↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/39

第27話 残されたもの

 夏の休みに入って、三日が過ぎていた。


 エスタとは、あれから一度も口をきいていない。


 その日は、朝から雲が低かった。


 空全体が灰色の蓋をしたようになっていて、風が止まっている。歩いているだけで首筋に汗が浮いた。ひと雨来るな、と父が朝に言っていた。


 薬草園の門の閂を上げたところで、緑の光が飛んできた。


『来い』


「おはよう」


『挨拶はいい。来い』


 コロンの声が、聞いたことのない硬さをしていた。


 僕は鞄を放り出して、走った。


 三番目の畝を過ぎて、女神像の脇を抜けて、石垣の奥まった隅。ミズナ草を植えていない、日陰の一角。


 そこに、人がいた。


 人ではなかった。


 背丈は僕より少し低い。深紅の衣をまとって、地面に横向きに崩れ落ちている。褐色の髪が土の上に広がっていた。


 背中に、翅がある。


 六対。


 透き通った膜に、黄金の筋が走っていた。その筋が、一定の間隔で明滅している。明滅というより、途切れかけている。


 大精霊だ。


 イーリスではない。


 僕はその場に立ち尽くした。


 石垣の内側のあちこちで、小さな光が固まっていた。近寄らない。畝の向こう、木の枝の上、像の後ろ。全部、同じくらいの距離を取って、ぐるりと円を描くように止まっている。


