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第23話 三年あるから

一


 家に帰ると、母が玄関で仁王立ちしていた。


「フェイ」


「た、ただいま」


 殴られた。


 肩のあたりを、思い切り。痛くはなかった。母の手はすぐに力をなくして、そのまま僕の背中に回った。


「……このっ、ばかっ」


「ごめん」


「ばかっ!」


 しばらく、母は僕の肩に顔を埋めたまま動かなかった。


 やがて顔を上げると、目を真っ赤にしたまま、いつもの調子で言った。


「あんた、痩せた?」


「たぶん」


「たぶんじゃないわよ。顔が全然違うじゃない」


 母は僕の頬を両手で挟んで、ぐいぐいと引っ張った。


「なによこれ。骨に触るじゃないの」


「痛い痛い」


「何食べてたの、向こうで」


「草と、木の実」


「……草」


「あと、たまに根っこ」


 母は僕の顔から手を離して、こめかみを押さえた。


 それから、僕の髪を指で摘んだ。


「これも、明日切るからね。みっともない」


「うん」


「背も伸びたじゃない」


「そうかな」


 母はふと、僕の腕を掴んだ。


 袖をまくり上げて、肘から先をじっと見ている。


「……ここ、色が違うわね」


「あー」


「日焼けの跡? にしては、境目が変」


 僕は何と答えるべきか迷った。


 一度なくなって、生え直しました。そう言ったところで、信じてもらえるとは思えない。


「……大きな魔法を使ったときに、ちょっと」


「ちょっとで済む話なの、それ」


「うん、たぶん」


 母はしばらく僕の腕を見つめていた。


 それから、袖を戻して、ぽんと軽く叩いた。


「動くならいいわ」


「……ご飯、作るから。手を洗ってきなさい」


 父は、夕方に帰ってきた。


 玄関で僕を見つけて、一瞬だけ足を止めた。


 それだけだった。


「……おう」


「ただいま」


「飯は」


「これから」


「そうか」


 食卓で、父は黙々と食べていた。


 僕が大樹のところで何をしていたかを話すと、時々「ふん」と鼻を鳴らした。道具を森で拾って集めたという話のところで、初めて箸が止まった。


「石で潰したのか」


「うん。手頃なやつを探して」


「重さは」


「最初は軽すぎて全然潰れなくて、途中で変えた」


 父は、しばらく黙ってから言った。


「……そりゃそうだ。道具は重さだからな」


 それだけだった。


 食事が終わって、僕が皿を運んでいると、母が台所から声をかけてきた。


「フェイ。裏の小屋、使いなさいよ」


「え」


「毎日拭いてたんだから。埃ひとつないわよ。薬草も、吊るしたまま置いてあるから」


「……あれ、もう乾ききってるよ」


「知ってるわよ。降ろせなかっただけ」


 母は、そっぽを向いたまま言った。


「……知ってる」


「なんで」


「エスタが教えてくれた」


 母は、しばらく手を止めていた。


 それから、洗い物を再開しながら言った。


「あの子、いい子ね」


「うん」


「あんたにはもったいない」


「なんでそうなる」


 寝る前に、僕は裏の小屋へ寄った。


 梁には、乾ききった薬草の束が吊るされたままだった。手を伸ばして、一つ下ろす。指で揉むと、ぱりぱりと乾いた音を立てた。


 棚には、これまでに作った瓶が並んでいる。埃ひとつない。


 僕は鞄から、あの濁った緑色の一本を取り出した。


 しばらく迷ってから、棚の端ではなく、一番目につく真ん中に置いた。


 出来はよくない。沈殿もしている。今なら十倍まともなものが作れる。


 それでも、捨てないでと言われた。


 なぜだかは、まだ分からない。分からないまま、置いておくことにした。


 外へ出ると、井戸の脇が見えた。


 母が毎朝、水を汲むときに一言お礼を言っていたという場所。


 地面が、少しだけ踏み固められていた。


 僕はしばらくそこを見つめてから、小屋の扉を閉めた。


二


 会議は、荒れた。


