第四十四話 請願か威圧か
一七八九年十月七日。
朝。
ヴェルサイユ宮殿。
昨日まで宮殿の周囲を埋め尽くしていた人々の姿は、ほとんど消えていた。
石畳には踏み荒らされた泥が残り、門の脇には折れた棒や濡れた布切れが転がっている。
近衛兵たちは交代で休息を取っていた。
宮殿は、ようやく静けさを取り戻していた。
だが、その静けさをルイは安心とは感じなかった。
執務室の机の上には、パリから届いた報告書が積まれている。
パンの価格。
小麦の到着量。
請願の提出数。
新聞記事。
パリ市当局からの書簡。
そして、その中に何度も現れる言葉があった。
『国王はヴェルサイユにいる。』
それ自体は事実だった。
だが、文章の前後によって意味が変わる。
国王は安全なヴェルサイユから国民を見ている。
国王はパリの窮状を知らない。
国王は軍を集めるためにヴェルサイユへ留まっている。
国王は機会があれば外国へ逃げるつもりだ。
昨日まで宮殿の前にいた人々が去っても、疑念までは去らなかった。
ルイは一枚の新聞を机へ置いた。
「余がここにいること自体が、問題になり始めている。」
向かいに座るネッケルが頷く。
「パリには、陛下が遠すぎると感じる者が少なくありません。」
「ヴェルサイユとパリは、馬車なら数時間だ。」
「距離の問題だけではございません。」
ネッケルは答えた。
「象徴の問題です。」
その言葉を聞き、ルイは窓の外へ目を向けた。
ヴェルサイユ宮殿。
父祖から受け継いだ王権の象徴。
広大な庭園。
鏡の間。
礼拝堂。
無数の部屋。
何千人もの宮廷人。
国王が国民から離れた場所で統治するという、旧い王政そのものを形にしたような宮殿。
「パリへ移るべきだと言うのか。」
ネッケルはすぐには答えなかった。
「政治的には、その利点があります。」
「国民議会も、いずれパリへ移るという意見が強くなるでしょう。」
「食糧問題の中心もパリです。」
「請願制度を実際に機能させるためにも、政府機関の一部をパリへ近づける必要があります。」
「だが。」
ルイの指が机の上で止まった。
声が少し低くなる。
「余がパリへ行けば。」
その先を言うことができなかった。
頭の中に、別の光景が浮かんでいた。
馬車。
群衆。
国民衛兵。
パリへ向かう長い道。
窓の外を埋める人々。
「パン屋を連れて帰るぞ。」
そんな叫び。
その後のテュイルリー。
監視される生活。
サン=クルー。
ヴァレンヌ。
タンプル塔。
裁判。
処刑台。
ルイの呼吸が浅くなる。
ネッケルは何も言わなかった。
ルイが落ち着くまで待った。
やがてルイは机の縁を握った。
「史実では。」
思わず言いかけ、口を閉じる。
ネッケルには説明できない。
「以前。」
言い直した。
「余は、パリへ行くことを恐れた。」
「今もですか。」
「今もだ。」
ルイは即答した。
「怖い。」
その言葉だけは、以前より言えるようになっていた。
「パリへ行けば、戻れなくなる気がする。」
「テュイルリーの門を通った瞬間から、余は国王ではなく囚人になるような気がする。」
ネッケルは静かに答えた。
「では、陛下。」
「囚人として連れて行かれる前に、国王として移られてはいかがでしょう。」
ルイが顔を上げた。
「どういう意味だ。」
「昨日、群衆は陛下をパリへ連れて行くことができませんでした。」
「陛下はヴェルサイユに残ることを選ばれた。」
「その翌日に、自らの意思でパリへ移れば。」
ネッケルは机の上の新聞を指した。
「少なくとも、連行されたとは言われません。」
ルイは黙った。
確かに違う。
群衆に囲まれて。
銃を突きつけられて。
逃げ道を塞がれて。
家族ごと馬車へ乗せられるのとは違う。
自分で日を決める。
自分で理由を公表する。
自分で警備を決める。
自分で戻る可能性も残す。
