第26話 分からないことが二つ
エプロンの紐が、短くなった。
そんなわけがないのは分かっている。紐は布でできていて、勝手に縮んだりしない。洗って干しているだけだ。
それでも、腰の後ろで結ぼうとすると、去年より指が窮屈だった。
「……縮んだな」
『縮んでない』
「縮んだよ」
『縮んでない』
コロンは、それ以上何も言わなかった。
夏の休みまで、あと四日だった。
薬草園は一日ごとに緑が濃くなっていく。ミズナ草は三番目の畝の端まで届いて、カイエンの木は今年初めて実をつけた。青いままの小さな実が、葉の陰にいくつも下がっている。
僕は畝の間にしゃがんで、根元の土を指で確かめていった。
湿り具合はちょうどいい。虫食いもない。
確かめ終わって、立ち上がろうとした。
膝に手をついた。
「よっ、と」
声が出た。
出てから、自分で少し驚いた。去年は、こんな声を出していなかったと思う。
そのあと井戸で桶に水を汲んだとき、水面が揺れて、それから静かになった。
顔が映った。
暗い水の上なので、輪郭くらいしか分からない。
僕はしばらくそれを見ていた。
見ていたが、特に何も思わなかった。水面というのは歪むものだし、井戸の底は暗い。そういうものだと思って、僕は桶を引き上げた。
* * *
稽古の終わる鐘が鳴ってしばらくすると、門のほうから声がかかった。
「フェイ!」
キアリーだった。木剣を担いで、いつもの稽古着で立っている。
「行くか?」
「行く」
僕は手を払って歩き出した。
門を出たところで、キアリーが僕の顔をまじまじと見た。
「お前さ」
「なに」
「顔、まるくなったな」
「そうかな」
「そうだよ。あごのとこ」
キアリーは自分のあごを指でつまんでみせた。
「前はもっと尖ってた」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃねえって。まあ、いいけどな」
キアリーはあっさり話を切り上げて、坂を下り始めた。
僕もついていった。
あごのことは、途中で忘れた。
「そうだ、休みの話なんだけどな」
坂の途中で、キアリーが言った。
「上級生の先輩に、ダンジョンの話を聞いたんだよ。西の」
「ダンジョン?」
「行ったことあるんだと。他所のパーティに混ぜてもらって」
「へえ」
「すげえだろ。学生だぞ」
キアリーの声が少し弾んでいた。こういう声を出すときのキアリーは、大体その話を三日は引きずる。
「俺も卒業したら行くからな」
「怪我しないでよ」
「するかよ」
キアリーは、卒業したら稼がなければならない。
この男は剣術科の特待生だ。学費が免除になるかわりに、成績が落ちれば翌年からは自分で払うことになる。寮に入っているのも、通える家が王都にないからだ。
家族は村にいる。母と、弟と、妹。
父親は、キアリーが九つのときに流行病で死んだ。
その前に、祖父が死んでいる。村の外れで魔獣に襲われたのだと聞いた。
祖父は昔、旅の剣士に助けられたことがあるそうだ。
キアリーが剣を始めたのは、その話を聞いたからだった。
助けられた話のほうを、この男はよく喋る。
助けられなかったほうの話は、二年で二度しか聞いていない。
「なあ」
「なに」
「騎士でも冒険者でも、なんでもいいんだ、俺は」
キアリーは、木剣を担ぎ直した。
「稼げるならなんでもいい。母ちゃんに仕送りできて、弟と妹が学校行けるなら、それで」
「うん」
「腕一本で、そういうのができる男になりたいんだよ」
こういうことを、この男は坂を下りながら言う。
向かい合っては、絶対に言わない。
坂を下りきると、煙の匂いがした。
キアリーは、もういつもの顔に戻っていた。
* * *
その日は、通りの奥に新しく出た店で、羊の肉を薄く削いで焼いたものを食べた。
酸っぱい汁をかけて食べる。酸味が来て、脂が流れて、そのあとに肉の味だけが残る。
僕は歩きながら手帳に書いた。
酸→脂を流す。苦みにも使えるか?
