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凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


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兄がいなくなった日

第七十二話 「兄がいなくなった日」

一七九二年三月一日。

ウィーン。

ホーフブルク宮殿。

夜が明ける前から、宮殿の廊下を医師と侍従が慌ただしく行き来していた。

神聖ローマ皇帝レオポルト二世の容体が、急激に悪化していた。

数日前から体調を崩していた。

それでも、皇帝は執務を続けていた。

フランス情勢。

ポーランド。

オスマン帝国との関係。

プロイセンとの外交。

ピルニッツ宣言後の各国の反応。

机の上には、処理しなければならない文書が積み上がっていた。

フランスからも、いくつもの報告が届いている。

亡命貴族が軍事介入を求めている。

国民議会では、オーストリアへ最後通告を出すべきだという声が強まっている。

フランス各地では、外国軍が侵攻したという噂によって農民が武装している。

レオポルト二世は、何度も同じ命令を出していた。

フランス国境へ、不要な刺激を与えてはならない。

亡命貴族へ、オーストリアが直ちに進軍すると約束してはならない。

しかし王家が危険にさらされた場合に備え、情報収集は続ける。

フランスと戦争を始めるつもりはない。

だが、革命がオーストリア領内へ広がることも許さない。

慎重で。

曖昧で。

どちらにも完全には加担しない政策だった。

亡命貴族からは弱腰と批判された。

フランス革命派からは、侵攻準備を隠すための欺瞞だと疑われた。

それでもレオポルトは、戦争を避けようとしていた。

ピルニッツ宣言へ。

「ヨーロッパの主要国が共同歩調を取る場合」という条件を加えたのも、そのためだった。

すべての列強が同意しない限り、オーストリアは単独で動かない。

強い警告に見せながら。

実際には進軍を先送りするための言葉だった。

だが、その皇帝が。

突然、病に倒れた。

医師たちは懸命に治療を続けた。

薬草。

冷たい布。

瀉血。

祈り。

できることは、すべて行われた。

それでも、容体は戻らなかった。

寝台の周囲には、家族と側近たちが集まっていた。

長男のフランツも、父の側にいた。

まだ二十四歳。

父からハプスブルク家の領土と責務を受け継ぐことになる青年だった。

レオポルトは、何かを話そうとした。

だが、声にならなかった。

やがて。

一七九二年三月一日。

神聖ローマ皇帝レオポルト二世は、息を引き取った。

四十四歳だった。

宮殿の鐘が鳴る。

ウィーンの街へ、皇帝の死が伝えられる。

教会では、死者のための祈りが始まった。

そして宮廷書記官は、ヨーロッパ各国へ送る訃報の作成に取りかかった。

その中には。

フランス国王ルイ十六世と。

皇帝の妹、マリー・アントワネットへ宛てた文書もあった。

⸻

訃報を携えた使者は、ウィーンを出発した。

使者の馬車には、ハプスブルク家の紋章が付けられている。

それは、正式な外交使節であることを示すためだった。

だが、フランス領内へ入ると。

その紋章が、かえって危険を招いた。

亡命貴族とオーストリア軍が国境を越えた。

そんな噂が、地方へ広がっていたからである。

ある村の入口で。

使者の馬車は、武装した農民たちに止められた。

街道には、荷車が横向きに置かれている。

その後ろでは、猟銃と鍬を持った者たちが待ち構えていた。

「止まれ。」

村人が叫ぶ。

御者が馬車を止める。

「何者だ。」

「オーストリア宮廷より、フランス国王陛下へ文書を届ける使者である。」

使者が身分証明書を掲げる。

だが、農民たちは警戒を解かなかった。

「やはりオーストリア人だ。」

「軍隊の先触れではないか。」

「馬車の中を見せろ。」

「これは外交文書である。」

