開門
第63話 「開かれた門」
一七九一年四月二十八日。
パリ。
テュイルリー宮殿。
夜明け前から、宮殿の中庭では馬車の準備が進められていた。
四頭の馬が繋がれ、御者が手綱と轡を確かめている。
車輪には新しい油が差され、扉の蝶番も念入りに点検された。
それは十日前、国王一家をサン=クルーへ運ぶはずだった馬車だった。
群衆に取り囲まれ、一歩も宮殿の外へ出ることができなかった馬車。
黒く磨かれた車体には、あの日に付けられた傷が残っていた。
扉の下には、何か硬い物で叩かれた跡。
窓枠の近くには、金具で引っかいたような細い線。
従者たちは傷を消そうとしたが、深く食い込んだ跡までは隠せなかった。
二階の窓から、マリー・アントワネットはその馬車を見下ろしていた。
一度目のサン=クルー事件以来、馬車の音を聞くだけで胸が苦しくなるようになっていた。
車輪が石畳を擦る音。
馬の蹄が地面を打つ音。
御者が鞭を確かめる音。
その一つひとつが、扉を叩いた群衆の怒声を思い出させる。
「お母様。」
背後から声を掛けられ、マリーは振り返った。
マリー=テレーズとルイ=シャルルが、エリザベートに付き添われて立っていた。
子どもたちは、今日は宮殿に残ることになっている。
マリーは二人の前へ膝をついた。
「お父様とお母様は、サン=クルーへ行ってきます。」
「今度は行けるのですか。」
マリー=テレーズが不安そうに尋ねる。
その問いには、十日前の記憶が含まれていた。
マリーは娘の頬へ触れた。
「議会が、行ってよいと決めました。」
「あの人たちは、また馬車を止めませんか。」
「国民衛兵が道を守ってくれます。」
そう答えたものの、自分自身がその言葉を信じ切れていなかった。
前回も国民衛兵はいた。
ラファイエットもいた。
それでも馬車は動かなかった。
「夕方には帰ってきますか。」
幼いルイ=シャルルが尋ねる。
「ええ。」
マリーは息子を抱き締めた。
「必ず帰ってきます。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で恐怖が膨らんだ。
必ず。
未来を知るルイでさえ、何が起こるのか分からないと言っている。
それなのに、自分は子どもたちへ帰還を約束している。
「二人のことは、私が守ります。」
エリザベートが静かに言った。
マリーは義妹を見つめた。
「お願いします。」
「ええ。」
エリザベートは、いつもの穏やかな表情で頷いた。
だが、その両手も固く握り締められていた。
不安を感じていない者など、王家の中には一人もいなかった。
⸻
国王の居室では、ルイが出発の準備を終えていた。
この日のルイは、華美な王衣を身に着けていなかった。
濃紺の上着。
白いシャツ。
簡素な外套。
王冠も、豪華な宝飾品もない。
それでも、その姿がフランス国王であることを隠すつもりはなかった。
秘密の出発ではない。
変装もしない。
目的地も。
経路も。
帰還時刻も。
すべて事前に公表されている。
机の上には、国民議会が可決した法令の写しが置かれていた。
国王の国内移動を認める条文。
長距離移動の事前通知を定める条文。
群衆による実力妨害を禁じる条文。
その下には、ルイ自身の署名がある。
法律は完成していた。
だが、紙に書かれた言葉が現実の群衆を動かせるかどうかは、まだ分からない。
窓の外から、太鼓の音が聞こえた。
国民衛兵の部隊が配置へ就く合図だった。
ルイの肩が跳ねた。
一瞬、目の前が革命広場へ変わる。
処刑台。
群衆。
自分の声を消すために打ち鳴らされる太鼓。
息が詰まり、指先から血の気が引いた。
ルイは机の端を掴んだ。
「これは処刑の太鼓ではない。」
小さな声で自分へ言い聞かせる。
「道を守る兵士の太鼓だ。」
分かっている。
それでも身体は震えた。
記憶は理屈に従ってくれない。
その時、扉が開いた。
入ってきたマリーもまた、青ざめていた。
「大丈夫ですか。」
マリーが尋ねる。
