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第34話 十九本目

 帰った翌日、僕は昼まで起きられなかった。


 体のあちこちが痛かった。肘と肩は色が変わっていて、指で押すと鈍く響く。エスタが治したのは毒と裂傷だけで、打ち身までは回していなかったらしい。四人分を六日、あの人はずっとそれをやっていた。


 昼過ぎに家を出て、薬草園の門を開けた。


『遅い』


 葉陰から、緑の光が飛んできた。


「ただいま」


『六日だぞ』


「四日の予定だったんだけどね」


『二日多い』


「うん」


 コロンは僕の肩の高さで止まって、しばらく動かなかった。それから、ふん、と鼻を鳴らすような気配を漂わせて、畝のほうへ下りていった。


「コロン。学園長に、喋ったでしょ」


『三言だけだ』


「西、穴、四人」


『余計なことは言ってない』


* * *


 畑は、荒れていなかった。


 六日空けたのに、雑草がほとんどない。水も足りている。四番目の畝の土は、出ていくときより湿っていた。


「……これ」


『みなでやった』


 コロンは、そっけなく言った。


『土を掘るのはできん。水を運ぶのもできん。だが、虫は追える。乾きそうなところは教えられる。……教えても、誰も掘らんがな』


「誰かが掘ったってこと?」


『知らん』


 門の閂のところに、桶が置いてあった。からになっていて、外側が乾いている。置かれてから何日か経っているのが分かった。僕はそれを拾って、井戸のところへ持っていった。


* * *


 硝子の壺は、王都で一番大きいのを買った。


 薬品店の主人が「何に使うんだい」と聞いたので「水を入れます」と答えたら、変な顔をされた。八千ネイだった。キアリーから受け取った金だ。


「お前、いくらいる」


 昨日の別れ際、キアリーはそう聞いた。


「分からない。素材代がどれくらいかかるか」


「じゃあ十万持っとけ」


「多いよ」


「足りないよりいいだろ」


 そう言って、押しつけられた。袋を管理する役を押しつけられた男は、その日のうちに管理を始めていた。


 壺に、湖の水を移した。


 瓶から慎重に注いで、株を根の塊ごと沈める。それから、持ち帰った土を底に敷いて、石を三つ置いた。あの湖の岸から拾ってきたものだ。


 葉は、水の中でまだ光っていた。往復に六日かかっても、少しも弱っていない。


 壺を、小屋の窓辺に置いた。


* * *


 日が落ちてから、僕は十八本目に取りかかった。


 手順は、もう体が覚えている。摘んできた満月草の葉を刻んで、乳鉢で潰す。湖の水で溶く。土を少しと、石を削った粉を加える。火にかけて、冷まして、漉す。


 四十日ほどのあいだ、十七回やって、十七回とも同じ結果だった。十八回目も、同じだった。


 濁った水ができた。明かりに透かしても、何も起きない。振っても、置いても、何も変わらない。効きもしないし、害もない。ただの水だ。


 僕は栓をして、棚に置いた。置いてから、しばらく机に突っ伏していた。


 材料は、揃えられるだけ揃えた。それでも、何も起きない。


『顔を上げろ』


「なに」


『いいから上げろ』


 顔を上げた。窓辺が、光っていた。


 満月草が、咲いていた。


 夕方までは蕾だった。硬く閉じた、小指の先ほどのものが葉の付け根に並んでいた。それが、全部開いている。


