大恐怖
第七十一話 「遅れてきた大恐怖――Grande Peur」
一七九一年、冬。
テュイルリー宮殿の暖炉で、マリー・アントワネットが書いた手紙は灰になった。
王妃は兄へ助けを求めようとした。
だが、一通も送らなかった。
神聖ローマ皇帝のもとへ、王妃からの救援要請は届いていない。
オーストリア宮廷にも、フランスへ軍事介入してほしいという王妃の言葉は残っていない。
陰謀は存在しなかった。
少なくとも、王妃が兄へ助けを求め、外国軍を動かそうとしたという陰謀は。
しかし。
陰謀が実際に存在するかどうかと。
人々が陰謀の存在を信じるかどうかは、別の問題だった。
冬の間も、新聞は外国軍について報じ続けた。
『オーストリア軍、国境付近へ移動。』
『プロイセン、フランス情勢への介入を検討。』
『コブレンツの亡命貴族、武装を続ける。』
『王党派、国内での一斉蜂起を計画か。』
記事の中には、確認された事実もあった。
国境付近で、オーストリア軍の部隊配置が変更された。
コブレンツでは、亡命した元将校が兵士を集めていた。
外国の宮廷へ、亡命貴族の使者が出入りしていた。
ピルニッツ宣言も撤回されていない。
だが。
軍隊がいつ動くのか。
本当にフランスへ侵攻するのか。
亡命者の部隊が何人いるのか。
フランス国内に、どれほどの協力者がいるのか。
確かなことは分からなかった。
分からない部分は、想像によって埋められた。
亡命者が千人いる。
その話が、次の町では五千人になった。
さらに別の町では、一万人になった。
オーストリア軍が国境付近にいる。
その話は、すでに国境を越えたという話へ変わった。
亡命貴族が武器を集めている。
その話は、領主たちが農民を皆殺しにする計画を立てているという話へ変わった。
冬の街道を。
商人が進んだ。
行商人が進んだ。
兵士が進んだ。
職を探す者が進んだ。
巡礼者が進んだ。
そして、人とともに噂も移動した。
パリから地方へ。
国境から内陸へ。
市場から村へ。
酒場から農家へ。
雪によって公的な報告が遅れても、噂だけは止まらなかった。
むしろ、正しい情報が届かない時間が長いほど、噂は大きく育っていった。
⸻
一七九二年、春。
パリから遠く離れた、ある村。
昼下がり。
冬の間、硬く凍っていた土は、ようやく柔らかさを取り戻していた。
農民たちは畑へ出ていた。
鍬で土を起こす者。
種を入れる溝を作る者。
冬を越した麦の状態を確かめる者。
いつもと変わらない春の光景だった。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえてくるまでは。
一人の農夫が顔を上げた。
街道の向こうから、馬に乗った男が近づいてくる。
馬は汗に濡れていた。
男も何度も後ろを振り返っている。
まるで、何かに追われているようだった。
「何だ。」
「役人か。」
「いや。」
「この村の者ではない。」
男は畑の側まで来ると、手綱を強く引いた。
馬が土を蹴り、荒い息を吐く。
「大変だ。」
男が叫んだ。
農民たちが手を止める。
「亡命した貴族が帰ってくる。」
農夫たちは顔を見合わせた。
「何だって。」
「どこの貴族だ。」
「本当に戻ってくるのか。」
旅人は、息を切らしながら叫んだ。
「オーストリア軍を連れて、国境を越えたそうだ。」
「村という村を焼き払い、革命へ味方した者を皆殺しにすると。」
その場が静まり返った。
春の風が畑を通り抜ける。
遠くで鳥が鳴いている。
それ以外には、何も聞こえなかった。
「本当なのか。」
年配の農夫が尋ねた。
「誰から聞いた。」
「街道沿いの宿屋だ。」
「宿屋の主人が、東から来た商人に聞いた。」
「その商人は。」
「国境近くの町から逃げてきた男に聞いたそうだ。」
「お前自身は、軍隊を見たのか。」
旅人は答えられなかった。
「見てはいない。」
「ならば。」
「だが、隣村では、もう逃げ始めている。」
その一言で十分だった。
隣村が逃げている。
ならば、何かが迫っている。
何もなければ、人々が家と畑を捨てて逃げるはずがない。
誰も、隣村へ確かめに行こうとは言わなかった。
確かめている間に、敵が来るかもしれない。
