第02話 見習い錬金薬師の放課後
採集を終える頃には、夕陽が石垣の向こうに傾いていた。
僕はカゴを抱えて、薬草園の隅へ向かった。
そこには、小さな石造りの小屋がある。もとは農具をしまうためのものだったらしいが、今はほとんど使われていない。屋根は低く、扉は建て付けが悪く、窓は一つきりだ。
去年、ゲルダ先生に頼み込んで、使わせてもらえることになった。
僕はカゴを作業台に置き、まず秤を取り出す。
材料を正確に計る。これが基本だ。図書室で読んだ調合術の本には「感覚に頼るな、数字を信じよ」と繰り返し書かれていた。最初の頃はこの地味な作業が退屈で仕方なかったが、今では計量そのものに集中する時間が、頭の中を静かに整理してくれる気がして嫌いじゃない。
この小屋を借りるようになったのには、理由がある。
一年生の頃まで、僕は家の裏にある物置小屋で調合をしていた。父が物置に使っていた場所を、半分だけ譲ってもらったのだ。
あるとき、目を離した隙に鍋の底を焦がしてしまった。
あのときの惨状は、今でも忘れられない。小屋どころか家中に真っ黒な煙とすさまじい悪臭が充満し、母は鼻を押さえながら怒鳴った。
「フェイ! いったい何を燃やしてるの、この匂い!」
「ご、ごめん、ちょっと配合を間違えて……」
「間違えてじゃないでしょう! 隣のおばさんまで苦情を言いに来たのよ、うちから変な匂いがするって!」
本気で落ち込んだ。
父は仕事から帰ってきて騒動を知ると、最初は驚いた顔をしていたが、焦げた鍋を覗き込んで「ふうん、なかなか派手にやったな」と、どこか面白がるように笑っていた。
「あなた、笑い事じゃないでしょう。この子、また変な趣味に夢中になって」
「まあまあ。何事も最初は失敗するもんだ。俺だって若い頃は、材木の寸法を間違えて棟梁にどやされてばかりだったしな」
父のその一言に、僕はどれだけ救われたか分からない。
それでも、住宅の密集した職人町で煙を出し続けるわけにはいかなかった。
思い切ってゲルダ先生に相談したら、意外なほどあっさり許可が下りた。
「薬草園の隅の小屋かい。何年も使っていないから、好きに使いなさい。……ただし、火の始末だけは厳しく言うよ」
正直、それだけが理由ではない。
コロンが、ここにいるからだ。
この精霊は、薬草園から離れられない。正確には、離れようと思えば離れられるらしいが、随分と力を使うのだそうだ。だから僕が家で調合していた頃は、翌日に「昨日はどうだった」と報告するくらいしかできなかった。
同じ場所で作業ができるようになってから、上達の速さが明らかに変わった。
家の小屋のほうは、今は採ってきた薬草を吊るして乾かしたり、道具の手入れをしたりするための場所になっている。
回復薬の作り方は、ひとつではない。
図書室で調べた限りでも、記録に残っている配合は二十を超える。ハシバミの樹皮を主軸にして根を煮詰めるやり方、山芹の若芽を発酵させて上澄みだけを使うやり方、獣脂で成分を抱き込ませる古い手法。それぞれに得手不得手があって、傷に効くもの、疲れを抜くもの、熱を下げるものと役割も違う。
僕も片端から試した。
けれど、多くは途中で諦めた。材料が手に入らない。工程が複雑すぎて途中で失敗する。必要な温度を保てない。
結局、今の僕の手と道具で一番きちんと効くのが、ミズナ草とカイエンの実を組み合わせたこの配合だった。地味だし、教科書に載っている基本形に少し手を加えただけのものだけれど、失敗が少なく、再現できる。
それでも、いつかは増幅材を入れてみたいと思っている。
本によると、それ自体には薬効のない素材でも、他の成分の働きを押し上げるものがあるらしい。ただし扱いが難しく、量を誤ると全体が台無しになる。今の僕にはまだ早い。
――でも、いつかは。
そう思いながら、僕は作業台の前に座った。
まず、火を起こす。
作業台の脇に置いた小型の焜炉。分厚い陶土を筒状に焼き上げたもので、底に灰を敷き、その上に炭を並べる。父が仕事場から譲ってくれたものだ。
火種を布に移し、細く割った焚き付けを組んで乗せる。息を吹きかけると、頼りない煙が上がった。
「……煙い」