「また書いてる」
「研究だから」
「はいはい」
* * *
その晩、小屋に残って試してみた。
いつもの配合に、レモンに似た実の絞り汁を落とす。ほんの数滴。
匙で舐めた。
「……お」
苦い。苦いが、苦さが口の中に居座らない。すっと後ろに引いていって、最後に草の匂いだけが残る。
前よりずっと飲みやすかった。
「できた」
『そうか』
「できたんだよ、コロン」
『聞いた』
小瓶に詰めて、栓をした。
明日、エスタに飲ませてみよう、と思った。
治療科の生徒に試してもらうのが一番早い。前に顔をしかめられたのも治療科の生徒だったし、何よりエスタは、駄目なものは駄目とはっきり言う。
いいものができたときは、ちゃんとそう言う人でもある。
僕は小瓶を上着の隠しに入れた。
* * *
次の日の夕方だった。
薬草園の三番目の畝で、僕は水を撒いていた。桶が重い。二往復目で腕が張って、三往復目で息が上がった。
桶を置いて、腰を伸ばした。
「――ちょっと」
門のところに、エスタが立っていた。
「ああ、ちょうどよかった」
僕は隠しから小瓶を出した。
「これ、飲んでみてくれない?」
エスタは動かなかった。
門の柱に手をかけたまま、こっちを見ている。日が傾いて、彼女の顔の半分に石垣の影がかかっていた。
「エスタ?」
「……」
「新しいやつなんだ。苦みを後ろに送るっていうか、順番を変えて――」
「フェイ」
「わたしが前に言ったこと、覚えてる?」
僕は小瓶を持ったまま、少し考えた。
前に言ったこと。
苦みのことだろうか。それとも配合の話か。この前、増幅材のことで何か言われた気もする。
「……なんだっけ」
それが、いけなかったらしい。
エスタが門から離れて、畝の間をまっすぐ歩いてきた。足音が早い。土を踏む音が、一歩ごとに固かった。
目の前まで来て、止まった。
そこで初めて、彼女が僕を見上げる角度になっているのに気づいた。去年と同じ身長差のはずなのに、なぜか近く感じた。
「毎日はやめたら、って言った」
「あ」
「少し運動したら、って言った」
「あー……」
「二回とも、気をつけるって言ったでしょう」
言った。
確かに言った。言ったことは覚えている。ただ、それがいつだったか思い出せない。ずいぶん前のような気がする。
その間に僕がやっていたのは、東通りに通って、味の順番を調べて、苦みを後ろに送る方法を見つけることだった。
つまり、気をつけていない。
「……ごめん」
エスタは、僕の顔を見た。
それから、少し下を見た。腰のあたり。エプロンの紐が結んである場所。
もう一度、顔を見た。
最後に、僕の手を見た。
小瓶を持ったままの、右手を。
「……それ、何」
「え? ああ、これ。新しい配合の――」
「そう」
エスタの声が、ひと回り低くなった。
「そう」
「エスタ?」
「バカ」
「え」
「バカ」
「ちょっと」
「バカ、バカ!」
叩かれた。
拳ではない。手のひらだ。胸のあたりを、両手でばしばしと叩かれた。
痛くはなかった。全然痛くなかったが、それが余計にどうしていいか分からなかった。
「ちょ、待って、エスタ」
「バカ!」
「痛くないから、それ」
「うるさい!」
エスタは手を止めて、僕をにらんだ。
目の縁が少し赤くなっていた。
「……知らない」
そう言って、背を向けた。
畝の間を、来たときより早い足取りで歩いていって、門を出て、石畳のほうへ消えた。
しばらく、僕は動けなかった。
手には、まだ小瓶を持っていた。
栓をしたままの、新しい回復薬。
「……なんで?」
『……』
「コロン」
『……』
「ねえ」
『何も言わん』
「なんで」
『言ったら、お前のためにならない』
コロンは葉陰に引っ込んでしまった。
桶の水が、撒かれないまま畝の脇に残っていた。
僕はそれを最後まで撒いて、道具を片付けて、門の閂を下ろした。
* * *
帰り道、ずっと考えていた。
エスタが怒っている理由は分かる。二回注意されて、二回とも守らなかった。それは僕が悪い。悪いから謝った。
謝ったのに、怒ったままだった。
そこが分からない。
考えられることを、順番に並べてみた。
一つ。謝り方が足りなかった。もっとちゃんと言うべきだった。
これはあり得る。ただ、あのとき彼女は僕の謝罪を最後まで聞いてもいなかった。言い足りないというより、そもそも届いていない感じだった。
二つ。治療科で何か嫌なことがあった。それで機嫌が悪いところに、僕が油を注いだ。
これもあり得る。あり得るが、だとしたら叩く相手は僕でなくてもいい。
三つ。回復薬の話をしたのがまずかった。
三つ目の線で、僕はしばらく歩いた。
