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第30話 百五十年と四日

◆


 人間の子供というものは、分からないことがあると手を動かす。


 四日、それを見ていた。


* * *


 あの子は毎朝、日が高くなる前に門を開ける。畝を見て回り、水を撒き、虫を取る。手つきは変わらない。去年から一度も雑になったことがない。


 変わったのは、その合間だ。


 鍬を置いて、じっとしている時間が増えた。


 三番目の畝の端で、立ったまま動かなくなる。


 石垣の向こうを見ているわけでもない。何かを考えている顔でもない。ただ、止まっている。


 しばらくすると思い出したように鍬を握り、また掘り始める。


 人間は、こういうとき、こうなる。


 百五十年見てきたので、知っている。


 もう一つ、変わったことがある。


 東通りへ行かなくなった。


 この夏、あの子は毎日あの坂を下りていた。剣の子が門まで迎えに来て、二人で出て、帰ってくると手帳に何か書いていた。


 四日、迎えが来ていない。


 来ていないのか、あの子が断っているのかは分からない。


 食べる量も減った。昼に持ってくる包みが、目に見えて小さくなった。


 痩せたか、と問われれば、痩せてはいない。


 四日では、そういうものだ。


 畝の上の者たちも、気づいている。


 あの子が立ち止まると、近くの光が寄っていく。頭の高さで一度止まって、それから離れる。また別のが寄る。


 誰も何もしない。できることがないからだ。


 下位の者たちは、言葉を持たない。


 それでも、近くにいることはできる。


* * *


 四日目の夕方だった。


 あの子は小屋の前の石に腰を下ろして、膝の上で手を組んでいた。日が落ちかけて、畝の上に細かい光が浮き始めていた。


「コロン」


『何だ』


「僕、何が悪かったんだと思う?」


 聞かれた。


 四日かかって、ようやく聞いてきた。


『知らん』


「知ってるだろ」


『知らん』


「ずるいよ」


 ずるくはない。


 言えば覚えない。人間というのは、聞いた答えを三日で忘れる生き物だ。自分で辿り着いたものだけが残る。


 これも、百五十年見てきたので、知っている。


「メリィ先輩にも同じこと言われた」


『賢い人間だ』


「先輩は『やだよ』って言った。コロンは『知らん』って言う。どっちも教えてくれない」


『そうだな』


「ひどくない?」


『ひどいか』


 あの子は、しばらく黙っていた。


 それから、思い出したように言った。


「エスタに、何かしたほうがいいのかな」


『贈り物だ』


 言ってしまった。


 自分でも、少し驚いた。


「贈り物?」


『そうだ』


「なんで」


『……そういうものだ』


 理由は、ある。


 言う気はない。


 百五十年、この畑にいた。


 薬草を摘んでいく者はいた。畝を踏んでいく者もいた。像の前を通り過ぎる者は、数えきれないほど見た。


 何かを差し出された記憶は、一度もなかった。


 去年の冬、この子は木の実の殻を半分に割って蓋をこしらえ、青い薬を一滴もこぼさずに移した。


 飲めと言われて、断った。


 そうしたら、持っていけと言った。


 あのとき自分がどうなっていたのか、いまだによく分からない。


 震えていたことだけは覚えている。


 殻の小瓶は、今も葉陰に置いてある。


 あの子は、置き場所を知らない。


「そんなもんかな」


 あの子は、煮え切らない顔をしていた。


『そんなものだ』


「でも、物で機嫌を直すのって、なんか違う気がする」


 違わない。


 違わないが、それを言葉で説明する術を持たない。


『知らん』


 だから、そう言った。


* * *


 あの子は立ち上がって、小屋に入っていった。


 調合を始めるときの音は、決まっている。


 蓋が開く音。匙が触れる音。焜炉に炭を並べる音。


 四日ぶりだった。


 一つ目は、復活薬だった。