 いつもなら、僕が来ればすぐに寄ってくるのに。


『三人、消えた』


 コロンが低く言った。


「消えた?」


『あれが来て、すぐだ。力をよこせと言った。断る間もなかった』


 倒れている大精霊が、呻いた。


『……流れを……』


 僕は動けなかった。


『……誰ぞ……おらぬか……ワラワに、流れを……』


 僕は、一歩踏み出そうとした。


『近づくな』


 コロンの声が、耳のすぐ横で鳴った。


「でも、苦しそうだよ」


『三人は、近づいたのだ』


 僕は、足を止めた。


『あれは求めてる。手近にあるものを、見境なく。……お前の中にも流れはあるんだぞ』


 僕は一歩下がった。


 下がってから、どうすればいいのか分からなくなった。


 イーリスのいる祠へは、錠のかかった扉を通らないと下りられない。鍵は学園長が持っている。


 気がつくと、足が門のほうへ向いていた。


* * *


 学園の本館まで、坂を駆け上がった。


 普段なら息が上がるところだが、そのときは息のことなど頭になかった。廊下を走って、階段を上がって、一番奥の扉を叩いた。


「学園長! 学園長!」


 扉が開いた。


「フェイ君? どうしました、そんな――」


「大精霊が」


「はい?」


「薬草園に、大精霊がいます。イーリス様じゃない、別の方です」


 学園長の顔から、表情が消えた。


「……もう一度」


「薬草園に、大精霊が倒れています。イーリス様ではありません。翅が六対あって、金色で、すごく苦しそうで、精霊が三人消えたってコロンが」


「三人?」


「力をよこせと言われて」


 学園長は、僕の顔を数秒見ていた。


 それから、机の上の鍵束をひっつかんだ。


「行きましょう」


「大精霊様に、伝えていただけませんか」


「私が伝えても、見ていない者の又聞きにしかなりません。君も来なさい」


 地下への石段を、僕らは駆け下りた。


 燭台の炎が、風を切るたびに後ろへ流れる。


 二百七十段だと、あとから聞いた。そのときは数えていなかった。十段ごとに踊り場があるのだけは分かった。


 途中で、学園長が手すりにしがみついた。


「学園長!」


「行きなさい……いや、待ちなさい。……一緒に行く」


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないが、行く」


 祠の扉を押し開けたとき、僕らは二人とも息も絶え絶えだった。


 汗が顎から落ちて、石の床に点を作った。学園長は扉の枠に片手をついたまま、しばらく言葉が出なかった。


 明るい部屋の真ん中に、白い衣の背中があった。


 床に座り込んで、膝の上に本を広げている。


 こちらを振り返って――


『ふぇ』


「え」


『……い、いえ』


 大精霊が、本を閉じた。


 閉じて、膝から下ろして、裾を払って、立ち上がった。立ち上がる途中で一度、髪に手をやった。それから翅を畳んだ。


 僕の後ろから学園長が体を起こすと、彼女の背筋がすっと伸びた。


『――何事です』


 さっきまでとは、まるで別人の声だった。


「イーリス様。……火急の件にて」


『申してごらんなさい』


 僕は、息を整えながら話した。


 薬草園に大精霊が倒れていること。イーリスではないこと。翅が六対あること。苦しんでいること。力をよこせと言って、小さな精霊が三人消えたこと。


 話しているあいだ、彼女は一度も遮らなかった。


 話し終えると、彼女は少しのあいだ目を伏せた。


 それから、言った。


『放っておきなさい』


「……え」


『放っておきなさいと申しました』


「でも、苦しんでます」


『存じております』


 僕は、その先の言葉を探した。


 探したが、出てこなかった。


 目の前にいるのは、冬に僕と結界を張り直した人だ。数えきれない小さな光に囲まれて、毎日ここで本を読んでいる人だ。


 その人が、放っておけと言った。


 僕は、踵を返した。


「フェイ君!」


 学園長の声が背中に当たったが、僕は止まらなかった。


 二百七十段を、今度は上った。


 途中から、足が自分のものでなくなった。手すりを掴んで、引っ張り上げるようにして上った。息が喉の奥で笛のような音を立てていた。


◆


 石段に、足音が遠ざかっていった。


 私は、扉の枠から手を離した。


 膝が笑っている。呼吸も整っていない。それでも、聞かねばならないことがあった。


「……よろしいのですか」


 大精霊は、答えなかった。


 彼女は、床に置いた本のほうを見ていた。


 漁師の手記。網の繕い方と、魚の値と、天候の読み方が書いてある、あの一冊。


 やがて、彼女は言った。


『……今に分かります』


 その姿が、光に溶けた。


 私は、誰もいなくなった祠に一人で立っていた。


 床の上に、閉じた本が一冊残されていた。


◆


 薬草園の門を抜けたとき、僕の視界は白く点滅していた。


 汗が目に入って痛い。膝が震えている。それでも足を止めなかったのは、石垣の奥から声が聞こえたからだ。


 怒鳴り声だった。


『だから力をよこせと言っている!』


『それで三人消えただろう!』


 後のほうは、コロンだった。


 小さな光の体で、円の内側に立ちはだかっている。後ろには、数えきれない光が身を寄せ合っていた。震えている。近づくと、空気そのものが細かく揺れているのが分かった。


 その正面に、大精霊が座り込んでいた。


 さっきより、姿が変わっていた。


 翅の黄金の筋が、あちこちで途切れている。深紅の衣の裾が、灰のように端からほどけていた。


 そして、両手。


 指の先から手首にかけて、細かい光の線が走っている。


 ひび割れだった。


『全然足りぬではないか!』


『それが大精霊のすることか?!』


『黙れ、下位風情が』


 大精霊の声は、苦しげなのに、少しも下がらなかった。


『ワラワは大精霊ぞ。大精霊が求めておるのだ。差し出すのが道理であろうが』


『道理で三人も消えるか!』


『足りぬのだから仕方あるまい!』


 僕は、走り寄ろうとした。


 その瞬間、目の前が明るくなった。


 光が、畝の上に降りた。


 白い衣。六対の翅。畳まれていた翅が、ゆっくりと開いていく。


『――双方、お控えなさい』


 空気が、静かになった。


 震えていた光の群れが、止まった。コロンが大きく息を吐くのが、音もないのに分かった。


『イーリス様』


『下がりなさい、コロン。よくしのぎました』


『……は』


 コロンは、後ろの光たちのほうへ下がった。


 イーリスが一歩前に出ると、小さな光たちは自然と彼女の後ろへ集まった。彼女はそれを振り返りもせず、ただ翅を少し広げた。


 広げた翅の陰に、全部が収まった。


* * *


 座り込んでいた大精霊が、顔を上げた。


 顔を上げて、目を見開いて、それから、居住まいを正した。


『……ウルヴェリアの地を預かる、ウルワシと申す』


『ヴェルダントのイーリスです』


『助けてたもれ』


『何があったのです』


『人間じゃ』


 ウルワシは、地面についた手を、ゆっくりと膝の上に戻した。


 背筋が伸びた。


 さっきまで呻いていた者と同じとは思えない姿勢だった。


『――イーリス殿。まず、これだけは申しておきたい』


 声が、変わっていた。


 低く、よく通る声だった。崩れかけている体から、どうしてこんな声が出るのか分からなかった。


『ワラワは、あの者らを憎んだことが一度もない』


『三百年、ワラワはウルヴェリアの民を慈しんできた』


 ウルワシは、そう語り始めた。


『種を蒔く時期を教えた。井戸を掘る場所を示した。疫病の兆しがあれば先に告げ、飢饉の年には貯えの出し方まで指図した。あの国で子が三人生まれれば、三人とも育った。三百年前は、二人が死んでおった』