 花は、丸かった。花弁の形が分からないくらい、びっしりと重なって丸くなっている。色は葉と同じ、灯りをつけた紙のような、白と黄の中間。水の中で、それが光っていた。


 小さな満月が、水の中に十いくつも浮かんでいる。窓の外にも本物の満月が出ていて、壺の水面にその光が落ちていた。


 僕は、椅子から立ち上がった。


 水面が、揺れていた。


 風はない。壺を触ってもいない。それなのに、水面の一点だけが揺れている。花の光が水面に当たっているところだった。


 顔を近づけた。


 揺れている場所の向こう側が、ずれていた。


 壺の向こうには小屋の壁がある。棚があって、瓶が並んでいる。そのはずだった。水面の揺れているところを通して見ると、そこに壁がなかった。


 暗かった。暗くて、遠かった。何かが漂っている。小さな光のようなものが、いくつも。


 湖と、同じだった。


 僕は、その場から動けなかった。


 あの夜、水面が揺れて、世界が変わった。花畑が広がって、光が漂っていて、夜が来ていなかった。


 今、目の前にあるのは、その端切れのようなものだ。小指の先ほどの穴が、壺の水面に開いている。


――繋がってる。


 手記の言葉を思い出していた。


 あれは器ではない、中身でもない、境目じゃ。


 満月草は、繋ぐ素材だ。ゲルダ先生がそう言った。二つのものを、混ざらずに繋ぐ。


 混ざらずに。


 僕は、ずっと混ぜていた。


 刻んで、潰して、煮て、漉していた。混ぜれば別のものになる。別のものになれば、境目はなくなる。境目がなくなったら、繋ぐも何もない。


――馴染ませの、逆だ。


 去年から僕がやってきたのは、境目を溶かすことだった。壊れているものと壊れていないもののあいだを探して、そこをなくす。


 今度は、逆をやればいい。境目を、なくさずに保つ。


* * *


 僕は作業台に戻って、そこで手が止まった。


――で、どうするんだ。


 分かったのは、やり方の方向だけだ。混ざらないまま繋げばいい。それは分かった。でも、何と何を繋ぐのか。繋いで、それをどうするのか。


 机の上に、老婆の三つを並べ直した。


 その者が在った土地に生きていたもの。


 これが、ずっと分からなかった。ウルヴェリアの土は手に入らない。峠は崩れていて、誰も入れない。だから代わりに湖の土と石を持ち帰ったけれど、あれはあの人の国のものではない。理屈が通っていないのは、自分でも分かっていた。


 けれど。


 あの人は今、どこにいる。


 ウルヴェリアではない。


 あちら側だ。消えたときからずっと、水の下の、あの暗くて遠いところにいる。


 なら――その者が在った土地というのは。


 僕は、窓辺の壺を振り返った。


 満月草は、こちら側とあちら側の境目に生えている。湖の水も、あの土も石も、その境目のものだ。さっき水面に穴が開いたのは、それが向こう側に半分かかっているからだ。


 あの湖は、あの人が今いる場所に、いちばん近い岸だった。


 二つは、手元にあった。


 土地のものは、湖の水と土と石。繋ぐものは、満月草。


 二つ目の、その者を憶えている者の声だけが、僕の手元にない。


 それに、できたものを、あの結晶に飲ませるわけではない。核には口もないし、そもそも触れてはならないと言われている。小指の先ほどの穴が開いたところで、そこから何が出てくるというのか。