 私が末席にいた頃とは、座る位置が逆になっていた。精霊対策院の面々、王城の使者、学園の教師陣。その全員の視線が、円卓の中央へ向けられている。


「まず、事実関係を確認します」


 バルトロが書類を掲げた。


「魔導金属による自律結界の試験稼働は、占星術師セレン殿の明確な反対意見が付されたまま、認可されました。認可を出したのは、私です」


 会議室がざわついた。


「ヴァンス殿の責任のみを問うのは筋が通りません。私が判を押した。……その一点において、私が最も重い」


 議論は三日続いた。


 処分は、段階的に決まっていった。ヴァンスは宮廷魔術師の職を解かれ、バルトロは精霊対策院長を退いた。認可に関わった十一名に、それぞれの度合いに応じた処分が下った。


 そして、その全員に共通する条件が一つ、付け加えられた。


「――学園の再建に、当人が直接従事すること」


「机の上で図面を引くのではありません」


 セレンが、そう提案した人物だった。


「砕けた石畳を運び、抉れた土を埋め、割れた窓を入れ替える。自分の手で、自分が壊したものを直す。……星の巡りが教えるのは、そういうことです」


「星読みに、労務の割り振りまで決められるとは」


 ヴァンスがそう言った。


 皮肉ではなかった。その口元には、むしろ小さな笑みがあった。


「……承知しました。喜んで」


三


 再建は、翌週から始まった。


 かつて宮廷魔術師だった男が、土まみれになって石を運んでいる。その光景に、初めのうち生徒たちは遠巻きに立っていた。


 無理もない。あの灰色の外套を着て、生徒には一瞥もくれずに杭の設置を指揮していた男だ。覚えている者は、少なくなかった。


 だが、誰かが手伝い始めると、あとは早かった。


「そこ、持ち上げるの手伝います!」


「いや、君らは授業が」


「授業、中止になってますけど」


 私が視察に出ると、ヴァンスは荷車の脇で息を整えているところだった。


「調子はいかがですか」


「腰が悲鳴を上げています。……これほど自分の体が使えないとは思いませんでした」


 私は隣に腰を下ろした。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


「学園長」


「はい」


「新しい盟約の話を、聞きました。毎年、見直しの場を設けると」


「……ええ」


 私は、少し間を置いてから答えた。


「あれはもともと、私が申し出たものです。更新の交渉の折に。……そのときは、退けられました」


「退けられた?」


「一年で絶える約束など、割り当ての計算にも入れられぬ、と」


 ヴァンスが、ふっと笑った。


「手厳しい」


「事実ですから。……あの方は、続かぬものを勘定に入れない方です」


「それを、あの方がご自分から拾い上げてくださった」


 私は、そう続けた。


「盟約を結び直す席で、こう仰いました。毎年、顔を合わせましょう、と。……あのとき退けたのはわたくしです、とまで付け加えられて」


「……覚えておられたのですね」


「ええ」


 私は、その言葉を聞いたときのことを、たぶん一生忘れないだろう。


 退けられた提案だった。あの場では、聞き流されたものだと思っていた。


 それが、半年近く経って、相手の口から返ってきた。


――こちらが差し出したものは、届いていないように見えても、どこかに残っている。


 そんな当たり前のことを、七十を過ぎて教わった。


 ヴァンスは、空を見上げた。


 もう目には見えない、新しい結界を。


「……私は、三百年に一度の約束が危ういと申し上げました。人は忘れる生き物だから、と」


「覚えています」


「毎年見直すのであれば、忘れる暇がない」


 彼は、額の汗を拭った。


「私の懸念は、私が壊したことによって、解消されたわけですな」


「そういう言い方をされますか」


「事実ですから」


 ヴァンスは、荷車の把手を握り直した。


 そして、しばらく手を動かさなかった。


「……六百年続いた結界を粉々にして、生徒と騎士に剣を取らせて、行方の知れなくなっていた生徒が一人。負傷者は数え切れません。……その末に得た答えです」


「ヴァンス殿」


