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第28話 人の手に負えるもの

 雨は、まだ降っていた。


 僕は泥の中に座り込んだまま、浮かんでいる結晶を見ていた。


 子供の背丈ほどの高さで、それは止まっている。風にも雨にも動かない。水滴が表面を伝って落ちるたび、内側の色が赤から青へ、青から緑へと移った。


 イーリスが、その前まで歩いていった。


 白い衣の裾が、泥の上を滑るように通っていく。彼女は結晶の真下に立って、見上げた。


「――あの」


 僕は声を出した。


 出したつもりだったが、喉が乾いていて、ほとんど音になっていなかった。


「それ、なんですか」


『……人が知るものではありません』


 短い返事だった。


 短くて、硬かった。


 僕は、次の言葉を用意していた。


 用意していたのに、出てこなかった。


 去年の冬、この人は僕に手を差し出した。触れてもよろしいですか、と聞いた。指先が触れて、そこから光が走って、結界が組み上がった。あの膜は、今も僕の中に半分ある。


 分かり合えたと思っていたわけではない。


 ただ、少しくらいは近づいたのだと思っていた。


 いま返ってきたのは、そういう声ではなかった。


 悲しいのとは違った。寂しいのとも、たぶん違う。


 近い場所にある何かだけれど、どれとも重ならない。


 自分の中に、名前のない場所が一つできた。そういう感じがした。


 僕は口を閉じた。


 イーリスが、こちらを振り返った。


 雨の中に立っているのに、彼女はどこも濡れていなかった。白い衣も、畳んだ翅も、降る前とまったく同じだった。


『コロン』


『は』


『今日見たことを、誰にも語ってはなりませぬ』


『……承知しました』


『――そこの者も』


「はい」


 彼女は、それ以上何も言わなかった。


 結晶に手をかざす。


 それはゆっくりと高度を下げて、彼女の掌の上で止まった。


『これは、わたくしが預かります』


 光が畝の上に降りたときと同じように、彼女は消えた。


 結晶ごと、消えた。


* * *


 雨の中に、僕とコロンだけが残った。


 石垣の内側のあちこちで、光がゆっくりと戻ってきていた。


 円を崩して、一つ、また一つと、いつもの場所へ散っていく。


 数えたことはない。いつも数えきれないほどいる。


 それでも、その夕方の薬草園は、いつもより少し暗い気がした。


* * *


 その夜、僕は眠れなかった。


 天井を見ていると、あの声が戻ってきた。


 三人生まれれば、三人育った。三百年前は、二人が死んでおった。


 人は増えた。三百年で三倍じゃ。


 そして最後の、それが、なにゆえ、こうなる。


 僕は起き上がって、ランプを灯した。


 本棚から『旅する薬師の手記』を引き出す。


 ウルヴェリアの頁を開いた。


〈ウルヴェリアの飯は、順番で食わせる〉


 この頁を書いた人は、あの国で、皿の順番に首をかしげながら飯を食った。


 その国が、なくなった。


 作れる者が、もういない。


 書いてあるのに、もう誰も作れない。


 僕はしばらく、その頁の上に手を置いていた。


 置いてから、めくった。


 後ろへ行くほど、手記は難しくなる。


 薬草の分布が終わり、鉱物が終わり、地脈の図が始まる。図の余白には細かい書き込みがあって、そのほとんどは僕にはまだ読めない。


