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凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


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悪夢を信じた夜

第61話 「悪夢を信じた夜」

一七九一年四月十九日、深夜。

パリ。

テュイルリー宮殿。

国民議会で「私は逃げない」と宣言した日の夜、ルイは執務室で書類に目を通していた。

国王と王族の移動。

国民衛兵による警護。

宣誓拒否神官による私的礼拝。

群衆による公職者への妨害。

特別委員会で検討されることになった問題について、ルイは自分の考えを書き留めていた。

一方、王妃の寝室では、マリー・アントワネットが眠れずにいた。

寝台に入り、目を閉じても、昨日の出来事が何度も蘇ってくる。

サン=クルーへ向かうために乗り込んだ馬車。

出発を楽しみにしていた子どもたち。

いつもと変わらない春の朝。

最初は、宮殿前に人が集まっているだけだと思っていた。

国王一家を一目見ようとする市民は珍しくない。

だが、馬車は動かなかった。

御者が手綱を握り、護衛が道を開けようとしても、群衆は一歩も退かなかった。

それどころか、人々は次第に馬車を取り囲み始めた。

「国王を行かせるな。」

「逃亡するつもりだ。」

「反革命派の神官と会うつもりだぞ。」

「オーストリア女を国外へ逃がすな。」

馬車の扉が叩かれた。

窓のすぐ向こうに、怒りで歪んだ顔が見えた。

唾が飛び、拳が振り上げられ、激しい罵声が浴びせられた。

国民衛兵が来れば道を開いてくれる。

マリーはそう思っていた。

だが、彼らは動かなかった。

ラファイエットが命令しても、兵士たちは銃を持ったまま立ち尽くしていた。

中には、群衆と一緒になって馬車を睨む者さえいた。

あの瞬間、マリーは理解した。

王家を守るはずの者たちが、必ずしも王家を守るとは限らない。

ルイの命令も。

ラファイエットの命令も。

法律も。

目の前の群衆が動かなければ、何の力も持たない。

馬車の中では、マリー=テレーズが弟のルイ=シャルルを抱き寄せていた。

幼い王太子は、外から聞こえてくる怒声の意味を理解していなかった。

「お母様。」

ルイ=シャルルが尋ねた。

「あの人たちは、どうして怒っているのですか。」

マリーは答えられなかった。

代わりに息子を強く抱き締めた。

隣では、ルイの様子がおかしくなっていた。

顔から血の気が引き、額に汗が浮かび、呼吸が浅くなっていた。

扉を叩く音が響くたびに、その肩が大きく震えた。

マリーは彼の手を握った。

「大丈夫です。」

「私を見てください。」

「ここにいます。」

何度も同じ言葉を繰り返した。

やがて馬車は出発を諦め、宮殿へ戻った。

誰も傷つかなかった。

血も流れなかった。

それでもマリーの中には、何かが残った。

目を閉じるたび、窓の向こうにあった無数の顔が浮かんでくる。

馬車の扉へ伸びてきた手。

命令に従わなかった国民衛兵。

そして恐怖に震えていた夫の姿。

マリーは寝返りを打った。

眠ろうとすればするほど、別の記憶まで蘇ってくる。

それは自分自身が経験した出来事ではない。

以前、ルイから聞かされた話だった。

⸻

一七八九年七月。

ネッケルの処遇を巡り、パリが騒然となっていた頃。

ルイはマリーの前で、信じられない話を打ち明けた。

自分は一度だけではなく、何度も未来を経験した。

フランスでは革命が起こる。

王権は失われる。

王家は宮殿から追われる。

家族は牢獄へ入れられる。

そして、自分は処刑される。

最初に聞いた時、マリーには理解できなかった。

「処刑とは、どういう意味ですか。」

そう尋ねると、ルイは青ざめた顔で答えた。

「首を刎ねられる。」

「広場に処刑台が作られる。」

「私は群衆の前を歩かされ、板の上へ縛り付けられる。」

「最後に国民へ話そうとするが、太鼓の音で声を消される。」

「そして、刃が落ちる。」

その時のルイは、作り話をしているようには見えなかった。

全身を震わせ、首へ手を当て、まともに息をすることさえできなくなっていた。

マリーは彼を抱き締めた。

「もう大丈夫です。」

「あなたは生きています。」

「ここには処刑台も、太鼓もありません。」

そう言いながら、心のどこかでは別の可能性を考えていた。

