自由の境界
第62話 「自由の境界」
一七九一年四月下旬。
パリ。
国民議会。
サン=クルー事件を受けて設置された特別委員会は、連日、激しい議論を続けていた。
検討されているのは、国王一家がサン=クルーへ行けるかどうかという、一度限りの問題ではない。
国王とは何者なのか。
国民の一人なのか。
国家の機関なのか。
自由を保障されるべき存在なのか。
それとも、国家の安全のために行動を制限されるべき存在なのか。
これまで曖昧なまま残されてきた問題が、一台の馬車を群衆が取り囲んだことによって、一気に議会の前へ突きつけられていた。
委員会の机には、各方面から寄せられた意見書が積み上げられている。
パリ市。
国民衛兵。
司法官。
聖職者。
地方議会。
そしてテュイルリー宮殿から届けられた、国王自身の意見書。
委員長を務める法律家が、疲れた顔で一枚の書類を持ち上げた。
表紙には、簡潔な題名が記されていた。
『国王及び王族の移動、警護並びに私的信仰の保障に関する法案』
「これより、委員会が作成した法案を国民議会へ提出します。」
議場のざわめきが、少しずつ収まった。
「第一条。」
委員長が読み上げる。
「国王及び王族は、法律に定められた制限を除き、フランス王国内を移動する自由を有する。」
たちまち、急進派の席から声が上がった。
「それでは逃亡を認めることになる。」
「国王が軍隊の駐屯地へ行けばどうする。」
「国境へ向かっていると判明してからでは遅い。」
委員長が木槌を打つ。
「静粛に。」
「第二条。」
「国王がパリ周辺を離れて長距離の移動を行う場合、その目的地、経路、出発日、帰還予定日を、担当大臣の副署を付した上で、事前に国民議会へ通知しなければならない。」
「第三条。」
「国民議会は、国家の安全に重大な懸念があると認めた場合、複数の議会代表者を同行させることができる。」
今度は王党派の議員が立ち上がった。
「国王陛下の旅行へ、議員が監視役として同行するのですか。」
「それでは自由ではありません。」
「名前を変えただけの幽閉ではありませんか。」
改革派の議員が反論する。
「国王には、軍隊を指揮し、大臣を任命し、外交を担う権限があります。」
「一人の商人がリヨンへ行くことと、国王が国境の要塞へ向かうことを同じに扱うことはできません。」
「強大な権限を持つ者には、それに応じた制限が必要です。」
「国王を犯罪者のように扱うのか。」
「犯罪者だから監視するのではない。」
「国王だから、その行動が国家全体に影響するのです。」
議場のあちこちで怒声が飛び交った。
サン=クルー事件では、群衆が国王の馬車を止めた。
だが今度は、国王の自由をどこまで制限するかを巡り、議会そのものが二つに割れようとしていた。
委員長は再び木槌を打った。
「第四条。」
「国王及び王族による、法律に従った移動を、武力、暴力、脅迫その他の実力を用いて妨害してはならない。」
「違反者は、一般の交通及び公務を妨害した者として法に従い処罰される。」
傍聴席から不満の声が漏れた。
「国民の抗議を犯罪にするのか。」
「国王に意見することも許されないのか。」
委員長は、その声が聞こえたかのように続けた。
「第五条。」
「国民は、国王及び公職者に対し、請願、言論、印刷物並びに平穏な集会によって意見を表明する権利を有する。」
「ただし、その権利は、馬車を包囲し、扉を破壊し、生命を脅かし、又は法に基づく公務を実力で停止させる権利を含まない。」
一人の若い議員が立ち上がった。
「つまり、国民は声を上げてもよいが、道を塞いではならないということですか。」
「その通りです。」
「しかし、国王が国民の声を聞かなかった場合はどうするのです。」
「請願を議会へ提出してください。」
「議会も聞かなかったなら。」
「選挙によって代表者を替えることができます。」
「選挙権を持たない貧しい市民は。」
その問いに、議場がざわついた。
