第25話 東通りの煙
東通りは、煙の匂いがする。
日が傾きかけた時刻、石畳の両側に屋台が並び、それぞれの鉄板や炭火から白い煙が上がって、通りの上のほうで一つにまざる。焼けた油。焦げた砂糖。何かを揚げている匂い。歩いているだけで、腹が鳴った。
「な? すごいだろ」
キアリーが振り返って言った。
「稽古仲間が言ってたとおりだ。先月来たときは、こんなに出てなかったぞ」
僕は返事をしなかった。
三軒先の屋台から立ちのぼっている煙を、目で追っていた。
「おい、聞いてるか」
「聞いてる」
「絶対聞いてねえだろ」
僕はその屋台の前まで歩いていって、立ち止まった。
炭火の上に、串が並んでいる。肉だ。赤黒いものが表面に塗りつけてあって、炭に脂が落ちるたび、ぱちりと音がして煙が上がる。その煙が、ほかの屋台のどれとも違う匂いをしていた。
甘いのに、鼻の奥が熱くなる匂いだった。
「二本ください」
「まいど」
串を受け取ろうとしたところで、横から手が伸びた。
「三本にしてくれ」
キアリーだった。
「一本は俺の分な」
* * *
最初のひと口で、僕は口を押さえた。
「うわ」
「辛えだろ」
「辛い。……けど」
舌の上で、辛さが最初に来る。それから遅れて、甘さと、苦みと、何か木の皮みたいな香りが順番に立ち上がってきた。順番に、というのがおかしい。全部いっぺんに口に入れたはずなのに、味が一列に並んで出てくる。
「なにこれ」
「うまいだろ」
「順番があるんだよ、味に」
「は?」
キアリーは、もう二本目に手を伸ばしていた。
* * *
僕は屋台の主人に聞いた。
「これ、何を塗ってあるんですか」
「企業秘密」
「……そこを、なんとか」
「なんとかも何も、俺が知りたいくらいだよ。仕入れた粉を水で溶いて塗ってるだけだ」
主人は炭を寄せながら言った。
「南の香辛料屋で買ってる。ひと袋でな、うちの一日の売り上げが飛ぶ」
「そんなに」
「先月からだよ。それまでは三分の一だった」
* * *
僕は串を持ったまま、少し考えた。
「値上がりしたんですか」
「ウルヴェリアから入らなくなったんだと」
聞いたことのある名前だった。
学園の地図で見たことがある。ヴェルダントの北の、山を一つ越えた先にある国だ。それ以上のことは、僕は何も知らない。
「戦か何かですか」
「さあな。行商はいろいろ言うが、どれも尾ひれがついてる」
主人は肩をすくめた。
「ま、こっちには関係ねえよ。粉が来なけりゃ値が上がる。値が上がりゃ、上乗せして売る。それだけだ」
* * *
キアリーは三本目を食べ終わって、指を舐めていた。
「なあ、次あそこ行こうぜ」
「どれ」
「揚げてるやつ」
「ちょっと待って」
* * *
香辛料屋は、通りの外れにあった。
間口の狭い店で、戸口の前に麻袋が並べてある。袋の口から、赤や黄や茶色の粉が覗いていた。近づくと、串焼きの煙とは違う匂いが、まとまって押し寄せてきた。
「見るだけなら勝手にどうぞ」
奥から声がした。痩せた男が、帳面に何か書きつけながら顔も上げずに言った。
「赤いのが辛いやつ。黄色いのが香りづけ。茶色いのは知らんほうがいい」
「知らんほうがいいって、なんですか」
「高い」
* * *
僕は袋の前にしゃがみ込んだ。
赤い粉に指を近づけると、それだけで鼻の奥がつんとした。黄色いほうは、甘いような、土のような匂いがする。茶色いのは、正直よく分からなかった。焦がした木と、干した果実を混ぜたような匂いだった。
「この茶色いの、串焼きに使ってるやつですか」
「よく分かったな」
男が初めて顔を上げた。
「東通りの串焼き屋なら、それだ。うちからしか出てない」
「いくらですか」
男は値を言った。
僕は立ち上がった。
「……ありがとうございました」
「だろうな」
* * *