ルイは苦笑した。
「大丈夫ではない。」
「私もです。」
二人は、しばらく互いの顔を見つめた。
以前なら、マリーは自分の恐怖を隠してルイを励ましていただろう。
しかし、今は隠さなかった。
ルイもまた、国王らしく振る舞うために震えを否定しなかった。
「やめることもできる。」
ルイは言った。
「今なら、体調が優れないと発表することもできる。」
「そうすれば、子どもたちと宮殿に残れる。」
「あなたは行くのでしょう。」
「ああ。」
「では、私も行きます。」
マリーはルイの前へ歩み寄った。
「あなたが一人で馬車に乗る姿を、この窓から見送る方が怖いのです。」
ルイは彼女の手を取った。
冷たい。
マリーの指も、わずかに震えている。
「帰ってこよう。」
ルイは言った。
「何があっても。」
「ええ。」
「子どもたちとの約束だ。」
「守りましょう。」
二人は手を繋いだまま、部屋を出た。
⸻
テュイルリー宮殿の外には、すでに数千人の市民が集まっていた。
職人。
商人。
日雇い労働者。
市場の女たち。
新聞記者。
政治クラブから派遣された者たち。
ただ騒ぎを見物するために来た者もいる。
国王の出発を支持する者ばかりではなかった。
むしろ、国王を疑う者の方が多かった。
「本当にサン=クルーへ行くだけなのか。」
「途中で道を変えるかもしれない。」
「ブイエの軍隊と合流するのではないか。」
「王妃がオーストリアへ逃げるつもりだ。」
「議員が同行するのだから、逃げられないだろう。」
「議員まで買収されていたらどうする。」
疑いは疑いを呼び、どれほど説明しても完全には消えなかった。
広場の中央には、国民衛兵が二列に並んでいた。
銃は肩に担いでいる。
銃剣は鞘へ収めたまま。
兵士たちは群衆へ銃口を向けず、馬車が通るための細い道を確保していた。
部隊の前にはラファイエットが立っている。
その手には、国民議会が可決した法令の写しが握られていた。
「市民諸君。」
ラファイエットが声を上げた。
「国王及び王妃は、本日、サン=クルーへ向かう。」
「行程は国民議会へ通知され、議会代表者四名が同行する。」
「国王夫妻は本日夕刻までにパリへ戻る。」
群衆から野次が飛ぶ。
「戻らなかったらどうする。」
「国王が国境へ向かったら。」
ラファイエットは法令を掲げた。
「国王が国外へ出た場合、議会は帰国を命じる。」
「国王が定められた期限までに戻らなければ、王位を放棄したものとみなされる。」
「また、国王が軍隊を国民へ向けた場合も、王位を失う。」
「これは国王自身が署名した法律である。」
「署名など信用できるか。」
一人の男が叫んだ。
「国王の言葉に騙されるな。」
別の市民が言い返す。
「信用できないから、議員を一緒に行かせるんだろう。」
「議員も王党派かもしれない。」
「四人全員がか。」
「王妃なら、それくらい買収する。」
マリーへの疑いが口にされた瞬間、周囲から賛同する声が上がった。
ラファイエットは表情を変えずに続けた。
「諸君には、国王を批判する権利がある。」
「この場で抗議する権利もある。」
「新聞に意見を書くことも、議会へ請願書を提出することもできる。」
「だが、馬車を実力で止める権利はない。」
「道を塞ぎ続ける者は、国王への反逆ではなく、議会が可決した法律への違反として扱われる。」
その言葉に、群衆の一部がざわめいた。
国王の命令ならば、拒むことに革命的な意味を見いだすこともできた。
しかし国民議会が可決した法律を拒めば、自分たちが選んだ代表者の決定まで否定することになる。
それでも、十数人の男たちは道から動かなかった。
彼らは腕を組み、石畳の上へ座り込んでいる。
「国王が宮殿へ戻るまで、ここを動かない。」
「いや、国王が出なければ戻る必要もない。」
「俺たちが、また逃亡を止めるのだ。」
ラファイエットは兵士へ命じた。
「銃を使うな。」
「一人ずつ立たせ、道の外へ移せ。」
国民衛兵が男たちへ近づく。