現行の選挙制度では、すべての成人男性に投票権が認められているわけではない。
一定以上の税を納める「能動市民」だけが選挙に参加できる。
貧しい労働者や日雇い労働者の多くは、国民と呼ばれながら、議員を選ぶ権利を持っていなかった。
委員長はすぐに答えられなかった。
すると別の議員が口を開いた。
「それは選挙制度として、別に議論すべき問題です。」
若い議員は首を横に振った。
「別ではありません。」
「合法的な手段を持たない者へ、実力に訴えるなと言うのであれば。」
「まず、彼らが合法的に声を届けられる道を用意しなければなりません。」
議場の空気が変わった。
国王の自由を定めるはずの議論が、いつの間にか貧しい市民の政治参加へと広がろうとしていた。
委員長は、その問題を記録へ残すことを約束し、法案の説明を続けた。
「第六条。」
「国王及び王族は、私的な信仰において、良心の自由を有する。」
その一文が読み上げられた瞬間、聖職者席が大きくざわめいた。
「宣誓拒否神官を宮殿へ招くことを認めるのか。」
「教皇の命令を国家の法律より上に置く者たちだぞ。」
委員長は声を強めた。
「宣誓を拒否した神官は、国家から俸給を受け、公の教区を管理する権利を失います。」
「しかし、反乱、暴力及び犯罪を扇動した事実がない限り、私人として祈りを捧げ、求める者へ私的な宗教上の助言を与えることまでは禁じません。」
宣誓神官の一人が立ち上がった。
「委員長。」
「私的なミサと反革命の集会を、どのように区別するのですか。」
「十人で祈れば私的で、百人なら公的なのですか。」
「説教の途中で改革への批判を述べたなら、それは信仰ですか、政治運動ですか。」
法律家たちは互いに顔を見合わせた。
明確な境界を引くことは難しかった。
「人数だけで判断することはできません。」
委員長が答える。
「武器を集めたか。」
「暴動を呼びかけたか。」
「納税や法律への不服従を組織的に扇動したか。」
「具体的な行為に基づいて判断すべきです。」
「では、神官が『この法律は神の教えに反する』と説教することは許されるのですか。」
「意見として述べるだけならば。」
議場の各所から驚きの声が上がった。
「国家の法律を否定しているではないか。」
委員長は表情を変えなかった。
「法律を批判することと、法律へ暴力で抵抗することは同じではありません。」
「もし法律への批判それ自体を犯罪とするなら、国民議会を批判した新聞も、国王を批判した演説も、すべて処罰しなければならなくなります。」
「我々が守ろうとしている自由は、自分たちが賛成できる言葉だけを守るものではありません。」
議場は静かになった。
その言葉に納得した者ばかりではない。
だが、簡単に反論できる者もいなかった。
⸻
議長が宣言した。
「続いて、国王の地位に関する条項を審議します。」
委員長の声が、それまでより重くなる。
「第七条。」
「国王が軍隊の先頭に立ち、その兵力を国民又は国民議会へ向けた場合、国王は自ら王位を放棄したものとみなす。」
王党派の議席から、激しい怒号が上がった。
「何という条文だ。」
「国王の廃位を法律へ書き込むつもりか。」
「王位は神と血統によって受け継がれるものだ。」
急進派からは反対方向の声が上がる。
「当然の条項だ。」
「国民へ武器を向けた者が、国民の王であり続けられるはずがない。」
委員長は読み上げる。
「第八条。」
「国王が王国外へ出た場合、国民議会は国王へ帰国を求めることができる。」
「国王が正当な通知を受けた後、二か月以内に帰国しない場合、自ら王位を放棄したものとみなす。」
今度は、急進派の議員が不満を示した。
「二か月も待つのですか。」
「国王が国外へ逃げた瞬間に、王位を失ったものとすべきです。」
「二か月あれば、外国の王侯と交渉し、軍隊を集めることができる。」
王党派議員は、逆に机を叩いた。
「そもそも国王を廃位する権限など、議会にはない。」
