第32話 届かせる
西のダンジョンの入り口は、丘の斜面にあいた裂け目だった。
乗合馬車で半日、そこから歩いて一刻。草の生えた斜面に、縦に裂けたような穴が口を開けている。人がやっと二人並んで通れるくらいの幅で、中は暗い。
思っていたより、地味だった。
「もっと、こう」
僕は言った。
「門とか、あるのかと思ってました」
「誰が作るんだよ」
メリィ先輩が言った。
「穴だよ、ただの」
* * *
浅層は、明るかった。
天井のところどころに光る苔がついていて、通路全体が薄く青い。足元は乾いた岩で、歩きやすい。十歩ごとに、メリィ先輩が足を止める。止まって、耳を動かす。長い耳が、ぴくりと前を向いたり、後ろを向いたりする。
「行っていい」
「はい」
それの繰り返しだった。
* * *
最初の魔物は、入って半刻ほどで出た。
犬くらいの大きさの、甲羅のあるやつだった。通路の曲がり角から出てきて、こちらを見て、低く身構える。
「キアリー」
「はい」
「一人でやりな。あたしは見てる」
正直に言うと、僕はキアリーの剣をちゃんと見たことがなかった。
稽古を眺めたことはある。木剣を振っている姿も、汗まみれで帰ってくるところも、二年見てきた。けれど、本気で何かを斬るところは見たことがなかった。
速かった。
甲羅のあるやつが跳ねて、キアリーが体を落として、次の瞬間には相手が転がっていた。何をしたのか分からなかった。
「浅い」
メリィ先輩が言った。
「え」
「浅いって言ったんだよ。もう一回」
転がったやつが、起き上がった。キアリーの顔から余裕が消えた。
二度目は長かった。
先輩が横から声を入れる。足が遠い。腰が高い。踏み込む前に肩が動いてる、読まれるよ。キアリーは言い返さない。息だけが荒くなっていく。
三度目で、終わった。
音が違った。さっきまでの、何かを叩いた音ではない。もっと短くて、乾いていた。
「うん。それ」
キアリーは剣を下ろしたまま動かなかった。肩が上下している。
「……今の、なんですか」
「今のが、あんたの剣だよ」
僕は、その後ろで荷物を背負って立っていた。
キアリーって、すごいんだな、と思った。二年、隣にいて、今日初めて思った。
* * *
浅層は、奥へ行くほど変わっていった。
最初は乾いた岩だった足元が、だんだん湿ってくる。天井の苔の青が、途中から緑がかった。壁の裂け目に、シダに似たものが生え始める。葉の裏が白い。触るなと言われたので触らなかった。
匂いも変わった。
半刻に一度くらい、甘ったるいものが漂ってくる。菓子屋の前を通ったときのような匂いだ。そう言ったら、メリィ先輩に頭をはたかれた。
「息を止めな。三十数えるまで吸うな」
「これ、毒ですか」
「甘いのは全部毒だと思っとけ。ここのは軽いから、吸っても頭が痛くなるくらいだけどね」
* * *
魔物は、その後も出た。
半分以上は、出会わずに済んだ。先輩が耳を動かして足を止めると、僕らはその場でしゃがむ。しばらくすると、通路の先を何かが横切る音がして、遠ざかっていく。
「行っていい」
避けられるものは、全部避けた。
避けられないものだけ、キアリーが前に出た。
奥へ行くほど、形が妙になっていった。
最初のは甲羅のある犬のような姿だったが、次に出たのは脚が六本あった。その次は、目が苔と同じ色をしていた。壁に貼りついていたやつは、剥がれるまで壁の模様にしか見えなかった。
「なんで、こんな形なんですか」
「ここで生きてるからだろ」
先輩は、あっさり言った。
「暗いところにいれば目が減るし、毒の中にいれば毒が効かなくなる。何百年もやってりゃ、そりゃ形も変わるよ。……外の獣と比べるから妙に見えるだけだ」
キアリーには、そのたびに声が飛んだ。
肩が先に動いてる。足を置く場所を見てから踏め。二本目の脚を見てない。壁を背負うな、退がる場所がなくなる。
キアリーは一度も言い返さなかった。
三体目を倒したあと、荷物を背負い直しながら小さく言った。
「……全部当たってんだよな」
* * *
その日は、日が落ちる前に止まった。
正確には、外の日が落ちたかどうかは分からない。ダンジョンの中は、朝も夜も同じ色をしている。メリィ先輩が「今日はここまで」と言って、通路の脇の窪みへ入っていった。
行き止まりの、袋のような空間だった。
