第03話 精霊たちの噂話
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朝の登校がひととおり終わり、生徒たちが校舎へ吸い込まれていった後のことだった。人の気配の絶えた薬草園に、ふわりと紫がかった光がミズナ草の合間に舞い込んできた。
「コロン、また人間の面倒を見ているの」
現れたのは、コロンよりもひとまわり大きな精霊だった。翅の縁が淡い紫色に発光している。学園の大時計塔に棲みついているという、古参の精霊――アリアだ。
「面倒を見ているわけじゃない。手伝っているだけだ」
『あの古い手記の、最後の章に書いてあった馴染ませの技法でしょう。まだ諦めていないの、あの人間の子』
「今日もうまくいった。筋はいい」
『ふうん』
アリアは興味なさげに羽を震わせながら、それでも僕――コロンの隣にゆっくりと降り立った。
『人間なんて、何百年経っても変わらないわ。都合のいいときだけ縋ってきて、都合が悪くなれば平気で忘れる。この学び舎の土地だって、もとはわたくしたちの縄張りだったというのに。今では誰も、そんなことを知りもしない』
「それは……そうかもしれないな」
『あなたも知っているでしょう。昔、下位の精霊たちが術式の実験台にされていたことを。人間はわたくしたちを、便利な道具くらいにしか思っていなかった。塔の地下にはね、今でもその頃のことが石に刻まれて残っているのよ。わたくしたちの手で、わたくしたちが見るために遺したもの。……もっとも、今では同胞ですら、誰も降りていかないけれど』
アリアの声には、長い年月を生きてきた者だけが持つ、乾いた諦めのようなものが滲んでいた。それが噓ではないことを、コロンも知っている。古い記録にも、あまり褒められたものではない人間と精霊の関わりが、いくつも残されている。
『つい先日も見たわ。魔法学の実習で、下位の風精霊を捕まえて、術式の的にしていた生徒を。本人たちは遊びのつもりなんでしょうけど、捕まった精霊がどれだけ怯えていたか、あの子たちは考えもしないのでしょうね』
「……それは、知らなかった」
『あなたが知らないことなんて、山ほどあるわよ』
「否定はしない。だが、あの子は違う」
『あの子、あの子って。買いかぶりすぎじゃない?』
「教えたことをちゃんと考えて、次の日にはもっと良い聞き方をしてくる。失敗しても、こっちのせいにしない。……それだけで、十分珍しい」
『まあ、たしかに。他の生徒たちみたいに、精霊を見世物か道具みたいに扱わないだけ、まし……なのかもしれないけれど』
『わたくしなんて、もう二百年もあの時計塔で針を見張っているのよ。人間たちは時間にはうるさいくせに、自分たちが精霊にどれだけ頼っているかなんて、考えたこともないでしょうね』
「それは、確かに退屈そうだ」
『退屈なんてものじゃないわ。……まあ、あなたのその薬草園暮らしも、似たようなものでしょうけど』
コロンは何も言い返さなかった。案外、図星だったのかもしれない。
『まったく、あなたも変わったわね。昔はもっと、人間になんて興味なさそうにしていたのに』
「そうだったか。忘れた」
『しらばっくれて。……まあいいわ』
アリアは渋々といった様子で認めると、翅を小さく畳んで作業台の跡を見下ろした。
『そういえば、聞いた? 学園を守っている結界の契約、そろそろ更新の時期が近づいているそうよ。前の更新から、もう三百年ですもの。そろそろ限界だろうって、上のほうの精霊たちが話していたわ』
「……それは、初耳だな。更新できなかったら、どうなる」
『さあ。結界が薄れて、外の魔物を抑えきれなくなるか、あるいは――人間たちがまた、都合よくわたくしたちに頼ることになるか。どちらにしても、ろくなことにはならないでしょうね』
「更新には、何が必要なんだ」
『さあ、わたくしも詳しくは知らないわ。ただ、昔と同じように、人間の代表と精霊の代表が改めて盟約を結び直す必要があるとは聞いている。……もっとも、今の学園の連中の中に、まともな盟約を結べるような人間がいるかどうか』
コロンは黙り込んだ。アリアの言葉が、ただの皮肉には聞こえなかったからだ。
『まあ、あなたには関係のない話かもしれないけれど。あなたはあなたで、その人間の子の面倒でも見ていなさいな』
「面倒を見ているわけじゃない、と言っただろう」
『はいはい』
紫の光はひらりと舞い上がり、来たときと同じように唐突に薬草園を後にした。残されたコロンは、しばらく朝の光に照らされた作業台の跡を見つめていた。契約の更新――アリアの言葉の意味を、もう少し考えておいたほうがよさそうだった。
――少し、時を遡る。
その日の朝。一限目が始まる、ほんの少し前のこと。
「なあフェイ。北門前の焼き串屋、知ってるか」
キアリーが机に身を乗り出してきた。
「あの、樽を横倒しにして炭を入れてる店? 行ったことある」
「昨日、鍛錬の帰りに寄ったんだよ。あそこの塩だれが最高でさ。炭の煙がちゃんと肉に移ってて、噛むと脂がぶわっと」
