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第35話 名を呼ぶ

『日が落ちてから、あの畑へ』


 夜明けの祠で、イーリスはそう言った。


『水の要ることです。井戸のあるところがよろしい』


「僕の家にもありますけど」


『畑の井戸です』


 理由は言わなかった。僕は瓶を預けて、石段を上って、家に帰って、そのまま昼まで眠った。


* * *


 日が落ちる頃、僕は薬草園にいた。


 四番目の畝の脇に木の盥を置いて、井戸から汲んだ水を縁いっぱいまで満たす。水面が落ち着くまで、しばらくかかった。


 コロンが、盥の縁に下りてきた。


『何が始まる』


「分からない」


『またか』


「うん」


 石垣の内側に、光が集まり始めていた。


 いつもは畝の上や葉陰に散っているのが、今夜は盥の周りに寄ってきている。近づきすぎず、遠ざかりもせず、一定の距離で止まっていた。数えきれない光が、円になっている。


 雨の日と、同じ形だった。


『――お待たせしました』


 畝の上に、光が降りた。


 白い衣。六対の翅。その手に、虹色の結晶が浮いている。頭ほどの大きさのものが、彼女の掌の上でゆっくりと色を変えていた。


『そなたの作ったものを、返します』


 差し出された小瓶を、僕は受け取った。上半分は、まだ夜の色をしていた。


『水の中へ』


「これを、ですか」


『沈めなさい。栓を抜いて』


 僕は栓を抜いて、瓶を盥の水に沈めた。


 底に着いた瞬間、水面がひとつ大きく揺れて、それから静かになった。


 見ると、盥の水の一部だけが色を失っていた。中央のあたり、掌ほどの範囲。そこだけ、水ではないものになっている。暗くて、遠くて、何かが漂っていた。


『下がりなさい』


 僕は三歩下がった。イーリスが盥の前に立って、結晶を水面の上に置いた。浮いたまま、結晶はそこで止まった。


 そして彼女は、目を閉じた。


『――ウルワシ』


 名前だった。それだけだった。


 呼びかけの言葉も、術の詠唱もない。ただ、名前を一度呼んだ。


 盥の中の暗いところが、広がった。何かが近づいてくるのが分かった。遠くから、こちら側へ。


 結晶が、開いた。


 砕けたのではない。内側の四角が、外側へ裏返った。


 それがどういうことなのか、僕には説明できない。内と外が入れ替わったように見えた。畳んであったものが広げられて、広げられた先が、元の結晶よりずっと大きかった。


 入っていたはずのない量が、出てきた。


 八本の辺が伸びて、面が開いて、また開いて、そのたびに結晶は小さくなり、あふれ出したものが盥の上で渦を巻いた。


 光の粒になった虹色が、形になっていく。深紅の衣。褐色の髪。黄金の筋の走った、六対の翅。


 ウルワシが、盥の前に立っていた。


 膝が折れて、彼女は水の縁に手をついた。


 その手を、僕は見ていた。ひび割れていなかった。指も、手首も、全部そろっている。あの日、灰になって散った小指の先まで。


『……ワラワは』


 かすれた声だった。


『ワラワは、消えたはずじゃ』


『消えました』


 イーリスが言った。


『そして、戻りました』


* * *


 ウルワシは、周りを見た。


 畝を見て、石垣を見て、円を描いて浮かんでいる光を見て、女神像を見て、最後に僕を見た。僕のところで、目が止まった。


『……その人間は』


『フェイと申します』


 イーリスが答えた。


『そなたを戻す道を作った者です』


 沈黙があった。


『――嘘を申すな』


 ウルワシの声が、跳ね上がった。


『人間が? 人間が精霊の道を作るじゃと? そのような戯言があるか!』


『事実です』


『あり得ぬ! 精霊の理は精霊のものじゃ。人間がどうこうできるものではない!』


 ウルワシは立ち上がろうとして、よろけて、また盥に手をついた。


『……何かの間違いじゃ。其方が作ったのであろう。其方が作って、この童に持たせただけであろう』


『わたくしは、手を貸しておりません』


『嘘じゃ』


『一度も貸しておりません』


 イーリスの声は、静かだった。


『わたくしはこの者に、何であるかも申しませんでした。名も、仕組みも、道理も。この者は何も知らぬまま、四十日かけて十九本作り、十八本を無駄にしました』


『……四十日』


『四十日です』


 ウルワシは、僕を見た。見て、顔を歪めた。


『……認めぬ。ワラワは、人間に助けられたりはせぬ。あの者らがワラワに何をしたか、忘れたわけではない。網を張り、火を焚き、鉄でワラワの子らを叩き落とした者どもじゃ』


