兄よりも、私の方が
第七十二話 「兄より、私の方が」
一七九一年初頭。
パリ。
テュイルリー宮殿。
アルトワ伯シャルル=フィリップは、窓辺に立って中庭を見下ろしていた。
宮殿の門前には、今日も人が集まっている。
請願書を持った市民。
新聞を売る少年。
パンの値段について叫ぶ女たち。
国民衛兵の制服を着た男たち。
かつて、王宮の門前に集まる者は、国王への忠誠を示すために膝をついた。
今は違う。
彼らは国王へ要求するために集まっている。
税を変えろ。
パンを安くしろ。
役人を罰しろ。
教会の財産を差し出せ。
貴族の特権をなくせ。
まるで国王が、自分たちに奉仕する役人であるかのようだった。
アルトワ伯には、それが耐えられなかった。
扉の向こうから、兄の声が聞こえてくる。
ルイ十六世は、今日も議員や大臣たちと会議をしていた。
全国民の登録。
身分にかかわらない課税。
徴税請負制度の廃止。
教会財産の国家管理。
ギルドの独占権廃止。
聖職者に対する宣誓。
どれも、数年前なら考えることさえ許されなかった改革だった。
それが今では、兄の署名によって次々と実行されている。
アルトワ伯は拳を握った。
兄は昔からそうだった。
人の話を聞き過ぎる。
反対意見を無視できない。
一度決めたことでも、誰かが泣けば迷い始める。
学者が数字を並べれば、その数字を信じる。
議員が国民の名を出せば、その言葉に耳を傾ける。
そして最後には、自分の意思で決めたかのような顔をして、改革派の望む法案へ署名する。
アルトワ伯には、そう見えていた。
会議室の扉が開いた。
大臣たちが書類を抱えて退出してくる。
その中には、アルトワ伯が名前すら覚える気になれない議員もいた。
男は王弟に気づくと、形ばかりの礼をした。
以前なら、王族の前であれほど浅い礼をする者はいなかった。
アルトワ伯は返礼しなかった。
そのまま会議室へ入る。
兄は机の前に座っていた。
机の上には、地方から送られてきた報告書が積まれている。
凶作。
失業。
税の滞納。
聖職者の反発。
国外へ出た貴族たちの動向。
それら全てに目を通そうとしているのか、兄の顔には濃い疲労が浮かんでいた。
「兄上。」
ルイは顔を上げた。
「シャルルか。」
「また改革派の要求を受け入れたそうですね。」
ルイはわずかに眉を寄せた。
「何の話だ。」
「ギルドです。教会です。税です。今度は聖職者にまで、国家への宣誓を求めると聞きました。」
「まだ決定したわけではない。反対意見も聞いている。」
「それです。」
アルトワ伯は机へ歩み寄った。
「兄上は、いつも反対意見を聞く。」
「国王が国民の声を聞くことの何が悪い。」
「聞くことと、従うことは違います。」
ルイの表情が硬くなった。
「私は従っているのではない。」
「では、なぜ貴族の特権を奪ったのです。」
「特権を守り続ければ、税制を立て直せないからだ。」
「なぜ教会の財産を奪ったのです。」
「国家の財政を救い、救貧と教育を維持するためだ。」
「なぜ職人たちの古い秩序を壊すのです。」
「生まれや金で仕事を独占する仕組みを改めるためだ。ただし、共済や技能の継承まで壊すつもりはない。」
アルトワ伯は兄を見つめた。
返ってくる言葉は、どれも改革派の議員たちが口にしているものと同じだった。
公平。
国民。
財政。
自由。
兄自身の言葉ではない。
兄は長い会議の中で、彼らの言葉を自分の考えだと思い込まされている。
アルトワ伯には、そうとしか思えなかった。
「兄上は操られています。」
ルイの手が止まった。
「何だと。」
「改革派は兄上の優しさを利用している。少しずつ譲歩させ、王権を奪っているのです。」
「違う。」
「何が違うのです。」
ルイは椅子から立ち上がった。
疲れてはいたが、その目に迷いはなかった。
「これは私が決めたことだ。」
「そう思わされているだけです。」
