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第36話 実り

 ウルワシは、次の日にはいなくなっていた。


 誰も見ていない。コロンも、いつからいないのか分からないと言った。畝の上の光たちも、何も知らないようだった。盥だけが倒れたまま残っていて、僕はそれを起こして、水を汲み直した。


「結界、抜けられるものなの」


『抜けられん』


 コロンは、そっけなく言った。


『弱った他国の大精霊が、気づかれずに出られるものか。……端が、ひと晩だけ開いてた』


「開いてた?」


『開けたんだろう』


 コロンは、それ以上何も言わなかった。


 僕は、祠のほうを見た。二度と顔を見せるな、と言った人が、出口だけは作ってやったらしい。


 北の峠が崩れているという話は、あれから変わっていない。行商の口ぶりも同じだった。ただ、あの国の名前を口にする者は、以前より少し減った気がした。


* * *


 薬草園は、九月に入ってから急に忙しくなった。


 ミズナ草が一斉に穂を上げた。カイエンの実が赤くなった。四番目の畝に蒔いたものも芽を出して、気がつくと五番目を作る場所を探していた。


 休みの残りの数日は、朝から日が落ちるまで畑にいた。休みが明けてからは、授業の前と放課後に通った。土を起こして、水を運んで、実を採って、干して、束ねる。


 一人ではなかった。


『そっちだ』


「どっち」


『石垣寄り。三つ目の株の根元。虫が入ってる』


 僕がそこを掘ると、いた。そういうことが、一日に何度もあった。


 光たちは土を掘れないし、水も運べない。けれど、どの株が弱っているか、どこが乾いているか、どこに虫がいるかは分かる。分かって、僕の周りを回って、教えてくれる。


 言葉は通じない。下位の精霊は言葉を持たない。それでも、同じ場所を三度回れば、そこに何かあるということだ。


 僕はそれを一つずつ掘って、対処して、次の光について行く。そうやって畑を一周すると、半日が過ぎている。


 三日目に気づいた。光の数が、また増えていた。


* * *


 夕方、水を撒き終えて、僕は畝の間に座り込んだ。


 汗が顎から落ちて、土に丸い跡を作った。腕が張っている。肩も、腰も、膝も。でも、桶を四往復しても息が上がらなくなっていた。夏の初めは二往復で腕が震えていたのに。


 エプロンの紐が、緩んでいた。


「……あれ」


 紐を結び直そうとして、指が余った。


「エプロン、伸びたかな」


『伸びてない』


「伸びたよ」


『伸びてない』


 コロンは、それ以上何も言わなかった。


* * *


 エスタは、三日に一度くらい来るようになった。


 治療科の実習が終わったあと、門のところに立って、しばらく畑を見ている。用があって来るわけではないらしい。最初の頃は、桶を置いて帰るだけだった。


 そのうち、中まで入ってくるようになった。


「それ、根が浅いわよ」


「そう?」


「教本に書いてあるもの。ミズナ草は水をやりすぎると根が上に来るの」


「じゃあ減らす」


「減らしすぎても駄目」


「どっちなんだよ」


「自分で考えなさい」


* * *


 九月の半ばだった。


 僕が畝の端でしゃがんで根の張り方を見ていたら、頭の上に影ができた。顔を上げる前に、頬を拭かれた。


 布だった。


 エスタが、手ぬぐいで僕の顔の汗を拭いていた。


 僕は、固まった。


「……何」


「え」


「何、その顔」


「いや」


 エスタは手ぬぐいを引っ込めて、それから何事もなかったみたいに立ち上がった。


「汗、目に入るでしょう」


「……うん」


「それだけよ」


「うん」


 エスタは畝の向こうへ行って、しゃがんで、カイエンの木の枝を見始めた。


 僕は、その背中を見ていた。心臓が速かった。嬉しいとかではない。もっと別の速さだった。


『何してる』


 コロンが肩に来た。


「コロン。エスタ、最近やさしくない?」


『……』


「何かあったのかな」


『……お前は、もう少し考えろ』


* * *


 夜、家に帰って、僕は物置に寄った。


 乾燥棚から束を下ろす。棚の真ん中には、相変わらず濁った緑の一本がある。僕はそれを手に取った。


 去年の冬に作ったものだ。沈殿していて、振っても澄まない。今なら十倍まともなものが作れる。なぜ捨てるなと言われたのか、僕はまだ知らない。


 ただ、この夏のあいだに、一つだけ分かったことがある。


 うまくできたかどうかと、大事かどうかは、別の話だ。


 十九本目の水路は、出来がいいから意味があったのではない。あれを使える人がいたから、意味があった。


 この一本にも、たぶん同じことが言える。誰にとって、なのかは、まだ分からない。


 僕は瓶を棚に戻した。真ん中の、一番目につくところに。


「フェイ。あんた、ちょっとこっち来なさい」


 台所から母の声がした。


「なに」


「いいから」


 僕が台所に入ると、母は僕の腰のあたりを見て、それから腕を見て、最後に顔を見た。


「あんた、痩せたわね」


「……そう?」


「そうよ。顎のとこ」


 母は自分の顎を指でつまんでみせた。キアリーと、同じ仕草だった。


「でも、去年よりはマシね」


「去年?」


「去年の冬のあんた、骨みたいだったもの」


 母は鍋の蓋を開けながら言った。


「ちゃんと食べて、ちゃんと動いてる顔してるわ。今のが一番いい」


「……うん」


「豆、食べる?」


「食べる」


* * *


 九月の終わりに、最初の収穫をした。


 ミズナ草の束が、小屋の梁に吊りきれなくなった。カイエンの実は籠に三つ。乾かしたものと、絞ったものと、そのまま置いておくものに分けた。根も掘った。去年の三倍あった。