「見せられないものを運んでいるのか。」

「フランス国王へ届ける親書だ。」

「国王とオーストリアが、また秘密の相談をしている。」

使者の言葉は、疑いを弱めるどころか強めた。

村人たちは馬車を囲んだ。

御者が鞭へ手を伸ばす。

「動くな。」

猟銃が向けられる。

使者は両手を上げた。

「発砲するな。」

「近隣の自治体へ連絡してくれ。」

「我々の身分は、そこで確認できる。」

その提案によって、すぐに襲撃されることだけは避けられた。

馬車は村へ入れられた。

使者は、村役場の一室で待たされる。

国民衛兵と地方官吏が到着したのは、翌日の昼だった。

書類。

印章。

使者の名。

予定経路。

すべてが確認された。

「本物の外交使節です。」

地方官吏が村人たちへ説明する。

「オーストリア軍の先遣隊ではありません。」

農民の一人が尋ねた。

「では、何を運んでいる。」

「国王陛下へ宛てた文書です。」

「内容は。」

「我々にも開封する権限はありません。」

村人たちは不満そうだった。

それでも、街道の封鎖を解いた。

使者は再び出発する。

ただし。

本来より一日以上、遅れていた。

外国軍侵攻の噂が。

まだ存在しない軍隊を恐れた人々が。

皇帝の死を伝える本物の使者まで止めていた。

⸻

数日後。

パリ。

テュイルリー宮殿。

外務大臣が、急ぎ足で国王執務室へ入ってきた。

その表情は、いつも以上に重かった。

「陛下。」

「何があった。」

「ウィーンより、正式な使者が到着いたしました。」

ルイは手を止めた。

「皇帝からの返答か。」

フランス側から送った照会。

亡命者の武装解除。

国境付近の軍隊。

ピルニッツ宣言の意図。

それらに対する返答が、ようやく届いたのだと思った。

しかし、外務大臣は首を横に振った。

「神聖ローマ皇帝レオポルト二世陛下が。」

言葉を切る。

「三月一日、崩御されました。」

ルイは、しばらく動かなかった。

「亡くなった。」

「はい。」

「病気か。」

「急激に御容体が悪化されたとのことです。」

「ほかに何か。」

「現時点では、それ以上のことは分かりません。」

外務大臣は、封印された文書を差し出した。

ルイは受け取った。

自分へ宛てた正式な訃報。

そして。

マリーへ宛てた家族からの手紙。

「マリーは。」

「まだ御存じありません。」

ルイは立ち上がった。

「私が伝える。」

「国民議会へも、正式に報告いたします。」

「ああ。」

ルイは数歩進み、足を止めた。

「待ってくれ。」

外務大臣が振り返る。

「神聖ローマ皇帝位は。」

「選挙が必要です。」

「レオポルト二世陛下の長男フランツ大公が、ハプスブルク家の領土を継承されます。」

「ですが、神聖ローマ皇帝として選出されるのは、選帝侯による選挙の後です。」

「それまでは、対仏政策を誰が決める。」

「フランツ大公と、ウィーンの国務機関が中心となるでしょう。」

「今までと同じ方針を続けるか。」

「分かりません。」

ルイは訃報を握り締めた。

レオポルト二世は、マリーの兄だった。

同時に、戦争を避けようとしていた君主でもあった。

フランス革命を好んでいたわけではない。

教会改革も。

王権の制限も。

亡命者の処遇も。

レオポルトは警戒していた。

それでも、簡単に軍を動かそうとはしなかった。

その慎重な君主が、突然いなくなった。

外交の均衡を保っていた一つの重りが。

取り除かれた。

⸻

マリー・アントワネットの私室。

ルイが部屋へ入ると、マリーは窓辺に立っていた。

「ルイ。」

彼女は振り返った。

「ウィーンから使者が来たと聞きました。」

「ええ。」

僅かに表情を明るくする。

「兄からの返事でしょうか。」

ルイは答えられなかった。

マリーの表情から、少しずつ笑みが消えていく。

「何があったのです。」

ルイは、彼女の前まで歩いた。

手にしていた手紙を差し出す。

「マリー。」

「兄君が。」

声が詰まる。