 僕は、椅子に座った。


『できたのか』


「できてない」


『さっき騒いでたろう』


「分かったけど、分からない」


『何だそれは』


「何だろうね」


 コロンは、それ以上聞かなかった。


 しばらくして、僕は立ち上がった。


「出てくる」


『どこへだ』


「祠」


『こんな時間にか』


「うん」


『聞きに行くのか』


 少し考えた。


「聞かない」


『では何をしに行く』


「顔を見に」


 コロンは、何も言わなかった。


* * *


 夜の石段は、昼と同じだった。


 壁の燭台に火が入っていて、明るい。精霊が上ったり下りたりしている。数は昼より多いかもしれない。二百七十段を下りきって、扉に手をかけた。錠は、かかっていなかった。


 扉を細く開けて、僕は中を覗いた。


 部屋の奥に、結晶が浮かんでいた。


 ランプの明かりを受けて、鈍く色を変えている。赤から青へ、青から緑へ。雨の夜に見たときと、何も変わっていなかった。


 その正面に、白い衣の背中があった。


 床に、直接座っていた。膝を抱えていない。本も持っていない。ただ、結晶のほうを向いて座っていた。


 僕は、扉から手を離せなくなった。


 本の山は、部屋のあちこちにある。棚に入りきらなかったものが、床に何本もの塔を作っている。漁師の手記も、菓子の作り方も、王都の市場の報告書も。


 そのどれにも、手が伸びていなかった。


 あの人は、毎日読んでいた。三日でも四日でもなく、半年ずっと読んでいた。学園長が石段を下りるたび、木箱を開けて、上から一冊ずつ確かめていた人だ。


 その人が、本を開かずに座っている。


 いつからだろう、と思った。たぶん、あの雨の日からだ。


 僕は、音を立てないように扉を閉めた。


 石段を上りながら、考えていた。


 僕は、ウルワシを知らない。会ったのは一度きりだ。倒れているところを見て、話を聞いて、手を握ろうとして、振り払われた。下賤の者と言われた。それだけだ。あの人がどんな声で笑うのかも、何を大事にしていたのかも、僕は何も知らない。


 知らない相手のための薬は、作れない。


 夏の初め、僕はそれを学んだはずだった。


 うまく作ろうとするのではなく、飲む人のことを考える。エスタの魔力の減り方を考えたから、あの薬はできた。


 十七本も作って、一本も形にならなかったのは、当たり前だった。


 でも、と思った。


 あの結晶を戻したい人を、僕は知っている。


 半年ずっと本を読んでいた人が、今は読んでいない。あの雨の日から、結晶の前に座っている。


 放っておきなさい、と言った人だ。人が知るものではありません、と言った人だ。手は貸しません、と言った人だ。


 その人が、座っている。


――そうか。


 足りない一つが、あそこにいる。


 その者を憶えている者の声。


 ウルワシを憶えている者は、この世界にあの人しかいない。国は無人で、王も民も死に、子らは消えた。残っているのは、同じところから分かたれた一人だけだ。


 だから、僕が作るのは、あの結晶に効く薬じゃない。


 あの人が、使えるものだ。


 石段の途中で足を止めて、そこから僕は走った。


* * *


 小屋に戻ったのは、真夜中だった。


 窓辺の花はまだ開いていた。月は天のてっぺんを少し過ぎたあたりにある。


 僕は道具を全部片付けた。乳鉢も、焜炉も、漉し布も、棚に戻した。今夜は使わない。


 かわりに、一番小さな硝子瓶を出した。親指ほどの、細長いやつだ。


 そこに、湖の水を半分入れた。


 刻まない。潰さない。煮ない。満月草の葉を一枚、根元から切って、そのまま瓶の中に入れた。水の上に浮かべるのではなく、ちょうど半分の高さで留める。


 葉が、水を上下に分けた。


 上には、何も入れない。空のままだ。空のままにしておくのが、たぶん正しい。上は、こちら側ではないほうだから。


 僕は、瓶を両手で包んだ。


 目を閉じる。息を吸う。境目を探す。


 いつもと同じところまでは、同じだった。水と葉のあいだに、はっきりとした境がある。指で触れなくても分かる。去年からずっと、僕はそこを探してきた。探して、溶かしてきた。


 今度は、溶かさない。


 押さえる。


 手のひらが、熱くなった。


 いつもの馴染ませは、力を通すと境目が緩む。緩んで、混ざって、一つになる。


 今度は、力を通すほど、境目が硬くなった。水と葉のあいだに、薄い膜のようなものができていくのが分かる。薄くて、強い。触れているのに、混ざらない。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。