逃げ遅れるかもしれない。
妻や子どもを守れないかもしれない。
一人の農夫が鍬を担いだ。
「村長へ知らせる。」
別の者が走り出す。
「鐘を鳴らせ。」
「国民衛兵を集めろ。」
旅人が運んできたのは、事実ではなかった。
だが。
それを聞いた農民たちの恐怖は本物だった。
⸻
夕方。
村の鐘が激しく鳴り響いた。
日曜の礼拝を知らせる鐘ではない。
火事を知らせる穏やかな打ち方でもない。
短く。
激しく。
何度も鳴らされる。
「敵襲だ。」
「武器を持て。」
村人たちが家から飛び出してきた。
猟銃を持つ者。
鍬を持つ者。
鎌を持つ者。
木を割る斧を持つ者。
武器と呼べるものを何も持たず、棒だけを握る者。
皆が広場へ集まった。
村長は、何が起きているのか分からないまま、集まった者たちを並ばせようとした。
「落ち着け。」
「敵は、どこまで来ている。」
「隣村だ。」
誰かが答えた。
「いや。」
別の者が叫ぶ。
「もう二つ向こうの町が焼かれたそうだ。」
「誰が見た。」
「旅人が言っていた。」
「旅人は、国境を越えたとしか言っていない。」
「では、誰から二つ向こうの町が焼かれたと聞いた。」
「皆が言っている。」
誰が最初に言ったのかは分からなかった。
だが、すでに多くの者が同じ話をしていた。
それだけで、事実だと思われた。
母親たちは子どもを抱き締めた。
「納屋へ食料を運んで。」
「水も貯めなければ。」
老人は、小麦の袋を家の奥へ隠した。
家畜を森へ連れていこうとする者もいた。
若者たちは村の入口へ柵を置いた。
荷車を横倒しにし、街道を塞ぐ。
教会の鐘楼へ見張りが上がった。
「何か見えるか。」
「まだ何も。」
「煙は。」
「見えない。」
誰も敵を見てはいなかった。
遠くに軍旗もない。
大砲の音も聞こえない。
馬車の列もない。
それでも、皆が敵の存在を信じていた。
敵が見えないのは、まだ遠くにいるから。
煙が見えないのは、まだこちらの村が焼かれていないから。
大砲が聞こえないのは、こちらへ向かっている途中だから。
何も見えないことは。
敵が存在しない証拠にはならなかった。
⸻
夜。
村の男たちは交代で見張りを続けた。
焚き火を囲みながら、昼間に聞いた話を繰り返す。
「亡命した伯爵が先頭にいるらしい。」
「いや。」
「王弟が自ら軍を率いているそうだ。」
「オーストリア軍だけではない。」
「プロイセン軍もいる。」
「何人だ。」
「二万人。」
「俺は五万人と聞いた。」
「砲兵もいるらしい。」
「この村へ大砲を撃つというのか。」
「革命へ味方した村は、すべて滅ぼすそうだ。」
「領主の館へ逃げ込むつもりではないか。」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
村の外れには、かつてこの土地を治めていた家の館がある。
以前ほどの特権は持っていない。
税を勝手に課すこともできない。
農民へ労役を命じる権利も失っている。
それでも、館は残っている。
土地もある。
使用人もいる。
館の主人は国外へ逃げていない。
革命後も村に残り、国民議会が定めた法律へ従っていた。
だが。
貴族であることは変わらない。
「もし、館に武器が隠されていたら。」
一人が言った。
「亡命貴族が来たとき、内側から村を攻撃するつもりかもしれない。」
「館の主人は、革命へ反対していない。」
「表向きはな。」
「去年、外国から手紙が届いていたのを見た者がいる。」
「誰が。」
「台所で働いている女の親戚だ。」
「何と書かれていた。」
「そこまでは知らない。」
「ならば、怪しい。」
知っていることより。
知らないことの方が、疑いを強くした。
⸻
翌朝。
噂は、村から村へ広がっていった。
最初の村から出た使者が、近隣へ危険を知らせる。
「亡命貴族が、オーストリア軍とともに国境を越えた。」
次の村では、こうなった。
「亡命貴族が、二万人の軍を率いている。」
さらに次の村では。
「いや、五万人だ。」
「王弟も一緒にいる。」
「フランス国内の王党派が内応するらしい。」
「修道院に武器が隠されている。」
「宣誓を拒んだ神官が、侵攻の日を知っている。」