過労による悪夢。

政治的な重圧が見せた幻覚。

あるいは、未来への恐怖が作り上げた妄想。

話の内容を信じることはできなくても、ルイが苦しんでいることだけは本物だった。

だからマリーは否定しなかった。

彼の話を聞き、手を握り、恐怖が収まるまで側にいた。

それからもルイは、未来について何度か話した。

民衆がヴェルサイユへ押し寄せること。

国王一家がパリへ移されること。

聖職者の改革によってフランスが二つに分かれること。

国王が何を選んでも、疑いを向けられること。

そして、家族が引き離されること。

現実は、ルイが語ったものとまったく同じではなかった。

彼が早くから改革へ動いたことで、変わったことも多い。

税制も。

徴税制度も。

アッシニャの仕組みも。

教会財産の扱いも。

史実とは異なる道を選んできた。

それでも、大きな流れは彼の言葉に近づいていた。

ヴェルサイユには群衆が押し寄せた。

国王一家はパリへ移された。

教会は宣誓を巡って分裂した。

教皇は改革を断罪した。

そして昨日、王家は群衆によって宮殿から出ることさえ禁じられた。

マリーは寝台の中で目を開いた。

暗闇の中、心臓の音だけが大きく聞こえる。

「まさか……。」

小さな声が漏れた。

これまでは、ルイが未来を恐れているのだと思っていた。

だが、本当は違うのかもしれない。

彼は未来を恐れているのではない。

一度経験した出来事を、再び経験することを恐れているのではないか。

処刑台の話も。

太鼓の音も。

首へ落ちる刃も。

すべて、本当に起きたことなのではないか。

そして、その出来事が再び近づいているのではないか。

マリーは寝台から起き上がった。

肩に薄い上着を掛け、蝋燭を手に取る。

侍女を呼ぶことはしなかった。

静かな廊下を一人で歩き、子どもたちの部屋へ向かった。

扉の前には衛兵が立っていた。

衛兵は王妃の姿を見ると一礼し、道を開ける。

マリーは、その銃へ一瞬だけ目を向けた。

昨日、同じ制服を着た者たちは、国王の命令に従わなかった。

この衛兵は、本当に子どもたちを守ってくれるのだろうか。

もし群衆が宮殿へ押し寄せた時、この男は扉の前に立ち続けてくれるのだろうか。

それとも、自分の身を守るために道を開けるのだろうか。

「王妃陛下。」

衛兵が不安そうに声を掛ける。

マリーは、疑いを向けてしまったことを恥じるように目を伏せた。

「何でもありません。」

「子どもたちの顔を見に来ただけです。」

部屋の中では、マリー=テレーズとルイ=シャルルが眠っていた。

昼間の恐怖など忘れてしまったかのような、穏やかな寝顔だった。

マリーは息子の寝台へ近づいた。

乱れていた毛布を直し、頬へ触れる。

温かい。

生きている。

その当たり前の事実が、今はたまらなく愛おしかった。

ルイから聞いた未来では、家族は牢獄へ入れられる。

子どもたちは両親から引き離される。

ルイは処刑される。

そして、自分もまた――。

マリーは、それ以上考えることができなかった。

「お母様……。」

眠っていたマリー=テレーズが、薄く目を開いた。

「起こしてしまいましたか。」

マリーは娘の寝台へ近づいた。

「いいえ。」

マリー=テレーズは眠そうに目を擦った。

「お父様は大丈夫ですか。」

「ええ。」

「今日、議会へ行かれたのでしょう。」

「そうです。」

「もう、あの人たちは怒っていませんか。」

幼い娘の問いに、マリーは答えを失った。

怒っていないとは言えない。

もう安全だとも言えない。

「お父様は、皆が争わなくてもよい方法を探しています。」

やがて、そう答えた。

「見つかりますか。」

「きっと。」

口ではそう言いながら、自分自身は信じ切ることができなかった。

マリー=テレーズは安心したように目を閉じた。

その髪を撫でながら、マリーは胸の奥に膨らんでいく恐怖を必死に抑えた。

ここで泣いてはならない。

子どもたちに気づかれてはならない。

自分は母親だ。

王妃だ。

夫が恐怖に襲われた時、支える者でなければならない。

しかし、その言葉を何度心の中で繰り返しても、手の震えは止まらなかった。

⸻

子どもたちの部屋を出たマリーは、自分の寝室へ戻らなかった。

小さな私室へ入り、机の前に座った。

引き出しから便箋を取り出す。

宛先として最初に頭へ浮かんだのは、兄である神聖ローマ皇帝レオポルト二世だった。

助けてほしい。