 数字が出てくるたびに、僕は少しずつ引き込まれていった。


 三人生まれて、三人育つ。


 それがどれくらいすごいことなのかは、治療科の授業で聞いたことがあった。


『人は増えた。三百年で三倍じゃ』


 ウルワシは続けた。


『畑は広がり、街は伸び、飢えて死ぬ者はおらなくなった。これはワラワの誇りであった。……今でも誇りである』


「……はい」


 うっかり、僕は頷いてしまった。


『ところが』


 声の調子が、そこで一段下がった。


『あの者らは、それを重荷と申し始めた』


『重荷?』


『指図が多い、と』


 ウルワシは、心底不思議そうな顔をした。


『指図が多いと申すのじゃ。ワラワが、あの者らのために、一つも間違えぬように整えてやったものをな』


 雲の下で、遠くの光が一度だけ走った。


 雷は鳴らなかった。


『三十年ほど前からじゃ。畑の当番を怠る者が出た。井戸の刻限を守らぬ者が出た。祭りの列を乱す者が出た』


『……それで』


『改めさせた』


『改めさせた、とは』


『子らに見回らせた』


 ウルワシの声には、何の含みもなかった。


『どの家が何を怠ったか、逐一届けさせた。怠りには罰を下した。軽ければ井戸の水を一日止める。重ければ、その家の畑を一季節、実らせぬ』


 イーリスの翅が、わずかに動いた。


 僕は、それに気づいた。


 音もなく、ほんの少しだけ、六対の翅の縁が持ち上がった。それだけだった。


 彼女は何も言わなかった。


『効き目はあった』


 ウルワシは言った。


『罰を下せば、翌日には改まる。そして改まれば、実りは戻る。誰も飢えぬ。誰も死なぬ。……これのどこが悪い』


 僕は、答えられなかった。


 答えられないまま、その通りかもしれない、と思っていた。


 誰も飢えない。誰も死なない。悪いことは何も起きていない。


* * *


『四年前じゃ』


 ウルワシの声が、急に平坦になった。


『祭りの供物を、ある村がひと晩遅らせた。理由は覚えておらぬ。些細なことじゃ』


『……罰を』


『下した。いつも通りにな』


『その夜、村の者が子らを狩った』


 風が止まった。


『網を張り、火を焚き、鉄の棒で叩き落とした。ワラワの子が十二、その一夜で消えた』


『ワラワは、応じた』


 ウルワシは、まっすぐイーリスを見た。


『応じぬわけにいくまい。十二じゃぞ。ワラワはその村から流れを絶った。ひと月で無人になった』


『それが始まりじゃ』


 そこから先は、早かった。


 隣の村が武器を掘り出した。精霊に触れる鉄だという。精霊たちは反撃し、また人が死に、また鉄が増えた。三年目に粉が出た。撒かれたところの精霊が、片端から消える粉だ。


『子らが、五百』


 ウルワシは言った。


『三日でじゃ』


 僕は、息を呑んだ。


 その数を聞いて、最初に思ったのは、五百という数がどれくらいなのか見当もつかない、ということだった。


 この薬草園にいる光を全部数えても、たぶん百に届かない。


『人もな、死んだ』


 ウルワシは付け加えた。


『どれほど死んだかは知らぬ。数えておらぬ』


『……それで、どうなさいました』


 イーリスが、静かに尋ねた。


『地脈を引き上げた。全部じゃ』


『全部』


『一滴も残さず。ひと月で国が干上がった。三月で、誰もおらんようになった』


『ワラワは逃げた』


 ウルワシは、それを隠さなかった。


『土が毒に染まっておるのじゃ。人の恨みと、あの粉と、朽ちた鉄と。ワラワが流れを通そうとすると、そこから逆流してくる。……この手は、そのときに割れた』


* * *


 話は、そこで終わった。


 長い話だった。


 そして、聞き終えたとき、僕は一つも反論を思いつかなかった。


 先に手を出したのは人間だ。


 十二の精霊を、網と火と鉄で狩ったのは人間だ。


 粉を作ったのも、撒いたのも人間だ。


 ウルワシは、その全部に応じただけだ。


 そう並べると、筋が通っている気がした。


『ワラワは、為すべきを為した』


 ウルワシは、静かにそう言った。


