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第24話 二百七十段の明かり

 土は、正直だ。


 僕は鍬を置いて、掘り返したばかりの畝にしゃがみ込んだ。指を差し入れると、ひんやりとした感触が第二関節まで沈んでいく。握ると軽くまとまり、力を緩めるとほろりと崩れた。


 この春にここを引き継いだときは、こうはいかなかった。乾いて、痩せて、突き立てた爪が白くなるだけの土だった。


「……早いな」


『何がだ』


 葉陰から、緑の光が一つ、ふらりと浮かび上がってきた。


「土づくり。一年目は、土を作るだけで終わるつもりだったんだ」


『それで』


「もう、いけそうな気がする」


 コロンはしばらく何も言わなかった。それから僕の肩のあたりまで降りてきて、ふん、と鼻を鳴らすような気配を漂わせた。


『お前の手柄ではないぞ』


「知ってる」


 四年生になって、三か月が経つ。後期課程の一年目で、年も一つ増えて十五になった。そのどちらにも、まだ実感はない。土のほうが、僕よりよほど早く変わった。


* * *


 畝の上を、小さな光がいくつも横切っていった。


 一つ、二つではない。石垣の内側のあちこちから、ふわりと浮いては下り、また浮いている。淡い緑。少し青みがかったの。ほとんど白に近いの。日が傾き始めると、それぞれの色がはっきりしてくる。


 春先、この畑にいた精霊はコロンだけだった。


 いつからこうなったのかは、僕にもよく分からない。気づいたら二つになり、五つになり、数えるのをやめた頃には数えきれなくなっていた。


『多すぎる』


 コロンが、心底うんざりしたという調子で言った。


「いいじゃないか、賑やかで」


『よくない。夜中も明るい。落ち着かん』


「精霊って寝るの?」


『寝るとは違う。……説明が面倒だ』


 コロンはそう言って、僕の肩の上で横を向いた。


 畝の端で、小さな光が二つ、絡まるようにくるくると回っていた。喧嘩なのか遊んでいるのかは、僕には見分けがつかない。


* * *


 水を汲みに井戸へ行って戻ってくると、桶の重さで腕が張った。


 一度なくした腕だ。


 肘から先は、今でも少しだけ色が違う。日に焼けた部分との境目が、袖をまくると妙にはっきり出る。母には「動くならいいわ」で片付けられたし、僕自身、もう気にしていない。ただ、重いものを持つと、ここが自分の腕だという感じが、他の場所より強く出る。


 桶の水を柄杓で撒いていると、光の粒がいくつも寄ってきて、水の筋の上を追いかけ回した。


「濡れないの、それ」


『濡れるわけがあるか』


* * *


 石垣の向こうで、鐘が鳴った。


 四つ。稽古の終わる時間だ。


 顔を上げると、東の空に何かが見えた。


 最初は鳥の群れかと思った。丘の稜線の上を、細かい光が帯になって流れてくる。夕陽の下で、一つひとつが橙色に透けていた。


「コロン」


『……ああ』


 コロンが僕の肩を離れて、少しだけ高く上がった。


 光の帯は、まっすぐ学園のほうへ向かってきていた。薬草園の上を通る頃には、一つひとつの形が分かるくらいの高さまで下りてきていた。羽虫ほどの大きさの光が、三十を超えて連なっている。


