第27話 残されたもの
夏の休みに入って、三日が過ぎていた。
エスタとは、あれから一度も口をきいていない。
その日は、朝から雲が低かった。
空全体が灰色の蓋をしたようになっていて、風が止まっている。歩いているだけで首筋に汗が浮いた。ひと雨来るな、と父が朝に言っていた。
薬草園の門の閂を上げたところで、緑の光が飛んできた。
『来い』
「おはよう」
『挨拶はいい。来い』
コロンの声が、聞いたことのない硬さをしていた。
僕は鞄を放り出して、走った。
三番目の畝を過ぎて、女神像の脇を抜けて、石垣の奥まった隅。ミズナ草を植えていない、日陰の一角。
そこに、人がいた。
人ではなかった。
背丈は僕より少し低い。深紅の衣をまとって、地面に横向きに崩れ落ちている。褐色の髪が土の上に広がっていた。
背中に、翅がある。
六対。
透き通った膜に、黄金の筋が走っていた。その筋が、一定の間隔で明滅している。明滅というより、途切れかけている。
大精霊だ。
イーリスではない。
僕はその場に立ち尽くした。
石垣の内側のあちこちで、小さな光が固まっていた。近寄らない。畝の向こう、木の枝の上、像の後ろ。全部、同じくらいの距離を取って、ぐるりと円を描くように止まっている。
いつもなら、僕が来ればすぐに寄ってくるのに。
『三人、消えた』
コロンが低く言った。
「消えた?」
『あれが来て、すぐだ。力をよこせと言った。断る間もなかった』
倒れている大精霊が、呻いた。
『……流れを……』
僕は動けなかった。
『……誰ぞ……おらぬか……ワラワに、流れを……』
僕は、一歩踏み出そうとした。
『近づくな』
コロンの声が、耳のすぐ横で鳴った。
「でも、苦しそうだよ」
『三人は、近づいたのだ』
僕は、足を止めた。
『あれは求めてる。手近にあるものを、見境なく。……お前の中にも流れはあるんだぞ』
僕は一歩下がった。
下がってから、どうすればいいのか分からなくなった。
イーリスのいる祠へは、錠のかかった扉を通らないと下りられない。鍵は学園長が持っている。
気がつくと、足が門のほうへ向いていた。
* * *
学園の本館まで、坂を駆け上がった。
普段なら息が上がるところだが、そのときは息のことなど頭になかった。廊下を走って、階段を上がって、一番奥の扉を叩いた。
「学園長! 学園長!」
扉が開いた。
「フェイ君? どうしました、そんな――」
「大精霊が」
「はい?」
「薬草園に、大精霊がいます。イーリス様じゃない、別の方です」
学園長の顔から、表情が消えた。
「……もう一度」
「薬草園に、大精霊が倒れています。イーリス様ではありません。翅が六対あって、金色で、すごく苦しそうで、精霊が三人消えたってコロンが」
「三人?」
「力をよこせと言われて」
学園長は、僕の顔を数秒見ていた。
それから、机の上の鍵束をひっつかんだ。
「行きましょう」
「大精霊様に、伝えていただけませんか」
「私が伝えても、見ていない者の又聞きにしかなりません。君も来なさい」
地下への石段を、僕らは駆け下りた。
燭台の炎が、風を切るたびに後ろへ流れる。
二百七十段だと、あとから聞いた。そのときは数えていなかった。十段ごとに踊り場があるのだけは分かった。
途中で、学園長が手すりにしがみついた。
「学園長!」
「行きなさい……いや、待ちなさい。……一緒に行く」
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではないが、行く」
祠の扉を押し開けたとき、僕らは二人とも息も絶え絶えだった。
汗が顎から落ちて、石の床に点を作った。学園長は扉の枠に片手をついたまま、しばらく言葉が出なかった。
明るい部屋の真ん中に、白い衣の背中があった。
床に座り込んで、膝の上に本を広げている。
こちらを振り返って――
『ふぇ』
「え」
『……い、いえ』
大精霊が、本を閉じた。
閉じて、膝から下ろして、裾を払って、立ち上がった。立ち上がる途中で一度、髪に手をやった。それから翅を畳んだ。