「これは立憲君主制を作るための法案ではない。」
「共和政へ至る道を用意する法案だ。」
両側から怒号が上がる。
議長の木槌の音すら聞こえなくなった。
やがて一人の老議員が、静かに立ち上がった。
「諸君。」
大声ではなかった。
それでも、その落ち着いた声に気づいた者から、少しずつ口を閉じていった。
「この条項は、国王を疑うために必要なのではない。」
「国王を宮殿へ閉じ込めないために必要なのだ。」
「どういう意味ですか。」
若い議員が尋ねる。
「国王が国境を越えれば、すぐにすべてが終わると定めたなら。」
「国王が一歩でもパリから離れるたび、民衆は逃亡を疑う。」
「軍隊の駐屯地へ近づくたび、反革命を恐れる。」
「その恐怖から、人々は国王を宮殿へ閉じ込めようとするだろう。」
老議員は、法案を指した。
「だが、出国した場合の手続を先に定めておけばよい。」
「議会が帰国を求める。」
「期限を示す。」
「それでも戻らなければ王位を失う。」
「人を檻へ入れて逃亡を防ぐのではない。」
「逃亡を選んだ場合の責任を、法によって明確にするのだ。」
「国王を信じる必要はない。」
「国王が約束を破った場合にも、国家が動き続ける仕組みを作ればよい。」
その言葉に、改革派の席から頷く者が現れた。
王党派は、なおも不満を抱いている。
急進派も、二か月という期限を長すぎると考えていた。
それでも、議論は感情的な非難から、具体的な日数と手続へ移り始めた。
二か月か。
一か月か。
国外へ出た時点で国王の権限を一時停止するのか。
その間、誰が行政を担うのか。
大臣が職務を続けるのか。
王位放棄と判断された場合、王太子が未成年なら誰が摂政となるのか。
決めなければならないことは、次々に現れた。
⸻
議論が一段落すると、議長は一通の書簡を掲げた。
「ここで、国王陛下から届けられた意見書を朗読します。」
議場が静まり返った。
この日、ルイは議場へ来ていなかった。
国王が出席している前で議員が自由に国王の権限を論じれば、王の威光が議論へ影響を与える。
そう考え、自ら欠席を選び、書面だけを届けていた。
書簡は担当大臣によって読み上げられた。
「国民議会の諸君。」
「私は、国王の自由について審議を求めた。」
「しかし、私個人を信じることを議会へ求めたのではない。」
「人の善意は、法律の代わりにはならない。」
議員たちは黙って聞いていた。
「善良な国王だけが正しく扱える制度は、良い制度ではない。」
「同じように、賢明な議会だけが正しく扱える制度も、良い制度とは言えない。」
「国王が誤ることを想定せよ。」
「議会が誤ることも想定せよ。」
「群衆が恐怖に駆られることも想定せよ。」
「そのいずれが誤った時にも、国が直ちに崩れない仕組みを作ってほしい。」
議場の一角で、法律家が静かに頷いた。
「私は、国王が軍隊を国民へ向けた場合に王位を失うという条項を受け入れる。」
王党派の議員たちが驚いて顔を上げた。
「国王が国民を敵とみなし、武力によって議会を屈服させようとしたなら、その者はもはや国民の王ではない。」
「また、国王が国外へ出た後、議会からの正式な帰国要請に従わない場合、王位を放棄したものとみなす条項も受け入れる。」
「ただし、国王が国外へ出たという事実だけで、直ちにその家族を罪人として扱ってはならない。」
その一文を聞き、王族全体への処罰を求めていた一部の急進派が顔をしかめた。
「罪は血によって受け継がれない。」
「夫の行為を妻の罪としてはならない。」
「父の行為を子の罪としてはならない。」
テュイルリー宮殿で書簡を作成していた時、ルイの隣にはマリーがいた。
家族が牢獄へ入れられる未来を知る彼女のために、ルイが加えた一文だった。
「最後に、私は改めて宣言する。」
「憲法が完成するまで、私は国外へ出ない。」
「外国軍へ救援を求めない。」
「軍隊の駐屯地を訪れる場合には、事前に理由と日程を議会へ示す。」