店の隅の樽に、行商らしい男が腰かけていた。
外套の裾が土埃で白くなっている。茶を飲みながら、店主に何か話していた。
「峠が閉まってるんだ、完全に」
「関所か」
「関所どころか、道がない。崩れてるんだと」
「崩れたって、地滑りか」
「さあな。俺は手前の宿までしか行ってない」
行商はそこで言葉を切って、茶をすすった。
「向こうから来た連中が、みんな同じことを言うんだよ。ウルヴェリアの話はするな、って」
* * *
「するなって、なんでだ」
「知るか。縁起が悪いんだろ」
店主は帳面に戻った。
「ま、こっちには関係ねえ。粉が来なけりゃ値が上がる。値が上がりゃ、上乗せして売る。それだけだ」
さっき串焼き屋の主人が言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。
僕は店を出た。
外は、まだ煙の匂いがしていた。
* * *
その日、僕らは七軒回った。
串焼き。揚げ菓子。魚を丸ごと焼いたやつ。何かの豆を甘く煮たもの。厚い生地に肉を挟んで鉄板で押しつぶしたもの。
会計のたびに、キアリーは自分の分を出した。出すとき、必ず手のひらの上で銭を数える。一枚ずつ指で寄せて、数えてから渡す。数え終わると、残りを袋に戻して口を結ぶ。結び方が丁寧だ。
高いほうは、頼まない。魚を丸ごと焼いたやつは、僕が二人分買った。キアリーは「悪いな」と言って受け取って、それから何も言わずに食べた。
* * *
途中で、通りの先の広場から人の声がまとまって聞こえてきた。
見ると、円になって人が立っている。真ん中に誰かがいて、弦を弾いているらしい。歌っているのが聞こえたが、言葉までは届かなかった。時々、わっと声が上がる。
「詩人だろ」
キアリーが、串の先で広場のほうを指した。
「夏はよく来るんだよ。人が多いからな」
「へえ」
僕は、それだけ言った。歌より、手に持っているほうが冷めるのが気になっていた。僕らは広場を避けて、人の少ない側の道を通った。
* * *
最後に、蜂蜜と胡桃を練り込んだ固い菓子を買って、石段に座って食べた。
「お前、よく入るな」
キアリーが呆れたように言った。剣の稽古を毎日やっている男に言われる筋合いはないと思ったが、口の中がいっぱいで反論できなかった。
* * *
暗くなり始めた石段で、僕は手帳を開いた。
家から持ってきたものだ。回復薬の配合をつけている帳面の、後ろのほうの空いた頁。そこに、今日食べたものを順番に書き出していった。
辛→甘→苦。木の皮の香り
油。塩。噛むと最初だけ甘い
蜂蜜。あとから胡桃の渋み
「何書いてんだ」
「研究」
「食った物並べてるだけだろ」
「研究だよ」
* * *
説明するのが面倒だったので、僕は黙っていた。でも、本当に研究だった。
回復薬は、苦い。効きを優先すると、どうしても苦くなる。去年の暮れに治療科の生徒に試してもらったとき、はっきり顔をしかめられた。「効くのは分かるけど、これ、動けない人に飲ませるのは無理」と言われた。
それまで気づかなかったのは、キアリーが中身も聞かずに飲み干してしまうからだ。
学園の購買には一般回復薬が置いてある。一本三百ネイ。剣術科の生徒は稽古で痣だらけになるから、たいてい買い置きしている。キアリーは、買わない。去年、一度だけ理由を聞いたら、「もったいねえだろ」とだけ返ってきた。
だから僕は、作ったものを渡すようになった。余りが出たときとか、配合を試したときとか、そういう口実をつけて渡す。キアリーは毎回「おう」と言って受け取り、その場で飲み干す。苦いとも、まずいとも言ったことがない。二年のあいだ、ずっとそうだ。
隣で胡桃の菓子を齧っている男の横顔を、僕はちらりと見た。
* * *
顔をしかめられてから、砂糖を足してみた。