同じパリへの移動でも、意味はまったく違う。
「ヴェルサイユを捨てるわけではない。」
ルイは呟いた。
「はい。」
「王宮として残す。」
「はい。」
「必要なら戻る。」
「それも公表すればよろしいでしょう。」
ルイは長い間、何も言わなかった。
やがて。
「王妃と話す。」
そう答えた。
⸻
午後。
王妃の私室。
マリー・アントワネットは、夫の言葉を聞くと顔を強張らせた。
「パリへ。」
「ああ。」
「テュイルリーへ。」
「ああ。」
王妃は椅子の肘掛けを握った。
「あなたは。」
一度言葉を止める。
「本当に、それでよいのですか。」
ルイには、その問いの意味が分かった。
彼女も知っている。
以前の人生で、その宮殿が何を意味したのかを。
テュイルリー宮殿。
一度入れば、監視が始まった。
外出のたびに疑われた。
王妃は罵倒された。
子供たちは群衆の叫びを聞きながら育った。
「よくはない。」
ルイは答えた。
「行きたくない。」
マリー・アントワネットは驚いたように夫を見る。
「余はヴェルサイユにいたい。」
「ここなら、まだ眠れる。」
「廊下で叫び声がしても、昨日の群衆ではないと思える。」
「窓の外に人が集まっていても、すぐ宮殿へ押し入ってくるとは思わずに済む。」
声が震え始める。
「テュイルリーは。」
ルイは手を首へ当てた。
「その先にあるものを、余は知っている。」
王妃は立ち上がり、夫のそばへ来た。
「ならば、行かなくても。」
「だが。」
ルイは遮った。
「だからこそ、今行く。」
マリー・アントワネットは黙った。
「以前は、余が何かを拒むたび。」
ルイは続けた。
「恐れていることを説明しなかった。」
「パリが怖い。」
「群衆が怖い。」
「議会が怖い。」
「外国が怖い。」
「革命が怖い。」
「全て怖かった。」
「だが、それを誰にも言わず、ただ動かなかった。」
「その結果、人々は余が陰謀を企んでいると考えた。」
ルイは王妃を見る。
「今度は違う。」
「パリへ行く理由も公表する。」
「ヴェルサイユへ戻る権利も残す。」
「警備も公開する。」
「どこへ行くか分からない馬車には乗らない。」
最後の一言で、声が掠れた。
ヴァレンヌ。
その名前を口にしなくても、二人には分かった。
マリー・アントワネットは夫の手を握った。
「私も行きます。」
「王妃。」
「当然でしょう。」
少しだけ強い声だった。
「あなた一人をテュイルリーへ行かせたら、私はここで何をしていればいいのです。」
「子供たちも。」
「一緒に行きましょう。」
ルイは目を閉じた。
恐怖は消えなかった。
むしろ、決めてしまったことで現実味を増した。
それでも。
「ありがとう。」
そう答えた。
⸻
同日の夕刻。
国民議会。
ルイ十六世は、自ら演壇へ立った。
議場には、突然の国王の申し出に緊張が走っている。
「私は、王室の居所について報告する。」
ざわめきが広がった。
ルイは紙を開く。
だが、ほとんど見なかった。
「近日中に、私は王妃及び王子たちとともに、パリのテュイルリー宮殿へ居所を移す。」
議場が大きくどよめいた。
「陛下。」
誰かが声を上げる。
「昨日の群衆の要求を受け入れるのですか。」
「違う。」
ルイは答えた。
「昨日、私はパリへ移るという要求を認めなかった。」
「人々はすでにヴェルサイユを離れている。」
「ゆえに、これは今、私自身の判断として決めた。」
「理由は三つある。」
指を一本立てる。
「第一に。」
「現在、王国最大の食糧問題はパリに集中している。」
「政府は、その状況をより近くで確認する必要がある。」
二本目。
「第二に。」
「請願制度を整える以上、国王と政府が国民からあまりに遠い場所へ閉じこもっていることは望ましくない。」
三本目。
「第三に。」
ルイは一瞬迷った。
だが続けた。