 その先頭に、一回り大きな光があった。


 紫がかった翅だった。


* * *


 帯が、僕の真上で止まった。


 先頭の光が、ゆっくりと降りてくる。目の高さまで来て、そこで止まった。


『……あなたが、フェイですか』


「はい」


『アリアです』


 名前は聞いていた。時計塔の古参の精霊。二百年、塔の針を見張ってきた人。決戦のとき、事情も知らないまま光の向きだけを頼りに祈りを送ってくれた人。


 会うのは、初めてだった。


『お礼を言うつもりはありません』


「え」


『あなたが何をしたかは聞きました。ですが、わたくしは人間が嫌いです。この二百年、ずっとそうでした。……今日、明日で変わるものではありません』


「はあ」


『ですから、礼は言いません』


 アリアは、そう言ったきり動かなかった。


 僕も、何と返せばいいのか分からなくて黙っていた。上空では、三十三の光がふわふわと漂いながら待っている。僕の頭の上まで下りてきかけては、慌てて戻っていくのもいた。


 やがて、アリアは一度だけ空のほうへ目をやった。


 結界を見ているのだと、聞かなくても分かった。


 冬に張り直した結界は、僕とあの人の魔力でできている。僕の分は、正直なところ足りていない。足りない分は、あのとき背中から流れ込んできた地脈の残りと、コロンの分と、エスタの分で埋めてある。他人の布で継ぎ足した服のようなもので、最初の頃は目を閉じるたび、縫い目のあたりがざわざわした。


 それが、この数か月で静かになってきた。自分の中で少しずつ増えたものが、借り物と入れ替わっていく。僕には感じ取るのがやっとだが、精霊には見れば分かるのだろう。


『東の木立に置いておく理由が、なくなりました』


 アリアは、空から目を戻した。


『……戻ります。塔へ』


 それだけ言って、彼女は上へ戻っていった。


* * *


 光の帯が、時計塔のほうへ流れていく。


 途中で一つだけ、列を外れて薬草園へ下りてきたのがいた。畝の上を一周して、コロンの周りをぐるぐる回って、それからまた慌てて追いかけていった。


『……ほら見ろ。また増える』


「増えないよ、たぶん」


『お前は分かっていない』


 塔の窓に、光が次々と吸い込まれていった。


 長いこと、あの塔には針の音しかなかったはずだ。


* * *


 塔を見上げていたコロンが、ふと動きを止めた。


「どうかした」


『いや』


「何かあった?」


『……音が、少し違う』


「音?」


『針の音だ。前より、間が長い気がする』


 僕も耳を澄ませてみたが、風の音しか聞こえなかった。もともと薬草園から塔の針の音なんて聞こえたことはない。


『気のせいだろう』


 コロンはそう言って、僕の肩に戻ってきた。


◆


 二百七十段は、長い。


 数えたのは最初の一度きりだ。二百七十という数字だけが頭に残って、以来、私は数えるのをやめた。数えると、途中で心が折れる。


 石段の踊り場で、私は木箱を床に置いた。


「……いかん」


 膝が笑っている。両手で腰を伸ばして、しばらく壁に背を預けた。


 壁には、等間隔に燭台が取り付けてある。


 去年までは、考えられないことだった。この石段に明かりを灯すのは礼を欠く行為だと、代々の学園長から申し送られてきた。私も学園長を継いでから三十年、闇の中を手探りで下りてきた。


 本を運ぶと決めたとき、私は一度だけ伺いを立てた。両手が塞がりますので、足元が見えませぬ、と。


 返ってきたのは、拍子抜けするほど短い言葉だった。


『――好きになされませ』


 それから、少し間を置いて、こう続いた。


『そもそも、誰が禁じたのです』


 私は答えられなかった。


 禁じた者の名を、誰も知らないのだ。


 燭台の炎が、石壁の凹凸に影を作って揺れていた。


 そこへ、光が横切った。


* * *


 一つではない。


 淡い光が二つ三つ、石段の上のほうから流れてきて、私の脇をすり抜け、下の暗がりへ消えていった。しばらくすると、今度は下から上がってくるのもある。


 以前は、この石段で精霊を見かけることなど、年に一度あるかどうかだった。


「……通り道になってしまいましたな」


 私は誰にともなく呟いた。


 もっとも、あちらからすれば、ここは六百年前から通り道だったのかもしれない。見えていなかったのは、こちらのほうだ。


 私は木箱を抱え直した。


 腕が震えた。


* * *


 祠の扉を押し開けると、明かりが溢れ出てきた。


 かつてここは、真っ暗だった。


 私が初めて足を踏み入れたのは二十代の終わりだ。何も見えなかった。床の広さも、天井の高さも、自分の声の返り方で測るしかなかった。何十年も、私はこの場所を「暗いところ」として記憶していた。