「領主たちは、農民から取り上げる土地の一覧を作っている。」
噂は、語られるたびに大きくなった。
場所によって、敵の姿も変わった。
ある村では、亡命貴族だった。
別の村では、オーストリア軍だった。
さらに別の村では、王党派の盗賊集団だった。
修道士が外国兵を案内しているという話もあった。
商人が敵軍へ小麦を売るため、倉庫へ隠しているという話もあった。
真実を知る者は、誰もいない。
それでも、人々は疑わなかった。
隣村が武装している。
ならば、自分たちも武装しなければならない。
隣村が館を調べた。
ならば、自分たちの村でも調べなければならない。
隣村が逃げた。
ならば、敵は確かに存在する。
人々が噂を信じたから行動した。
そして。
人々が行動していること自体が、噂が真実である証拠に変わっていった。
⸻
ある村。
武装した農民たちが、領主の館へ向かっていた。
先頭にいるのは、猟銃を持った粉ひき職人だった。
その後ろに。
鍬。
鎌。
斧。
松明を持った者たちが続く。
「武器を隠しているのだろう。」
「亡命貴族と通じているに違いない。」
「館を調べろ。」
館の門が閉じられる。
使用人たちは怯えていた。
主人は玄関前へ出て、両手を広げた。
「待ってくれ。」
「何を聞いたのか知らないが、私はこの村を攻撃するつもりなどない。」
「ならば、門を開けろ。」
「武器を見せろ。」
「猟銃が数丁あるだけだ。」
「外国から届いた手紙は。」
「親族からの手紙だ。」
「亡命した親族か。」
館の主人は答えに詰まった。
兄の一人が、前年に国外へ出ている。
政治的な相談はしていない。
国外での暮らしについて、数通の手紙を受け取っただけだった。
だが。
亡命した貴族から手紙を受け取った。
それだけで、群衆にとっては十分だった。
「やはり通じている。」
「違う。」
「ならば手紙を見せろ。」
「私的な手紙だ。」
「見せられない手紙なのか。」
「そうではない。」
主人が説明しようとする。
だが、怒号にかき消された。
誰かが門へ斧を打ちつけた。
一度。
二度。
木が割れる。
内側の使用人が押さえようとしたが、外から大勢が力を加える。
門が破られた。
農民たちが館へ流れ込む。
家具が倒される。
引き出しが開けられる。
食器が床へ落ちて割れる。
「武器を探せ。」
「手紙もだ。」
「地下室を調べろ。」
「穀物を隠しているかもしれない。」
だが、外国軍のために用意された武器は見つからなかった。
地下室にあるのは葡萄酒。
倉庫にあるのは、館で使うための小麦。
猟銃も、狩猟用のものが三丁あるだけだった。
それでも、誰も引き返そうとは言わなかった。
ここまで来て、何もなかったと認めることは難しかった。
「書類がある。」
一人の農民が叫んだ。
館の書斎から、大量の紙が運び出された。
土地の境界を記した帳簿。
小作料の記録。
過去の契約書。
家畜の売買記録。
革命前に徴収されていた封建的負担についての古い台帳。
亡命した親族から届いた手紙。
一枚一枚の内容を読む者はいない。
紙がある。
記録がある。
それだけで、裏切りの証拠とされた。
「これを使って、また昔の税を取るつもりだ。」
「外国軍が来た後で、土地を奪い返すつもりだったんだ。」
「違う。」
館の主人が叫ぶ。
「その帳簿は、もう効力を持っていない。」
「では、なぜ残していた。」
「土地の所有関係を確認するためだ。」
「やはり、我々の土地を奪うつもりだった。」
説明するほど、疑いは強くなった。
書類は庭へ放り出された。
松明が近づけられる。
「やめろ。」
館の主人が止めようとする。
何人かの農民が、その身体を押さえた。
火が紙へ移る。
古い帳簿。
契約書。
境界記録。
親族からの手紙。
一つの炎に包まれていく。
「これで裏切りの証拠は消えた。」
誰かが叫んだ。
その言葉に、別の農民が顔を上げた。
証拠を消してしまえば、本当に裏切りがあったのか確認できなくなる。
だが、誰も炎を消そうとはしなかった。
燃えたのは。
外国軍との侵攻計画ではない。
土地の帳簿。
借金の記録。
すでに廃止された権利の証書。
今も必要な境界記録。
そして家族からの手紙だった。