 ゲルダ先生が見に来て、しばらく黙っていた。


「……フェイ君。これ、一人でやったのかい」


「いえ」


 僕は、畝の上を指した。先生には、見えない。


「……そうかい」


 先生はそれでも、その方向をしばらく見ていた。


「先生の師匠の話、覚えてます」


 僕は言った。


「訊けばよかったって、言ってましたよね」


「言ったね」


「僕、訊きます。分からないことがあったら、全部」


 先生は笑った。


「そうしな。私はまだ生きてるよ」


* * *


 収穫が終われば、次に何を蒔くかを決めなければならない。


 僕は手帳を開いて、四つ書いた。


 一つ目は、山芹だ。


 若芽を発酵させて、上澄みだけを使う。疲れを抜く配合の主材料になる。


 一年生のとき、一度試して諦めた。発酵の温度を保てなかったからだ。少し高いと腐り、少し低いと止まる。当時の僕には、その幅を測る手がなかった。


 この夏、毎日桶を運んで、夜に手が痺れて眠れない日が何度かあった。そのたびに思い出した。


 疲れに効く薬があれば、と。


 作りたい理由が、ようやく自分の側にできた。


 二つ目は、ハシバミの苗だ。


 樹皮を主軸にして根を煮詰めるやり方がある。これも一年生のときに諦めた。木がなかったからだ。


 石垣際に一本植える。使えるようになるまで、たぶん何年もかかる。


 それでも、植えておかないと何年も先に始まらない。


 三つ目は、陰陽草。


 日向では枯れる。日陰でしか育たない。日向と陰の字を両方持っているくせに、陽に当てると三日で死ぬ。名前をつけた人間は、よほど腹が立っていたのだと思う。


 魔力回復薬の材料になる。宵闇茸ほどではないが、あれよりずっと安く手に入る。


 小屋の北側に、日の当たらない場所がある。そこを使うことにした。


 先輩に言ったら、「じゃあ来年から素材代が浮くね」とだけ返ってきた。


 四つ目は、名前がない。


 収穫の日の夕方、コロンが僕の前に何かを落とした。


 種だった。三粒。


 黒くて、平たくて、片方の端が尖っている。図鑑で見たことのない形だった。


「なにこれ」


『蒔け』


「だから、なにこれ」


『蒔けと言ってる』


「何に効くの」


『知らん』


「名前は」


『知らん』


「どこで手に入れたの」


『……知らん』


 三つとも知らんと言うくせに、種だけは落としていった。


 僕はそれを拾って、しばらく手のひらの上で転がしていた。


「いつから持ってたの」


『……長い』


「長いって」


『長い』


 コロンはそれきり何も言わなかった。


 僕は畝の端に小さく場所を取って、そこへ三粒を蒔いた。木札を立てて、名前を書いた。


〈コロンの草〉


『ふざけてるのか』


「名前、知らないって言ったじゃん」


『……そうだな』


* * *


 種を蒔いたあと、僕は五番目の畝を起こしていた。