「三月一日に亡くなった。」

マリーは動かなかった。

言葉の意味が理解できていないようだった。

「誰が。」

「レオポルト二世が。」

「兄君が亡くなった。」

マリーは手紙を受け取らなかった。

「嘘。」

小さく呟く。

「正式な使者が来た。」

「ウィーンからの訃報だ。」

「嘘です。」

「マリー。」

「兄は、まだ四十四歳です。」

「病気だったなど、聞いていません。」

「急に容体が悪化したらしい。」

「そんな。」

マリーの膝から力が抜けた。

ルイが慌てて身体を支える。

二人は、そのまま床へ座り込んだ。

「兄が。」

マリーの声が震える。

「兄が、いなくなった。」

「ああ。」

「もう。」

「もう、助けてもらえない。」

ルイは何も言えなかった。

マリーは顔を両手で覆った。

涙が指の間から流れる。

「私は。」

「手紙を。」

ルイは、彼女の肩を抱いた。

「今は、何も話さなくてよい。」

「違うのです。」

マリーは首を振った。

「話さなければ。」

「何を。」

マリーは泣きながら、ルイを見た。

「私は、兄へ助けを求める手紙を書きました。」

ルイの身体が僅かに強張った。

「送ったのか。」

「いいえ。」

マリーは即座に答えた。

「一通も送っていません。」

「本当に。」

「本当です。」

「何度も書きました。」

「軍隊を国境から遠ざけないでほしいと。」

「私たちを見捨てないでほしいと。」

「国外にも味方がいると示してほしいと。」

「ですが、送れませんでした。」

「あなたが反対していたから。」

「妹から兄への手紙で終わらないと分かっていたから。」

「それで。」

「調査委員会が、王妃の手紙も調べると決まった夜に。」

マリーは言葉を詰まらせた。

「全部、燃やしました。」

長い沈黙が流れた。

暖炉の中では、薪が小さな音を立てていた。

「なぜ。」

ルイが尋ねた。

怒鳴らなかった。

だが、その声には傷ついた響きがあった。

「なぜ、私に話さなかった。」

「怖かったのです。」

「送っていないのなら、罪にはならないと話したはずだ。」

「それを聞いたのは、燃やした後でした。」

マリーは俯いた。

「議会に見つかれば。」

「送らなかったことは、小さくしか扱われないと思いました。」

「王妃が外国軍を求める手紙を書いた。」

「新聞には、それだけが載ると思ったのです。」

ルイは否定できなかった。

自分の親書も。

外国軍を拒絶するために書いたにもかかわらず。

国王が外国へ手紙を送ったという事実だけで、内通の証拠に変えられた。

マリーが恐れたことには、理由があった。

それでも。

「私には話せた。」

ルイは言った。

「あなたに話せば。」

マリーの声が小さくなる。

「あなたは正直に議会へ話したでしょう。」

「マリー。」

「あなたは、私が外国の介入に賛成していることも隠さなかった。」

「嘘をつけない人です。」

「だから、話せませんでした。」

その言葉が、ルイの胸へ刺さった。

正直であろうとしたことが。

妻に、自分へ秘密を打ち明けられないと思わせていた。

「私は。」

ルイは言葉を探した。

「君を議会へ差し出したかったのではない。」

「分かっています。」

「国民へ嘘をつけば、後でもっと危険になると思った。」

「それも分かっています。」

「では。」

「分かっていても、怖かったのです。」

マリーは答えた。

ルイは、それ以上責めることができなかった。

二人とも恐怖から行動していた。

ルイは信頼を失うことを恐れ、すべてを公開しようとした。

マリーは言葉を歪められることを恐れ、送らなかった手紙まで燃やした。

「兄君からの手紙も燃やしたのか。」

ルイが尋ねる。

「政治に触れたものは。」

「軍を送るという約束はあったのか。」

「ありません。」

「兄は、すぐに動くことはできないと書いていました。」

「他国と足並みを揃える必要があると。」

「やはり。」

「あなたの言ったとおりでした。」

マリーは涙を拭った。