「シャルル。」
「兄上は国民を救っているつもりなのでしょう。しかし、譲れば譲るほど、彼らはさらに要求する。昨日は税、今日は教会、明日は王位です。それでも兄上は、彼らと話し合うつもりですか。」
「剣を抜けば、要求が消えると思うのか。」
「少なくとも、王を恐れるようにはなります。」
「その剣を誰に向ける。」
「反逆者に。」
「市場でパンを求める母親も反逆者か。税を払えず土地を失った農民も反逆者か。給与を受け取れない兵士も反逆者か。」
「兄上は話を広げ過ぎです。」
「広げているのではない。フランスとは、それら全てだ。」
アルトワ伯は答えなかった。
兄はいつもそうだった。
一つの問題を前にすると、関係する全ての人間を救おうとする。
誰も傷つけずに改革しようとする。
それゆえに決断が遅れる。
敵と味方を分けられない。
守るべき者と、切り捨てるべき者を選べない。
国王に必要なのは、全ての人間への理解ではない。
命令を下す強さだ。
少なくともアルトワ伯は、そう信じていた。
「私なら、もっと簡単に統治できます。」
その言葉が口から出た瞬間、部屋の空気が変わった。
ルイは黙って弟を見る。
アルトワ伯も目を逸らさなかった。
「議会を解散させます。」
「……。」
「扇動者を捕らえ、新聞を取り締まり、忠実な連隊をパリへ入れる。教会財産を返還し、貴族の権利を守る。国王が国王として命令すれば、この混乱は終わります。」
「兵が命令に従わなければ。」
「従わせます。」
「金がなければ。」
「集めます。」
「農民が税を拒めば。」
「処罰します。」
「それで国中が立ち上がれば。」
「立ち上がらせません。」
ルイは長く弟を見つめた。
やがて、悲しげに息を吐く。
「お前は、命令を口にすることと、それが実行されることを同じだと思っている。」
その一言は、アルトワ伯の胸を深く刺した。
「私を無能だとおっしゃるのですか。」
「そうは言っていない。」
「同じことです。」
「私はただ、この国が以前のままでは立ち行かないと知ったのだ。」
「改革派にそう教えられたのでしょう。」
「違う。帳簿が教えた。飢えた者たちが教えた。そして、何より私自身の失敗が教えた。」
アルトワ伯には理解できなかった。
国王が自分の失敗を認める。
それは誠実さではない。
弱さだった。
王は間違いを認めてはならない。
少なくとも人前では。
王が迷えば、臣下は王を疑う。
王が謝れば、民衆はさらに要求する。
王冠は、身につける者が自らを疑った瞬間に重さを失う。
「国外へ出た者たちから、手紙が届いています。」
アルトワ伯は言った。
「トリノ、ブリュッセル、マインツ。多くの貴族と聖職者が兄上の改革に絶望しています。」
「知っている。」
「彼らは助けを求めています。」
「誰に。」
「私に。」
ルイの目が細くなった。
「何と答えた。」
「まだ何も。」
「ならば、答えるな。」
「兄上。」
「彼らは自ら国外へ出た。国内に残って議論することも、法に従って異議を唱えることもできた。それをせず、外国の宮廷に救いを求めた者たちだ。」
「彼らはフランスの正しい秩序を守ろうとしているのです。」
「外国の兵を使ってか。」
「まだ、そこまでは申しておりません。」
「いずれ言う。」
ルイは弟の正面に立った。
「よく聞け、シャルル。私はお前に、外国との交渉を命じていない。お前は私の使者ではない。国外へ出た者たちに会うとしても、私の名を使うことは許さない。」
アルトワ伯は耳を疑った。
「私を疑うのですか。」
「お前の周りに集まろうとしている者たちを疑っている。」
「彼らは忠臣です。」
「彼らが忠実なのは、フランスか。国王か。それとも、失った地位と財産か。」
アルトワ伯の顔が赤くなった。
「兄上は、忠臣まで敵に回すおつもりですか。」
「私は、私の意思を勝手に語る者を忠臣とは呼ばない。」