駄目だった。甘くはなったが、苦みは消えなかった。甘いものと苦いものが、口の中で喧嘩をしている感じになった。
今日の串焼きは、そうではなかった。辛くて、甘くて、苦かった。三つとも入っていたのに、喧嘩していなかった。順番があったからだ。
苦みは、隠すものではないのかもしれない。並べる場所を決めてやればいいのかもしれない。
僕は手帳にそう書いて、線を引いた。
「――ほら、やっぱり研究だ」
「お前、今そう思いついただけだろ」
「うるさいな」
* * *
その晩、食事を終えて自室に戻ると、僕は本棚から帳面を取り出した。
『旅する薬師の手記』。
四十年前に学園へ寄贈された帳面だ。一人が書いたものではなく、師から弟子へ何代も書き継がれてきたらしい。薬草の分布、鉱物、香辛料の値段、料理の味。後ろへ行くほど難しくなって、最後の章は別の本のように読めない。
僕が探したのは、前のほうだった。
香辛料の値段が並んでいた頁があったはずだ。
* * *
見つけた。
産地ごとに、粉の名前と値が細かく書き込まれている。四十年前の値なので今とは比べようもないが、産地の欄に同じ地名が何度も出てきていた。
ウルヴェリア。
僕は頁をめくった。
値段の表が終わると、その先は文章になっていた。
* * *
〈ウルヴェリアの飯は、順番で食わせる〉
そう書き出されていた。
〈皿が一度に出ない。辛いものが先に来て、次に酸いものが来て、最後に甘いものが来る。並べ替えてはならぬと言われた。理由を尋ねたら、そういうものだと言われた〉
〈三日目にようやく分かった。前の皿の味が消える前に次が来るように組んである。舌に残った辛さの上に酸が乗ると、辛さが引いて甘さだけが残る。消しているのではない。次の味で送り出している〉
〈この国の者は、これを子供の頃から食っている。だから誰も理屈を説明できぬ〉
* * *
僕は、その頁を二度読んだ。
送り出す。
隠すのでも、打ち消すのでもなく。
砂糖を足したとき、なぜ駄目だったのかが、少しだけ分かった気がした。僕は甘さを苦みの上に乗せようとしていた。同じ場所に、二つ置こうとしていた。
そうではなくて。
* * *
僕は手記を閉じて、しばらく天井を見ていた。
この頁を書いた人は、ウルヴェリアで飯を食っている。
峠を越えて、知らない国に行って、三日かけて理屈を考えて、それを帳面に書いた。
僕は、山を一つ越えた先の国のことを、今日まで何も知らなかった。
* * *
階下から、母の声が聞こえた。何か言っている。父が短く返事をしている。言葉までは聞き取れない。
僕はランプの芯を落とした。
暗くしてからも、しばらく眠れなかった。
* * *
そういう毎日が、しばらく続いた。
稽古の終わる鐘が鳴ると、キアリーが薬草園まで迎えに来る。二人で東通りに下りて、何か食べて、僕は手帳に書き込む。書き込んだからには、次の日は別のものを食べないと意味がない。
つまり、毎日違うものを食べる必要があった。
これは研究なので、仕方がない。
◆
わたしは、その頃から少し気になっていた。
治療科の実習が終わって中庭を横切ると、薬草園の門のところにキアリーが立っている。しばらくするとフェイが出てきて、二人で東の坂を下りていく。
三日に一度なら、別に何とも思わなかった。
毎日だった。
* * *
「昨日は何食べたの」
「揚げ菓子と、串焼きと、あと豆の甘いやつ」
「……全部?」
「全部」
フェイは平然と言った。
「研究だから」
わたしは、その言葉を三回聞いた。三回とも、違う日に。
* * *
「ねえ」
「なに」
「毎日はやめたら」
「なんで」
「なんでって」
わたしは言葉に詰まった。
なんでと聞かれると、困る。毎日揚げ物を食べるのは体に悪い、というのは常識だ。常識だが、常識というのは「なんで」と聞かれたときに一番説明しづらい。