「ですが、最後に。」

「私と子どもたちを見捨てないと書いてくれました。」

「その手紙も。」

「燃やしました。」

「そうか。」

「今は、もうありません。」

マリーは胸元を押さえた。

「兄の最後の言葉だったのに。」

「最後になるとは思わなかった。」

「もう一度、手紙が来ると思っていた。」

「だから。」

声が崩れる。

「燃やさなければよかった。」

ルイは、マリーを抱き締めた。

「君が燃やしたから、兄君が亡くなったのではない。」

「分かっています。」

「送らなかったから、助けてもらえなかったのでもない。」

「それも。」

「兄君は、君が何も言わなくても心配していた。」

「最後まで。」

「それでも。」

マリーはルイの胸元へ顔を埋めた。

「私は、何も伝えられなかった。」

「助けてほしいとも。」

「ありがとうとも。」

「さようならとも。」

ルイは、彼女の背を撫で続けた。

⸻

しばらくして。

マリーは、政治と関係のない手紙を収めていた木箱を開けた。

その中には。

子どもたちの誕生日を祝う手紙。

家族の健康を尋ねる手紙。

母マリア・テレジアの思い出について書かれた手紙。

何気ない季節の挨拶が残っていた。

マリーは一通を取り出した。

数年前に届いたものだった。

『妹よ。』

『あなたがフランスで幸福に暮らしていることを願っています。』

短い言葉だった。

軍隊についても。

革命についても。

王権についても書かれていない。

ただ、兄が妹の幸福を願った手紙だった。

マリーは、それを胸へ抱き締めた。

「これだけは、残っています。」

「ああ。」

「調査委員会へ渡せと言われるでしょうか。」

「政治とは関係がない。」

ルイは答えた。

「誰にも渡さなくてよい。」

「本当に。」

「ああ。」

「これは、皇帝から王妃への外交文書ではない。」

「兄から妹への手紙だ。」

マリーは、小さく頷いた。

そして再び泣いた。

今度は、燃やさなかった手紙を抱いたまま。

⸻

翌日。

国民議会。

神聖ローマ皇帝レオポルト二世の死が、正式に報告された。

議長が立ち上がる。

「三月一日。」

「神聖ローマ皇帝レオポルト二世陛下が、ウィーンにおいて崩御されました。」

議場が静まり返った。

政治的には対立する相手だった。

ピルニッツ宣言を出した君主でもある。

だが同時に、ヨーロッパの一国を治める君主の死だった。

そして、フランス王妃の兄だった。

議長は、短い黙祷を求めた。

多くの議員が立ち上がる。

急進派の中には、立たない者もいた。

それでも、議場で歓声を上げる者はいなかった。

黙祷が終わる。

外務委員会から、新しい情勢について説明が行われた。

「レオポルト二世陛下の長男、フランツ大公が、ハプスブルク家の領土を継承されます。」

「ただし、神聖ローマ皇帝位については、選帝侯による選挙が必要です。」

「当面、オーストリアの対仏政策は、フランツ大公とウィーン宮廷によって決定されると考えられます。」

一人の穏健派議員が立ち上がった。

「皇帝が崩御された直後に、最後通告を送るべきではない。」

「新政権の方針を確認する時間を与えるべきだ。」

別の議員も頷く。

「喪に服している宮廷へ、期限付きの要求を突きつければ、フランスが弱みに乗じたと受け取られる。」

だが、ブリソーは険しい表情で報告書を見つめていた。

やがて立ち上がる。

「レオポルト二世の死を、政治的に利用すべきではない。」

「その点には同意します。」

穏健派の席から安堵する声が聞こえる。

「しかし。」

ブリソーは続けた。

「君主が一人亡くなったからといって、コブレンツの亡命者が消えたわけではない。」

「オーストリア軍が消えたわけでもない。」

「ピルニッツ宣言が撤回されたわけでもない。」

「むしろ、今後の方針が分からなくなった。」

「だからこそ待つべきだ。」

「いつまで。」

ブリソーは問い返した。

「新しい君主が方針を決めるまで。」

「皇帝選挙が終わるまで。」