しかし、兵士の一人が足を止めた。
前回のサン=クルー事件で、群衆とともに馬車の通行を拒んだ兵士だった。
「将軍。」
「何だ。」
「本当に、この命令へ従わなければならないのですか。」
「そうだ。」
「もし国王が逃亡したなら、我々は国民を裏切ることになります。」
ラファイエットは兵士を睨みつけなかった。
「君が国王を信用していないことは理解する。」
「私も、言葉だけで信用しろとは言わない。」
「だが、今日は議員が同行する。」
「経路も公開されている。」
「帰還時刻も決められている。」
「国王が約束を破った時には、その時こそ法律に従って止めればよい。」
「約束を破る前から、罪人として扱うのですか。」
兵士は答えられなかった。
ラファイエットは続けた。
「我々は、未来の罪を裁くために武器を持っているのではない。」
「今ある法律を守るために持っている。」
兵士はゆっくりと敬礼した。
「分かりました。」
国民衛兵は座り込んでいた男たちの腕を取り、立ち上がらせ始めた。
激しく抵抗する者もいた。
「離せ。」
「王の犬め。」
「国民を裏切るのか。」
だが、兵士たちは殴らなかった。
銃床も使わなかった。
腕と肩を押さえ、道の端まで連れていく。
その様子を見ていた群衆の中から、一人の家具職人が声を上げた。
「もういい。」
「道を開けろ。」
座り込んでいた男が振り返る。
「お前は国王を信じるのか。」
「信じていない。」
家具職人は即座に答えた。
「だったら、なぜ。」
「国王を信じなくても、帰ってくるかどうかは見られる。」
「今日帰らなければ、その時に国王を嘘つきと呼べばいい。」
「だが、最初から行かせなければ、国王が約束を守るかどうかも分からない。」
近くにいた市場の女も頷いた。
「国王が逃げたら、議会に責任を取らせる。」
「でも、今ここで馬車を壊して子どもでも怪我をしたら、責任を取るのは誰だい。」
「今日は子どもたちは乗っていない。」
「だから壊していいってことにはならないだろう。」
人々の間で言い争いが続いた。
それでも、少しずつ道が広がっていった。
国王を支持したからではない。
王妃への疑いが消えたからでもない。
法律に従う機会すら与えず、最初から力で阻止することに疑問を抱く者が増えたからだった。
⸻
午前九時。
宮殿の扉が開いた。
ルイとマリーが姿を現す。
群衆の声が一瞬だけ静まった。
それは歓迎の静寂ではない。
何をするのか見定めるための沈黙だった。
二人は階段を下りた。
ルイの膝は震えていた。
一段下りるたび、処刑台の階段を上った時の感覚が蘇る。
目の前には馬車。
その向こうには群衆。
あの日と同じ構図だった。
逃げたい。
部屋へ戻りたい。
扉を閉じ、誰にも会わずにいたい。
だが、隣を歩くマリーの手も震えている。
自分だけが恐怖に耐えているのではない。
ルイは彼女の手を握り直した。
「足元に気をつけて。」
「あなたこそ。」
短い言葉を交わし、二人は馬車へ乗り込んだ。
扉が閉じられる。
外の音が少し遠くなった。
しかし、怒声までは遮れなかった。
「逃亡するな。」
「今日中に戻れ。」
「オーストリア女を行かせるな。」
「裏切れば王位を失うぞ。」
マリーの肩が震えた。
ルイは向かいの席から彼女の隣へ移った。
やがて御者が合図を受け、馬車が動き始める。
車輪が石畳の上を進む。
ほんのわずかな距離。
それだけで、群衆の声が一段と大きくなった。
前回、馬車はここで止められた。
今回は、一歩進んだ。
二歩。
三歩。
国民衛兵が作った細い通路を、馬車はゆっくりと進んでいく。
窓の向こうには、数え切れないほどの顔が並んでいる。
怒っている者。
疑っている者。
怯えている者。
面白がっている者。
誰もが、手を伸ばせば届きそうな距離にいた。
突然、何かが馬車の扉へ当たった。
乾いた音が車内へ響く。
小さな石だった。
大きな損傷はない。
しかしマリーは激しく身を震わせた。