「安く手に入ったとは、口が裂けても言えない」


「……行方の知れなかったその一人は、戻ってきましたよ」


「ええ」


 彼は、少しだけ目を伏せた。


「戻ってきた。……私の手柄では、ありませんが」


「学園長」


「はい」


「私は、あの日、何が起きたかを人より早く理解しました」


 ヴァンスは、中庭のほうへ目をやった。砕けた石畳が、まだ半分ほど残っている。


「杭が鳴り始めて、地脈が押し返してきて、あの方が全部を引き受けようとして――そこまで見た瞬間に、分かってしまった。私が何をしたのか」


「……」


「分かったところで、止める手立ては一つもありませんでした。私は、ただ突っ立って見ていただけです」


 私は、何と言えばいいのか分からなかった。


 あの日、彼のすぐ隣で、私は顔を覆っていた。彼が何を見ていたのかは、見ていなかった。


「……私も、同じです」


 そう言うのが、精一杯だった。


「学園長。ひとつだけ、申し上げておきたいことがあります」


 ヴァンスは、まっすぐ私を見た。


「私が人の行く末を案じたことは、間違っていなかったと思います。忘れる生き物に、忘れないことを前提とした約束を課し続けるのは、やはり無理があった」


「ええ」


「ですが、そのために人を危険に晒してよい理由には、一つもならなかった」


 彼は、荷車を引き始めた。


「あの日、私は生徒が並ぶ中庭で杭を動かしました。認可が今日限りだと言われて、それを理由にした。……理由になどなりません」


「ヴァンス殿」


「先を急ぐ者は、目の前の人間を数として扱うようになります。三百年後のために、今日の二百人を賭けた。……私は、そういう男でした」


 荷車が、軋みながら動き出す。


「ですから、当分は石を運びます。石は、一つずつしか運べませんから」


 私は、その背中を見送った。


――先を急ぐ者は、目の前の人間を数として扱うようになる。


 その言葉を、私はしばらく頭の中で転がしていた。


 彼は、自分の過ちを正確に言い当てた。正しさを取り下げることなく、それでも何を誤ったのかを言い当てた。


 ……そういう人間は、案外少ないものだ。


四


 祈りの会は、翌月に再開された。


 けれど、形はすっかり変わっていた。


 中庭に全校生徒を集めることは、やめた。復唱する文言も、廃止した。


 代わりに定めたのは、たった二つだけだ。


 一つ。各人が、それぞれの持ち場で行うこと。


 一つ。願い事をしないこと。


「……これで、いいんでしょうか」


 準備の最中、エスタ君が不安げに尋ねてきた。


「形がなさすぎませんか。これじゃ、何をすればいいか分からない生徒も出ると思います」


「出るでしょうね」


「それで、いいんですか」


「分からないまま、一度立ち止まってもらえればいいのです」


 私は彼女に、あの手記を返した。


「君に返しておきます。写しは学園に残しました」


「え、でも、これ貴重な」


「君が見つけたものです。君が持っているべきだ」


 彼女は両手で冊子を受け取り、胸に抱えた。


「それと、エスタ君」


「はい」


「一つ、詫びておかねばならん」


 彼女が顔を上げた。


「君が持ってきたこの手記は、王城で別の読まれ方をした。……盟約を終わらせる根拠として、だ」


「……知っています」


「知っていたか」


「途中から、噂で」


 彼女は冊子を抱えたまま、静かにそう答えた。


「君が悪いのではない。提出したのは私だ。……その先で何が起きるかを、私は見通せなかった」


「先生」


「何かね」


「あのとき、王城に出すって言ってくれなかったら」


 彼女は、少し考えるように言葉を選んだ。


「わたし、先生は本気で聞いてくれなかったんだって、たぶんずっと思ってました」


「……」


「だから、出してくださってよかったです。……そのあとのことは、また別の話で」


 十四だぞ、と私は思った。


 この子は十四で、私は七十を超えている。


「……礼を言う」


「え?」


「いや。……何でもない」


 祈りの会の朝。


 私は、中庭の精霊像の前に立った。