「各国の宮廷が協議を終えるまで。」

「その間にも、亡命者は武器を集める。」

「我々も軍を整える時間を得られる。」

穏健派議員は答えた。

「外交の扉を閉じるべきではない。」

ブリソーは、すぐには反論しなかった。

レオポルト二世は、戦争を避けようとしていた。

フランス革命を支持していたわけではない。

それでも、亡命貴族の望むままに軍を動かすことは拒んでいた。

その慎重な相手がいなくなった。

次の君主が、父と同じ方針を取る保証はない。

若いフランツは。

革命をさらに強く恐れるかもしれない。

あるいは、フランス側の混乱を好機と見るかもしれない。

「二週間。」

ブリソーは言った。

「フランスから、正式な弔意を伝える。」

「同時に、亡命者の武装解除と、国境付近の軍事行動について、新しい君主の方針を尋ねる。」

「二週間以内に返答を求める。」

「二週間は短すぎる。」

「では三週間。」

「期限を付けること自体が、最後通告と受け取られる。」

議場は再び騒然となった。

皇帝の死は、戦争の危機を消さなかった。

ただ。

誰と交渉すればよいのかを、一時的に不明確にしただけだった。

⸻

同じ日。

テュイルリー宮殿。

外務大臣と軍務大臣が、ルイの前へ集まっていた。

机の上には、二通の文書が置かれている。

一通は、レオポルト二世への弔意を示す文書。

もう一通は、フランツ大公へ送る外交文書の草案だった。

外務大臣が説明する。

「弔意と外交上の要求を、一通の文書へまとめる案もございます。」

「分ける。」

ルイは即座に答えた。

「陛下。」

「兄を失った家族へ送る言葉と。」

「国家へ送る要求を、同じ紙へ書くべきではない。」

「まず弔意を伝える。」

「外交上の問題は別の文書にする。」

「承知いたしました。」

「期限は。」

「議会では、二週間から三週間という意見が出ております。」

「短すぎる。」

「ですが、返答を待つ間にも。」

「分かっている。」

ルイは草案を読んだ。

亡命者部隊の解散。

国境付近の軍事配置についての説明。

ピルニッツ宣言の意図。

フランスへ侵攻する意思の有無。

尋ねなければならないことは多い。

だが、父を失い。

領土を継承し。

皇帝選挙への準備もしなければならない青年へ。

すぐに答えろと迫ることが、平和へつながるのか。

「四週間。」

ルイは言った。

「正式な返答まで四週間待つ。」

軍務大臣が眉をひそめる。

「その間に、オーストリアが動員を進める可能性がございます。」

「我々も国境の守備を整える。」

「ただし、先に国境を越えない。」

「フランツ大公が、弔意を弱さと受け取った場合は。」

「礼節と弱さは違う。」

ルイは答えた。

「父親が亡くなった翌日に、戦争を選べと迫る国を、誰が信頼する。」

「議会は納得するでしょうか。」

「説得する。」

ルイは弔意文書へ目を落とした。

「マリーの名も加える。」

「王妃陛下は御署名されますか。」

「ああ。」

「今度は。」

ルイは僅かに言葉を詰まらせた。

「今度は、二人で同じ手紙を送る。」

⸻

その夜。

ルイとマリーは、レオポルト二世の死を悼む手紙へ並んで座っていた。

ルイが最初の文章を書く。

『ハプスブルク家及びオーストリアの民が受けた深い悲しみに、フランス国王として哀悼の意を表します。』

マリーは、その下へ自分の言葉を書いた。

『私は、兄の死をまだ受け入れることができません。』

筆が止まる。

涙が紙へ落ちそうになり、マリーは顔を上げた。

「続けられるか。」

ルイが尋ねる。

「ええ。」

マリーは再び書いた。

『兄が、最後まで私と子どもたちを案じてくれていたことを、私は忘れません。』

それは、燃やしてしまった手紙に書かれていた言葉だった。

原文はもう残っていない。

だが、マリーの記憶には残っていた。

『兄上へ、最後の別れを伝えることができなかったことを悔やんでいます。』

『どうか、父を失った御家族へ、私の悲しみをお伝えください。』

最後に。