『それは、ウルヴェリアの人間です』


『同じじゃ!』


『同じではありません』


* * *


 イーリスが、一歩前に出た。


『ウルワシ。そなた、この畑を見ましたか』


 ウルワシが、顔を上げた。


『この石垣の内側に、幾人おると思います』


『……知らぬ』


『わたくしも数えておりません。数える気になれぬほどおります。……この春、ここにいたのは一人でした』


『一人?』


『そこにおります。緑の、小さいのが』


 コロンが、盥の縁で身を縮めた。


『百五十年、この者だけがここにおりました。土は痩せ、誰も来ず、像は蔦に埋もれておりました。……それが、半年でこうなりました』


『……何をした』


『この者が、耕したのです』


 イーリスは、僕のほうを見なかった。ウルワシだけを見ていた。


『毎朝来て、土を起こし、水を運び、虫を取り、種を蒔きました。それだけです。呪も術も使っておりません。ただ、毎日来ました』


『……それだけで、精霊が集まるか』


『集まりました』


 イーリスの声が、少し低くなった。


『そなたは三百年、あの国を育てました。指図し、見張らせ、罰を与え、飢えぬようにいたしました。……そして、人も精霊も滅ぼしました』


 ウルワシの肩が、動いた。


『滅ぼしたのは人間じゃ』


『そなたも滅びました』


『……』


『三百年かけて、そなたが残したものは何ですか。国は無人です。土は毒です。子らは五百消えました。そなた自身も一度消えました』


 イーリスは、そこで一度、息を置いた。


『この者は十五です』


『……は』


『そこにおるフェイという名の少年は、十五になったばかりです。三百年のうちの、二十分の一にも足りぬ時間しか生きておりません』


『それが何じゃ』


『その少年が、半年でここを作りました』


『そなたは、この者に劣ります』


 風が止まった。


 僕は、何も言えなかった。言えることがなかった。褒められているのだと分かるのに、体のどこも嬉しくならなかった。むしろ、逃げ出したかった。


 ウルワシは、盥に手をついたまま動かなかった。長い間があった。


『……イーリス』


 ウルワシが、顔を上げた。


『其方、いま何と申した』


『そなたは、この者に劣ると申しました』


『その前じゃ』


『……』


『名を申したな』


 ウルワシの声が、震えていた。怒りではなかった。もっと別のものだった。


『其方、人間の名を呼んだな』


『呼びました』


『一人の人間の名を、其方は覚えておるのか』


『覚えております』


『六百年、一人の名も覚えなんだ其方が』


『覚えております』


 ウルワシが、立ち上がった。今度はよろけなかった。


『――大精霊の誇りは、どこへやった』


 空気が、変わった。


『ワラワと其方は、同じところから分かたれた。覚えておるか。大樹のもとで、其方は申したな。人は数である、一人を見ては地が巡らぬと。ワラワは申した、人は子である、手を引いてやらねば迷うと』


『覚えております』


『答えは出なんだ。出ぬまま、ワラワらは散った』


『はい』


『六百年経って、其方は何と言う。一人の童の名を呼んで、それをワラワの上に置くと言うか』


『置きます』


『――大精霊が!』


* * *


 そのとき、音がした。


 木が軋むような音だった。


 イーリスの足元の土が、盛り上がった。白い衣の裾から、根が出ていた。


 僕は後ろに下がろうとして、動けなかった。


 彼女の腕から、枝が伸びていた。指の先が裂けて、そこから細い枝が何本も出て、伸びながら葉をつけていく。肩から背へ、背から翅の付け根へ。白い衣が緑に飲まれていく。


 背丈が伸びた。石垣を越えた。顔が、見えなくなった。


 葉だった。一面の葉だった。


 僕は、その形を知っていた。去年の冬、中庭に降りてきたものと、同じ質感だった。


 枝の一本が、ウルワシの首に巻きついた。


 ウルワシの足が、地面から離れた。


「――イーリス様!」


 僕は走った。


 考えていなかった。畝を踏み越えて、盥を蹴倒して、根の盛り上がった土の上で足を取られて、そのまま前へ倒れ込んだ。倒れ込んだ先に、幹があった。


 僕は、それに抱きついた。


 硬かった。冷たくもなかった。木の肌だった。細かい裂け目があって、頬に当たると痛い。腕を回しても、半分も届かない。葉が顔にかかった。


「イーリス様! 駄目です!」


 声が裏返った。


「その人、今戻ってきたばっかりなんです!」


 自分が何を言っているのか、分からなかった。止めなければいけない、ということだけが分かっていた。


「四十日かかったんです! 十八本失敗したんです! 僕、あの人のこと何も知らないんですけど、でも、せっかく戻ってきたんです!」


 葉が、止まった。


 一枚も動かなくなった。


 それから、枝が緩んだ。


 ウルワシの体が地面に落ちて、咳き込む音がした。


 幹が、細くなっていく。僕の腕の中で、それは元の太さに戻った。抱きついたままだった。白い衣に、顔を押しつけていた。


 僕は、慌てて離れた。


* * *


 イーリスが、立っていた。


 髪が少し乱れているほかは、何も変わっていなかった。翅も、衣も、さっきまでと同じだ。足元の土だけが、掘り返されたように盛り上がっている。


 彼女は、ウルワシを見下ろした。


『――二度と、顔を見せるな』


 敬語ではなかった。初めて聞く言葉遣いだった。


 ウルワシは地面に座り込んだまま、首を押さえていた。何か言おうとして、声が出ないようだった。


 イーリスは、それきり彼女を見なかった。


『――フェイ』


「……はい」


『帰ります』


「え」


『こちらへ』


 僕は、ウルワシのほうを振り返った。


 深紅の衣が、倒れた盥の水の上に広がっていた。彼女はこちらを見ていなかった。土を見ていた。


『フェイ』


「……はい」


 僕は、イーリスについて歩き出した。


* * *


 石垣の門を出るとき、一度だけ振り返った。


 円を描いていた光が、崩れ始めていた。一つ、また一つと、いつもの場所へ散っていく。


 誰も、彼女には近づかなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!

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