 生徒たちはそれぞれの場所にいる。薬草園。時計塔。鍛錬場。井戸端。誰も見ていない。


 両手を組んで、目を閉じた。


――祖母さん。


 六十年前、村の外れの祠の前で、毎朝手を合わせていた小さな背中を思い出した。何をお願いしているのかと尋ねた私に、彼女はこう答えたのだ。


 お願いなんてしていない。いつもありがとうと言っているだけだ、と。


「……ようやく、意味が分かりました」


 私は、そう口に出した。


「遅くなりました。六十年も」


五


 学園が再開して、最初の放課後。


 僕は、薬草園にいた。


 石垣に囲まれた小さな畑。畝の間には、ひと月以上手入れされないまま伸びた雑草が茂っている。


「うわ、これ結構ひどいな」


『当たり前だ。誰も来なかったんだからな』


 コロンが、緑色の小さな光の姿で言った。あの白い少女の姿は、普段は出さないらしい。面倒なんだそうだ。


 僕は袖をまくって、しゃがみ込んだ。


「フェイ、これどこに置けばいい?」


 背後から、木箱を抱えたキアリーがやってきた。


「そこの隅でいい。ありがとう」


「ったく、なんで俺が。剣の稽古に行きたいんだけど」


「じゃあ行けよ」


「行かねえよ。乗りかかった船だろ」


 エスタもいた。


 畝の端にしゃがみ込んで、抜いた雑草を種類ごとに分けている。


「これ、薬草じゃないの? 抜いちゃっていい?」


「あ、それは残して。根が浅いから他の草を守ってくれるんだ」


「へえ。詳しいわね」


「詳しくなったんだよ、この一か月で」


 顔を上げたエスタが、手を止めた。


「……切ったのね」


「え? ああ、髪。母さんにやられた」


 短くなった襟足を、僕は手で撫でた。慣れなくて、首のあたりがすうすうする。


「どう? 変じゃない?」


「別に」


 エスタはそう言って、また雑草の仕分けに戻った。


「変じゃないなら、よかった」


「……うん」


 その返事が妙に小さかったけれど、僕は雑草を抜くのに忙しくて、あまり気に留めなかった。


 薬草学のゲルダ先生が、紙袋を抱えてやってきたのは日が傾き始めた頃だった。


「フェイ君、頼まれていたものだよ」


「ありがとうございます!」


 袋の中には、小さな紙包みがいくつも入っていた。それぞれに名前が書いてある。


 ハシバミ。山芹。ノドリ草。そして――


「シルフェン草も、いいんですか」


「増幅材だね。扱いは難しいよ」


「はい」


「……まあ、今の君なら、三年もあれば形にするだろう」


 先生は薬草園を見回して、少し眩しそうに目を細めた。


「ここが使われるのは、久しぶりだ」


「これから、毎日使います」


「そうか」


「後期課程の三年で、ここを使い切るつもりなので」


「三年もあるだろう」


「しかないんです」


「しか、と来たか」


 先生は笑った。


 それから、少し真面目な顔に戻って言った。


「……フェイ君。以前、君が馴染ませの技法について聞きに来たとき、私は覚えなくていいと言ったね」


「はい」


「あれは、間違いだった」


「そんな、当たり前のことを言われただけで」


「当たり前を疑わない教師は、教師ではないよ」


 先生は紙袋を僕の手に押しつけた。


「これからは、聞きに来なさい。私が答えられないことなら、一緒に調べる」


「……はい!」


 先生が帰り際、ふと足を止めて言った。


「そういえば、フェイ君。あの手記の書き手がね、少し分かったよ」


「え」


「図書室の受入台帳を調べさせてもらったんだ。四十年ほど前に、旅の薬師が学園に寄贈したものらしい。名前の欄は空白だったが、備考にこう書いてあった」


 先生は、記憶を辿るように目を細めた。


「――『いつか、これを必要とする者の手に渡れば』」


 僕は、紙袋を抱えたまま動けなかった。


「……その人、今どこに」


「そこがね、少しややこしい」


 先生は、顎に手を当てた。


「台帳には、こうも書き添えてあった。『原本は我が師より受け継ぎしもの、我が代にて書き足す』と」


「……ということは」