『三百年、一度たりとも怠らなんだ。あの者らのために、できることは全てした』


『それが』


 そこで初めて、その声が、ほんのわずかに揺れた。


『それが、なにゆえ、こうなる』


 イーリスは、黙って聞いていた。


 聞き終えて、少しのあいだ目を閉じた。


『――なにゆえ、ここへ』


 ウルワシが、顔を上げた。


『光を見た』


『光』


『冬の終わりじゃ。南から来た』


 ウルワシは、割れかけた手で自分の胸のあたりを押さえた。


『地脈を通して届いた。ワラワはそのとき、土の下におった。もう流れを送る力もなく、ただ朽ちるのを待っておった。……そこへ、あれが来た』


『何の光です』


『知らぬ』


 ウルワシは、正直にそう言った。


『ただ、あれは力ではなかった。理じゃ。人と精霊の間にある理が、書き換わる音がした。……分かたれてこのかた、ワラワは一度もあのようなものを見ておらぬ』


 僕は、息を詰めていた。


 冬の終わりだ。中庭で、この人が両腕を広げた日だ。黒い筋が空から剥がれて、白い衣の胸元へ吸い込まれていった、あの日。


『あれを見て、ワラワは歩いた』


 ウルワシの声が、少しだけ速くなった。


『峠を越えた。道が崩れておったから、崖を這った。三日かかった。……そして、この地の結界に触れた』


『触れた』


『弾かれると思うた』


『弾かれなんだ』


 ウルワシは、そこで自嘲するような音を漏らした。


『弱っておったのじゃろうな。もはや、結界が敵と見なすほどのものでもなかったということじゃ』


『イーリス殿』


 ウルワシは、地面についた手に力を込めた。


『あの光を出した者が、この地におるのであろう。人と精霊の理を、書き換えられる者がおるのであろう』


『ならば』


 声が、掠れた。


『ならば、ウルヴェリアの理も、書き換えられるのではないか。……ワラワの土を、戻せるのではないか』


『――こちらにできることは、何もありません』


『……何と』


『早々に、お立ち去りなさい』


 そのとき、頬に冷たいものが当たった。


 一滴。


 続けて、二滴。


 空を見上げると、灰色の蓋に、細かい筋が走り始めていた。


 雨だった。


 ウルワシは、すぐには動かなかった。


 言われた言葉の意味が分からない、という顔をしていた。


『イーリス殿。……ワラワの話を、聞いておられなんだか』


『伺いました』


『ならば、なにゆえ』


『こちらにできることは、何もありません』


『……同じ大精霊ぞ』


 ウルワシの声が、初めて低くなった。


『大樹より分かたれた同じ身ぞ。それが、目の前で崩れかけておる者に、何もできぬと申すか』


『できませぬ』


 沈黙があった。


 雨の粒が、葉を打つ音だけが増えていった。


 ウルワシは、ゆっくりと息を吸った。


 反論を組み立てようとしている、という顔だった。さっきまでのように、筋道を立てて、静かに、朗々と。


 その姿勢のまま、彼女は自分の膝の上に目を落とした。


* * *


 そこに、手があった。


 指の付け根から手首にかけて、光の線が走っていた。


 さっきより、細かい。


 さっきより、数が多い。


『……手が』


 声が、掠れた。


『手が、割れ――』


 ウルワシは、自分の手を顔の前まで持ち上げた。


 持ち上げた途端、右の小指の先が、ぱらりと落ちた。


 灰になって、雨の中に散った。


『あ』


『あ、あ』


 そこから先は、早かった。


『――そこの精霊どもをよこせ!』


 ウルワシが叫んだ。


 膝立ちになって、イーリスの後ろの光の群れに手を伸ばした。


『十でよい! いや、二十じゃ! それだけあれば繋ぎ止められる! ワラワは大精霊ぞ、ワラワが消えれば、ウルヴェリアの地は二度と戻らぬのだぞ!』


『なりません』


『なにゆえ!』


『早々に、お立ち去りなさい』


 雨脚が、強くなった。


 畝の土が色を変えていく。撒いたばかりのように、濃く湿っていく。


『頼む』


 その言葉が出たとき、ウルワシの背筋から、何かが抜け落ちた。


『頼む、イーリス殿。十でよい。五でもよい。ワラワは、ワラワは、まだ為さねばならぬことが』