ルイとマリーは並んで署名した。

今度の手紙は隠さない。

外務省へ記録する。

議会にも存在を知らせる。

だが、家族の悲しみまで新聞へ全文を載せることはしなかった。

ルイは、議会へ要旨だけを提出することにした。

マリーが兄へ別れを告げる言葉は。

政治のための文章ではなかった。

⸻

同じ頃。

ウィーン。

新たにハプスブルク家の領土を継承したフランツ大公は、父の執務室にいた。

机の上には、フランスから届いた文書が並んでいる。

ルイ十六世が以前送った親書。

国民議会からの照会。

国境付近の混乱についての報告。

フランス各地で、オーストリア軍侵攻の噂による暴動が起きているという情報。

そして。

コブレンツの亡命貴族から届いた、新たな救援要請。

「父上は。」

フランツが言った。

「最後まで戦争を避けようとしていた。」

側近が頷く。

「はい。」

「ピルニッツ宣言にも、全列強の協力という条件を加えられました。」

「フランスは、それをどう受け取った。」

「軍事的な威嚇と。」

「父上が戦争を避けようとしても。」

フランツは、フランス国民議会の記録を見た。

「彼らは、弱さと受け取ったのではないか。」

「フランス国内にも、戦争を望む者がおります。」

「ブリソーという議員を中心に。」

「亡命者は、今すぐ軍を動かせと言う。」

「フランス議会も、我々へ最後通告を出そうとしている。」

「双方が、オーストリアへ決断を迫っているのか。」

フランツは椅子へ深く腰掛けた。

父の死。

突然受け継いだ広大な領土。

迫る皇帝選挙。

フランス革命。

亡命貴族。

プロイセンとの関係。

決めなければならないことは多かった。

若い君主にとって。

フランスの革命家たちは、父が慎重に扱ってきた危険な相手だった。

自由。

平等。

身分特権の否定。

教会財産の国家管理。

王権の制限。

それらの思想が、自分の領土へ広がれば。

ハプスブルク家の統治も揺らぐ。

「国境の軍を。」

フランツが言った。

側近たちが身構える。

「撤退させない。」

「では、増派を。」

「直ちにフランスへ侵攻するつもりはない。」

「だが、配置を確認し、必要な補給を整えさせる。」

「フランス軍が国境へ近づいた場合に備える。」

「承知いたしました。」

「亡命者へは。」

「オーストリアが、彼らの望むままに戦争を始めることはないと伝えろ。」

「同時に。」

フランツは、ルイの親書を見た。

『私を守るという名目で、私の国を脅かさないでいただきたい。』

「フランス王家の安全に、我々が無関心ではないことも伝える。」

それは、父の方針と大きく異なる命令ではなかった。

まだ、侵攻命令ではない。

戦争を決めたわけでもない。

ただ。

国境の軍隊を撤退させず。

補給を整え。

必要ならば動けるようにする。

フランス側から見れば、それは動員の始まりにも見える。

⸻

翌朝。

ウィーンから新しい命令を受けた伝令が、国境へ向けて出発した。

フランス各地では。

オーストリア軍がすでに侵攻したという噂によって、農民が武装していた。

その時点では、まだ噂だった。

だが今。

オーストリア軍へ、補給を整える命令が送られた。

噂によってフランスが混乱し。

その混乱を警戒して、オーストリアが軍備を進める。

オーストリアの軍備を見て。

フランスは、噂が真実だったと考える。

そして、さらに軍備を進める。

レオポルト二世は。

すべての国が足並みを揃えるという条件を付け、戦争を先延ばしにしようとした。

だが。

その条件の意味を最もよく理解していた本人は、もういなかった。

マリーが助けを求めようとした兄も。

ルイが交渉しようとした慎重な皇帝も。

同じ日に失われた。

兄の死を知らせる鐘が鳴る中で。

フランスとオーストリアは。

互いを恐れ。

昨日よりも少しだけ、戦争へ近づいていた。

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