 鍬を振り下ろすたび、土が返る。石垣の内側は、いつのまにか光でいっぱいだった。畝の上、葉陰、像の肩、井戸の縁。どこを見ても何かが漂っている。数える気にならない。


 コロンが、僕の肩に下りてきた。


『フェイ』


「なに」


『増えすぎだ』


「まだ言ってる」


『言う。夜も明るい。どこにも落ち着けん』


「葉陰は?」


『三人いる』


「じゃあ像の後ろは」


『五人いる』


「井戸の中は」


『……それは、さすがに入らん』


 僕は笑った。


『笑うな』


「ごめん」


『前は、ここには誰もいなかった』


「うん」


『静かだった』


「うん」


 コロンは、しばらく黙っていた。


『……まあ』


「まあ?」


『何でもない』


「コロン」


『何だ』


「冬になったら、青いやつ作るよ」


 葉陰の中で、光が止まった。


「材料も工程も覚えてる。去年より腕も上がってると思う。畑が休みに入ったら、そっちに時間を全部回せるから」


『……』


「作り直すって言ったの、去年の冬だよ。もう半年以上経つ」


『急がなくていい』


「言うと思った」


『言うに決まってるだろう』


「でも作るよ」


『……そうか』


 コロンは葉陰へ戻っていった。


 三人いるはずのその葉陰に、四つ目の光が入っていくのが見えた。


 日が落ちた。僕は道具を片付けて、門の閂を下ろした。空には、また丸くなりかけた月が出ていた。


◆


 ウルヴェリアには、草の一本も生えなかった。


 大精霊はこの一月、国の端から端まで歩いた。地脈を通した。細く、太く、浅く、深く。三百年やってきたことを、順番に全部やった。


 土は応えなかった。


 通した先から、流れが濁る。清いものを送り込んでも、地面に触れた瞬間に色を変える。黒くはならない。ただ、濁る。井戸に石を落としたときの、あの濁り方だった。一度濁ったものは、二度と澄まない。


* * *


 土の中には、まだ粉が残っている。


 精霊を殺すために撒かれたものだ。鉄も残っている。柵も、杭も、折れた刃も。埋まったまま朽ちて、それでもそこにある。


 恨みも染みている。人が精霊を憎んだ分か、精霊が人を憎んだ分か、混ざりきって区別がつかない。流れを通すたびに、それが逆から上がってくる。


* * *


 地脈を根こそぎ引き抜かれた土地は、枯れるのではない。乾く。


 水気が一息に抜けて、百年ぶんの風化が三月で来る。梁が干からびて砕け、屋根が落ち、漆喰が粉になって剥がれ落ちる。人が出ていったあとの街ではなく、百年前に捨てられた街の姿になる。


* * *


 街道は、まだ残っていた。


 三百年前、大精霊が場所を決めた道だ。石畳の継ぎ目に草が生えていない。家は屋根がすべて落ちて、壁だけが立っている。焼けた跡のあるものと、風化しただけのものが、同じ通りに並んでいた。