入り口が狭くて奥が広い。天井から水が落ちていて、岩の窪みに溜まっている。
「覚えとけ。セーフティエリアだ」
「安全なんですか」
「魔物が入ってこない。どのダンジョンにも、こういう場所がいくつかある」
「なんで入ってこないんですか」
「理由はいろいろだよ」
先輩は、壁を軽く叩いた。
「魔素の流れが変わってて居心地が悪いとか、魔物が嫌う草が生えてるとか、そもそも通れない構造だとか。調べて分かってる場所もある」
「ここは」
「分かってない」
「調べようがないんだよ」
先輩は、荷物を下ろしながら言った。
「中に入るだけで何日もかかる場所だぞ。学者が腰を据えて観察できるところじゃない。……こういう、理由が分からないまま使われてる場所は、あちこちにある」
「使っていいんですか。理由が分からないのに」
「昔から誰も襲われてないからね」
僕は、荷物を下ろした。
下ろした瞬間に、膝が笑った。
エスタも壁際に座り込んで、しばらく動かなかった。治療科の実習で歩き慣れているはずの人が、肩で息をしている。
「……つかれた」
「うん」
「何が疲れるのか分からないのが、いちばん疲れる」
メリィ先輩は、平気な顔で靴を脱いでいた。
「先輩、疲れないんですか」
「疲れるよ」
「そうは見えないです」
「慣れだよ。あと、あんたら荷物が重すぎる」
キアリーだけは、座らなかった。
窪みの奥の、少し広くなっているところで剣を抜いて、構えて、止まって、また構え直していた。声は出していない。同じ動きを何度も繰り返している。
肩が先に動いてる、と言われた動きだ。
* * *
火は焚けなかった。
薪がないし、煙の行き場もない。かわりに、持ってきた焜炉に炭を三つだけ並べた。
僕は鍋を出して、水を入れた。
「何やってんの」
「スープ作ります」
「スープ」
携帯食は、干した肉と、固いパンと、豆を潰して固めたものだ。齧れば腹には溜まる。ただ、冷たい。
僕は干し肉を細く裂いて湯に落とし、豆の塊を崩して入れた。塩をひとつまみ。乾かした葉を少し。カイエンの実の粉を、耳かき一杯だけ。
煮えるのを待つあいだ、誰も喋らなかった。
椀に分けて配った。
「……こんなものしか作れないんですけど」
僕は言った。
「材料がこれだけなので」
メリィ先輩は、携帯食を齧りながら椀を受け取った。
齧って、すすって、それからしばらく黙っていた。
「こういうのがいいんだよ」
「え」
「ダンジョンでこれが出てくるのが、いいんだって。……あたし、何年もやってて初めてだよ、中で温かいもの飲んだの」
エスタが、椀を両手で持ったまま言った。
「おいしい」
「そう?」
「おいしいわよ」
キアリーが奥から戻ってきて、何も言わずに三杯飲んだ。
腹が温かくなると、急に喋れるようになった。
「あの、さっきの六本脚のやつ」
「ん」
「あれ、目が見えてたんですかね」
「見えてないよ。音だけ」
「じゃあ、僕らが黙ってたら」
「気づかれない。だからしゃがめって言ったんだ」
「……先輩、そういうの全部分かるんですね」
「二回来てるからね」
「二回で分かるものですか」
「分からないよ」
先輩は、椀の底を舐めるように傾けた。
「だから一回目は死にかけた」
僕は、それから少し黙っていた。
黙って、周りを見た。
「あの」
「なに」
「ここ、精霊がいますね」
三人が、僕のほうを見た。
窪みの天井の近くに、光が二つ浮かんでいた。薬草園のものより小さくて、色が薄い。ずっと同じ場所にいる。近づいてくる気配もない。
通路を歩いているあいだも、時々見かけた。数は多くない。ただ、いないわけではなかった。
「見えるんだ、あんた」
「はい」
「ふうん」
先輩は、天井のほうを見上げた。
見えていないはずだが、しばらくそうしていた。
「まあ、いるだろうね」
「いるんですか」
「街中よりは、こっちのほうが居心地いいんだろ」
僕は、そのまま天井を見ていた。
* * *
翌朝――と呼んでいいのかは分からないが、僕らはそこを出た。中層に入ったのは、二日目の昼過ぎだった。
境目は、はっきりしていた。空気が重くなる。苔の色が青から緑がかった黄に変わって、岩肌が濡れている。歩くと、靴の底が粘った。
「布」
メリィ先輩の声で、全員が口と鼻に布を巻いた。