風向きが変わると、煙がまともに顔へ来る。目の奥がつんと痛んで、涙が滲んだ。
炭の角に赤い点が灯るまで、ここは焦れてはいけない。慌てて扇ぐと灰が舞って、鍋に入る。以前それで一度、丸ごと作り直す羽目になった。
やがて、炭の一つが白っぽく縁取られ始めた。
小さく息を吹きかける。
赤みが広がり、じんわりと熱が立ち上ってきた。手のひらをかざすと、ちょうどいい遠さがある。
「よし」
ミズナ草の葉を丁寧に揉み、繊維を潰す。押し潰すのではなく、指の腹で捩じるようにするのがいい。汁を出しすぎず、繊維だけを緩める。
カイエンの実は包丁で細かく刻み、乳鉢でさらに叩き潰して香りを立たせる。潰した実は、麻布に包んで一度きつく絞った。この汁は後で使う。
加工が進むごとに、小屋の中に青くさい香りと、ぴりっとした刺激臭が混ざり合って広がっていく。
「よし、次は熱を入れる番だ」
小鍋に水を張り、揉んだミズナ草を投入して焜炉に乗せる。火加減は弱め。強すぎると成分が壊れてしまうと本にはあった。
しばらく何も起きない。
やがて鍋底から細かい泡が立ち始め、鍋の縁に小さく集まってくる。この泡が繋がって輪になったら、次の工程だ。
木べらでゆっくりとかき混ぜながら、僕はその瞬間を待った。
『焦げるぞ、そっちの端が』
「うわ、ほんとだ」
コロンの声で我に返り、慌てて鍋を少しずらした。危なかった。
泡が輪を描いた。
木べらの背で泡を潰しながら、絞っておいたカイエンの汁を一息に流し込む。
鍋の中の色が、緑から黄緑へ、そして淡い茶色へと変わっていった。
すぐに鍋を焜炉から下ろす。
ここで火にかけ続けると、カイエンの成分が飛んでしまう。熱が残っているうちに、余熱だけで混ぜ続けるのが正しい。
木べらを止めずに、四十を数える。
三十を過ぎたあたりで、木べらにかかる重さが変わった。とろみがついた証拠だ。
「コロン、いつも助かるよ。ありがとう」
『別に。お前が下手なだけだ』
素っ気ない返事だが、悪い気はしない。最初は何を言っているのかさっぱり分からなかったコロンの助言も、二年近く付き合ううちに、少しずつ理解できるようになってきた。今日みたいに、危ういところで教えてくれることも増えている。
粗熱が取れるのを待ってから、麻布を二枚重ねて器の上に張る。
そこへ鍋の中身を、少しずつ流し込んだ。
一気に注ぐと布が持ち上がって、漉しきれない繊維が落ちる。縁から中心へ、円を描くように回しながら、細く。
布の上に残った搾りかすは、絞らない。絞ると渋みの強い成分まで落ちてしまう。自然に落ちる分だけを待つ。
しばらくして、器の底に濁りのない液が溜まった。
ここからが仕上げの工程だ。
僕は両手を器にかざし、体の奥からゆっくりと魔力を送り込む。これは学園の授業では教わらない、独学の技法だった。魔力を通すことで液体の中の成分同士が馴染み、体に吸収されやすくなる――らしい。理屈は正直、半分も理解できていない。それでも試してみたら効果があったから、続けている。
『もっと均等に。端から端まで、波を送るみたいに』
「こう?」
『そう。……悪くない』
コロンが器の上をくるくると飛び回りながら、光の粒を落とすように魔力の流れを整えていく。器の中の液体が、じんわりと淡い緑色の光を帯び始めた。いつもより色が澄んでいる。
「今日はいつもよりうまくいってる気がする」
『成分同士の馴染みがいい。これなら体への吸収も早いはずだ』
「本当に? やった!」
思わず声が弾んだ。まだ本物の回復薬――学園で購入できる正規品――には遠く及ばない効き目だろう。それでも、少しずつでも近づいている実感があるのは、素直に嬉しかった。
小屋の隅の椅子に腰かけ、できあがった薬をガラス瓶に詰めていく。
この時間が、一番好きかもしれない。
手を動かす必要はもうない。ただ、できたものを眺めながら、次に何を試そうかと考えている時間。
鞄から、一冊の本を取り出した。
『旅する薬師の手記』。
一年生の頃、図書室の奥で見つけた。ほとんど誰も近づかない棚の隅で埃をかぶっていた一冊を、たまたま目に留めただけだった。司書の先生に借りていいかと尋ねたら、少し驚いた顔をされたのを覚えている。