証拠がなかったことを示す証拠まで、炎の中へ消えていった。
⸻
別の村では、宣誓を拒んだ神官の住居が捜索された。
「修道院に武器が隠されている。」
そんな噂が届いたからだった。
見つかったのは。
聖書。
祭服。
聖杯。
教皇からの教書。
信徒から受け取った相談の手紙。
武器はなかった。
だが、ローマから届いた文書があったことから、神官は外国と通じていると疑われた。
「教皇が、オーストリア軍を呼んだのではないか。」
「私は、そのような話は知らない。」
「では、なぜローマから手紙が来る。」
「私は神官だ。」
「だからこそ怪しい。」
神官は、その日のうちに村を追い出された。
別の村では、旅人が盗賊と間違えられて拘束された。
外国訛りがあるというだけで、オーストリアの間者と疑われた者もいる。
行商人の荷物から地図が見つかり。
軍隊を案内するためのものだと決めつけられた。
実際には、市場と宿場を確認するための簡単な地図だった。
恐怖は。
亡命貴族だけへ向けられたのではない。
神官。
領主。
旅人。
商人。
隣村の住民。
少しでも自分たちと異なる者が、敵の協力者に見え始めていた。
⸻
数日後。
最初の村。
見張り台にいた若者が叫んだ。
「街道に人影。」
鐘が鳴らされる。
「敵だ。」
「ついに来た。」
村人たちが街道へ集まる。
荷車の柵の後ろへ隠れる。
猟銃が構えられる。
鍬と鎌を握る手に汗が滲む。
遠くから数頭の馬が近づいてきた。
制服を着た者もいる。
後ろには荷馬車が続いている。
「軍隊だ。」
誰かが叫んだ。
「オーストリア軍か。」
「旗は。」
「まだ見えない。」
一人の男が、恐怖に耐えられず猟銃の引き金へ指を掛けた。
「待て。」
村長が銃身を押さえる。
「まだ撃つな。」
「敵だったらどうする。」
「撃てば、相手も撃つ。」
馬上の一団が近づいてくる。
やがて、先頭の者が掲げている旗が見えた。
三色旗。
オーストリア軍ではない。
地方自治体から派遣された国民衛兵だった。
荷馬車に積まれているのも大砲ではない。
小麦と、公的な告示を印刷した紙だった。
「武器を下ろせ。」
村長が叫ぶ。
だが、農民たちはすぐには従わなかった。
外国軍が、フランス軍の旗を使っているかもしれない。
王党派が国民衛兵へ変装しているかもしれない。
一度生まれた疑いは、旗を見ただけでは消えなかった。
派遣隊の指揮官が馬を止める。
「我々は県の行政部より派遣された。」
「外国軍が国境を越えたという事実は確認されていない。」
「各村へ正しい情報を伝え、混乱を鎮めるために来た。」
村人の一人が叫ぶ。
「嘘だ。」
「隣村は逃げ始めた。」
「隣村にも、同じ噂が届いただけだ。」
「では、館にあった手紙は。」
「それも調べる。」
「今は武器を下ろしてほしい。」
長い沈黙が流れた。
やがて村長が、自分の猟銃を地面へ置いた。
「皆も下ろせ。」
一人。
また一人。
鍬と鎌が下ろされる。
最後まで猟銃を構えていた男も、ようやく銃口を下へ向けた。
一発も撃たれなかった。
だが。
あと少し、旗が見えるのが遅ければ。
誰か一人でも先に引き金を引いていれば。
国民衛兵と農民の間で、戦いが始まっていたかもしれない。
⸻
各地から届いた報告は、パリへ集められた。
国民議会。
議場へ、地方暴動についての文書が次々と運び込まれる。
「各地で住民が武装を始めています。」
「亡命貴族侵攻の噂によるものです。」
「三つの村で、領主の館が襲撃されました。」
「二つの教区で、宣誓拒否神官が追放されています。」
「街道が封鎖され、小麦の輸送が止まっている地域もあります。」
「国民衛兵が、外国軍と誤認されました。」
議場がざわめいた。
「外国軍は、実際に国境を越えたのか。」
「確認されておりません。」
「亡命者の部隊は。」
「国境外に集まっておりますが、フランス領内へ侵入したという確かな報告はありません。」
「では、なぜ暴動が。」
「噂です。」
その一言が、議場へ重く落ちた。
ブリソーは、険しい表情で報告書を見つめた。
「革命が、恐怖に支配され始めたか。」
隣の議員が尋ねる。
「外国の脅威を訴えた我々にも、責任があると言うのか。」