 最後の章は、ほとんど別の本だ。


 その手前の、地脈の図の途中に、一頁だけ毛色の違うところがある。


 前に読んだときは、飛ばした。薬の話ではなかったからだ。


〈北の山村にて、老婆より聞く〉


〈精霊は死なぬ、と老婆は言う。死なぬが、消える。そして消えたあとに、残るものがあると〉


〈何が残るのかと問うたら、言えぬと言う。見た者は言わぬ決まりだと〉


〈ならばどうして老婆は知っているのかと問うたら、笑って答えなんだ〉


 僕は、頁の上に顔を近づけた。


〈残ったものから、元に戻すこともできるかと問うた〉


〈できぬことはない、と老婆は言った。ただし人にはできぬ、とも言った〉


〈なぜかと問えば、あれは器ではない、中身でもない、境目じゃからだと〉


 境目。


 僕は、手の甲を見た。


 肘から先の、少し色の違うところ。


 馴染ませは、境目を扱う技法だ。


 壊れているものと、壊れていないものの境目を探して、そこを溶かす。去年からずっと、僕はそれをやってきた。


 老婆が言ったのは、たぶん違うことだ。違うことなのは分かる。


 それでも、同じ言葉が使われている。


〈戻すには何が要るかと重ねて問うた〉


〈老婆は三つ言った。その者が在った土地に生きていたもの。その者を憶えている者の声。そして、二つを繋いで離さぬもの〉


〈三つ目が何かと問うたら、そこで話は終いになった〉


 僕はランプの芯を上げて、その頁をもう一度読んだ。


 三回読んだ。


* * *


 それから、四日が過ぎた。


 薬草園には毎日行った。畝の手入れをして、水を撒いて、虫を取った。


 やることは、いくらでもあった。


 手を動かしているあいだは、考えずに済んだ。


 止めると、戻ってきた。


* * *


 三日目の夕方、小屋で道具を洗いながら、僕はやっと聞いた。


「コロン」


『何だ』


「この前の、あれ。何か知ってる?」


『知らん』


 僕は、手を止めた。


 コロンは、精霊のことなら大抵知っている。地脈のことも、結界のことも、大精霊が何を考えているかまで見当をつける。去年からずっと、僕はそれに助けられてきた。


 その声が、いま、はっきりと途方に暮れていた。


『見たことがない。……聞いたこともない』


「そうなんだ」


『語るなと言われた。語りようもない』


* * *


 その夜も、僕は手記を開いた。


 老婆の頁は、もう覚えてしまっていた。


 器ではない、中身でもない、境目じゃ。


 その者が在った土地に生きていたもの。その者を憶えている者の声。そして、二つを繋いで離さぬもの。


 三つ目は、書かれていない。


 覚えてしまったのに、僕は毎晩それを開いた。


 開いて、読んで、閉じて、消灯して、天井を見ていた。


* * *


 四日目の夜に、僕は諦めた。


 考えるのを諦めた、という意味だ。


 あれが何なのかは、僕には分からない。人が知るものではないと言われた。それはそうなのだろう。


 分からないままでいることには、慣れている。濁った緑の一本も、まだ分からないままだ。


 でも、あれは棚に置いておける。


 あの結晶は、置いておけない。


 叱られるだろうな、と思った。


 差し出がましい、と言われるかもしれない。人の分を弁えよ、と言われるかもしれない。去年からこっち、僕はあの人に一度も叱られたことがないが、叱られない理由がないだけだ。