 井戸の底には、土が詰まっていた。


 広場に出た。祭りのたびに人が集まり、列を作り、供物を並べ、順に頭を垂れた場所だ。列の並べ方も、間隔も、始める刻限も、すべて大精霊が決めた。決めなければ乱れると思ったからだった。


 敷石が、真ん中から割れていた。


* * *


 王城まで、半日かかった。


 門は倒れていた。中は外よりも荒れている。壁の焦げ跡。床に散らばった鉄の破片。最後は、この中で殺し合ったらしかった。


 廊下を歩いた。


 この廊下を、大精霊は何度も通った。通るたびに人が寄ってきた。膝をつく者。額を床につける者。泣きながら手を合わせる者。それを当然だと思っていた。与えているのだから当然だと。


 いまは、足音だけが天井に返ってくる。


 奥の扉の前で、大精霊は立ち止まった。


* * *


 扉は、押すと軋んで半分だけ開いた。


 天井が落ちていた。開いた穴から月が見えて、冷たい光が床の瓦礫に落ちている。その奥に、玉座があった。


 大精霊は、そこへ歩いていった。


* * *


 麦の採れなかった年があった。


 種を蒔く時期を三十日ずらせと大精霊は言い、人々は半信半疑で従い、その年の麦は倍採れた。広場に人が集まって、地面に額をつけて泣いた。子を抱き上げて高く掲げる母親がいた。


 井戸を掘る場所を教えた。水が出た。疫病の兆しを告げ、薬草を煮させた。死ぬはずの者が生きた。三人生まれれば、三人育つようになった。


 人が増えた。家が増え、道が伸び、街の外にまた街ができた。祭りの列が広場に入りきらず、通りまで伸びた。


 大精霊は、それを高いところから見ていた。


* * *


 盟約を交わしたのは、二十を出たばかりの王だった。


 名を、ハルディンといった。


 この玉座の前で、王は大精霊に手を差し出した。これからも共に、と言った。この国を、人と精霊のあふれる豊かな国にしましょう、と。


 大精霊は、その手を取った。


* * *


 百年ほど経って、ハルディンの血を引く王が、富を自分のものだと言い始めた。与えられた実りを、己の力で得たものだと言った。部下が告発し、王は断罪された。


 そこから、人は人を縛り始めた。守らせるための決まりが増え、増えるたびに大精霊への疑いも増えた。なぜ従わねばならないのか。なぜ見張られねばならないのか。


 大精霊は、罰を重くした。重くすれば改まると思ったからだった。


 改まった。


 改まって、三百年めに、人は網で精霊を捕えた。


* * *


 玉座の背もたれに、罅が入っていた。


 肘掛けは片方が落ちて、床に転がっている。座面には瓦礫が積もり、月の光がそこだけを白く照らしていた。


 大精霊は、その前に立っていた。


 問う相手は、もういない。三百年の相手はみな死んだ。子らは五百消えた。国は無人で、土は拒む。ヴェルダントの大精霊は、二度と顔を見せるなと言った。


 あの畑には、数えきれないほどの子らがいた。


 この国には、一人もいない。


* * *


 雨の日のことを、大精霊は思い出していた。


 泥の上に膝をついた童が、割れかけた手を両手で掴んだ。


 温かかった。


 振り払った。触るな、下賤の者め、と言った。


* * *


 三百年前、この場所で、若い王が手を差し出した。


 大精霊は、その手を取った。


 差し出された手は、同じ形をしていた。


「――ハルディン」


 大精霊は、玉座に向かって手を伸ばした。


 指が触れる前に、音がした。


 罅が背もたれの上から下まで一息に走り、玉座は崩れた。石と石の擦れる音が天井の穴へ抜けて、消えた。あとには瓦礫の山だけが残り、月の光がそこに落ちていた。


* * *


 大精霊は、しばらく動かなかった。


 その表情を見る者は、どこにもいなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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