彼女は治癒魔法の使い手で、僕は薬を作っている。去年、どっちが早く治せるか競争しようと約束した。あれからずっと、僕は薬の話ばかりしている。
自分の話ばかりして、彼女の話を聞いていない。
そう考えると、少し筋が通る気がした。
通る気がしたので、僕は少し安心した。
安心してから、違うな、と思った。
エスタは、そういうことで怒る人ではない。
僕が薬の話をすると、だいたい先に文句を言う。文句を言ってから、必ず最後まで聞く。去年からずっとそうだった。
つまり、三つとも違う。
僕は坂の途中で立ち止まって、空を見た。
夏の日の暮れは遅い。まだ西のほうが明るかった。
「……分からないな」
* * *
家に着いたのは、日がすっかり落ちてからだった。
「おかえり」
台所から母の声がした。
食卓には、豆と根菜を煮たものと、堅いパンが出ていた。
父はもう座っていて、片手に匙を持ったまま、僕が椅子を引くのを見ていた。
「おい」
「なに」
「肩、ひとつぶん広くなったな」
「そうかな」
「そうだ」
父は大工をやっている。人の体つきを見る目は、たぶん僕よりずっと正確だ。
「あら、顔つきも変わったわよ」
母が鍋を運んできて、そのまま横から言った。
「ほっぺた。前より丸い」
「……そんなに?」
「そんなによ」
僕は自分の頬を触ってみた。
触っても、よく分からなかった。
「気になる?」
「別に」
「ならいいじゃない」
母はそう言って、自分の皿に豆をよそった。
「ちゃんと食べてるなら、いいわよ。去年のあんた、ひどかったもの」
去年の冬のことだ。
腕がなくなって、帰ってきて、しばらく食欲がなかった。あのときの母の顔は、あまり思い出したくない。
だから、母がこの話を軽く流すのは分かる。
分かるのだが。
「……母さん」
「なに」
「今日、エスタに怒られた」
母の手が止まった。
「何したの」
「分からない」
「分からない?」
「前に注意されたことを守らなかったんだ。それは僕が悪い。だから謝った」
「うん」
「謝ったのに、怒ったまま行っちゃった」
母は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、父のほうを見た。
父は匙を口に運びながら、何も言わなかった。
「……そう」
母はそれだけ言って、パンを裂いた。
「食べなさい」
「聞いてくれないの」
「聞いたわよ」
それきり、その話は出なかった。
父と母は畑の水利の話を始めて、僕はよく分からないまま豆を食べた。
食べ終わる頃になって、母が思い出したように言った。
「フェイ」
「なに」
「その子、何回言ったって?」
「二回」
「二回ね」
母は皿を重ねながら、小さく笑った。
何がおかしいのか、僕には分からなかった。
* * *
皿を片付けてから、僕はランプを持って裏の物置へ回った。
明日の朝に使うミズナ草を、乾燥棚から出しておかないといけない。
物置は、薬草を干している部屋だ。天井から束が吊るしてあって、入ると草の匂いがする。
右の棚に手を伸ばした。
伸ばした手が、途中で止まった。
棚の真ん中。一番目につくところに、小瓶が一つ置いてある。
濁った緑。
底のほうに、細かい澱が沈んでいる。何度見ても濁っていて、何度振っても澄まない。
去年の冬に作ったものだ。
馴染ませがまだ安定していなかった頃の一本で、出来はよくない。今なら十倍まともなものが作れる。実際、あれから何十本も作った。
捨てようとした。
エスタが、捨てないでと言った。
なぜ、と聞いた。
答えは、もらえなかった。
あの日、僕はこの瓶を棚の端に置こうとして、やめた。
端に置いたら、そのうち見なくなる。見なくなったら、いつか捨ててしまう。
だから、真ん中に置いた。
この棚は、乾いた草を出し入れするたびに手が届く場所だ。だから何度も見る。
見るたびに、少し考える。
出来の悪いものを、なぜ残せと言ったのか。
うまく作れたものなら分かる。記念になる。でもこれは失敗作だ。飲めもしないし、効きもしない。
考えて、分からなくて、草を持って出る。
今日も、そうだった。
ミズナ草の束を抱えて、ランプを持ち上げて、戸口に向かった。
出る前に、一度だけ振り返った。
濁った緑の小瓶は、ランプの光を受けて、相変わらず濁っていた。
* * *
上着の隠しには、もう一本、小瓶が入っていた。
今日渡しそこねた、新しいほうだ。
苦みが後ろに引いていく、うまくできたやつ。
分からないことが、二つになった。
僕は物置の戸を閉めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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