ブリソーは、すぐには答えなかった。
彼は、外国の脅威が存在すると信じている。
亡命者は実際に国外で武装している。
ピルニッツ宣言も存在する。
オーストリアとプロイセンが、革命を好んでいないことも事実だった。
だが。
まだ起きていない侵攻を、すでに始まったものとして人々が信じた。
その恐怖によって。
敵ではない者が襲われている。
穀物輸送が止まり。
村同士が疑い合い。
国民衛兵まで敵と間違えられた。
穏健派議員は、顔を青ざめさせていた。
「このままでは。」
「外国軍が来る前に、噂だけで国中が混乱する。」
別の議員がブリソーへ向き直った。
「あなたは、外国の脅威を国民へ訴え続けた。」
「今の混乱を、どう考える。」
ブリソーはゆっくりと立ち上がった。
「私は、存在しない脅威を作ったつもりはない。」
「亡命者が武装していることは事実だ。」
「外国君主が、必要な措置を取ると宣言したことも事実だ。」
「だが。」
ブリソーは報告書を握った。
「事実を知らせることと、確認されていない侵攻を断言することは違う。」
「新聞と演説が、その境界を曖昧にしたのではないか。」
「ならば。」
ブリソーは議場を見渡した。
「我々は、さらに正確な情報を出さなければならない。」
「噂を恐れて、外国の脅威について沈黙することはできない。」
「だが、国民の恐怖を戦争への熱意と取り違えてもならない。」
それは、以前より慎重な言葉だった。
しかし、ブリソーが戦争への主張を撤回したわけではない。
この混乱こそ。
亡命者と外国君主による脅威を放置した結果だと考える者もいた。
「亡命者を解散させなければ、噂は止まらない。」
「外国へ最後通告を出すべきだ。」
「反対だ。」
「最後通告を出せば、さらに侵攻の噂が広がる。」
「では、何もしないのか。」
議場は再び賛否の声に包まれた。
噂による暴動さえ。
戦争を急ぐ理由にも。
戦争を避ける理由にもなった。
⸻
同じ頃。
テュイルリー宮殿。
外務大臣が、地方から届いた報告書をルイへ差し出した。
「陛下。」
「各地で住民が武装を始めています。」
「亡命貴族が外国軍を率いて侵攻するという噂が原因です。」
ルイは、静かに報告書へ目を通した。
村の鐘。
街道の封鎖。
領主館への襲撃。
燃やされた帳簿。
追放された神官。
敵軍と誤認された国民衛兵。
どの報告にも、同じ恐怖が記されている。
「実際に侵攻したという報告は。」
「ありません。」
外務大臣は答えた。
「すべて噂です。」
「国境調査委員会からは。」
「オーストリア軍の配置に変化はあります。」
「しかし、フランス領内へ入った部隊は確認されておりません。」
「亡命者の部隊も、国境外にとどまっています。」
ルイは深く息を吐いた。
「噂だけで。」
「人は、ここまで恐れるのか。」
その現象を。
ルイだけは知っていた。
彼が前世で学んだ歴史の中では。
一七八九年七月から八月にかけて、フランス各地で集団的な恐怖が広がった。
外国軍が来る。
貴族に雇われた盗賊が村を襲う。
領主が農民へ復讐する。
そんな噂を信じた農民が武装し。
領主の館へ押しかけ。
封建的な権利を記した文書を焼いた。
大恐怖。
Grande Peur。
だが、この時間のフランスでは。
一七八九年の夏、大恐怖は史実ほど広く連鎖しなかった。
ルイが早期に地方へ情報を送り。
自治体と国民衛兵へ略奪への対処を命じ。
食糧輸送を守らせたこと。
国王が国外へ軍を集めているという疑いが、史実より弱かったこと。
そして、身分特権の廃止と教会財産を巡る議論が、別の形で進められたこと。
それらによって。
局地的な騒ぎは起きても、王国全体を覆う恐怖にはならなかった。
避けられたと思っていた。
だが。
歴史は、消えたのではなかった。
三年遅れて。
亡命貴族と外国軍への恐怖をまとい。
再び現れた。
「遅れてきた大恐怖。」
ルイは呟いた。
「陛下。」
「いや。」
ルイは首を横に振った。
「各地方へ、直ちに正確な情報を送る。」
「外国軍が国境を越えた事実は確認されていないと。」
「はい。」
「だが、亡命者の武装まで存在しないとは書くな。」