「ここから喉がやられる。効いてくるのは遅い。痛くなってからじゃ遅いんだ」
「はい」
「エスタ、一刻に一回」
「分かってます」
エスタが手をかざすと、僕の喉のあたりが温かくなった。
金色の光が薄く広がって、消える。それだけだった。
「……何も感じなかったけど」
「それでいいのよ」
エスタは、もう次の人のところへ移っていた。
「感じるようになったら、手遅れだから」
歩きながら、僕は彼女を見ていた。
一刻に一回、四人分。手をかざして、光を当てて、次へ移る。それを半日続けている。
途中で一度、彼女が短く言った。
「それ、触っちゃ駄目」
「え」
「右の壁。黒い斑点の苔。触ったら三日腫れる。荷物も当てないで」
僕は壁を見た。言われた通りの苔が、岩の窪みに生えていた。
エスタは、前を向いたままだった。苔も、僕も、見ていなかった。それでも、僕が壁のどちら側を歩いているかを知っていた。
歩きながら、通ってきた道の全部を覚えているらしい。どこに何があるか、四人がそれぞれどこを歩いているか、あと何刻で誰の解毒が切れるか。四人分を頭の中で数え続ける。メリィ先輩が言った通りのことを、この人は本当にやっていた。
「エスタ」
「なに」
「すごいね」
「……うるさい」
* * *
夕方近く、メリィ先輩が足を止めた。
通路の脇に、昨日と同じ形の窪みがあった。入り口が狭くて、奥が広い。天井から水が落ちている。
「ここもだ。覚えとけ」
「昨日のと同じですか」
「同じ。中層にもいくつかある」
先輩は、窪みの奥をもう一度見た。
「帰りはここで休む。湖まで、ここから半刻だ」
* * *
湖に出たのは、二日目の夜だった。
通路が急に広がって、そこで終わっていた。見上げると、空があった。
天井が、丸く抜けている。数十歩ぶんはある大きな穴で、その向こうに星が出ていた。地上と繋がっているのだと、頭では分かった。分からなかったのは、なぜダンジョンの中で星が見えるのかということだ。
光が、真下に落ちている。そこに、湖があった。
水は、澄んでいた。
岸から底まで、全部見える。深さは僕の胸くらいか。風もないのに、水面はゆっくりと揺れていた。
底に、葉があった。
淡い、柔らかい色をしていた。白ではない。黄色でもない。その中間の、灯りをつけた紙のような色だ。それが、水の底で光っていた。
一本ではない。岸に沿って、ぐるりと。びっしり、と言った男の言葉が、そのまま目の前にあった。
「……これ」
「満月草だよ」
メリィ先輩が言った。
「先端まで水に浸かってる。だから誰も気づかない。岸から見たら、ただの光る苔だと思うだろ」
「一つだけ」
先輩が、湖の真ん中を指した。
「あそこには入るな。腰から先は行くな」
「何かいるんですか」
「いるのかどうかも分からない。ただ、真ん中でおかしくなったやつを見たことがある」
先輩は、指を下ろした。
「岸は平気だよ。あたしも前に来たとき、岸で半日採ってた。……真ん中にだけ入らなきゃいい」
「分かりました」
採取は、三通りやった。
一つ目は、普通に摘むやつだ。葉を根元から切って、湿らせた布に包む。二つ目は、株ごと抜いた。根を切らないように指で周りの砂をどけて、根の塊のまま持ち上げる。用意してきた瓶に、湖の水ごと沈めた。三つ目は、周りの土と石だ。
「石まで持ってくの?」
キアリーが覗き込んだ。
「うん」
「重いぞ」
「僕が持つから」
その者が在った土地に生きていたもの。その者を憶えている者の声。そして、二つを繋いで離さぬもの。
手記の老婆が言った、三つだ。
三つ目は、たぶんこの草だ。混ざらずに繋ぐもの。ゲルダ先生がそう言った。
一つ目が、分からない。ウルヴェリアの土は手に入らない。あの国にはもう誰も入れない。だから、せめてこの草が生きていた場所のものを持ち帰ることにした。理屈が合っているかは分からない。分からないので、全部持って帰ることにした。
二つ目については、まだ何も考えていなかった。
* * *
水に手を入れていると、何かが視界の端で動いた。
顔を上げた。
湖の真ん中に、顔があった。
水面から、上半分だけ出ている。
目と、額と、髪の生え際。青い。透き通っている。瞬きをしない。こちらを見ていた。
「……あの」
僕は動けなかった。
精霊だ。それは分かった。コロンやアリアと同じ種類の気配がする。ただ、形がはっきりしていた。下位の光の玉ではない。中位だ。