自分たちはパリで囚人になっている。

国王は自由を奪われ、子どもたちも危険にさらされている。

そのように書けば、兄は何らかの行動を起こすかもしれない。

国境へ軍隊を集め、フランス政府へ王家の安全を求めることも考えられる。

マリーは羽根ペンを取り、便箋の最初に兄への呼びかけを書いた。

しかし、その手はそこで止まった。

外国へ助けを求める王妃。

オーストリア軍と通じる王家。

革命を外国の軍隊で押し潰そうとする国王夫妻。

昨日、群衆が叫んでいた言葉が蘇る。

「オーストリア女を逃がすな。」

自分が密かに手紙を送れば、その疑いを事実へ変えてしまうかもしれない。

ルイは今日、議会で国外へ逃げず、外国軍も呼び込まないと約束した。

その日の夜に王妃が皇帝へ救援を求めれば、ルイの言葉まで嘘になってしまう。

それでも、子どもたちを守るためなら書くべきではないか。

国民からの信頼と、家族の命。

どちらを選ぶべきなのか。

マリーの手から、羽根ペンが落ちた。

便箋の上へ黒いインクが広がっていく。

それはまるで、白い布に染み込んでいく血のように見えた。

マリーは息を呑み、便箋を裏返した。

自分までおかしくなり始めている。

ルイが刃を恐れるのと同じように、何もかもを処刑へ結びつけようとしている。

だが、それが単なる恐怖だと言い切ることも、もうできなかった。

マリーは書きかけの便箋を折り畳んだ。

燃やすことはしなかった。

かといって、封をすることもできなかった。

引き出しの奥へしまい、鍵を掛ける。

そして、ルイの執務室へ向かった。

⸻

扉を開けると、ルイはまだ机に向かっていた。

机の上には、特別委員会へ渡す意見書が並んでいる。

ルイはマリーの姿を見ると、驚いたように顔を上げた。

「まだ起きていたのか。」

「眠れませんでした。」

「昨日のことが怖かったのか。」

マリーは、すぐには答えなかった。

いつもなら、自分の不安を隠していた。

ルイをさらに怖がらせたくなかった。

自分が落ち着いていれば、夫も落ち着くことができる。

そう考えてきた。

だが、今夜は嘘をつくことができなかった。

「怖いです。」

その言葉を口にした瞬間、目に涙が浮かんだ。

「昨日の群衆が怖い。」

「命令に従わなかった衛兵が怖い。」

「子どもたちが連れ去られるかもしれないと思うと、たまらなく怖い。」

ルイは椅子から立ち上がった。

マリーは彼を見つめた。

「あなたが話してくれたことを思い出していました。」

ルイの表情が固まる。

「処刑台のことです。」

「群衆のこと。」

「太鼓のこと。」

「家族が牢獄へ入れられること。」

「あなたが私たちから引き離されること。」

マリーの声が震えた。

「今まで私は、あなたが恐ろしい悪夢を見たのだと思おうとしていました。」

「未来の記憶だと言われても、本当の意味では信じ切れていなかった。」

「それでも、あなたの苦しみは本物だったから、側にいようと思いました。」

涙が頬を伝った。

「けれど、昨日。」

「馬車を取り囲まれた時。」

「国民衛兵があなたの命令に従わなかった時。」

「子どもたちを抱きながら、扉を叩く音を聞いていた時。」

マリーは両腕で自分の身体を抱いた。

「あなたが話していた未来は、本当に起こるのかもしれないと思いました。」

ルイは何も言わなかった。

否定してほしかった。

そんな未来は来ないと。

自分が必ず家族を守ると。

すべて変えてみせると。

だが、ルイは安易な言葉を口にしなかった。

それが、かえって恐ろしかった。

「教えてください。」

マリーは尋ねた。

「私たちは、本当に処刑されるのですか。」

ルイの唇が震えた。

首へ手を当てそうになり、途中でその動きを止める。

「私が覚えている未来では。」

苦しそうに言葉を選ぶ。

「私は処刑された。」

「あなたも、その後に処刑された。」

マリーは目を閉じた。

以前にも聞いていた。

だが、その時とは言葉の重さがまるで違っていた。

今は、それが遠い悪夢ではない。

宮殿の門の向こうに立っているかもしれない現実だった。

「子どもたちは。」

「マリー=テレーズは生き残った。」

ルイは答えた。

「だが、長い間牢獄に入れられ、家族を失った。」

「ルイ=シャルルは……。」

そこで声が途切れた。

マリーは続きを理解した。

「言わないで。」

ルイの言葉を遮った。

「今は、言わないでください。」

足から力が抜け、近くの椅子へ腰を下ろした。