僕の後ろから学園長が体を起こすと、彼女の背筋がすっと伸びた。
『――何事です』
さっきまでとは、まるで別人の声だった。
「イーリス様。……火急の件にて」
『申してごらんなさい』
僕は、息を整えながら話した。
薬草園に大精霊が倒れていること。イーリスではないこと。翅が六対あること。苦しんでいること。力をよこせと言って、小さな精霊が三人消えたこと。
話しているあいだ、彼女は一度も遮らなかった。
話し終えると、彼女は少しのあいだ目を伏せた。
それから、言った。
『放っておきなさい』
「……え」
『放っておきなさいと申しました』
「でも、苦しんでます」
『存じております』
僕は、その先の言葉を探した。
探したが、出てこなかった。
目の前にいるのは、冬に僕と結界を張り直した人だ。数えきれない小さな光に囲まれて、毎日ここで本を読んでいる人だ。
その人が、放っておけと言った。
僕は、踵を返した。
「フェイ君!」
学園長の声が背中に当たったが、僕は止まらなかった。
二百七十段を、今度は上った。
途中から、足が自分のものでなくなった。手すりを掴んで、引っ張り上げるようにして上った。息が喉の奥で笛のような音を立てていた。
◆
石段に、足音が遠ざかっていった。
私は、扉の枠から手を離した。
膝が笑っている。呼吸も整っていない。それでも、聞かねばならないことがあった。
「……よろしいのですか」
大精霊は、答えなかった。
彼女は、床に置いた本のほうを見ていた。
漁師の手記。網の繕い方と、魚の値と、天候の読み方が書いてある、あの一冊。
やがて、彼女は言った。
『……今に分かります』
その姿が、光に溶けた。
私は、誰もいなくなった祠に一人で立っていた。
床の上に、閉じた本が一冊残されていた。
◆
薬草園の門を抜けたとき、僕の視界は白く点滅していた。
汗が目に入って痛い。膝が震えている。それでも足を止めなかったのは、石垣の奥から声が聞こえたからだ。
怒鳴り声だった。
『だから力をよこせと言っている!』
『それで三人消えただろう!』
後のほうは、コロンだった。
小さな光の体で、円の内側に立ちはだかっている。後ろには、数えきれない光が身を寄せ合っていた。震えている。近づくと、空気そのものが細かく揺れているのが分かった。
その正面に、大精霊が座り込んでいた。
さっきより、姿が変わっていた。
翅の黄金の筋が、あちこちで途切れている。深紅の衣の裾が、灰のように端からほどけていた。
そして、両手。
指の先から手首にかけて、細かい光の線が走っている。
ひび割れだった。
『全然足りぬではないか!』
『それが大精霊のすることか?!』
『黙れ、下位風情が』
大精霊の声は、苦しげなのに、少しも下がらなかった。
『ワラワは大精霊ぞ。大精霊が求めておるのだ。差し出すのが道理であろうが』
『道理で三人も消えるか!』
『足りぬのだから仕方あるまい!』
僕は、走り寄ろうとした。
その瞬間、目の前が明るくなった。
光が、畝の上に降りた。
白い衣。六対の翅。畳まれていた翅が、ゆっくりと開いていく。
『――双方、お控えなさい』
空気が、静かになった。
震えていた光の群れが、止まった。コロンが大きく息を吐くのが、音もないのに分かった。
『イーリス様』
『下がりなさい、コロン。よくしのぎました』
『……は』
コロンは、後ろの光たちのほうへ下がった。
イーリスが一歩前に出ると、小さな光たちは自然と彼女の後ろへ集まった。彼女はそれを振り返りもせず、ただ翅を少し広げた。
広げた翅の陰に、全部が収まった。
* * *
座り込んでいた大精霊が、顔を上げた。
顔を上げて、目を見開いて、それから、居住まいを正した。
『……ウルヴェリアの地を預かる、ウルワシと申す』
『ヴェルダントのイーリスです』
『助けてたもれ』
『何があったのです』
『人間じゃ』
ウルワシは、地面についた手を、ゆっくりと膝の上に戻した。
背筋が伸びた。
さっきまで呻いていた者と同じとは思えない姿勢だった。