 あの結晶を戻すための薬だ。何を混ぜても、何も起きない。十三本が十四本になり、十五本になった。


 あれが何なのかは、知らない。


 語るなと言われた。語りようもない。


 ただ、あの子が何をしているかは分かる。


 死んだものを、戻そうとしている。


 精霊は死なない。消えるだけだ――と、人間はそう聞かされている。


 聞かされているだけで、誰も確かめていない。


 あの日、あれが消えるところを見た。あれは、消えるという言葉で足りるものではなかった。


 今日も、何も起きなかった。


 あの子は瓶を明かりに透かして、栓を戻して、棚に置いた。


 置き方が、丁寧だった。


 失敗した瓶を、あの子はいつも丁寧に置く。


 二つ目は、回復薬だった。


 苦みを後ろへ送るやつだ。この夏、あの子が東通りに通って見つけたもの。


 手際は良かった。迷いもなかった。


 できたものを匙で舐めて、あの子は頷いた。


「うん。できてる」


 できていた。


 あの子は、それを机に置いた。


 置いて、しばらく見ていた。


 上着の隠しから、もう一本出した。


 ひと月あまり前に作って、渡しそこねたやつだ。


 二本が机の上に並んだ。


「……違うな」


『何がだ』


「これ、誰のために作ったやつでもない」


『薬だろう』


「そうだけど」


 あの子は、二本とも棚に戻した。


* * *


 三つ目に取りかかるまで、少し間があった。


 あの子は棚の前に立って、瓶の並びを端から端まで見ていた。それから乾燥棚の引き出しを開けて、中を覗いて、閉じた。


「コロン」


『何だ』


「エスタって、四日間ずっと治癒魔法を使うことになるよね」


『そうだろうな』


「毒が五種類あって、四人分で、片道二日」


『……何の話だ』


「魔力が持たないんじゃないかな」


 あの子は、引き出しをもう一度開けた。


「一日目で使い切ったら、二日目が持たない。持たないと、帰れない」


『それは、そうだ』


「魔力回復薬を持たせたほうがいい」


 あの子は、引き出しから乾いた根を出した。


 月見草だ。日が落ちてから花を開き、朝には閉じる。畑の北の端に、少しだけ植えてある。あの子はそれを掘って、洗って、干して、束にしてしまってあった。


 根を薄く刻んで、乳鉢で粉にする。水で溶いて、弱火にかけて、沸く手前で下ろす。


 教科書に載っている基本形だ。工程はどこにも難しいところがない。二年生の実習でやるやつだと、あの子が前に言っていた。


 できた。


 当たり前にできた。


 あの子は匙で一滴すくって、明かりに透かした。


 薄い。


 色が薄いのではない。効きのほうだ。


『それでいくつ戻る』


「半刻ぶんくらい、かな」


『半刻』


「うん」


 四日ぶんを半刻ずつで埋めるなら、何本要るのかは、数えるまでもなかった。


 市販のものも、大差ない。上等なものには毒気の中でしか育たぬ茸が入っていて、あれは一本で半日戻るという。値のほうも、それなりにするらしい。あの子に買える額ではない。


 あの子は、できたばかりの一本を机に置いた。置いて、しばらく見ていた。


 それから、棚の一番上に手を伸ばした。


* * *


 正直、また始まったと思った。


 そこには、この春先に薬草学の教師が持ってきた紙包みが置いてある。中身は、干して砕いた灰色の粉だ。シルフェン草という。指でつまむと乾いた砂のような手触りで、明かりに近づけると、砕けた面がわずかに光る。


 増幅材だ。薬の効きを何倍にもする。


 手に入れてすぐ、あの子は三度試した。


 三度とも駄目だった。


 魔力を通すと、素材のほうが先に音を上げる。強く通せば固まり、弱く通せば何も起きない。加減の幅が狭すぎて、あの子の腕ではまだ届かない。そう言った。あの子も納得していた。


 春に畑を引き継いだとき、あの子は自分で三年の計画を立てた。一年目は土を作る。二年目から増幅材を試す。三年目で形にする。三度目に失敗した晩、包みは棚の一番上へ上がった。