 それでも、聞かないままでいるのは、無理だった。


* * *


 翌朝、僕は地下への入り口に立っていた。


 扉には錠がかかっているはずだった。


 この前は学園長が鍵束を持っていた。いま僕は一人で、鍵を借りる当てもない。


 それでも来てしまったので、僕は取っ手に手をかけて引いた。


 開いた。


 錠は、かかっていなかった。


 かけ忘れたのか、それとも、かけても意味がないのか。


 僕はどちらとも決めずに、中へ入った。


 石段の途中で、学園長に会った。


 上ってくるところだった。手すりを掴んで、一段ずつ、休みながら。木箱は持っていなかった。


「フェイ君」


「学園長」


「……あの日のことは」


「はい」


「あの方から、口止めをされました」


 学園長は、踊り場で息を整えながら言った。


「王城にも、教員にも、報告しないようにと。私は二十四代目ですが、こんな指示を受けたのは初めてです」


「僕も、言われました」


「そうでしょうな」


 学園長は、僕の顔を見た。


「君は、どうするつもりです」


「戻せないか、やってみます」


「戻す」


「はい」


 学園長は、少しのあいだ黙っていた。


「……私に、できることは」


「たぶん、ないです」


「でしょうな」


 彼は笑った。


 疲れた笑い方だった。


「三十年前なら、止めていました」


「今は」


「今は、止めません。……あの日、私は顔を覆っていただけでしたから」


 学園長は、また一段上り始めた。


 僕は下へ向かった。


* * *


 祠の扉を開けると、イーリスは床に座って本を読んでいた。


 あの日のことなど何もなかったような顔をしていた。


 結晶は、部屋の奥に浮かんでいた。ランプの明かりを受けて、鈍く色を変えている。


『……何用です』


「あれを、戻す薬を作ります」


 彼女は、本から目を上げた。


『できませぬ』


「やってみます」


『そなたに、何ができるというのです』


 僕は、うまく答えられなかった。


 理由は、あるにはある。


 でも、口に出すと馬鹿みたいに聞こえる気がした。手記に、あの国の飯の書き方が載っていたから、とは言いづらかった。


 それでも、ほかに言うことがなかったので、僕はそれを言った。


「手記に、ウルヴェリアの食事のことが書いてあるんです」


『……食事』


「辛いものが先で、酸っぱいのが次で、最後に甘いのが来るそうです。前の味が消える前に次が来るように組んであって、それで、消すんじゃなくて送り出すんだって」


『……』


「僕、それを食べてみたかったんです」


 イーリスは、黙って僕を見ていた。


「それだけです。あの人のためじゃないです。多分」


『……』


「あの人は、僕のことを下賤の者だって言いました。それは、たぶん本気でそう思ってるんだと思います」


『思っておりましょう』


「はい」


「でも、あの国の飯の作り方を知ってるのは、もうあの人だけです」


 長い沈黙があった。


 イーリスは、本を閉じた。


 閉じて、膝の上に置いて、それから奥に浮かんでいる結晶のほうを見た。


『……好きになされませ』


「ありがとうございます」


『礼を言われる筋合いはありませぬ』


 彼女はそう言って、また本を開いた。


『――申しておきますが』


「はい」


『わたくしは、手を貸しませぬ』


「はい」


『それが何であるかも、申しませぬ』


「はい」


 僕は頭を下げて、扉のほうへ歩いた。


 扉に手をかけたところで、背中に声がかかるかと思った。何か一言、手がかりのようなものが来るかと思った。


 来なかった。


 振り返ると、あの人はもう本に目を落としていた。


* * *


 その日から、僕は調合を始めた。


 最初は、薬草園の素材で試した。


 その者が在った土地に生きていたもの。それが一つ目だ。でもウルヴェリアの土のものなんて、すぐには手に入らない。だから、まず手順のほうを確かめることにした。


 ミズナ草。カイエンの実。乾かした根。この春に採れた花の粉。


 三日で、七回失敗した。


 失敗の仕方が、いつもと違った。


 普通の調合は、失敗すると濁るか、分離するか、効きが落ちる。手応えはある。どこで間違えたかも、大体分かる。


 これは、何も起きなかった。


 混ぜて、煮て、冷まして、できたものは、ただの濁った水だった。


* * *


 四日目に、僕は商業ギルドへ行った。


 王都の商業ギルドは、東通りをさらに下った先の、石造りの建物だ。中に入ると、天井まで届く棚に木箱が積んであって、係の人が梯子を上り下りしていた。


「ウルヴェリアの品を探してるんですけど」


「ああ」


 係の人は、帳面から目も上げずに答えた。


「入らないよ。三月前から」


「在庫は、ないですか」


「ないね」


「本当に、一つも」


「……坊主。学生さんかい」


 係の人が、そこで初めて顔を上げた。


 僕の靴を見て、袖を見て、それから顔を見た。


「ないことにしてあるんだよ」


「え」


「あるけど、ない。分かるかい」


「……分かりません」


 係の人は、ため息をついた。


「値が動いてる最中の品を、いま出すやつはいないの。明日になればもっと上がるかもしれない。上がるかもしれない物を、今日売る商人がいると思うかい」


「思いません」


「そういうこと」


「あの」


「まだ何かあるのかい」


「どうしても要るんです」


 係の人は、僕をしばらく眺めていた。


 それから、梯子の上の男に声をかけた。


「おーい。北の十七番、まだあったよな」


「ありますよ」


「ひと匙だけ、量ってやってくれ」


「いいんですか」


「よかないよ」


 係の人は、また帳面に目を落とした。


「ただね、坊主みたいな顔で来られるとね。売らなかったって噂を立てられるほうが損なんだ。商売ってのはそういうもんでね」


「ありがとうございます」


「礼はいらないから、値を聞いてから言いな」


 値を聞いた。


 香辛料が、ひと匙で五千ネイだった。三月前なら、その十分の一だったらしい。


 僕の小遣いは、ひと月で五千ネイ。父と母が出してくれる分と、薬草園の手伝いでもらう分を合わせて、それくらいだ。そこに、去年から少しずつ貯めた分が二万ネイある。普段の調合なら、これで何年も持つ。素材は薬草園で採れるし、実費は炭代と瓶代しかかからない。