「珍しいね、その本を手に取る生徒は。……気に入ったなら、好きなだけ読むといい」
分厚い革表紙の、ずいぶん傷んだ一冊だ。中身は驚くほど雑多だった。訪れた土地の薬草の分布。そこでしか採れない鉱物。市場で見た香辛料の値段。宿で出された料理の味。かと思えば、その隣の頁には、地面に耳を当てて確かめたという「地の流れ」の走り方が、几帳面な図で書き込まれていたりする。
大陸中を歩き回りながら、その土地の薬草と、食べ物と、そして地脈や精霊のありようを、片端から書き留めていった人の記録だった。
名は、どこにも書かれていない。
彼が訪れた国の市場の描写や、そこでしか食べられない料理の話を読むたびに、僕の胸は妙に高鳴った。いつか自分も、この手記の主のように、薬箱ひとつ背負って世界を旅してみたい。回復薬を作りながら、行く先々の美味しいものを食べて歩く――それが僕の夢だった。
読み進めてみて、司書の先生が驚いた理由が分かった気がした。
前半こそ気楽な旅の記録なのだが、後ろへ行くほど文章が変わっていく。書き手の観察が深くなるにつれ、記述もどんどん専門的になっていくのだ。
そして、最後の章。
そこだけは、まるで別の本のようだった。
地脈の走り方、精霊の集まる条件、土地ごとの魔力の質の違い。そういったものを何十年も見続けた人間が、最後にたどり着いた結論を書き残した章。
文章は容赦がなかった。前提の説明はない。読者が同じだけの経験を持っていることを当たり前として書かれている。専門用語が説明なしに次々と現れ、一段落を読み解くのに何日もかかった。
その章の中ほどに、あの技法は載っていた。
成分に魔力を通し、馴染ませることで吸収率を上げる――言葉にすればそれだけのことが、三頁にわたって書かれていた。
それから僕は、放課後のたびに何度もその手記を読み返した。異国の香辛料の匂いや、見たこともない果実の描写を読むだけで、まだ行ったこともない場所の空気が、なんとなく想像できる気がしたものだ。
中でも妙に印象に残っているのは、薬草とも料理とも関係のない、短い一節だった。
――東の山あいに、レタグィという村あり。そこにて奇妙な習わしを見た。
――村の外れに、苔むした石像が一つ。土地の者は、そこに何かが宿っていると言う。ある年、村に争いが続き、人の恨みつらみが絶えなかった折、その何かは黒く濁り、井戸の水を腐らせ、家畜を病ませたという。
――村の者らは、鍬を取らなかった。祓いの術師も呼ばなかった。
――代わりに彼らは、その年一番の出来の葡萄酒を樽ごと運び、石像の頭から静かに注いだのだという。
――問うた。なぜ最も上等なものを、と。
――老人は答えた。あれは我らの心を映しただけのものだ。ならば、我らが一番よいものを見せるほかにあるまいと。
正直、この部分は意味がよく分からなかった。
もったいない、というのが最初の感想だ。一番いい葡萄酒を、飲まずに石にかけてしまうなんて。僕なら絶対に飲む。
それでも、なぜかその頁だけは、何度も読み返してしまった。
出来上がった薬の、最初の一本を飲むのは、いつもキアリーだ。
本人が望んだわけではない。剣の稽古をしていれば、擦り傷も切り傷も日常茶飯事で、僕が瓶を差し出すと、あいつは中身も聞かずに喉へ流し込んでしまうのだ。
「毒じゃないんだろ?」
初めて渡したときも、そう言って一息に飲んだ。
飲んだあとの感想を必ず教えてくれるのも、ありがたかった。痛みの引き方。効き始めるまでの時間。味。後味。
「前のより、苦くなくなったな」
「最近、治りが早い気がするんだよな。気のせいかもしれないけど」
そういう一言を、僕は片端から書き留めている。今の配合にたどり着けたのは、半分以上あいつの舌と体のおかげだった。
自分で自分の薬を飲んでも、正直よく分からない。効いてほしいという気持ちが先に立ってしまう。他人の口から出てくる言葉のほうが、よほど当てになる。
一方で、エスタとのやり取りは少し複雑だ。
「フェイの回復薬、また効果が上がったって聞いたけど」
放課後の廊下で呼び止められ、僕は思わず身構えた。エスタは聖属性魔法の適性を持つ、学園でも数少ない治療師候補だ。今はまだ小さな切り傷を治したり、頭痛を少し和らげたりする程度の魔法しか使えないらしいが、本人はそれを誰よりも悔しく思っているようだった。