『――イーリス殿。まず、これだけは申しておきたい』
声が、変わっていた。
低く、よく通る声だった。崩れかけている体から、どうしてこんな声が出るのか分からなかった。
『ワラワは、あの者らを憎んだことが一度もない』
『三百年、ワラワはウルヴェリアの民を慈しんできた』
ウルワシは、そう語り始めた。
『種を蒔く時期を教えた。井戸を掘る場所を示した。疫病の兆しがあれば先に告げ、飢饉の年には貯えの出し方まで指図した。あの国で子が三人生まれれば、三人とも育った。三百年前は、二人が死んでおった』
数字が出てくるたびに、僕は少しずつ引き込まれていった。
三人生まれて、三人育つ。
それがどれくらいすごいことなのかは、治療科の授業で聞いたことがあった。
『人は増えた。三百年で三倍じゃ』
ウルワシは続けた。
『畑は広がり、街は伸び、飢えて死ぬ者はおらなくなった。これはワラワの誇りであった。……今でも誇りである』
「……はい」
うっかり、僕は頷いてしまった。
『ところが』
声の調子が、そこで一段下がった。
『あの者らは、それを重荷と申し始めた』
『重荷?』
『指図が多い、と』
ウルワシは、心底不思議そうな顔をした。
『指図が多いと申すのじゃ。ワラワが、あの者らのために、一つも間違えぬように整えてやったものをな』
雲の下で、遠くの光が一度だけ走った。
雷は鳴らなかった。
『三十年ほど前からじゃ。畑の当番を怠る者が出た。井戸の刻限を守らぬ者が出た。祭りの列を乱す者が出た』
『……それで』
『改めさせた』
『改めさせた、とは』
『子らに見回らせた』
ウルワシの声には、何の含みもなかった。
『どの家が何を怠ったか、逐一届けさせた。怠りには罰を下した。軽ければ井戸の水を一日止める。重ければ、その家の畑を一季節、実らせぬ』
イーリスの翅が、わずかに動いた。
僕は、それに気づいた。
音もなく、ほんの少しだけ、六対の翅の縁が持ち上がった。それだけだった。
彼女は何も言わなかった。
『効き目はあった』
ウルワシは言った。
『罰を下せば、翌日には改まる。そして改まれば、実りは戻る。誰も飢えぬ。誰も死なぬ。……これのどこが悪い』
僕は、答えられなかった。
答えられないまま、その通りかもしれない、と思っていた。
誰も飢えない。誰も死なない。悪いことは何も起きていない。
* * *
『四年前じゃ』
ウルワシの声が、急に平坦になった。
『祭りの供物を、ある村がひと晩遅らせた。理由は覚えておらぬ。些細なことじゃ』
『……罰を』
『下した。いつも通りにな』
『その夜、村の者が子らを狩った』
風が止まった。
『網を張り、火を焚き、鉄の棒で叩き落とした。ワラワの子が十二、その一夜で消えた』
『ワラワは、応じた』
ウルワシは、まっすぐイーリスを見た。
『応じぬわけにいくまい。十二じゃぞ。ワラワはその村から流れを絶った。ひと月で無人になった』
『それが始まりじゃ』
そこから先は、早かった。
隣の村が武器を掘り出した。精霊に触れる鉄だという。精霊たちは反撃し、また人が死に、また鉄が増えた。三年目に粉が出た。撒かれたところの精霊が、片端から消える粉だ。
『子らが、五百』
ウルワシは言った。
『三日でじゃ』
僕は、息を呑んだ。
その数を聞いて、最初に思ったのは、五百という数がどれくらいなのか見当もつかない、ということだった。
この薬草園にいる光を全部数えても、たぶん百に届かない。
『人もな、死んだ』
ウルワシは付け加えた。
『どれほど死んだかは知らぬ。数えておらぬ』
『……それで、どうなさいました』
イーリスが、静かに尋ねた。
『地脈を引き上げた。全部じゃ』
『全部』
『一滴も残さず。ひと月で国が干上がった。三月で、誰もおらんようになった』
『ワラワは逃げた』
ウルワシは、それを隠さなかった。
『土が毒に染まっておるのじゃ。人の恨みと、あの粉と、朽ちた鉄と。ワラワが流れを通そうとすると、そこから逆流してくる。……この手は、そのときに割れた』
* * *
話は、そこで終わった。
長い話だった。