「いや……。」
呼吸が速くなる。
視線が定まらず、両腕で身体を抱き締めた。
「扉が。」
「マリー。」
「また開けられる。」
「誰かが入ってくる。」
「子どもたちが。」
「子どもたちは宮殿にいる。」
ルイは彼女の両手を取った。
「私を見てくれ。」
マリーは必死に顔を上げようとするが、窓の外の群衆へ視線が引かれてしまう。
「外を見なくていい。」
「私だけを見てくれ。」
「息を吸うんだ。」
ルイ自身も、まともに呼吸できているわけではなかった。
それでも、以前マリーが自分へしてくれたように、ゆっくりと言葉を掛けた。
「一度吸って。」
「少し止める。」
「それから、ゆっくり吐く。」
馬車の速度が落ちた。
御者が王妃の異変に気づき、停止しようとしている。
ルイは窓を少し開けた。
「止めるな。」
御者が振り返る。
「ですが、陛下。」
「止めれば囲まれる。」
「速度を少し落とすだけでいい。」
「承知いたしました。」
馬車は止まらなかった。
歩くより少し速い程度で、ゆっくりと進み続ける。
マリーはルイの手を握り、何度も呼吸を繰り返した。
「もうすぐ門を出る。」
ルイが言った。
「あと少しだ。」
「本当に。」
「ああ。」
「道は開いている。」
その時、馬車の前方で騒ぎが起きた。
一人の男が国民衛兵の列を抜け、馬の手綱へ飛びつこうとした。
「止まれ。」
「国王を行かせるな。」
先頭の馬が驚き、前脚を上げる。
御者が慌てて手綱を引いた。
馬車が大きく揺れた。
マリーが声を上げ、ルイの腕へしがみつく。
国民衛兵が駆け寄ろうとした。
しかし、それより早く、群衆の中にいた数人の市民が男を取り押さえた。
「何をしている。」
「馬が暴れたら死人が出るぞ。」
「離せ。」
男は抵抗した。
「国王が逃げる。」
「行き先はサン=クルーだ。」
「夕方まで待てないのか。」
「お前たちは王党派か。」
家具職人が男の腕を押さえながら怒鳴った。
「違う。」
「俺は王のためにお前を止めたんじゃない。」
「ここにいる子どもや女たちが、馬に踏まれないように止めたんだ。」
国民衛兵が到着し、男を引き取った。
殴る者はいなかった。
その場で罰を与える者もいなかった。
男は法律に従って拘束され、群衆の外へ連れ出された。
馬を落ち着かせた御者が、再び馬車を進める。
やがて前方の景色が開けた。
テュイルリー宮殿の門を越えたのだ。
「出た。」
ルイが小さく呟いた。
マリーは恐る恐る窓の外を見た。
宮殿の門が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
馬車は動いている。
群衆も国民衛兵も、後ろから追いかけてはこない。
沿道にはまだ大勢の人がいる。
それでも、誰も馬車を止めていなかった。
ラファイエットは通り過ぎる馬車へ敬礼した。
「門が開きましたな。」
隣にいた議員が言った。
ラファイエットは首を横に振った。
「門は最初から開いていました。」
「閉じていたのは、人々の恐怖です。」
「それが開いたと。」
「いいえ。」
ラファイエットは遠ざかる馬車を見つめた。
「恐怖は残っています。」
「ただ今日は、恐怖より法律に従うことを選んだのです。」
⸻
パリを離れるにつれ、沿道の人影は減っていった。
石造りの建物が途切れ、畑や林が見える。
春の風が木々の葉を揺らしていた。
馬車の窓から差し込む光は柔らかかった。
マリーの呼吸は、少しずつ落ち着いていた。
それでも、ルイの手を離そうとはしなかった。
「ごめんなさい。」
マリーが言った。
「何が。」
「私は、あなたを支えるつもりで来ました。」
「それなのに、私の方が取り乱してしまいました。」
「今まで、何度も私を助けてくれた。」
ルイは答えた。
「今日は私の番だっただけだ。」
「あなたも怖かったのでしょう。」
「ああ。」
ルイは隠さなかった。
「今も怖い。」
「では、どうして落ち着いていられたのですか。」
「落ち着いてなどいない。」