「国王がヴェルサイユへ留まり続けることで、逃亡や軍事行動を企てているという疑いが広がっている。」
議場が静かになる。
「私は、その疑いを言葉だけで否定するつもりはない。」
「行動によって否定する。」
「私はパリへ行く。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
「ただし。」
ルイは続けた。
「これは王権の移転でも、ヴェルサイユ宮殿の放棄でもない。」
「テュイルリーを通常の居所の一つとする。」
「ヴェルサイユも王宮として維持する。」
「国王は必要に応じて両者を往来する。」
「国王の移動を、国民の許可を必要とする拘禁に変えてはならない。」
その部分では、改革派からも異論が出なかった。
昨日、群衆政治を否定する法を作った直後である。
国王一家を事実上の囚人にすれば、議会自身が掲げた原則と矛盾する。
ミラボーが立ち上がった。
「陛下。」
「移動の日時と経路を公表されるおつもりですか。」
ルイの身体が一瞬強張った。
経路。
馬車。
その言葉だけで胸が苦しくなる。
それでも答えた。
「ああ。」
「隠さない。」
「出発時刻。」
「予定経路。」
「同行する衛兵。」
「到着予定時刻。」
「全て事前に公表する。」
「国王が逃げているのではないと、誰でも確認できるようにする。」
議場に低いざわめきが広がった。
誰もが、その異様なほどの透明性に驚いていた。
当時の王家にとって、移動予定をこれほど公開することは普通ではない。
だがルイには、別の目的もあった。
自分自身を縛るためだった。
恐怖に負けて、途中で方向を変えないように。
密かに国境へ向かわないように。
誰にも疑わせないように。
何より。
自分が自分自身を疑わずに済むように。
⸻
数日後。
ヴェルサイユ宮殿。
朝から中庭には馬車が並んでいた。
だが、以前の人生とは違った。
秘密の旅ではない。
大きすぎるベルリン馬車でもない。
荷物も最低限だった。
家具の多くは後から運ばれる。
王室の衣類。
子供たちの日用品。
執務に必要な書類。
数冊の帳簿。
それだけが先に積まれていた。
宮殿の門には公告が掲げられている。
『国王一家、午前九時ヴェルサイユ出発。』
『セーヴル経由。』
『午後、テュイルリー宮殿到着予定。』
『護衛は近衛兵及び国民衛兵より構成。』
集まった住民たちは、その紙を読みながら馬車を見ていた。
「本当にパリへ行くのか。」
「追い出されたわけではないらしい。」
「また戻ってくるとも書いてある。」
様々な声が聞こえる。
ルイは宮殿の階段の前で立ち止まった。
振り返る。
ヴェルサイユ宮殿。
人生の大半を過ごした場所。
ここを離れること自体は、初めてではない。
だが今回は違った。
前の人生では、群衆に囲まれて去った。
誰かが叫んでいた。
誰かが槍を振っていた。
衛兵の首が掲げられていた。
王妃は子供たちを抱えていた。
自分は何もできなかった。
今。
門は開いている。
死体はない。
槍の先の首もない。
群衆に囲まれてはいるが、道を塞がれてはいない。
「陛下。」
侍従が声をかける。
ルイは我に返った。
「時間でございます。」
「ああ。」
一歩。
階段を下りる。
もう一歩。
馬車へ近づく。
足が重い。
胸の鼓動が速くなる。
馬車の扉が開いた瞬間。
ルイの呼吸が止まりかけた。
中が暗い。
狭い。
逃げられない。
ヴァレンヌへ向かった馬車の内部が重なる。
「ルイ。」
隣からマリー・アントワネットの声がした。
ルイは振り向く。
王妃は子供の手を握っていた。
「これは、あの馬車ではありません。」
ルイはしばらく答えられなかった。
やがて頷いた。
「分かっている。」
「行き先も分かっています。」
「ああ。」
「誰も隠していません。」
「ああ。」