そして、聞き終えたとき、僕は一つも反論を思いつかなかった。
先に手を出したのは人間だ。
十二の精霊を、網と火と鉄で狩ったのは人間だ。
粉を作ったのも、撒いたのも人間だ。
ウルワシは、その全部に応じただけだ。
そう並べると、筋が通っている気がした。
『ワラワは、為すべきを為した』
ウルワシは、静かにそう言った。
『三百年、一度たりとも怠らなんだ。あの者らのために、できることは全てした』
『それが』
そこで初めて、その声が、ほんのわずかに揺れた。
『それが、なにゆえ、こうなる』
イーリスは、黙って聞いていた。
聞き終えて、少しのあいだ目を閉じた。
『――なにゆえ、ここへ』
ウルワシが、顔を上げた。
『光を見た』
『光』
『冬の終わりじゃ。南から来た』
ウルワシは、割れかけた手で自分の胸のあたりを押さえた。
『地脈を通して届いた。ワラワはそのとき、土の下におった。もう流れを送る力もなく、ただ朽ちるのを待っておった。……そこへ、あれが来た』
『何の光です』
『知らぬ』
ウルワシは、正直にそう言った。
『ただ、あれは力ではなかった。理じゃ。人と精霊の間にある理が、書き換わる音がした。……分かたれてこのかた、ワラワは一度もあのようなものを見ておらぬ』
僕は、息を詰めていた。
冬の終わりだ。中庭で、この人が両腕を広げた日だ。黒い筋が空から剥がれて、白い衣の胸元へ吸い込まれていった、あの日。
『あれを見て、ワラワは歩いた』
ウルワシの声が、少しだけ速くなった。
『峠を越えた。道が崩れておったから、崖を這った。三日かかった。……そして、この地の結界に触れた』
『触れた』
『弾かれると思うた』
『弾かれなんだ』
ウルワシは、そこで自嘲するような音を漏らした。
『弱っておったのじゃろうな。もはや、結界が敵と見なすほどのものでもなかったということじゃ』
『イーリス殿』
ウルワシは、地面についた手に力を込めた。
『あの光を出した者が、この地におるのであろう。人と精霊の理を、書き換えられる者がおるのであろう』
『ならば』
声が、掠れた。
『ならば、ウルヴェリアの理も、書き換えられるのではないか。……ワラワの土を、戻せるのではないか』
『――こちらにできることは、何もありません』
『……何と』
『早々に、お立ち去りなさい』
そのとき、頬に冷たいものが当たった。
一滴。
続けて、二滴。
空を見上げると、灰色の蓋に、細かい筋が走り始めていた。
雨だった。
ウルワシは、すぐには動かなかった。
言われた言葉の意味が分からない、という顔をしていた。
『イーリス殿。……ワラワの話を、聞いておられなんだか』
『伺いました』
『ならば、なにゆえ』
『こちらにできることは、何もありません』
『……同じ大精霊ぞ』
ウルワシの声が、初めて低くなった。
『大樹より分かたれた同じ身ぞ。それが、目の前で崩れかけておる者に、何もできぬと申すか』
『できませぬ』
沈黙があった。
雨の粒が、葉を打つ音だけが増えていった。
ウルワシは、ゆっくりと息を吸った。
反論を組み立てようとしている、という顔だった。さっきまでのように、筋道を立てて、静かに、朗々と。
その姿勢のまま、彼女は自分の膝の上に目を落とした。
* * *
そこに、手があった。
指の付け根から手首にかけて、光の線が走っていた。
さっきより、細かい。
さっきより、数が多い。
『……手が』
声が、掠れた。
『手が、割れ――』
ウルワシは、自分の手を顔の前まで持ち上げた。
持ち上げた途端、右の小指の先が、ぱらりと落ちた。
灰になって、雨の中に散った。
『あ』
『あ、あ』
そこから先は、早かった。
『――そこの精霊どもをよこせ!』
ウルワシが叫んだ。
膝立ちになって、イーリスの後ろの光の群れに手を伸ばした。
『十でよい! いや、二十じゃ! それだけあれば繋ぎ止められる! ワラワは大精霊ぞ、ワラワが消えれば、ウルヴェリアの地は二度と戻らぬのだぞ!』
『なりません』
『なにゆえ!』
『早々に、お立ち去りなさい』