それ以上、話すことはなかった。
アルトワ伯は兄に背を向けた。
扉を閉める直前、もう一度だけ振り返る。
兄は再び机に座り、地方からの報告書を開いていた。
王弟である自分よりも、名も知らぬ農民の訴えを選んだのだ。
その夜。
アルトワ伯は自室で、国外から届いた手紙を改めて読んだ。
『殿下こそ、フランス王権に残された希望でございます。』
『国王陛下は、改革派によって自由を奪われております。』
『陛下の署名は、真の御意思によるものではございません。』
『王家を救うため、どうか我らの先頭にお立ちください。』
そこに書かれていたのは、アルトワ伯が聞きたかった言葉ばかりだった。
兄は悪くない。
ただ弱いのだ。
改革派に囲まれ、正しい判断ができなくなっている。
だから、弟である自分が助けなければならない。
兄が自分の意思で改革しているのだと認めれば、アルトワ伯は兄へ反逆することになる。
だが、兄が操られているのならば。
兄を救うために兄の命令へ逆らうことも、忠誠になり得る。
アルトワ伯は手紙を畳んだ。
「出国の準備を。」
側近が顔を上げる。
「陛下の許可は。」
「必要ない。」
「では、これは亡命ということでございましょうか。」
「違う。」
アルトワ伯は即座に答えた。
「フランスを捨てるのではない。フランスを救うために、一時的に国外へ出るのだ。」
数日後。
まだ夜が明ける前に、一台の馬車がパリを出た。
荷物は最小限だった。
目立つ紋章も外されている。
それでもアルトワ伯は、自分が逃げているとは思わなかった。
逃げる者は、追われる者だ。
自分は違う。
自分は反撃の準備をするために移動している。
やがて馬車は国境を越えた。
車輪がフランスの土を離れた瞬間、アルトワ伯は窓の外を見た。
胸に浮かんだのは、罪悪感ではなかった。
解放感だった。
もう議員たちの演説を聞かなくてよい。
飢えた民衆の要求に付き合わなくてよい。
兄が一つの決断を下すまで、何日も待たなくてよい。
国外には、まだ秩序が残っている。
王族を王族として迎える宮廷がある。
忠誠を知る貴族がいる。
王権のために剣を抜く軍人がいる。
自分を理解する者たちがいる。
トリノに到着したアルトワ伯を、大勢の亡命者が待っていた。
改革派のルイ十六世に嫌気がさして出国した貴族。
特権廃止によって、祖先から受け継いだ権利を奪われたと憤る領主。
教会財産の国家管理を神への冒涜と考える聖職者。
新しい軍制によって、平民出身者と同じ基準で評価されることに耐えられなかった将校。
議会と新聞に侮辱され、フランスにはもはや居場所がないと考えた廷臣。
彼らは馬車が止まると、一斉に膝をついた。
「王弟殿下。」
「よくぞお越しくださいました。」
「これでフランスは救われます。」
アルトワ伯は馬車から降りた。
これほど深い礼を向けられたのは、久しぶりだった。
パリでは市民も議員も、王族に要求を突きつける。
ここでは違う。
自分が歩けば、人々が道を開ける。
自分が言葉を発すれば、全員が黙って耳を傾ける。
一人の老貴族が、涙を流しながらアルトワ伯の手を取った。
「殿下。国王陛下を、改革派の手からお救いください。」
「私は兄から王位を奪うために来たのではない。」
「もちろんでございます。」
別の貴族が答えた。
「殿下は王位を望んでおられるのではありません。王位の尊厳を守ろうとしておられるのです。」
「兄上は、まだ自分が置かれている状況を理解していない。」
「その通りでございます。」
「議員たちは、兄上の善意を利用している。」
「まさしく。」
「今のフランスに必要なのは、議論ではない。断固とした命令だ。」
「我らも同じように考えておりました。」
誰も反対しなかった。
誰も財政の数字を持ち出さなかった。
誰も農民の窮状について語らなかった。
誰も軍隊が本当に国王の命令へ従うのかとは尋ねなかった。