顔が、少しだけ傾いた。
そして、歌い始めた。
言葉だった。
意味が、そのまま頭に入ってくる。コロンの声と同じ入り方だった。
かえるよ
むこうから
みずのしたをとおって
きえたものはみな
いつかはかえる
繰り返しだった。同じ節が、何度も回っている。子守唄のような回り方だった。
かえるよ
きえたものはみな
いつかはかえる
僕は、水の中に手を入れたまま聞いていた。
消えたものは、みな、いつかは帰る。
そうか、と思った。思ってから、体の奥のほうが冷たくなった。
――なら、あれは。
祠に浮かんでいる、あの虹色の結晶は。
帰っていない。
消えたものがみな帰るのなら、あの人だけが帰ってきていない。
祠にあるのは、残された土台のほうだ。あの人自身は、あちら側にいる。何かが引っかかって、帰る道から外れている。
僕はずっと、死んだものを生き返らせようとしているのだと思っていた。
違うのかもしれない。
そのとき、月明かりが差し込んだ。
天井の穴の縁を回って、光が水面に落ちた。満月ではない。満ちるまで、まだ五日ある形の月だ。それでも水は澄んでいたから、光は底まで届いた。
満月草の蕾が、少しだけ開いた。
隙間から、粉のようなものが漏れ出した。光っていた。それが水の中をゆっくりと昇っていき、水面に触れたところで、ふっと消えた。
* * *
水面が、揺れた。
そして、世界が変わった。
湖の周りに、花畑が広がっていた。
見たことのない花だった。背の低いのが一面に敷き詰まっていて、その上を光が漂っている。数えきれない光だった。薬草園の何十倍もいる。それが花の上を行き交って、時々ふわりと高く昇っては、また下りてくる。
空は明るかった。夜ではなかった。夜が、来ていなかった。
――ここ、知ってる。
去年、僕が連れていかれた場所だ。夜が来ない空。大樹のあった、あの場所。
同じではない。見渡しても大樹は見当たらないし、地面の色も違う。それでも、空気の感じが同じだった。息を吸うと、肺の奥まで届く前に、何かが混ざってくる感じ。
僕は、一歩踏み出した。
* * *
背中を、引っ張られた。
湖だった。
暗い洞窟で、冷たい水で、天井に穴が開いていて、星が出ていた。僕は腰から水に落ちて、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「――あんた!」
エスタだった。僕の上着の背中を掴んだまま、肩で息をしている。
「何やってんの!」
「え」
「あんた、半分消えてたわよ!」
「……半分?」
「前半分! 頭からお腹まで、ぜんぶ!」
エスタの手が震えていた。
「後ろから見たら、背中だけが立ってたの!」
岸にキアリーとメリィ先輩が立っていた。二人とも、顔が白かった。
「呼んだんだぞ、何回も」
キアリーの声が上ずっていた。
「振り向きもしねえし、だんだん薄くなってくし」
「……ごめん」
「何が見えた」
メリィ先輩だった。普段の乾いた声ではなかった。
「花畑です。湖の周りに。……精霊が、いっぱいいました。何百も」
先輩はしばらく黙っていた。
それから、湖の真ん中を指した。さっきまで顔があった場所に、うっすらと、もやのようなものが浮かんでいる。
「……あれ、動いてる」
「え」
「前に来たときは、真ん中から一歩も出なかった。だから岸は平気だって言ったんだ」
先輩の声が、低くなった。
「岸でなったのは、初めて見た。……悪い。あたしの言ったことが古かった」
「先輩のせいじゃ」
「あたしのせいだよ」
先輩は、剣の柄に手をかけたまま水面から目を離さなかった。
「前に同行してた男が、真ん中で同じことになった。あたしも一度、腕を持っていかれた」
「腕」
「戻ってきたよ、ちゃんと。……三日かかったけど」
「引き上げようぜ」
キアリーが言った。
「草は採れたんだろ。変なことが起こる前に出よう」
僕は頷いて、瓶を布で包み始めた。
* * *
包み終わる前に、水面が盛り上がった。
最初、何かが浮いてきたのだと思った。湖の真ん中の水が内側から押し上げられるように膨らんで、そこから透明なものが立ち上がった。
傘だった。僕の背丈の、三倍か四倍。半透明の傘の下から糸のようなものが何十本も垂れ下がっていて、それが水面を叩くたびに飛沫が上がる。