雨脚が、強くなった。
畝の土が色を変えていく。撒いたばかりのように、濃く湿っていく。
『頼む』
その言葉が出たとき、ウルワシの背筋から、何かが抜け落ちた。
『頼む、イーリス殿。十でよい。五でもよい。ワラワは、ワラワは、まだ為さねばならぬことが』
『なりません』
『ひび割れが! 見よ、腕まで来ておる! 待ってくれ、待って――』
イーリスは、動かなかった。
雨は、彼女を濡らさなかった。
白い衣にも、六対の翅にも、粒がそのまま抜けていく。足元の土だけが、黒く濡れていった。
彼女はその場に立ったまま、後ろの光たちを翅の陰に収めたまま、ウルワシを見下ろしていた。
『いやじゃ』
ウルワシが呟いた。
『いやじゃ。まだ消えとうない。いやじゃ』
気がついたとき、僕は走っていた。
泥を跳ね上げて、畝を踏み越えて。
イーリスの脇をすり抜けて、ウルワシの前に膝をついた。
両手を、掴んだ。
割れかけた手だった。触れた指先が、砂に触れているような感触になった。
目を閉じる。息を吸う。
境目を探す。壊れているものと、壊れていないものの、境目を。
馴染ませる。
『――触るな』
手が、跳ねた。
『触るな、下賤の者め!』
振り払われて、僕は後ろに倒れた。
背中から泥に落ちて、雨が顔に降ってきた。息ができなかった。
『人間が』
ウルワシが、僕を見た。
雨の中で、その目だけがはっきりしていた。
『人間の分際で、ワラワに触れるか。……其方らが、其方らが何をしたか、分かっておるのか』
答えようとした。
答えられなかった。
僕はウルヴェリアのことを何も知らない。今日、この人の口から初めて聞いたばかりだ。
* * *
ビキッ。
大きな音が、一度だけした。
木が裂けるような、氷が割れるような音だった。
『――いやだ』
ウルワシの声から、尊大さが抜け落ちた。
『いやだ。誰か。誰かワラワを助けろ』
深紅の衣が、端から灰になって散った。
翅の黄金が消えた。
褐色の髪が、ほどけて、雨の中に散った。
『助け――』
崩壊は、静かだった。
音を立てたのは最初の一度だけで、あとは雨の音しかしなかった。
* * *
後に、一つだけ残された。
子供の背丈ほどの高さに、それは浮かんでいた。
大人の頭ほどの大きさの、結晶。
雨に打たれて、鈍く虹色に輝いていた。
形が、おかしかった。
四角い。それは分かる。角があって、辺があって、面がある。
その内側に、もう一つ四角いものが入っている。それも分かる。
分からないのは、内側の四角と外側の四角を繋いでいる辺のほうだった。
八本ある。
八本とも、まっすぐに見える。
まっすぐなのに、どれも同じ長さに見えない。目で追うと、途中で長さが変わる。内側のほうが手前にあるように見えて、瞬きをすると奥に行く。
面の数を数えようとした。
数えているうちに、どれが表でどれが裏なのか分からなくなった。裏だと思っていた面が、いつのまにか正面を向いている。
僕は、目をそらした。
そらしてから、気づいた。
あれは、こちら側に全部は入っていない。
この世界に置かれているのは一部だけで、残りは別のどこかにある。だから辻褄が合わない。そういう形に見えた。
表面を水が伝って、光の色を少しずつ変えていく。
イーリスが、それを見下ろしていた。
彼女の目を、僕はそのとき初めて正面から見た。
凍てついていた。
吹雪の中にある光のような、白く硬い輝きだった。慈しみでも、怒りでもない。もっと遠くて、もっと動かないもの。
雨が、本降りになった。
僕は泥の中に座り込んだまま、動けなかった。
さっきまで、そこに誰かがいた。
呻いて、叫んで、僕の手を振り払った誰かが。
今は、虹色の石が一つ浮いているだけだった。
『……フェイ』
コロンの声がした。
僕は返事をしなかった。
雨は、夜まで降り続いた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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