「それでも私を信じられない者は、信じなくてよい。」
「私を信じなくても守られる法を作ることこそ、諸君の役割である。」
大臣が書簡を閉じた。
議場には、しばらく沈黙が続いた。
最初に拍手をしたのは、改革派の若い議員だった。
やがて穏健派が続いた。
王党派の中にも、戸惑いながら手を叩く者がいた。
急進派の多くは腕を組んだままだった。
彼らは国王の言葉を信用していない。
だが、ルイは信用を求めていなかった。
約束が破られることまで想定し、その後の手続を法律へ書こうとしていた。
それは彼らにとっても、簡単には拒絶できない提案だった。
⸻
午後。
議会は条文ごとの採決へ入った。
国王の国内移動の自由。
可決。
長距離移動の事前通知。
可決。
議会代表者の同行。
「監視」という表現を避け、「国家と国王の連絡を担う代表者」と修正した上で可決。
群衆による実力妨害の禁止。
請願及び平穏な集会の権利を併記して可決。
国王と王族の私的信仰の自由。
宣誓拒否神官が国家の公職と俸給を求めないこと、暴力や反乱を扇動しないことを条件に可決。
国王が国民へ軍隊を向けた場合の王位放棄。
王党派の強い反対を受けながらも可決。
国王が国外へ出た後、議会の帰国要請へ二か月以内に応じなかった場合の王位放棄。
長い議論の末、僅差で可決された。
最後に、国民衛兵の役割が議題となった。
ラファイエットが証言台へ立つ。
「国民衛兵は、国王個人の兵士ではありません。」
「しかし、群衆の兵士でもありません。」
「市民と憲法を守るための軍隊です。」
一人の議員が尋ねた。
「もし、再び群衆が国王の馬車を止めたなら、発砲するのですか。」
議場が静まり返る。
ラファイエットは慎重に答えた。
「まず対話します。」
「次に、進路を塞がないよう警告します。」
「それでも退かない場合は、武器を使わず押し分け、道を確保します。」
「暴力を振るった者だけを拘束します。」
「銃を使用するのは、国王、王族、市民又は兵士の生命に、明白で差し迫った危険が生じた場合に限ります。」
「では、群衆が立っているだけなら。」
「発砲しません。」
「兵士が命令に従わなかったなら。」
ラファイエットの表情が厳しくなる。
「処分します。」
「ただし、兵士には明らかに違法な命令を拒む権利も必要です。」
「命令に従うことと、考えることをやめることは同じではありません。」
別の議員が問う。
「誰が、命令が違法かどうかを決めるのです。」
「そこが最も難しい問題です。」
ラファイエットは率直に答えた。
「兵士一人ひとりが政治的な好みで命令を選べば、軍隊は崩壊します。」
「一方で、どのような命令にも従えと定めれば、軍隊は虐殺の道具になります。」
「ゆえに、武力を用いる条件を、指揮官の感情ではなく法律で細かく定めなければなりません。」
議会は、国民衛兵の武力行使に関する規則を別途作成することを決めた。
一台の馬車を通すための議論から、国王の地位、信仰の自由、請願権、選挙権、軍隊の命令服従、王位放棄の手続までが議題となった。
自由を一つ定めようとすれば、その境界にある別の自由が姿を現す。
法律とは、その境界を一つずつ言葉にする作業なのだと、議員たちは思い知らされていた。
⸻
夕刻。
テュイルリー宮殿。
議会から戻った担当大臣が、可決された法案をルイへ差し出した。
ルイは一条ずつ読み、最後に署名した。
手は震えていた。
自分が国外へ出て戻らなければ、王位を失う。
国民へ軍隊を向ければ、王位を失う。
かつての国王であれば、受け入れることのできない条文だったかもしれない。
だが、ルイは迷わなかった。
「これで、私は自由になったのでしょうか。」
側にいたマリーが尋ねた。
ルイは署名した法案を見つめた。
「自由になったというより。」
「どこから先が許されないのか、ようやく分かるようになった。」
「それを自由と呼ぶのですか。」
「私は、そう思う。」
ルイは羽根ペンを置いた。