 今は、壁沿いにぐるりとランプが並んでいる。


 そして、本がある。


* * *


 奥の壁際に、木の棚が三つ。私が運び込ませたものだ。


 そこに収まりきらなくなった本が、床にも積まれている。背の低い塔のようなものが、あちこちに立っていた。薬草図鑑。航海記。裁縫の教本。子供向けの寓話集。王都の市場の値付けに関する報告書。菓子の作り方を集めた冊子まである。


 まとまりというものが、まるでない。


 そのうちの一つの山のそばに、白い衣の背中があった。


 床に直接座り込んでいる。膝を抱えて、そこに本を乗せて、じっと動かない。六対の翅は、光を落として畳まれていた。


 私は声をかけようとして、やめた。


……様子が、おかしい。


* * *


 本は、開かれていなかった。


 膝の上で閉じられたまま、両手で押さえられている。その手の上に額を伏せるようにして、彼女は俯いていた。


 肩が、わずかに揺れている。


 翅の縁が、じわりと色を変えた。虹色の透き通った膜の、根元のあたりだけが淡く紅を差したようになっている。


 そして、頬が。


 私は、思わず足を止めた。


 大精霊の頬に、赤みが差していた。


 彼女は、閉じた本の上に額をつけたまま、小さく何かを呟いていた。聞き取ろうとしたわけではない。ただ、静かすぎたのだ。


『……退きません、と』


「……」


『あのようなこと、ようも言えたものです。……ほんに、ようも』


* * *


 私は、その場から一歩も動けなかった。


 見てはいけないものを見ている、という自覚はあった。


 あの日、私は中庭にいた。顔を覆っていたから、肝心の場面は見ていない。だが後になって、幾人もの生徒から同じ話を聞いた。振り上げられた飛龍の脚の下に、生徒が一人、両腕を広げて立っていたと。


 その話を、彼女はこの数か月、ここで一人で反芻していたということになる。


 私は咳払いをした。


 わざとらしいほど大きく。


* * *


 背中が、跳ねた。


 翅が一斉に開き、本が膝から滑り落ち、それを慌てて掴もうとした手が積み上げた山を崩した。ばさばさと本が床に散る音が、祠の天井に反響した。


『――学園長』


「はい」


『いつからそこに』


「たった今です」


『たった今、とは、どれほどの今ですか』


「扉を開けた今です」


 彼女は私をじっと見た。


 私は、なるべく穏やかな顔を作った。七十年も生きていると、こういう顔は作れるようになる。


 やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。衣の裾を払い、翅を整え、乱れた髪を撫でつけ、散らばった本を一冊ずつ拾い上げて、元の山の上に積み直した。