アルトワ伯の言葉は、全て正しいものとして受け入れられた。
兄の前では退けられた考えが、ここでは喝采をもって迎えられる。
その喝采を聞くうちに、アルトワ伯は確信し始めた。
やはり、自分の方が正しい。
兄よりも、自分の方が王権を理解している。
兄よりも、自分の方が貴族をまとめられる。
兄よりも、自分の方が決断できる。
自分が統治していたなら、フランスはこれほど混乱しなかった。
その日の夜。
亡命貴族たちはアルトワ伯を上座へ案内した。
広い机の上には、フランス全土の地図が広げられている。
国境。
要塞。
連隊の駐屯地。
貴族たちの所領。
教会の土地。
地図の上には、城と街道と軍隊が記されていた。
だが、そこに暮らす農民も、職人も、パンを求める女たちも描かれてはいなかった。
「オーストリアへ働きかけましょう。」
一人が言った。
「プロイセンも、革命が自国へ広がることを恐れております。」
「サルデーニャ王国からも支援を得られるはずです。」
「ライン川沿いに軍を集めれば、国内の忠臣も立ち上がります。」
「殿下が先頭に立てば、国王軍の兵士も我らへ合流するでしょう。」
アルトワ伯は地図を見つめた。
兄は外国との交渉を命じていない。
自分は兄の使者ではない。
兄の名を使うな。
最後に告げられた言葉が、頭の中によみがえる。
しかし、すぐに別の声がそれを覆った。
兄は自由な状態で命じたのではない。
改革派に囲まれ、国民衛兵に監視されている。
ならば、兄の命令に従わないことこそ、兄を救う道なのではないか。
「まず、各国の宮廷へ手紙を送る。」
アルトワ伯は言った。
亡命者たちが一斉に顔を上げる。
「フランス国王は危険な状態にある。王権は改革派に奪われつつある。我々は国王を救い、正しい秩序を回復しなければならない。」
「差出人は、いかがいたしましょう。」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
アルトワ伯は地図の上へ手を置いた。
「フランス国王の弟、アルトワ伯。」
それで十分だった。
国王の正式な使者ではない。
国王から権限を与えられてもいない。
それでも外国の宮廷から見れば、フランス国王の実の弟である。
その言葉は、一人の亡命貴族の訴えよりもはるかに重い。
老貴族が杯を掲げた。
「フランス国王の救出と、王権の復活のために。」
「王権の復活のために。」
全員が続いた。
アルトワ伯も杯を掲げた。
その場にいる誰も、彼を国王とは呼ばなかった。
だが、全員が彼の命令を待っていた。
全員が彼を中心に席を並べていた。
全員が彼の言葉を、フランス王家の意思として書き留めていた。
アルトワ伯は、その光景に心地よさを覚えていた。
自分は王位を望んでいるわけではない。
ただ、兄に代わって決断しているだけだ。
自分は兄を追い落とそうとしているのではない。
ただ、兄に代わってフランスを救おうとしているだけだ。
もし王国に、より強い手が必要ならば。
もし兄が、王としての役目を果たせないのならば。
そのとき、自分が前へ出ることの何が間違いなのか。
その夜から、国外にもう一つのフランスが生まれ始めた。
国王の命令を受けていない者たちが、国王を救うと称して動き始めた。
改革を拒んだ者たちが、王弟を中心に集まった。
失った特権を取り戻したい者。
没収された財産を取り戻したい者。
革命へ復讐したい者。
本気で王家を救いたい者。
それぞれの望みは異なっていた。
しかし、彼らは同じ言葉を口にした。
「アルトワ伯殿下こそ、フランスを救える。」
アルトワ伯は、その言葉を信じた。
兄を裏切ったとは、一度も思わなかった。
ただ兄よりも、自分の方がうまく統治できる。
そう確信していただけだった。
そして、その確信こそが、やがて兄の王冠を外国の軍隊に守らせようとする道の始まりとなった。