「なら。」
王妃は馬車を見る。
「乗りましょう。」
ルイは小さく息を吐いた。
そして、自分から馬車へ乗った。
⸻
馬車はヴェルサイユを出た。
沿道には人が集まっていた。
以前の人生と同じように。
それでも、以前とは違う。
国王を捕らえた群衆ではない。
国王が本当に移るのか確認しに来た人々だった。
歓声を上げる者。
無言で見る者。
帽子を取る者。
王妃を睨む者。
子供たちへ手を振る者。
様々だった。
ルイは窓から外を見る。
人が多い。
そのたびに身体が強張る。
誰かが馬車へ近づけば、反射的に奥へ下がりそうになる。
遠くで何かが破裂する音がすると、銃声ではないかと思った。
国民衛兵が道を開く姿を見ると、以前の行進が蘇る。
それでも、馬車を止めろとは言わなかった。
「速すぎるか。」
ルイが御者へ尋ねた。
「通常の速度でございます。」
「そうか。」
馬車は進む。
セーヴルを越える。
パリが近づく。
建物が増える。
人が増える。
声が増える。
やがて、遠くに都市の輪郭が見えた。
ルイの手が震え始めた。
マリー・アントワネットが黙ってその手を握る。
「怖いですか。」
「ああ。」
「私もです。」
王妃は答えた。
それだけだった。
大丈夫とは言わなかった。
何も起きないとも言わなかった。
二人とも未来を知りすぎていた。
だから、嘘はつかなかった。
ただ、手を離さなかった。
⸻
午後。
パリ。
テュイルリー宮殿前。
王家の馬車が近づくと、広場を埋めた人々から大きな声が上がった。
「国王だ。」
「国王が来た。」
「王妃もいる。」
「子供たちもだ。」
声が波のように押し寄せる。
ルイの顔から血の気が引いた。
太鼓の音が鳴る。
国民衛兵が整列するための合図だった。
だがルイには。
一瞬。
別の太鼓に聞こえた。
処刑台の前。
自分の言葉をかき消すために鳴らされた太鼓。
ドン。
ドン。
ドン。
息ができない。
視界が狭くなる。
「ルイ。」
マリー・アントワネットが呼ぶ。
「見てください。」
「……何を。」
「扉を。」
テュイルリー宮殿の正面入口が開いていた。
「閉じていません。」
ルイは扉を見る。
確かに開いている。
兵士が道を作っている。
だが、槍をこちらへ向けてはいない。
「あなたは捕まったのではありません。」
王妃が言った。
「自分でここへ来たのです。」
ルイは何度も息を吸った。
やがて馬車の扉が開く。
外から光が差し込む。
ルイは足を地面へ下ろした。
群衆から歓声が上がる。
身体が震える。
逃げたい。
馬車へ戻りたい。
ヴェルサイユへ引き返したい。
その衝動は消えなかった。
それでも。
一歩。
テュイルリー宮殿へ向かう。
もう一歩。
そして。
正面の階段を上った。
以前の人生では、この宮殿は牢獄への入口だった。
今回は。
少なくとも今は。
自分の意思で選んだ住居だった。
ルイは入口の前で一度だけ振り返った。
広場を埋めるパリの人々を見る。
誰が味方なのかは分からない。
誰が敵なのかも分からない。
おそらく、そのどちらでもない者が大半なのだろう。
パンを求める者。
仕事を求める者。
改革を望む者。
王を愛する者。
王を嫌う者。
政治になど興味がない者。
ただ国王を見に来ただけの者。
その全てが同じ街で生きている。
「ここからか。」
ルイは小さく呟いた。
マリー・アントワネットが隣に立つ。
「何がですか。」
「余が。」
ルイはテュイルリー宮殿の中を見る。
「本当にパリの国王になれるかどうかだ。」
二人は宮殿の中へ入った。
扉は閉じられた。
だが、鍵は掛けられなかった。
少なくとも、この日は。
テュイルリー宮殿は牢獄ではなかった。
そしてルイ十六世は、連行されたのではなかった。
恐怖に震えながらも。
自分の足で、パリへ来たのだった。