クラゲだった。
「走れ!」
メリィ先輩の声が飛んで、僕は瓶を抱えて走った。走って、岩に足を引っかけた。
包みを抱え込んだまま、僕は倒れた。
手をつかなかったので、肘と肩が岩を打った。息が止まった。目の奥が白くなって、声も出なかった。腕の内側から肩にかけて、熱いものが走っている。
それでも、腕の中を確かめた。
瓶は割れていない。株も無事だ。湖の水も、半分以上残っている。
それが分かって、やっと息を吸った。
「――こっちだよ、馬鹿!」
襟を掴まれて、引きずられた。キアリーだった。
「草! 草は無事!」
「そんな場合か!」
岸から少し上がった岩棚に、僕は放り投げられた。荷物を抱えたまま転がって、そこでようやく、戦いが見えた。
* * *
メリィ先輩が、抜いていた。
腰の左右から、短い剣が二本。抜いた瞬間、刃に色がついた。青だ。保水玉に登録したときと同じ色だった。
そして、走った。
舞っているように見えた。
垂れ下がった糸が鞭のように振られる。当たれば人が飛ぶだろう勢いのものが、何本も同時に来る。先輩は一度も止まらなかった。避けているようにも見えなかった。糸が来る場所を、その前に通り過ぎているだけに見えた。振られた瞬間には、もうそこにいない。
そして通り過ぎながら、斬っている。右で斬って、左で斬って、体をひねってまた右。動きの切れ目がどこにもなかった。
糸が一本、水に落ちた。二本目。三本目。
「すご……」
「フェイ! 後ろ!」
エスタの声で振り返ると、足元の水溜まりが盛り上がっていた。
小さいのが湧いていた。拳くらいの大きさの、透明なやつだ。一つではない。あちこちの水溜まりから次々に出てきて、床を這って、こちらへ来る。
キアリーが前に出て三つまとめて斬った。斬ったそばから、また湧く。
「きりがねえ!」
そこから、押され始めた。
床が水溜まりだらけだった。小さいのが増えるほど、先輩の足の踏み場が減っていく。踏み場が減れば、通り過ぎられる場所も減る。減った分だけ、糸が当たる。
肩に一本入った。腕に一本。
「エスタ!」
「かけてる!」
金色が飛ぶ。傷が塞がる。塞がったそばから、また増える。
僕は保水玉を撃った。
キアリーに一つ。外れた。もう一つ。今度は当たって、赤く弾けて、薬が肩から広がった。三つ目、外れ。四つ目、外れ。五つ目でメリィ先輩の背中をかすめて、岩に跳ね返って転がっていった。
拾いに行きたかったが、足元はもう小さいのに埋まりかけていた。
大きいのが、震え始めた。
傘の内側が白く光った。さっきまでの透明とは違う。内側から、燃えるような光が溜まっていく。
「――来るよ!」
先輩が、初めて足を止めた。止まって、二本の剣を体の前で交差させる。青い光が刃に集まっていくのが見えた。さっきまでの比ではなかった。剣の周りの空気そのものが、揺れて見える。
「合わせる! 誰も出るな!」
先輩は、動かなかった。
待っていた。傘が落ちてくる、その一点を見ていた。
二本の剣を交差させたまま、右足を一歩、前へ置く。当てるのではなく、受けて、流すつもりなのだと分かった。相手の力をそのまま横へ逃がして、空いた懐に一撃を入れる。そういう形だった。
傘が落ちた。
その瞬間、先輩の右足が沈んだ。
足首に、小さいのが巻きついていた。
ほんの少しだった。
踏み込みが、指の幅ぶんだけ浅くなった。それだけで、交差させた刃が当てるべき場所からずれた。中心で受けるはずのものが、縁に当たった。
流れなかった。
剣に集まっていた光が、弾けて散った。
そこへ、傘の全体が落ちてきた。
* * *
音がした。
短くて、重い音だった。
岩に叩きつけられて、メリィ先輩は動かなかった。血が、床の水溜まりに広がっていった。
「先輩!」
エスタが走った。膝をついて、手をかざした。
何も出なかった。
「なんで――」
エスタの顔が、白かった。
「切れた」
「え」
「魔力、切れた。……回復薬も、もう空」
エスタが腰の袋を逆さにすると、空の瓶が二本、床に落ちて転がった。
僕は自分の袋に手を突っ込んだ。
保水玉が、一つ。最後の一つだった。薄い金色をしている。エスタの分だ。中に、魔力回復薬が吸わせてある。
足には、小さいのが三つ巻きついていた。振り払おうとしたが離れない。冷たい感触が膝まで這い上がってくる。