「安心させるために嘘を書けば、後で本当の危険が分かったとき、誰も政府を信じなくなる。」
「どのように伝えますか。」
ルイは考えた。
「確認された事実と、確認されていない情報を分ける。」
「第一。」
「オーストリア軍がフランス領内へ侵入した事実は確認されていない。」
「第二。」
「コブレンツをはじめ、国外で亡命者が武装していることは確認されている。」
「第三。」
「具体的な侵攻計画と進軍日時は確認されていない。」
「第四。」
「不審な部隊を見た場合は、鐘を鳴らす前に自治体と国民衛兵へ報告する。」
外務大臣が書き留める。
「鐘について、統一した決まりを作る。」
ルイは続けた。
「火事。」
「洪水。」
「外国軍。」
「それぞれで鳴らし方を変える。」
「別の村が鐘を鳴らしたという理由だけで、自分たちも敵襲の鐘を鳴らしてはならない。」
「しかし、本当に敵が来た場合に遅れる可能性がございます。」
「だから、村ごとに見張りと伝令を決める。」
「一人の旅人の話だけで敵襲と断定しない。」
「別々の経路から届いた二つ以上の報告か。」
「自治体、国民衛兵、軍のいずれかによる確認を必要とする。」
「承知いたしました。」
「領主館と神官の住居も守らせる。」
外務大臣が僅かに驚く。
「住民から反発が出る可能性がございます。」
「外国と通じた証拠がある者は調べる。」
「だが、貴族であることだけで館を襲わせてはならない。」
「宣誓を拒んだことだけで、神官を間者にしてはならない。」
「同時に。」
ルイは言葉を加えた。
「国民衛兵へ、農民を敵として扱うなと命じる。」
「武器を持って集まったという理由だけで発砲してはならない。」
「まず、代表者と話す。」
「武器を下ろす時間を与える。」
「双方が恐怖から先に撃てば、本当に内戦になる。」
外務大臣は深く頷いた。
「直ちに文書を作成いたします。」
「印刷所を一つだけにするな。」
「パリで刷ってから地方へ送れば遅すぎる。」
「原文を各県へ送り、地方の印刷所でも同時に刷らせる。」
「読み書きのできない者のために。」
「市場と教会前で読み上げさせます。」
「ああ。」
「ただし、誰が読んだかを記録する。」
「勝手に言葉を変えられないように。」
外務大臣は一礼し、退出しようとした。
「待ってくれ。」
ルイが呼び止める。
「暴動によって燃やされた書類は。」
「すでに失われたものも多いようです。」
「土地の境界や借金の記録が消えれば、後で別の争いが起きる。」
「残っている写しを、地方裁判所と自治体で照合させる。」
「古い封建的権利を、そのまま復活させるためではない。」
「現在の土地所有と、正当な債務を確認するためだ。」
「はい。」
「燃やせば、すべてが自由になるわけではない。」
ルイは報告書を見た。
「記録がなくなれば。」
「強い者が、自分に都合のよい過去を作れる。」
⸻
外務大臣が部屋を出る。
ルイは、一人で窓の側へ立った。
夕日がパリの街を赤く染めている。
屋根。
煙突。
教会の塔。
セーヌ川。
そのすべてが、赤い光に包まれていた。
その赤は。
戦火の色にも見えた。
まだ外国軍は国境を越えていない。
まだ宣戦布告もされていない。
それでも。
人々の心の中では、すでに戦争が始まっていた。
敵を見た者はいない。
だが、敵がいると信じた。
館を襲い。
手紙を焼き。
街道を塞ぎ。
隣人を間者と疑った。
恐怖は、実際の軍隊よりも早く村へ入った。
国境も越えた。
門も必要としなかった。
ルイは窓枠へ手を置いた。
指が僅かに震えていた。
前世では。
外国軍が本当に国境を越える。
フランス軍は敗北する。
王妃は敵へ情報を渡したと疑われる。
国王は敗北を望んでいると非難される。
その先にあるものを、ルイは知っていた。
だが今回は。
戦争が始まる前から、国民は恐怖に支配されようとしている。
「歴史は。」
ルイは小さく呟いた。
「出来事だけを繰り返すのではない。」
「恐怖まで、別の形で戻ってくるのか。」
窓の外では。
夕日が、ゆっくりと沈んでいった。
フランスへ侵入した軍隊は、まだ一兵もいなかった。
それでも。
遅れてきた大恐怖は。
すでに王国の中を走り始めていた。