「自由とは、何の制限もないことではない。」
「誰かの気分で、昨日まで許されていたことが突然禁止されないことだ。」
「国王であっても。」
「国民であっても。」
マリーは窓の外へ目を向けた。
宮殿の門を見るだけで、サン=クルー事件の怒声が蘇る。
胸が苦しくなり、呼吸が浅くなった。
「これで、サン=クルーへ行くのですか。」
「ああ。」
ルイは答えた。
「行かなければ、この法律は紙の上に書かれただけの言葉になる。」
「また馬車を止められたら。」
「戻る。」
「また群衆が扉を叩いたら。」
ルイの顔からも血の気が引いた。
それでも、マリーから目を逸らさなかった。
「怖い。」
「私も怖い。」
「なら、行かなくてもよいのではありませんか。」
「行き先は、サン=クルーでなくてもよい。」
「だが、群衆が怖いという理由で、一生この宮殿から出なければ。」
「私たちは法ではなく、昨日の恐怖に閉じ込められ続けることになる。」
マリーは両手を握り締めた。
子どもたちを、もう一度あの馬車へ乗せることには耐えられない。
ルイもそれを察した。
「最初は私一人で行く。」
「君と子どもたちは宮殿に残ってよい。」
その言葉を聞いた瞬間、マリーの脳裏に別の恐怖が浮かんだ。
夫だけが連れ去られる。
家族が引き離される。
牢獄の中で、二度と会えなくなる。
ルイから聞いた未来。
「いいえ。」
マリーは即座に答えた。
「私も行きます。」
「無理をする必要はない。」
「一人で行かせる方が怖いのです。」
マリーは震える手で、ルイの手を握った。
「子どもたちは宮殿へ残します。」
「でも、私はあなたと行きます。」
「本当にいいのか。」
「怖いから行くのです。」
ルイは、その言葉に驚いた。
マリーは小さく息を整えた。
「恐怖に追われて外国へ逃げることはしない。」
「けれど、恐怖に閉じ込められて宮殿から出られなくなることも、同じように嫌です。」
「あなた一人だけに、難しい方を選ばせません。」
ルイは、妻の手を握り返した。
⸻
翌朝。
パリ市内の掲示板へ、一枚の告示が貼り出された。
『国王及び王妃は、四月二十八日午前九時、テュイルリー宮殿を出発し、サン=クルーへ向かう。』
『経路はシャンゼリゼを経て、セーヴル方面へ至る街道とする。』
『同日夕刻までに帰還する。』
『国民議会の代表者四名及び国民衛兵が同行する。』
『国王は外国への出国、軍隊の召集及び亡命者との接触を行わない。』
人々は告示の前に集まった。
「またサン=クルーへ行くのか。」
「今度は議会が認めたらしい。」
「それでも逃げるかもしれない。」
「行き先も帰る時間も書いてある。」
「書いてあるから何だ。」
「国王の言葉を信じるのか。」
告示を読む群衆の後ろで、一人の男が低い声で言った。
「今度も馬車を止めればいい。」
すると隣にいた職人が首を横に振った。
「今度は違う。」
「何が違う。」
「前は、何も決まっていなかった。」
職人は告示の最後に記された、国民議会の印章を指した。
「今度は、俺たちが選んだ議会が通していいと決めた。」
「それでも止めるなら。」
「国王に逆らうんじゃない。」
「法に逆らうことになる。」
男は不満そうに告示を睨んだ。
それでも、すぐに破り捨てることはしなかった。
同じ頃。
テュイルリー宮殿の中庭では、馬車の点検が始まっていた。
あの日、群衆に叩かれた扉には、まだ浅い傷が残っている。
従者が布で車体を磨くたび、その傷が朝日に照らされて浮かび上がった。
宮殿の窓から、ルイとマリーは並んで馬車を見下ろしていた。
二人の手は、固く結ばれている。
法律は成立した。
行程も公開した。
護衛も決めた。
それでも、門の外に集まり始めた人々の姿を見れば、二人の身体は震えた。
法律が群衆より強いのか。
それとも、法律もまた怒声の前で道を譲るのか。
答えが示される日まで、あと数日。
王と王妃は、再び同じ馬車へ乗ろうとしていた。