「治療科の教本に書いてあるの。油と砂糖の摂りすぎは、血の巡りを悪くするって」
「そうなんだ」
「そうなの」
「気をつける」
フェイはそう言って、また鍬を握った。
* * *
気をつける、と言った翌日も、彼は東通りに下りていった。
* * *
一度だけ、キアリーに聞いたことがある。
鍛錬場の脇で、水を飲んでいるところを捕まえた。
「あなた、毎日フェイを連れ出してるでしょう」
「連れ出してねえよ。あいつが行きたがるんだ」
「同じことでしょう」
「同じじゃねえって」
キアリーは手の甲で口を拭った。
「あいつ、楽しそうだぞ」
* * *
わたしは、それ以上何も言えなかった。
楽しそうだぞ、と言われてしまうと、返す言葉がない。
わたしだって、彼が楽しそうにしているのは知っている。薬草園にいるときも、小屋にこもっているときも、最近はずっとそうだ。去年の冬とは、まるで違う。
それでいいはずだった。
それでいいはずなのに、鍛錬場からの帰り道、わたしはずっと機嫌が悪かった。
* * *
もう一度言ったのは、その十日後だった。
薬草園の畝の間で、フェイがしゃがみ込んで苗の根元を見ていた。立ち上がるとき、少しだけ膝に手をついた。
前は、そんなことをしていなかったと思う。
「フェイ」
「ん」
「少し、運動したら」
「してるよ。毎日ここ耕してるし」
「そういうのじゃなくて」
「じゃあ、どういうの」
わたしは、また言葉に詰まった。
* * *
走るとか、そういうのよ、と言いかけて、やめた。
言ってどうなるのだろう。この人は毎日ここで土を掘って水を運んでいて、それは運動ではないのかと言われたら、たぶん運動だ。
わたしが言いたいのは、そういうことではない。
では何が言いたいのか。
自分でも分からなかった。
* * *
「エスタ、顔が怖い」
「怖くない」
「怖いよ」
「怖くありません」
フェイは首をかしげて、それから畝のほうに戻っていった。
足元で、緑の光がふわりと浮かんで、わたしのほうを見た――ような気がした。精霊に顔があるわけではないから、気のせいだと思う。
思うことにした。
* * *
帰り道、わたしは自分の手のひらを見ていた。
去年の冬、この手で彼の腕を治そうとして、届かなかった。
あのときのことを思い出すと、今でも胸の奥が冷たくなる。
だから、たぶん、わたしは。
――だから何なのだろう。
考えかけて、やめた。
考えると、よくないことになりそうな気がした。
◆
夕方の薬草園で、僕は手帳を閉じた。
『あれは怒ってるぞ』
「エスタ?」
『ほかに誰がいる』
「怒ってないよ。怖くないって言ってた」
『……』
コロンは、それきり何も言わなかった。
* * *
小屋に入って、ランプを灯した。
今日はどうしても試したいことがあった。
苦みの前に、何か置く。舌が最初に受け取るものを甘くして、苦みはその後ろに回す。順番を決めてやれば、喧嘩しないはずだ。
乳鉢に蜂蜜を少し落として、いつもの配合を流し込んだ。
かき混ぜて、匙で一滴すくって、舐めた。
「……うわ」
甘くて、苦い。
喧嘩していた。
* * *
やり方が違うのだろうか。混ぜる順番か。温度か。それとも蜂蜜そのものが向いていないのか。
考えているうちに、腹が鳴った。
小屋の棚に、帰りに買った揚げ菓子の包みが置いてあった。
明日の朝に食べようと思って残しておいたものだ。
僕は少し迷って、包みを開けた。
* * *
窓の外では、数えきれない光が、ゆっくりと明滅していた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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