ルイはマリーの前へ膝をついた。

いつもとは逆だった。

これまでは、恐怖に震えるルイの手をマリーが握ってきた。

今度は、ルイが震えるマリーの手を包み込んだ。

「それは未来ではない。」

ルイは言った。

「私が経験した過去だ。」

「でも、同じことが起こるのでしょう。」

「同じになると決まったわけではない。」

「どうして、そう言えるのですか。」

「今日は逃げなかった。」

マリーが顔を上げる。

ルイ自身も震えていた。

「私が覚えている道とは違う道を、今日は選んだ。」

「恐怖に従って逃げれば、また同じ場所へ辿り着くと思った。」

「だから残った。」

「それだけで、すべてを変えられるとは思っていない。」

「ここに残ることで、もっと早く殺される可能性もある。」

「ルイ。」

「だが、少なくとも未来は決まっていない。」

ルイはマリーの手を強く握った。

「決まっているなら、私は何をしても同じ日に死ぬことになる。」

「それでも私は、そうではないと信じたい。」

「信じなければ、何も選べなくなる。」

マリーは夫の顔を見つめた。

この人は未来を知っているから強いのではない。

何度も死んだ記憶を抱えながら、それでも次の選択をしようとしている。

自分はその恐怖を理解しているつもりだった。

だが、昨日まで本当の意味では理解していなかった。

「私は兄へ手紙を書こうとしました。」

マリーは告白した。

ルイの表情に緊張が走る。

「救援を求めようとしたのか。」

「はい。」

「けれど、送ってはいません。」

「なぜ止めた。」

「あなたが今日、外国の軍隊を呼ばないと約束したからです。」

マリーは目を伏せた。

「私の手紙で、あなたを嘘つきにしたくありません。」

「でも、何もしないことも怖い。」

「兄に助けを求めなければ、子どもたちを守れないかもしれない。」

「助けを求めれば、それを理由に私たちが敵と見なされるかもしれない。」

「私には、何が正しいのか分かりません。」

ルイはしばらく考えた。

「秘密の手紙にはしない。」

「では、何も伝えないのですか。」

「いや。」

ルイは首を横に振った。

「議会の承認を得た正式な書簡を送ろう。」

「フランス国内の改革は、フランス国民が決める。」

「外国の軍事介入は求めない。」

「その代わり、亡命貴族を利用してフランスへ圧力をかけないよう、皇帝へ正式に要請する。」

「それなら、少なくとも陰謀にはならない。」

マリーは驚いたように夫を見た。

「兄が応じるでしょうか。」

「分からない。」

ルイは、また正直に答えた。

「だが、隠れて手紙を送るよりはよい。」

「秘密は、それだけで疑いの証拠にされる。」

マリーは小さく頷いた。

恐怖は消えていなかった。

子どもたちの未来も。

王家の運命も。

誰にも分からない。

それでも、何をするべきかが一つだけ見えた。

マリーは椅子から立ち上がった。

今度は彼女の方からルイを抱き締めた。

しかし、それは一方的に夫を慰めるための抱擁ではなかった。

自分も支えてほしかった。

恐怖を一人で抱えたくなかった。

「これからは、怖い時には怖いと言ってもよいですか。」

「もちろんだ。」

「王妃であっても。」

「私も国王でありながら、何度も言っている。」

マリーは涙を流しながら、わずかに笑った。

「そうでしたね。」

遠くから太鼓の音が聞こえた。

夜警の交代を知らせる、短い太鼓だった。

ルイの身体が硬くなる。

同時に、マリーの肩も震えた。

以前なら、ただの太鼓だと夫へ言い聞かせていただろう。

しかし今夜は、自分にも処刑台の太鼓のように聞こえた。

二人は何も言わず、音が消えるまで互いを抱き締めていた。

やがて窓の外が、わずかに明るくなり始めた。

長い夜が終わろうとしている。

未来が変わった証拠は、まだどこにもなかった。

処刑台が消えたわけでもない。

ただ一つ変わったのは、ルイだけが恐怖を知っているのではなくなったことだった。

サン=クルー事件の夜。

マリー・アントワネットは初めて、夫の記憶を心から信じ始めた。

そして同時に理解した。

夫が何年もの間、一人で抱えてきた恐怖が、どれほど重いものだったのかを。

その日から、処刑台の悪夢はルイ一人のものではなくなった。

王妃の心にもまた、まだ存在しないはずの刃の影が落ち始めていた。

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