ルイは自分の手を見せた。
マリーの手を包んでいる指が、まだ震えていた。
「君を落ち着かせようとしている間だけ、自分の恐怖を考えずに済んだ。」
マリーは、その手を両手で包んだ。
「なら、帰りは私があなたを支えます。」
「頼む。」
二人は、ようやく小さく笑った。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、互いの恐怖を隠す必要はなくなっていた。
⸻
昼前。
国王夫妻の馬車は、予定どおりサン=クルーへ到着した。
宮殿の入口では、国民議会から同行した四人の代表者が先に降り、周囲を確認した。
隠された軍隊はない。
亡命貴族もいない。
国外からの使者も待っていない。
集められていたのは、最小限の従者と、ミサを執り行う一人の老神官だけだった。
老神官は聖職者民事基本法への宣誓を拒んでいた。
そのため、教区の公職と国家からの俸給を失っている。
現在は信徒の家を巡り、求められた時だけ私的な祈りを捧げていた。
「国王陛下。」
神官は深く頭を下げた。
「お越しいただけるとは思っておりませんでした。」
「私も、ここまで来られるか分からなかった。」
ルイは正直に答えた。
神官はマリーへも一礼した。
王妃の顔色が悪いことに気づいたが、理由を尋ねることはしなかった。
小さな礼拝室には、豪華な飾りはなかった。
祭壇。
十字架。
数本の蝋燭。
集まったのは国王夫妻、従者、議会代表者、そして数名の国民衛兵だけだった。
ミサが始まる。
老神官は国王の権威が回復するよう祈らなかった。
革命が打ち倒されるよう求めることもしなかった。
彼が祈ったのは、フランスの平穏だった。
宣誓した神官と、拒否した神官。
革命を支持する者と、恐れる者。
国王を信じる者と、疑う者。
互いを敵と呼び始めた、すべてのフランス人のために祈った。
ミサを終えた神官は、ルイへ向き直った。
「陛下。」
「私は宣誓を拒みました。」
「それによって、公の教区を失ったことは受け入れます。」
「ですが、私はフランスを憎んでいるわけではありません。」
「国家に反乱を起こしたいわけでもありません。」
「ならば、なぜ宣誓を拒んだ。」
同行した議員の一人が尋ねた。
神官はしばらく考えた。
「国家に従うという言葉だけなら、誓うこともできたでしょう。」
「私は税を納めます。」
「法律にも従います。」
「暴力を扇動するつもりもありません。」
「しかし、司教の選び方や教会の組織まで、信仰を異にする者を含む選挙で決めることを、神の前で正しいと誓うことはできませんでした。」
「国家と信仰が衝突した時、教皇を選んだということか。」
「私の良心を選びました。」
議員は難しい顔をした。
「その良心が、国家の分裂を生んでいます。」
「分かっています。」
神官は目を伏せた。
「だから苦しいのです。」
「自分だけが正しいと思っているのなら、苦しみはしません。」
ルイは静かに尋ねた。
「宣誓神官を偽りの神官と呼ぶか。」
「呼びません。」
「彼らもまた、自らの良心によって宣誓したのでしょう。」
「では、彼らのミサを受ける信徒を責めるか。」
「責めません。」
「ただ、私のミサを求める者まで罪人としないでいただきたい。」
ルイは頷いた。
「私は、信仰の正しさを決めることはできない。」
「だが、暴力を使わずに信仰する場所を守ることならできる。」
「国家にできるのは、そこまでなのかもしれない。」
神官は深く頭を下げた。
議会代表者たちは、そのやり取りを記録した。
国王がサン=クルーで反革命の軍議を開いたという事実はない。
宣誓拒否神官が武装蜂起を呼びかけた事実もない。
そこにあったのは、数人が静かに祈った小さなミサだけだった。
⸻
午後。
ルイとマリーは、予定された時刻にサン=クルーを出発した。
帰りの馬車の中で、マリーは何度も時計を確かめた。
「間に合いますか。」
「このままなら、予定より少し早く着く。」