それでも、僕はスリングショットを構えた。
エスタは十歩先にいる。膝をついて、動かない先輩の肩に手を当てたまま止まっている。
止まっている的なら、五回に三回は当たる。
当てようとすると外れる、相手がこれから行く場所を考えろ。八日目に覚えたことを思い出した。でもエスタは動かない。なら、考えなくていい。
僕は、撃った。
玉は、大きく右へ逸れた。
足が引っ張られていた。体がねじれていた。
白い玉がエスタの頭の上を越えて、暗がりのほうへ飛んでいく。拾いに行く時間はない。拾いに行けたとしても、僕の足は動かない。
終わった、と思った。
◆
視界の端で、白いものが飛んだ。
フェイが撃ったのだと、走りながら分かった。分かって、逸れたのも分かった。俺は足を切り替えた。
あいつは、投げるのが下手だ。
十日でどうにかなるもんじゃない。三百回撃って、動く的には一回も当たらなかった。知ってる。石垣の外から見てた。
だから、俺が走るんだと思った。
じいちゃんは、旅の剣士に助けられたことがある。
村の外れで魔物に囲まれて、もう駄目だと思ったときに、誰かが来た。名前も知らない男だったらしい。礼も言えないうちにいなくなった。じいちゃんはその話をよくした。俺が五つのときも、七つのときも、九つのときも。
じいちゃんが死んだのは、同じ場所だ。
二度目は、誰も来なかった。
俺が剣を始めたのは、それを聞いたからだ。
強くなりたかったわけじゃない。間に合う男になりたかった。
――今度こそ。
白い玉が、弧の頂点を越えて落ち始めた。
俺は跳んだ。剣の腹で、下から。叩くんじゃない。当てて、向きだけ変える。
拳よりも軽いものを、走りながら、剣の腹で。
――届け。
◆
白い玉が、空中で向きを変えた。
エスタのほうへ落ちていく。エスタが顔を上げて、両手を広げた。
胸に当たって、弾けた。
青い光が、彼女の胸の前で散った。散って、すぐに集まった。集まって、色が変わった。
黄金だった。
指の先から、肩から、髪の先から、溢れ出した。彼女の輪郭が光に縁取られて、床の水溜まりまで金色に染まっていく。
エスタが立ち上がった。左手を胸に当て、右手を天に掲げた。
「――癒しの光よ!」
目も眩むような黄金色の光が、エスタの右の手のひらに生まれた。
暖かい光だった。洞窟の岩肌が、壁の奥まで照らし出された。天井の穴の縁も、遠くの通路の入り口も、さっきまで暗くて見えなかったところが全部見えた。
僕の足に巻きついていた小さいのが、光に触れて溶けた。
エスタは、その手をそのままメリィ先輩の胸に押し当てた。
血が引いていく。裂けた上着の下で、傷が閉じていくのが見えた。
先輩の指が動いた。
「……いたた」
上体を起こして、先輩は自分の腹のあたりを撫でた。それから周りを見た。エスタ。キアリー。僕。順番に見た。
「……見苦しいとこ、見せたね」
先輩は立ち上がって、落ちていた剣を二本とも拾った。
「でも、いいもの見せてもらった」
大きいのが動いた。
怒っているのが分かった。傘の下の糸が一斉に振り上げられて、何十本もがまとめて先輩の頭上に落ちた。
当たらなかった。
先輩は、歩いていた。
走ってもいない。跳んでもいない。ただ歩いているだけなのに、糸が落ちる場所に先輩がいない。一本、二本、三本。落ちる、落ちる、落ちる。全部外れる。
最初から、当たらないことが決まっていたみたいだった。
「今度は、こっちの番」
先輩が腰を落とした。
空気が変わった。そこにいるだけで押されるような感じがして、僕は思わず一歩下がった。下がってから、自分が下がったことに気づいた。
二本の剣に、青が戻った。さっきより濃い。
「いくよ」
「――龍葉斬」
音は、一つだった。
短くて、乾いていた。浅層でキアリーが三度目に出した音と、同じ音だった。
大きいのが、左右に真っ二つに分かれた。
分かれたまましばらくそこに立っていて、それから両方とも崩れて、水になった。
* * *
床の水溜まりが、静かになった。
小さいのは、もう湧いてこなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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