 その所作のあいだ、彼女は一言も発しなかった。


* * *


『……その箱は』


「新しいものです。二十冊ほど」


『ご苦労なことです』


「ええ、まったく」


 私が木箱を床に置くと、彼女はすぐさま蓋を開けた。


 先ほどまでの取り繕いはどこへ行ったのか、上から順に一冊ずつ手に取っては表紙を確かめ、脇へ避け、また次を取る。三冊目のところで手が止まった。


『これは』


「漁師の手記です。港町の」


『漁師』


「網の繕い方と、魚の値と、天候の読み方が書いてあります。あとは、女房殿の愚痴が少々」


『……愚痴』


「ええ」


 彼女は、その一冊を胸のあたりで抱えるようにした。


『いただきます』


「どうぞ」


* * *


 彼女は本を抱えたまま、ランプの下へ歩いていった。


 私はその背中に声をかけた。


「――なぜ、これほど読まれるのです」


 足が止まった。


 しばらく、返事はなかった。


『わたくしは』


 やがて、背を向けたまま彼女は言った。


『六百年、この地を預かってまいりました。届いた分を数え、配る先を決め、過不足を整える。それが役目でありましたから、そのようにいたしました』


「はい」


『その六百年で、わたくしは人の名を一つも覚えませんでした』


* * *


『数は、覚えております。どの区に幾人。どの年に幾人が生まれ、幾人が死んだか。全て申し上げられます』


 彼女は、抱えた本の表紙を指でなぞった。


『けれど、名を一つも知らぬ者が、その数を預かっておりました』


「……」


『それが何を招いたかは、そなたもご存じでしょう』


 私は、何も言えなかった。


『ですから、読んでおります』


 彼女は振り返った。


『漁師が網をどう繕うか。菓子屋が砂糖をどう量るか。母親が子を叱るとき何と申すか。……そういうものを、わたくしは一つも知りませんでした』


「それは、本で分かるものでしょうか」


『分かりませぬ』


 あっさりとした返事だった。


『分かりませぬが、知ろうとせぬままでいるよりは、ましでしょう』


* * *


 私は、思わず笑ってしまった。


『何がおかしい』


「いえ。……たいへん結構なことかと」


『結構、ですか』


「ええ。私も七十を過ぎてから、ようやく祖母の言葉の意味が分かりました。……遅いということはないのでしょう」


 彼女は、少し不服そうに翅を鳴らした。


* * *


 帰り際、私は振り返って尋ねた。


「次は、何をお持ちしましょう」


『……他所のものを』


「他所、と申しますと」


『この国の外です』


 意外な注文だった。


「この地のことは、もうよろしいので」


『この地のものばかり読んでおりますと、この地のことしか分かりませぬ』


 彼女はそう言って、本のほうへ向き直った。


 それから、思い出したように付け加えた。


『――学園長』


「はい」


『先ほどのことは』


「先ほどとは」


『……何でもありませぬ』


「はあ」


 私は一礼して、扉を閉めた。


* * *


 二百七十段を、今度は上る。


 下りるより、上るほうが辛い。当たり前の話だ。


 途中の踊り場で息を整えながら、私は先ほどの光景を思い出していた。


 大精霊が、閉じた本に額をつけて、冬の日の生徒の台詞を一人で呟いていた。


 あれを誰かに話すことは、たぶん一生ないだろう。


 だが、六百年のあいだ誰にも見られなかったものが、こうして一つずつ見えるようになってきている。それ自体は、悪くないことのように思われた。


 私は手すりを掴んで、次の段に足をかけた。


「……次の代の学園長には、もう少し若いうちに引き継ごう」


◆


 薬草園の門を閉めようとしたところで、後ろから声がかかった。


「おーい、フェイ」


 キアリーだった。木剣を肩に担いで、汗まみれの稽古着のまま石畳を歩いてくる。


「まだやってたのか」


「今終わった」


「ちょうどいい。明日、付き合えよ」


「何に」


「東通りだよ。稽古仲間が言ってたんだ、新しい店がずらっと並んだって。港から入る荷が変わったとかで、見たことない串焼きが出てるらしいぞ」


 僕は、鍬を小屋にしまう手を止めた。


「串焼き」


「香辛料がすげえ効いてるんだと」


「……行く」


「即答かよ」


 キアリーが笑った。


「夏の休みに入ったら、毎日でも行けるぞ。ひと月半まるまる暇なんだからな」


「先輩の稽古に出るんじゃなかったの」


「出るけど、毎日じゃねえよ」


* * *


 門の閂を下ろしながら、僕は考えていた。


 回復薬には、どうしても苦味が残る。効きを優先すれば、そのぶん飲みにくくなる。


 苦いものを、飲みやすくする。


 それは調合の問題ではなくて、たぶん、味の問題だ。


 味のことを知るには、いろいろ食べてみるしかない。


 つまり、これは研究だ。


「うん」


『何が「うん」だ』


「いや、別に」


 肩の上でコロンが胡乱な気配を漂わせていたが、僕は聞こえなかったふりをした。


 夕陽が、石垣の向こうに落ちていくところだった。


 畝の上では、数えきれない光が、ゆっくりと明滅していた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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