「遅れない方がよいですね。」
「ああ。」
「一分遅れただけでも、逃げたと叫ぶ者がいるかもしれない。」
往路で慎重に進んだため、帰還予定には余裕を持たせてあった。
御者も馬を急がせすぎず、一定の速度を保った。
パリへ近づくと、再び沿道に人々が増えてきた。
朝に国王を見送った者たちが、同じ場所で帰りを待っていた。
「馬車だ。」
「戻ってきた。」
「国王が帰ってきたぞ。」
声が広がっていく。
歓声ではなかった。
だが、朝のような怒号でもなかった。
人々は馬車を見つめていた。
約束どおり戻ってきたのかを確かめるために。
朝、道を塞いでいた男の一人も、群衆の中に立っていた。
「本当に戻ったな。」
隣の家具職人が答える。
「言っただろう。」
「帰ってくるかどうかは、行かせなければ分からない。」
「一度帰ってきただけだ。」
「そうだな。」
家具職人は認めた。
「一度だけだ。」
「でも、約束を一度守ったという事実は残る。」
市場の女が馬車へ向かって叫んだ。
「次も帰ってきな。」
マリーはその声を聞き、窓の外を見た。
朝に浴びせられた言葉とは違う。
愛情に満ちた声ではなかった。
信頼を示す言葉でもなかった。
それでも、「二度と帰ってくるな」ではない。
マリーは窓を少し開け、静かに頭を下げた。
その姿を見た市場の女は、驚いたように目を丸くした。
馬車は止まらず、テュイルリー宮殿へ向かった。
宮殿前の時計が帰還予定時刻を告げるより、わずかに早く、馬車は門をくぐった。
⸻
中庭では、マリー=テレーズとルイ=シャルルが待っていた。
馬車の扉が開く。
マリーが降りるより先に、子どもたちが駆け寄ってきた。
「お母様。」
「お父様。」
マリーは二人を強く抱き締めた。
「ただいま。」
声が震え、涙が溢れた。
「お約束どおり、帰ってきたでしょう。」
「はい。」
マリー=テレーズも母親へしがみついた。
ルイ=シャルルは、母と姉に挟まれながら笑っている。
ルイは、その光景を馬車の横で見つめていた。
処刑台の記憶。
牢獄の記憶。
家族と引き離された記憶。
それらは消えていない。
しかし今日は、誰も引き離されなかった。
家族は同じ宮殿へ戻ってきた。
マリーが顔を上げ、ルイへ尋ねた。
「未来は変わったのでしょうか。」
ルイはすぐに答えなかった。
サン=クルーへ行き、戻ってきた。
ただそれだけで、処刑を避けられるとは思えない。
国民の疑いも消えていない。
教会の分裂も続いている。
亡命貴族も国外にいる。
財政も、食糧も、何一つ完全には解決していない。
それでも、以前の記憶とは違う一日を生きた。
「分からない。」
ルイは答えた。
「だが今日は、私が覚えている日とは違った。」
マリーは涙を拭った。
「ええ。」
「今日は、処刑台へ近づいた日ではありません。」
「家族のところへ帰ってきた日です。」
ルイは頷き、妻と子どもたちを抱き寄せた。
その日の夕方、パリでは号外が配られた。
『国王夫妻、予定どおりサン=クルーより帰還。』
急進派の新聞は、すべてが国王による演出だと批判した。
王党派の新聞は、パリ市民が国王へ忠誠を示したと誇張した。
どちらも完全な事実ではなかった。
市民は国王へ忠誠を誓ってはいない。
疑いを捨ててもいない。
ただ、国王が約束を守るかどうか確かめるために、一度だけ道を開けた。
そして国王は、約束した時間に帰ってきた。
国民が王を信じたわけではない。
王が国民を恐れなくなったわけでもない。
それでもこの日、馬車は銃剣によって作られた道ではなく、法律によって開かれた道を通った。
その道が次の日にも開いている保証はなかった。
だからこそ、信頼は一度の宣言ではなく、何度も帰ってくることによって築かなければならなかった。
テュイルリー宮殿の門は、再び閉じられた。
だがそれは、国王一家を閉じ込めるための門ではなかった。
外へ出た者が、約束どおり帰ることのできる門へと、ほんの少しだけ変わり始めていた。




