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凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


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四十日

第58話 「四十日」

1791年春。

教皇ピウス六世の教書『カリタス』は、フランス全土の司教区と教区へ届けられた。

そこには、宣誓した聖職者に対する明確な命令が記されていた。

四十日以内に、国家と憲法への宣誓を撤回せよ。

撤回しなければ、聖職者としての職務を停止する。

教皇が示した四十日という期限は、パリの議員や高位聖職者だけに与えられたものではない。

名もない町。

小さな農村。

そこに暮らす一人ひとりの司祭も、同じ選択を迫られていた。

⸻

第一日。

パリから馬車で二日ほど南へ下った場所に、サン=マルタン村があった。

人口は六百人ほど。

大半は小麦や葡萄を育てる農民であり、村の中央には古い石造りの教会が建っている。

その教会を二十年以上守ってきたのが、マチュー司祭だった。

五十を過ぎた、小柄で穏やかな男である。

豊かな暮らしとは無縁だった。

自ら薪を割り。

教会の屋根を直し。

文字を読めない子どもたちへ読み書きを教えてきた。

不作の年には、修道院から送られた小麦を村人へ分けた。

病人が出れば夜中でも家を訪ね、死を迎える者の手を握った。

マチュー司祭は、前年、国家と憲法への宣誓を行っていた。

国王が、宣誓は世俗の職務だけに関わるものだと説明したからである。

信仰を捨てるつもりはなかった。

教皇を否定するつもりもなかった。

ただ、自分が宣誓を拒めば、村を知らない別の司祭が送り込まれるかもしれない。

学校も。

救貧も。

病人の世話も。

途中で途絶えるかもしれない。

村に残るために、彼は宣誓した。

だが、その選択を教皇は認めなかった。

村長が一枚の教書を持ち、司祭館を訪れた。

「マチュー司祭。」

「ローマからの正式な教書です。」

マチューは受け取った紙を、最初から最後まで読んだ。

向かいには、二十代の助任司祭ジュリアンが座っている。

ジュリアンもまた、マチューとともに宣誓を行っていた。

「四十日……。」

ジュリアンが呟く。

村長は苦しそうに説明した。

「国王陛下の命令により、宣誓を撤回しただけで逮捕されることはありません。」

「罰金も科されません。」

「ですが、公的な教区司祭の職は失います。」

「国家からの俸給も停止されます。」

「教会と司祭館は、後任の司祭へ引き渡していただくことになります。」

マチューは教書を机へ置いた。

教皇に従えば、村を離れなければならない。

村に残れば、教皇に背いた司祭となる。

選ぶために与えられたはずの四十日は、彼にとって二つの喪失のどちらかを選ぶ時間だった。

⸻

第五日。

教皇教書の内容は、村中へ広まっていた。

日曜のミサが終わると、村人たちはマチュー司祭を取り囲んだ。

最初に声を上げたのは、敬虔な老女だった。

「司祭様。」

「どうか宣誓を撤回してください。」

「教皇聖下に認められない司祭から秘跡を受けることはできません。」

別の農民が反論する。

「司祭様がいなくなれば、誰が子どもたちを教えるんだ。」

「新しい司祭が、村のことを知っているのか。」

「これは村の問題ではありません。」

老女は言い返した。

「教会全体の問題です。」

「間違った司祭から洗礼を受ければ、子どもはどうなるのですか。」

若い職人が声を上げる。

「司祭様は神を捨てると誓ったわけではない!」

「国と法律に従うと誓っただけだ!」

「それの何が悪いんだ!」

「教皇聖下が悪いと言われたのです!」

「ローマに、この村の何が分かる!」

「神を恐れないのか!」

言い争いは次第に激しくなった。

マチュー司祭が、二人の間へ入る。

「やめなさい。」

「教皇に従いたい者を、国の敵と呼んではなりません。」

「国に忠実であろうとする者を、神を恐れぬ者と呼んでもなりません。」

「しかし司祭様は、どちらを選ぶのですか。」

その問いに、マチューは答えられなかった。

「まだ、三十五日あります。」

それだけを言い、教会へ戻った。

⸻

第十一日。

宣誓を拒んだ隣村の司祭が、マチューを訪ねてきた。

二人は古くからの友人だった。

「マチュー。」

「もう迷う必要はない。」

「教皇聖下の判断が示されたのだ。」

「宣誓を撤回し、教会へ戻るべきだ。」

マチューは尋ねた。

「私は、いつ教会を離れたのだ。」

「宣誓した時だ。」

「私は毎日祈り、ミサを行い、病人を看護してきた。」

「それでも教会を離れていたのか。」

「気持ちの問題ではない。」

隣村の司祭は答えた。

「教会は、個人が自分の信仰を決める場所ではない。」

「教皇と司教へつながることで、一つの教会になる。」

「そのつながりを国の法律より下に置けば、フランスの教会はローマから切り離される。」