「あの手記は、一人が書いたものじゃない。師から弟子へ、何代も受け継がれながら書き足されてきたんだろう。前半と後半で文章の調子が変わるのも、そのせいかもしれん」


 僕は、紙袋の中の本を思い浮かべた。


 前半の気楽な旅の記録と、後半の容赦のない専門書。あれが同じ人の手だとは、確かに最初から少し思えなかった。


「じゃあ、寄贈した人は」


「その系譜の、四十年前の一人だ。今も続いているなら、今の代がどこかにいるはずだね」


 先生は肩をすくめて、それから少し笑った。


「まあ、届いたようだから、いいんじゃないかな」


六


 日が落ちる頃には、畝の半分ほどが片付いていた。


 キアリーとエスタが帰った後も、僕は一人で残っていた。


 まだやることがあった。


 薬草園の中央。


 蔦に半分覆われた、大地の女神像。


 僕は水桶と布を持って、その前に立った。


 まず、蔦を取り除いた。根元から丁寧に外していく。無理に引っ張ると石が欠ける。


 苔は、濡らした布で少しずつふやかしてから落とした。


 台座の隙間に溜まった土を掻き出す。何十年分かの土が出てきた。


 石の表面が、少しずつ現れてきた。


 思っていたより、細かい彫りが残っていた。衣の襞。組んだ指の関節。伏せた瞼の縁。風化して消えたと思っていた線が、汚れを落とすと、まだそこにあった。


 汚れが落ちるにつれて、顔の輪郭がはっきりしてくる。


――やっぱり、あの人だ。


 六百年前に、この石を彫った誰かがいる。実際にその姿を見て、覚えて、残そうとした誰かが。


 そして六百年のあいだに、それが誰なのかを、みんな忘れていった。


 僕は布を絞り直して、瞼の縁の土を丁寧に落とした。


 布を絞る指が、目に入る。


 まだ日に焼けていない、生まれたばかりみたいな色をした指だ。


 この手は、返してもらったものだ。


 僕はそのことを、たぶん一生忘れないだろう。だからせめて、こうやって使おうと思った。


 台座の文字も読めるようになった。


――与え、返され、また与えよ。


 日がすっかり落ちて、辺りが暗くなった頃、ようやく手を止めた。


 女神像は、月明かりの下で白く浮かび上がっていた。


『……随分と、綺麗になったな』


 いつの間にか、コロンが隣にいた。白い翅の姿だった。


「疲れた」


『だろうな』


 僕は、桶と布を脇に置いて、像の正面に立った。


 両手を組む。


 目を閉じる。


――守ってください、とは言わない。


――力をください、とも言わない。


 僕は、この一か月のことを思った。


 赤い実の味。森の地面の匂い。石を叩く手の感覚。失敗した軟膏の粘度。夜が来ない空。腕がなくなっていく感触。背中から流れ込んできた、太くてまっすぐな流れ。


 そして、この土地のことを思った。


 僕が生まれるずっと前から、誰にも見られないまま、ここを巡り続けてきたものを。


「いつも、ありがとうございます」


 声に出した。


「あと、これからもよろしくお願いします」


 しばらくして、目を開けた。


 返事はない。当たり前だ。


 けれど、足元で、小さな光が二つ三つ、ゆっくりと明滅していた。


『……行くぞ。遅くなる』


「うん」


 僕は桶を持ち上げて、歩き出した。


 門のところで一度振り返る。


 月明かりの中に、綺麗になった像が立っていた。


 明日は、残りの畝を片付けよう。それから種を蒔いて、一年目は土を作って、二年目から増幅材を試して、三年目には――


 考えているうちに、自然と足が速くなった。


 やることは、山ほどある。


 それでも、三年ある。


 (後日、魔法学園の教本『精霊史序説』第一章、欄外)


〈大精霊さま、明日の試験がうまくいきますように〉


〈それ、たぶん違う〉


〈いつもありがとうございます。以上〉


〈それでいい〉

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日の22時に次話を更新します。


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