「待て。それ、たれの種類は聞いたか。あの店、頼めば香辛料を足してくれるんだ。前に一度やってもらったら、辛みが立って全然違うものになった」
「マジか。知らなかった」
「あと、あそこで買ったら、絶対に西通りのパン屋に寄るべきなんだ。朝に焼いた丸パンの残りが夕方には安くなってて、それに串の肉を挟んで食べると――」
「なにそれ、うまそうすぎるだろ」
「うまいんだよ。表面は少し固くなってるんだけど、肉汁が染みると逆にちょうどよくなる」
僕とキアリーが同時に唸っていると、前の席から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと。もう授業始まるんだけど」
エスタだった。
「教科書も出してないのは、この教室であんたたち二人だけよ」
「あ」
「フェイ、あんた薬学志望でしょ。なんで食べ物の話になると急に早口になるの」
「……関係あるだろ。素材の味も分からずに、薬なんか作れない」
「今のは絶対そういう話じゃなかった」
キアリーが吹き出して、エスタに睨まれた。
その頃、僕は魔法理論の授業を受けながら、まったく別のことを考えていた。
魔法学園に入ったのに二年も草木の名前を覚えさせられるのか、と入学したての頃は不満だった。けれど今は、少し分かる。基礎がないまま魔力に触れた生徒がどういう目に遭うかという話は、上級生から何度も聞かされた。
この魔法理論の教室に入れるようになったのも、今年からだ。
学園でもひときわ天井が高く造られている。魔力の実演をする際に、光が天井近くまで舞い上がることがあるからだ。窓から差し込む朝の光の中を、ちらちらと埃が舞っている。
隣の席にはキアリー、前の席にはエスタ。三人で並んで座るのは、入学初日からの習慣のようなものだった。
「――というわけで、魔力は本来、体内で一定の形を保てず、常に揺らぎ続けている性質を持ちます。この揺らぎを制御し、任意の形に固定する過程こそが、魔法という現象の本質です」
先生はそう言って、黒板に波打つ線と、それを囲む四角い枠を描いた。
「この波線が魔力の揺らぎを、この枠が術式による固定を表しています。揺らぎが大きすぎると術は乱れ、小さすぎると効果そのものが弱くなる。ちょうどいい揺らぎ幅を見極めることが、初級魔法の第一歩です」
チョークの音に合わせて、教室のあちこちで生徒たちが真面目にノートを取る音が聞こえる。
先生の声は聞こえているのに、頭の中には『旅する薬師の手記』の、あの最後の章のことばかりが浮かんでいた。
あそこに書かれていた技法は、教科書のどこにも載っていない。成分に魔力を通し、馴染ませることで吸収率を上げる――言葉にすればそれだけのことなのに、文章そのものがひどく難解で、専門用語の羅列を自分なりに嚙み砕くのに何週間もかかった。
薬草学のゲルダ先生に相談したこともある。
「先生、この技法って僕にもできますか」
手記の頁を開いて見せると、先生は老眼鏡を掛け直して、しばらく黙って読んでいた。
「……これはまた、ずいぶん古い本を引っ張り出してきたね」
「図書室にありました」
「ああ、これは……本職の薬師が使う裏技のようなものだね。学生のうちは覚えなくていい。基礎さえ固めておけば十分だよ」
やんわりと、けれどはっきりと止められた。たしかに授業の進度からすれば、まだ早い内容なのだろう。それでも、今の自分にできることで、少しでも品質を上げられる方法があるなら試してみたい――そう思って、コロンに手伝ってもらいながらこっそり続けてきた。
最初はまったくうまくいかなかった。魔力を注ぎすぎて材料を台無しにしたことも、逆に弱すぎて何の変化も起きなかったこともある。何度もコロンに「もっと弱く」「いや、そこはもっと強く」と指摘されながら、少しずつ加減を摑んでいった。
一度など、魔力を込めすぎて器の中身がドロドロに固まってしまい、丸一日かけて集めた薬草をすべて無駄にしたこともある。あのときはさすがに落ち込んで、しばらく調合から離れていたくらいだ。それでも、失敗のたびにコロンが淡々と原因を指摘してくれるおかげで、「どのくらいの強さで、どのくらいの時間、魔力を送ればいいか」という感覚が、少しずつ体に馴染んでいった。ようやく形になり始めたのは、つい最近のことだ。
そして今、目の前の授業では「魔力の揺らぎ」の話をしている。もしかしたら、これは自分の技法をもっと安定させるヒントになるのではないか――魔力を一定の波として送る感覚は、まさに今、先生が黒板に描いている図と重なる気がした。ノートを取らなければと思いながらも、頭の中では自分なりの理論を組み立てるほうに夢中になっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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