「では、私が宣誓を撤回した後、この村はどうなる。」

「神が導かれる。」

「その言葉で、明日のパンは用意できない。」

マチューの声がわずかに強くなった。

「救貧用の小麦を管理しているのは私だ。」

「学校で教えているのはジュリアンだ。」

「熱病の子どもを看護している修道女たちへの支払いも、今は教区の帳簿から出している。」

「私が鍵と帳簿を渡した後、誰が引き継ぐ。」

「それは国家が考えることだ。」

「国家に村を渡してでも、国家への宣誓を撤回せよと言うのか。」

隣村の司祭は、すぐには答えなかった。

「救済は大切だ。」

やがて、静かに言う。

「だが、教会が教会でなくなれば、その救済も長くは続かない。」

二人は最後まで、互いを説得できなかった。

別れ際、隣村の司祭はマチューの手を握った。

「私は君を敵だとは思っていない。」

「私もだ。」

「だからこそ、同じ教会に戻ってほしい。」

その言葉を残し、友は帰っていった。

⸻

第十七日。

今度は、憲法派の司教から書簡が届いた。

「宣誓を撤回してはならない。」

「教皇は、フランスの新たな秩序を正しく理解していない。」

「国民と法律に忠実であることは、神への忠誠に反しない。」

「教区司祭は動揺する信徒を導き、職務を続けるべきである。」

手紙を読んだジュリアンは言った。

「私は、この司教の意見が正しいと思います。」

マチューが顔を上げる。

「お前は、宣誓を撤回しないのか。」

「はい。」

ジュリアンの声は震えていた。

「怖くないと言えば、嘘になります。」

「教皇聖下から、聖職者として認められなくなる。」

「自分が行うミサや洗礼を、無効だと言われるかもしれない。」

「それでも、私は宣誓で信仰を捨てたとは思っていません。」

「この村を離れたくないだけか。」

「それもあります。」

ジュリアンは正直に答えた。

「ですが、それだけではありません。」

「国民へ忠実であることと、神へ忠実であることは両立できる。」

「ここで撤回すれば、自分でそれを否定することになります。」

マチューは若い助任司祭を見つめた。

彼もまた、野心のために宣誓したのではない。

村人を守ることが、司祭としての使命だと考えている。

同じ信仰。

同じ村。

同じ祭壇。

それでも二人の答えは、少しずつ離れ始めていた。

⸻

第二十三日。

村で一人の老女が倒れた。

長く教会へ通い、マチュー司祭を我が子のように信頼してきた女性だった。

家族が司祭館へ駆け込む。

「母が危篤です。」

「どうか、最後の秘跡を。」

マチューとジュリアンは、そろって老女の家へ向かった。

寝台の周りには家族が集まっている。

だが、そこで意見が割れた。

長男がマチューへ頭を下げる。

「母は、昔からマチュー司祭にお願いしたいと言っていました。」

次男が不安そうに言う。

「しかし、マチュー司祭が宣誓を撤回するなら、国家が認めた司祭ではなくなります。」

「死亡の記録は、誰がつけるのですか。」

ジュリアンが答えた。

「最後の秘跡と、死亡の記録は別です。」

「マチュー司祭が秘跡を授けます。」

「私は証人として、教区簿へ死亡を記録します。」

「そんなことをしてよいのですか。」

「目の前で一人の方が亡くなろうとしている時に、どちらの権限が上かを争う方が間違っています。」

マチューは老女の枕元に座り、その手を握った。

ジュリアンは少し離れた場所で、家族の名前と時刻を記録する。

老女はマチューの祈りを聞きながら、静かに息を引き取った。

その帰り道。

マチューが言った。

「今のやり方が、答えなのかもしれないな。」

「秘跡は教会が行い。」

「出生や死亡の記録は、国家が行う。」

「教会が分かれても、国民の存在まで分けずに済みます。」

ジュリアンが答える。

「ですが、今の王国にはまだ、その仕組みがありません。」

「ああ。」

マチューは頷いた。

「だから我々が、一人の帳簿に信仰と国家の両方を書いている。」

⸻

第三十一日。

村の教会の扉に、黒い塗料で文字が書かれた。

――偽りの司祭。

誰が書いたのかは分からなかった。

ジュリアンが布で文字を拭き取ろうとすると、マチューが手伝った。

「私に向けられた言葉でしょうか。」

ジュリアンが尋ねる。

「おそらく、私たち二人に向けられたのだろう。」

「どういう意味です。」

「宣誓を拒む者から見れば、我々は二人とも偽りの司祭だ。」

「宣誓を支持する者から見れば、撤回を迷う私は国を裏切ろうとしている。」

マチューは濡れた布を絞った。

「人は、迷っている者を嫌う。」

「敵か味方か、早く決めてほしいからだ。」

「司祭様は、まだ決めていないのですか。」

マチューは答えなかった。

黒い文字は薄くなったが、石の隙間には染みが残った。

⸻

第三十九日。

夜。

マチューとジュリアンは、誰もいない教会で並んで座っていた。

祭壇には一本の蝋燭だけが灯されている。

「明日、私は宣誓を撤回する。」

マチューが言った。

ジュリアンは目を閉じた。

予想していた言葉だった。

それでも、実際に聞くと胸が痛んだ。