 まだ、一年目の夏だ。


 なのに、あの子は包みを開けた。


 机の上の一本を引き寄せて、そこへ足すつもりらしい。薄いものを、濃くする。やろうとしていることは単純だ。単純なのに、春に三度やって、一度も届かなかった。


『やめておけ』


「うん」


『やめておけと言ってる』


「うん」


 聞いていなかった。


 乳鉢に、灰色の粉が少しずつ落ちていく。春に三度やったときと、手順は同じだ。


 変わっていたのは、手の速さだった。


 いつもの調合より、遅い。


 一つ入れるたびに止まる。止まって、少し考えて、また動く。


「……四日分だから、薄めに四回に分けたほうがいいか」


 独り言だった。


「いや、途中で分ける余裕ないよな。一本で効くようにして、あとは休ませる方向で」


『おい』


「なに」


『誰と話してる』


「え?」


 あの子は、手を止めなかった。


「エスタ、魔力の回復が遅いんだ。去年言ってた。使い切ると次の日まで戻らないって」


『……そうか』


「だから、戻すんじゃなくて、減りにくくするほうがいいのかも。そういう作り方ってあるかな」


『知らん』


「だよね」


 あの子は、魔力を通し始めた。


 見ていた。


 いつもなら、ここで素材が跳ねる。強すぎるか弱すぎるかのどちらかで、乳鉢の中がざらつくか、逆に死ぬ。


 跳ねなかった。


 通っていた。


 細く、まっすぐ、ずっと同じ強さで。


 春に三度試したとき、この子は「増幅材に合わせた強さ」を探していた。


 今日は、探していなかった。


 探すかわりに、別のことを考えていた。


 四日分。回復が遅い。減りにくくする。


 そちらに気を取られて、手のほうは何も考えずに動いていた。


 考えていない手のほうが、正しかった。


 火から下ろすと、澄んだ色が出た。


 あの子は、乳鉢を覗き込んだまま動かなくなった。


「……できてる」


『できてるな』


「なんで?」


『知らん』


 知っている。


 言わない。


 あの子は椅子に座って、しばらく天井を見ていた。


 それから、ぽつりと言った。


「うまく作ろうとしてたんだ」


『ほう』


「ずっと、いい薬を作ろうとしてた。効きのいいやつ。失敗しないやつ。……誰が飲むかは、考えてなかった」


『ふむ』


「エスタのことを考えてたら、できた」


『そうか』


「そうか、じゃなくてさ」


 あの子は、こちらを見た。


「コロン、知ってただろ」


『知らん』


「絶対知ってた」


『知らん』


 あの子は笑った。


 四日ぶりに笑った顔だった。


 瓶詰めを終えて、栓をして、あの子は立ち上がった。


「行ってくる」


『もう暗いぞ』


「うん」


 門の閂が鳴る音がして、足音が坂を下りていった。


* * *


 葉陰に戻った。


 殻の小瓶は、いつもの場所にある。


 空だ。


 中身は、あの冬の日に使った。黒く歪んだものの頭の上から、一滴残らず注いだ。惜しいとは思わなかった。あのときは、そんなことを考える余裕もなかった。


 あれから、あの子は作り直すと言った。材料も工程も覚えている、今ならもっといいのが作れる、と。


 急がなくていい、と答えた。半年でも一年でもいい、と。


 嘘ではない。


 ただ、あのとき本当に言いたかったのは、そういうことではなかった。


* * *


 割れた木の実の殻を、僕はまだ持っている。


 中身のないものを、置く場所だけ決めてある。


◆


 呼び鈴が鳴ったのは、夕食の片付けが終わった頃だった。


「エスタ、あんたにお客さんよ」


 母の声がして、わたしは階段を下りた。


 玄関の前に、フェイが立っていた。


 汗をかいていた。走ってきたらしい。


 わたしは、何を言えばいいのか分からなかった。


 四日間、ずっと考えていたのに、いざ顔を見たら全部飛んだ。


 四日のあいだに、考えたことは大体こうだ。


 一日目。わたしは間違っていない。あの人が悪い。


 二日目。わたしは間違っていない。でも、言い方は悪かった。


 三日目。条件をつけたのは、やりすぎだったかもしれない。


 四日目。あれは条件でも何でもなかった。ただの八つ当たりだった。


 それが分かってしまうと、もう謝りに行くしかない。


 行けなかった。


 行って、何と言うのだろう。


 ごめんなさい、あれは八つ当たりでした、と言うのか。では何に当たっていたのかと聞かれたら、どう答えるのか。


 そこまで考えて、四日目が終わった。


「ごめん」


 彼が先に言った。


「何が」


「分からない」


「……は?」


「まだ分かってない。でも、あのとき僕が言ったことが、エスタの言ったことの答えになってなかったのは、分かった」


 わたしは、彼の顔を見た。


「それだけ?」


「それだけ」


「……そう」


 彼は、上着から小瓶を出した。


「これ」


「何」


「魔力回復薬」


 わたしは、それを受け取った。


 ランプの明かりに透かして、息が止まった。


 澄んでいた。


 治療科では、二年生から魔力回復薬の見分け方を習う。濁りの有無。沈殿の有無。色の深さ。市販品の上等なものでも、必ずどこかに曇りが出る。


 曇りが、なかった。


「これ、どこで買ったの」


「作った」


「嘘」


「作ったんだって」


「……増幅材、使ってるでしょう」


「うん」


「あなた、春に試して一回も成功しなかったって言ってたじゃない」


「今日できた」


 わたしは、瓶を持ったまま立っていた。


 四日間ずっと、この人は薬草園にこもっていたはずだ。


 何を作っていたのかは知らない。聞いていない。


 でも、今日これを作ったということは。


 今日、この人は、わたしのことを考えていた。


 それが分かった瞬間、顔が熱くなった。


「……何よ、急に」


「急にじゃないよ。四日考えた」


「四日も考えて、分からないままなの?」


「うん」


 正直すぎる。


 わたしは瓶を握りしめて、それから、思い切り息を吐いた。


「――まったく、しょうがないわね!」


「怒ってる?」


「怒ってない!」


「怒ってる気がする」


「怒ってないって言ってるでしょう!」


 彼は、少し困った顔をした。


 わたしは瓶を両手で持ち直して、そっぽを向いた。


「……使ってあげる」


「うん」


「毒五種でしょう。四日でしょう。前が二人と、あと自分の分」


「うん」


「足りるわけないじゃない。もっと作りなさい」


「いくついる?」


「六本」


「六本」


「最低でも六本」


「……分かった」


「あと、条件は取り消さないから」


「うん」


「痩せなさい。出発まで十日あるでしょう」


 彼は、自分の腹のあたりを見た。


「十日で?」


「十日で」


「無理じゃない?」


「無理でもやりなさい」


 扉を閉めてから、わたしは瓶を明かりに透かした。


 何度見ても、曇りがなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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