 目を開けたとき、月は西に傾いていた。瓶は、僕の手の中にあった。


 下半分に、湖の水。真ん中に、満月草の葉が一枚。上半分は、空。


 空のはずなのに、そこが暗かった。瓶の向こうの棚が、見えなかった。上半分だけ、夜の色をしていた。


 明かりに透かしても、透けなかった。


「……できた」


『何ができた』


「分からない」


『馬鹿か』


* * *


 夜明け前に、僕はもう一度石段を下りた。


 扉を開けると、白い衣の背中が同じ場所にあった。


「イーリス様」


 振り返った顔に、少しだけ驚きがあった。


『……このような刻限に』


「できました」


 僕は、瓶を差し出した。


 イーリスは立ち上がって、裾を払って、こちらへ歩いてきた。


 僕の手のひらの上を覗き込む。


 そして、手を伸ばした。


 届く前に、止まった。


 指が瓶の上で開いたまま、動かなくなった。


 もう一度伸ばして、また止まった。三度目も同じだった。触れるのをやめて、彼女は手を引いた。


「……触らないんですか」


『これが何であるかを、まだ存じませぬ』


 僕は、その言葉の意味が分からなかった。


 この人は、僕が何を作ろうとしているのか最初から知っていたはずだ。名も、仕組みも、道理も申しませんと言ったのは、知っていて言わないということだと思っていた。


 イーリスは、瓶から目を離さなかった。


『――一つだけ、伺ってもよろしいですか』


 僕は、返事をしそこねた。


 この人が、僕に許しを乞うたことは一度もない。去年からずっと、話は決まったことを告げる形で来た。放っておきなさい。人が知るものではありません。手は貸しませぬ。


『よろしいですか』


「あ、はい。どうぞ」


『初めから申しなさい』


「初めから、ですか」


『初めからです。何を使い、どのようにして、これができたか』


 僕は、順に話した。


 十七本目まで何も起きなかったこと。十八本目も同じだったこと。窓辺の壺で満月草が咲いたこと。花の光が水面に落ちて、その一点だけ向こう側が見えたこと。混ぜていたのが間違いだったと気づいたこと。


 イーリスは、一度も遮らなかった。


 かわりに、短い質問を何度も挟んだ。


『その花は、そなたが育てたものですか』


「株ごと持ち帰りました。西のダンジョンの、中層の湖です」


『湖の水は、誰に汲ませましたか』


「自分で汲みました」


『土と石は』


「それも自分で」


『その湖で、誰かに会いましたか』


 僕は、少し考えた。


「……水の精霊がいました。中位の」


 イーリスの翅が、動いた。


『話しましたか』


「いえ。歌ってました」


『そなたは、何か申しましたか』


「あの、としか」


『それだけですか』


「それだけです」


『何か、渡しましたか』


「渡す?」


『渡したか、と伺っております』


「……何も」


『約束は』


「してません」


『求められたことは』


「ないです」


 僕は、そこでようやく引っかかった。


 さっきから、この人は同じことを何度も形を変えて聞いている。


「イーリス様」


『まだです』


「はい」


『家に持ち帰ってから、誰かと話しましたか。人でも、精霊でも』


「コロンに、できたって言いました」


『それは、できたあとですね』


「あとです」


『……では、この瓶に力を通したのは』


「僕です」


『一人で』


「一人です」


* * *


 長い沈黙があった。


 イーリスは、四度目に手を伸ばした。


 今度は、止まらなかった。


 指先が瓶に触れて、上半分の夜の色が、わずかに波打った。


『……そなたが、一人で』


「はい」


 彼女は、しばらくそのままでいた。


 やがて、瓶から指を離した。


 離した手を、自分の胸のあたりまで戻して、そこで一度握った。


『薬では、ありませんね』


「はい」


『飲むものでも、掛けるものでもない』


「たぶん」


『これは、水路です』


「……みずみち」


『そなた、歌を聞きましたか』


「聞きました。さっき言った、湖の精霊が」


『何と歌っておりました』


「消えたものは、みな、いつかは帰るって。向こうから、水の下を通って」


 イーリスは、目を閉じた。


『そのとおりです』


 そう言ってから、彼女は結晶のほうへ目をやった。


『けれど、あの者の国には、もう水がありません。毒に染み、地脈も断たれ、通る道が失われました。……だから、帰ってこられぬのです』


 僕は、手のひらの上の瓶を見た。下半分の水と、一枚の葉と、夜の色をした上半分を。


『そなたが作ったのは、そのかわりの道です。短い。ほんの、指ほどの長さでしょう。……それでも、道です』


 イーリスは、そこで一度言葉を切った。


『……人が、これを作りますか』


 僕は、答えられなかった。


 地上では、そろそろ夜が明けるころだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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