 ひと月分の小遣いが、ひと匙で消える。


「……買います」


「そう言うと思ったよ」


 係の人は、少しも嬉しそうではなかった。


* * *


 失敗した。


 翌日、東通りの香辛料屋へ行った。茶色い粉。あの串焼き屋が使っているやつ。産地はウルヴェリア。


 三千ネイ。


 失敗した。


 その次は薬品店を三軒回った。


 一軒目で、乾かした木の皮を買った。二軒目で、南から来たという樹脂を買った。三軒目の店主に「境目を繋ぐような素材はありませんか」と聞いたら、変な顔をされた。


「何と何の境目だい」


「壊れてるものと、壊れてないものです」


「そりゃ薬の話かい?」


 三軒目の薬品店を出たところで、通りの向こうにエスタがいた。


 治療科の実習着のままだった。夏の休みでも、治療科は交代で王立病院に出ている。そういう話を、前に聞いた気がする。


 彼女はこちらを見た。


 僕も見た。


 それだけだった。


 彼女は向きを変えて、坂を上っていった。僕は立ち止まったまま、その背中を見ていた。


 謝りに行けばいい、というのは分かっている。


 分かっているが、何を謝ればいいのかが分からない。


 前に謝ったときも、それで駄目だった。同じことをもう一度やっても、同じ結果になる気がした。


 僕は、薬品店の紙袋を抱え直して、反対の坂を下りた。


* * *


 失敗した。


 失敗した。


 失敗した。


 十日で、二万五千ネイが、残り四百ネイになった。


* * *


 その日の夕方、僕は薬草園の小屋で、机に突っ伏していた。


『やめておけ』


「やめない」


『金がない』


「うん」


『素材もない』


「うん」


 コロンは、それ以上何も言わなかった。


* * *


 暗くなってから、ゲルダ先生が小屋を覗きに来た。


 僕が休みに入ってから毎日ここにいるのを、どこかで聞いたらしい。


「フェイ君、あんた顔色が」


「大丈夫です」


「大丈夫な顔じゃないよ」


 先生は、机の上に並んだ失敗作を見た。


 小瓶が十三本。全部、ただの濁った水だ。


 一本手に取って、明かりに透かして、栓を抜いて匂いを嗅いだ。


「……これ、何を作ろうとしてるんだい」


「言えません」


「言えない」


「はい」


「そうかい」


 先生は、それ以上聞かなかった。


 その代わり、瓶を置いて、しばらく腕を組んでいた。


「繋ぎが足りないね」


「繋ぎ?」


「二つのものを、混ぜずに繋ぐやつさ」


 先生は、瓶を机に戻した。


「あんたのは、全部混ざって終わってる。混ざったら別のものになるだろう。それじゃ駄目なんじゃないのかい」


 僕は、顔を上げた。


 二つを繋いで離さぬもの。


「先生、どうして分かったんですか」


「何がだい」


「見ただけで。僕、十日かかっても分からなかったのに」


 先生は、少しのあいだ黙っていた。


「……私もね」


「はい」


「昔、これと同じ水を作ったよ」


「同じ?」


「同じ。濁ってもいない、分離もしない、ただの水。……十三本だったか、十五本だったか」


 先生は、机の上に並んだ瓶を見た。


 数えている顔だった。


「先生も、同じものを作ろうとしたんですか」


「私じゃないよ。真似しただけさ」


「真似」


「師匠のをね」


「変わった人でね。混ぜない調合ばかりやっていた。二つのものを並べて、間に何かを置いて、それで一つに見せる。あの人はそれを繋ぎと呼んでいた」


「何を作ってたんですか」


「知らないよ」


「知らない?」


「聞かなかったのさ」


 先生は、肩をすくめた。


「十七だったんだ、私は。薬師の技ってのは、覚えろと言われたものを覚えるだけで手一杯でね。師匠が何を作ってるかなんて、興味もなかった。……訊けばよかったよ」


「その人は」


「二十年前に死んだ」


 小屋の中が、少し静かになった。


「一度だけ、真似してみたことがある」


 先生は言った。


「師匠が使ってた素材を、覚えてる限り集めてね。それで作ったのが、その十何本だよ。何も起きなかった。何も起きないってのは、堪えるもんでね」


「……はい」


「それきり、やめた」


「素材は、何だったんですか」


 先生は、少し困った顔をした。


「それがね。ほとんど覚えてないんだ」


「え」


「四十年前だよ。書き留めもしなかった。名前を一つ覚えてるだけさ」


「一つ」


「一つ」


 先生は、指を一本立てた。


「満月草」


「……満月草」


「なんでそれだけ覚えてるのか、自分でも分からないね。名前が妙だったからかもしれない。草に満月とつけるかね、普通。……師匠が、ずいぶん大事そうに扱っていた気もする」


「どこで採れるんですか」


「知らないよ」


 先生は、あっさり言った。


「私も現物は見たことがない。四十年薬師をやって、一度もね」


「……先生」


「なんだい」


「あの、その人、何か言ってませんでしたか。満月草のことで」


 先生は、しばらく天井のあたりを見ていた。


「誰かが、きれいな草だとか言っていた気もするんだが」


「誰かが」


「思い出せないね。師匠だったか、別の人だったか。……年を取るってのは、こういうことさ」


 先生は帰っていった。


 僕は机の上の四百ネイを見た。


 銅貨が四枚。


 明日、キアリーに聞こう、と思った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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