「え、ああ……ちょっとだけね」
「わたしだって、もうすぐ本格的な治癒魔法が使えるようになるんだから。薬なんかに頼らなくたって」
「別に張り合ってるわけじゃないんだけど……」
「張り合ってるのはそっちでしょ! いつも先回りして怪我人の面倒見てさ! こっちは適性があるって言われてから、毎日訓練してるのに、全然思うように伸びないのよ」
思わぬ本音がこぼれて、エスタ自身も少し驚いた顔をした。すぐに取り繕うように咳払いをして、彼女は続けた。
「……とにかく、次に会うときには、あんたの薬なんかよりずっと効く治療魔法、見せてあげるんだから」
「うん、楽しみにしてる」
正直、僕からすれば怪我をしたキアリーに薬を渡しているだけで、エスタと競争しているつもりは毛頭ない。けれど彼女の中では、僕の回復薬は乗り越えるべき壁になっているらしかった。ちょっと迷惑だな、と思わなくもないが、悪い気はしない自分もいる。誰かに意識されるというのは、案外悪くないものだ。
瓶に薬を詰め終えると、窓の外はすっかり夜の色に変わっていた。
片付けは、調合の一部だ。
これを怠ると、次に作るものに前の成分が混ざる。祖父の代から使っているという乳鉢は、前の日の汚れが染み込むと二度と抜けない。
まず、焜炉の炭を火消し壺へ移す。まだ赤い炭を金挟みで一つずつ摘み、壺に落として蓋をする。こうしておけば火は消え、残った炭は次に使える。
鍋は、熱いうちに湯を張って一度煮立たせる。こびりついた薬液がふやけて浮いてくるから、それを木べらで掻き落とす。冷めてからだとこびりついて取れなくなる。
乳鉢は、乾いた布で拭ってから水で流し、また拭く。水だけだと残った油分が落ちない。
麻布は搾りかすを捨ててから塩水に漬け、明日の朝に洗う。
包丁と秤を元の位置へ。作業台を絞った布巾で二度拭く。
火の始末をもう一度確かめて、僕は小屋を見回した。
外へ出ると、薬草園はすっかり暗くなっていた。
『今日の分は、悪くない出来だ』
コロンがそう呟いて、ミズナ草の葉陰へと戻っていく。その声には、いつもよりわずかに満足げな響きがあった気がした。
「また明日な」
『……ああ』
僕は鞄を担ぎ直して、門をくぐった。
家に帰ると、母が玄関先で腕を組んでいた。
「遅い」
「ごめん。薬が仕上げまで行っちゃって」
「ご飯、冷めてるわよ」
そう言いながらも、母はさっさと台所へ引っ込んでいった。
食事の前に、僕は裏の物置小屋へ寄った。
今日採ってきた分のうち、すぐに使わないものを麻紐で束ねて、梁から吊るしていく。乾燥させておけば数か月は保つ。
小屋の中は、乾いた薬草の匂いで満ちていた。青くさいような、香ばしいような、なんとも言えない匂いだ。
棚には、これまでに作った薬の瓶が並んでいる。今日の分も、その隣に置いた。
「フェイ、まだやってるの?」
母の声が飛んできた。
「もう終わる!」
「あと、匂いがこもってるから換気しときなさいよ」
「はーい」
僕は苦笑しながら窓を開けた。
棚に並んだ瓶を眺めながら、僕はふと思う。
――いつか本物の薬師になって、世界中を旅しながら、その土地でしか食べられないものを味わってみたい。
学園に入学したばかりの頃からずっと抱いている夢だ。父は大工仕事で鍛えた体を活かして働いているし、母は最初こそ僕の趣味に嫌な顔をしていたが、実際に効果のある薬が作れるようになり、しかも薬師がそれなりに稼げる仕事だと知ってからは、態度がずいぶん柔らかくなった。
窓の外には、少しずつ星が瞬き始めている。
明日はどんな配合を試そうか。増幅材の本を、もう一度図書室で探してみようか。
まだ本物には届かない。それでも、この積み重ねの先に、きっと自分の望む場所があるはずだと、僕は信じている。
「フェイ! ご飯!」
「今行く!」
僕は窓を閉めて、小屋の扉に手をかけた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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