『なりません』


『ひび割れが! 見よ、腕まで来ておる! 待ってくれ、待って――』


 イーリスは、動かなかった。


 雨は、彼女を濡らさなかった。


 白い衣にも、六対の翅にも、粒がそのまま抜けていく。足元の土だけが、黒く濡れていった。


 彼女はその場に立ったまま、後ろの光たちを翅の陰に収めたまま、ウルワシを見下ろしていた。


『いやじゃ』


 ウルワシが呟いた。


『いやじゃ。まだ消えとうない。いやじゃ』


 気がついたとき、僕は走っていた。


 泥を跳ね上げて、畝を踏み越えて。


 イーリスの脇をすり抜けて、ウルワシの前に膝をついた。


 両手を、掴んだ。


 割れかけた手だった。触れた指先が、砂に触れているような感触になった。


 目を閉じる。息を吸う。


 境目を探す。壊れているものと、壊れていないものの、境目を。


 馴染ませる。


『――触るな』


 手が、跳ねた。


『触るな、下賤の者め!』


 振り払われて、僕は後ろに倒れた。


 背中から泥に落ちて、雨が顔に降ってきた。息ができなかった。


『人間が』


 ウルワシが、僕を見た。


 雨の中で、その目だけがはっきりしていた。


『人間の分際で、ワラワに触れるか。……其方らが、其方らが何をしたか、分かっておるのか』


 答えようとした。


 答えられなかった。


 僕はウルヴェリアのことを何も知らない。今日、この人の口から初めて聞いたばかりだ。


* * *


 ビキッ。


 大きな音が、一度だけした。


 木が裂けるような、氷が割れるような音だった。


『――いやだ』


 ウルワシの声から、尊大さが抜け落ちた。


『いやだ。誰か。誰かワラワを助けろ』


 深紅の衣が、端から灰になって散った。


 翅の黄金が消えた。


 褐色の髪が、ほどけて、雨の中に散った。


『助け――』


 崩壊は、静かだった。


 音を立てたのは最初の一度だけで、あとは雨の音しかしなかった。


* * *


 後に、一つだけ残された。


 子供の背丈ほどの高さに、それは浮かんでいた。


 大人の頭ほどの大きさの、結晶。


 雨に打たれて、鈍く虹色に輝いていた。


 形が、おかしかった。


 四角い。それは分かる。角があって、辺があって、面がある。


 その内側に、もう一つ四角いものが入っている。それも分かる。


 分からないのは、内側の四角と外側の四角を繋いでいる辺のほうだった。


 八本ある。


 八本とも、まっすぐに見える。


 まっすぐなのに、どれも同じ長さに見えない。目で追うと、途中で長さが変わる。内側のほうが手前にあるように見えて、瞬きをすると奥に行く。


 面の数を数えようとした。


 数えているうちに、どれが表でどれが裏なのか分からなくなった。裏だと思っていた面が、いつのまにか正面を向いている。


 僕は、目をそらした。


 そらしてから、気づいた。


 あれは、こちら側に全部は入っていない。


 この世界に置かれているのは一部だけで、残りは別のどこかにある。だから辻褄が合わない。そういう形に見えた。


 表面を水が伝って、光の色を少しずつ変えていく。


 イーリスが、それを見下ろしていた。


 彼女の目を、僕はそのとき初めて正面から見た。


 凍てついていた。


 吹雪の中にある光のような、白く硬い輝きだった。慈しみでも、怒りでもない。もっと遠くて、もっと動かないもの。


 雨が、本降りになった。


 僕は泥の中に座り込んだまま、動けなかった。


 さっきまで、そこに誰かがいた。


 呻いて、叫んで、僕の手を振り払った誰かが。


 今は、虹色の石が一つ浮いているだけだった。


『……フェイ』


 コロンの声がした。


 僕は返事をしなかった。


 雨は、夜まで降り続いた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


少しでも「先が気になる」「雰囲気が好きだ」と思っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。