「教皇聖下の判断に、納得されたのですか。」

「すべてに納得したわけではない。」

「国民の自由が信仰を滅ぼすとも思わない。」

「国家が救貧や教育に責任を持つことも、間違いではない。」

「ならば、なぜ。」

「私は司祭だからだ。」

マチューは祭壇の十字架を見上げた。

「国王に仕える役人である前に。」

「村を管理する者である前に。」

「私は、自分が一つの教会につながっていると信じて司祭になった。」

「そのつながりを失ったまま祭壇へ立てば、私は毎日、自分の良心へ嘘をつくことになる。」

「村を離れることになってもですか。」

「ああ。」

「救貧院も、学校も。」

「お前に託す。」

ジュリアンが驚いて顔を上げる。

「私に?」

「お前は宣誓を撤回しないのだろう。」

「はい。」

「ならば、国家が認める教区司祭として残れ。」

「私は、あなたの教区を奪うことになります。」

「違う。」

マチューは首を横に振った。

「私が手放すものを、お前が守るのだ。」

「だが、一つだけ約束してくれ。」

「何でしょう。」

「私についてくる村人を、国の敵と呼ばないでくれ。」

ジュリアンは、涙を堪えながら頷いた。

「司祭様も、私のミサへ残る村人を、信仰の裏切り者と呼ばないでください。」

「ああ。」

「約束する。」

二人は長い間、並んで十字架を見つめていた。

翌日から、同じ祭壇へ立つことはできない。

それでも、互いを敵と呼ばないことだけは選べた。

⸻

第四十日。

教会には、村中の人々が集まっていた。

マチュー司祭は祭壇の前へ立つ。

その隣には、ジュリアン助任司祭と村長が並んでいる。

「本日。」

マチューは静かに話し始めた。

「私は、聖職者民事基本法に対して行った宣誓を撤回します。」

教会の中で、息を呑む音が広がった。

喜びの表情を浮かべる者。

顔を伏せる者。

怒りを露わにする者。

マチューは続けた。

「ただし、私はフランスを裏切るわけではありません。」

「国王陛下への忠誠も。」

「国民への愛情も。」

「正しい法律に従う義務も、捨てるつもりはありません。」

「私は反乱を求めません。」

「宣誓を続ける者への攻撃も認めません。」

「ただ、司祭としてローマとの交わりへ戻るために、宣誓を撤回します。」

今度はジュリアンが前へ出た。

「私は、宣誓を撤回しません。」

「私は国家を神より上に置いたつもりはありません。」

「この村に残り。」

「学校を守り。」

「救貧を続け。」

「国民と法律に仕えることが、神への奉仕に反するとは思わないからです。」

教会の中がざわつく。

誰かが叫んだ。

「裏切り者!」

どちらへ向けられた言葉なのかは分からない。

マチューとジュリアンは、同時に群衆へ向き直った。

「その言葉を口にしてはならない!」

二人の声が重なった。

マチューが言う。

「ジュリアンは、神を捨てていません。」

ジュリアンも続ける。

「マチュー司祭は、国を裏切っていません。」

「我々は違う道を選びます。」

「だが、互いを敵とは呼びません。」

村長の前で、教会と司祭館の鍵が差し出された。

救貧用の小麦を記録した帳簿。

学校に通う子どもの名簿。

出生、婚姻、死亡が記された教区簿。

それらも、マチューからジュリアンへ引き渡された。

二十年以上守ってきた鍵を手放す時、マチューの指は震えていた。

それでも、彼は最後まで離そうとはしなかった。

やがてジュリアンが、両手で鍵を受け取る。

その瞬間、サン=マルタン村の教会は、国家が認める司祭へ引き継がれた。

だが、村人全員の信仰まで引き継がれたわけではなかった。

⸻

第四十一日。

教区教会では、ジュリアンによるミサが行われた。

村人の半数ほどが、長椅子へ座っている。

一方、村外れの農家の納屋では、マチューが小さな祭壇を作っていた。

残りの村人たちは、干し草の匂いが残る納屋の中で祈りを捧げる。

ジュリアンの教会では鐘が鳴った。

マチューの納屋には鐘がない。

それでも、二つの場所から同じ祈りの言葉が聞こえていた。

⸻

数週間後。

全国から、宣誓に関する報告がルイのもとへ集められた。

宣誓を撤回した者。

撤回を拒んだ者。

言葉の一部だけを撤回しようとした者。

決断できないまま、教区を去った者。

地域によって結果は大きく異なっていた。

その中に、サン=マルタン村からの報告もあった。

ルイは、マチューとジュリアンが互いを守りながら別れたことを知った。

「教会は、一人を正しい司祭と呼ぶ。」

「国家は、もう一人を正しい司祭と呼ぶ。」

ルイは報告書を握り締めた。

「だが村人たちは、二人とも司祭様と呼んでいる。」

四十日の期限は終わった。

しかし、四十日が一つの答えを生んだわけではない。

それはフランス全土に、数千、数万の異なる選択を生み出した。

教皇が与えた四十日は終わった。

フランス教会の分裂は、その四十一日目から本当に始まったのである。

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