりに、〈明日、ハシバミを細かく挽いて試す〉と書いた。
窓辺の満月草は、昨日より少しだけ縁が白かった。
◆
面会の終わりの鐘まで、まだ半刻あった。
王立病院の四階の廊下は、夕方になると西日が床に長く伸びる。わたしはその光を踏まないように歩いて、いちばん奥の扉を叩いた。返事を待たずに開ける。待っても、返事は来たり来なかったりするから。
寝台の周りの仕切り布が、半分引いてあった。兄は日が傾くと、いつもそうしたがる。明るいと落ち着かないのだと言う。
鞄を置くより先に、布の端を指でそっとめくった。
兄は起きていた。枕に頭を半分沈めて、天井の染みを眺めていた。わたしに気づくと、眩しそうに目を細めて、口の端だけで笑った。
「来たんだ」
「来たわよ」
頬の色を見る。唇が乾いていないか見る。目の焦点が、ちゃんとわたしに合っているか見る。昨日と同じだった。同じであることを確かめて、ようやく肩から力が抜けた。
布を元の位置に戻した。西日が寝台に届かないように、端をきちんと揃えて。
窓際の花瓶の水を替えた。昨日持ってきた野菊が、もう首を垂れかけている。茎の先を少し切って、挿し直した。
「今日ね」
仕切り布越しに、横になった人の形がぼんやり透けている。
「学校で、フェイにお兄ちゃんのこと話したわ」
「へえ」
少し高くて、軽い声が返ってきた。
「あの、回復薬を作ってる子?」
「そう」
「エスタが、よく話す子だ」
「……よくは話してないでしょう」
「話してるよ。痩せたとか、背が伸びたとか、畑で倒れてたとか」
「倒れてはいないわよ。座り込んでただけ」
言ってから、余計なことを言ったと思った。野菊の茎を、もう一度切った。切らなくてもいい長さだった。
「その子に、薬のことも訊かれたわ」
「また苦い薬?」
影が、布団の中で少し丸くなった。
「嫌だなあ」
「ちゃんと飲んでよ。治すためなんだから」
「はいはい」
返事は明るかった。いつも明るい。五年前、この部屋に移ってきた最初の夜から、兄の返事はずっとこうだ。
治りたいに決まってる。今日、廊下でフェイにそう言った。少しも迷わずに言えた。
迷うわけにはいかなかった。迷ったら、兄がこの部屋に来てから動かしてきたこの手が、何のためだったのか分からなくなる。
――汝は、癒そうとしているのではない。己の無力を埋めようとしているのだ。
三年生のとき、図書室の奥で読んだ手記の一行が、なぜか今、耳の奥で鳴った。
その迷わなかったことが、花瓶の水の冷たさと一緒に、指先に残っていた。
「ねえ、エスタ」
「何」
「明日も来る?」
花瓶を窓辺に戻した。窓の向こうには、同じ白い石でできた病院の別の棟が、屋根の稜線を斜めに見せて建っている。その脇に、王都の屋根が夕焼けの色で並んでいた。その先の丘の上に、学園の時計塔が小さく見えた。
毎日じゃないわ、と今日、あの廊下で言った。当番の日と、あとは時々。
「……うん」
わたしは振り返らずに答えた。
「来るわよ。毎日」
「そっか」
仕切り布の向こうで、影が少しだけ身じろぎした。さっきと同じように口の端だけで笑ったのだろうと、見なくても分かった。
遠くで、面会の終わりを告げる鐘が鳴りはじめた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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