第四十三話 一票なき者たちーーヴェルサイユ行進
一七八九年十月五日。
パリ。
夜明け前から、冷たい雨が降っていた。
石畳は黒く濡れ、排水溝には泥水が流れている。
まだ日も昇っていないというのに、中央市場には長い列ができていた。
パン屋の前。
小麦粉を売る店の前。
人々は濡れた外套を身体へ巻きつけ、少しでも雨を避けようと軒下へ身を寄せている。
列の多くを占めていたのは女性だった。
夫が仕事へ出ている間に、家族のパンを買わなければならない。
子供を抱いた女。
籠を腕へ掛けた女。
市場で魚や野菜を売る女。
夫を失い、一人で家計を支えている女。
まだ薄暗い時間から並んでも、パンを買える保証はない。
小麦粉が届かなければ、店は開かない。
店が開いても、数時間で売り切れる。
しかも、価格は少しずつ上がっていた。
「今日は、一個いくらだ。」
列の中から声が上がった。
パン屋の主人は、戸口から顔を出して答えた。
「まだ分からない。」
「分からないとは何だ。」
「粉が届いていない。」
「昨日も同じことを言ったじゃないか。」
「俺に言うな。」
主人も苛立っていた。
「小麦粉がなければ、パンは焼けない。」
「隠しているんじゃないだろうね。」
「隠すほどあれば、こっちだって商売している。」
戸口の向こうに積まれた籠は空だった。
竈へ火は入っている。
だが、焼くための生地がない。
列の後ろで、幼い子供が泣き始めた。
母親が抱き上げる。
「もう少し待っておくれ。」
「お腹が空いた。」
「分かっているよ。」
そう答えた女自身も、前日からほとんど食べていなかった。
列の中ほどにいたマルグリット・ルノーは、子供の泣き声を聞きながら唇を噛んだ。
中央市場で魚を売っている未亡人だった。
夫は二年前に病で死んだ。
十二歳の息子と八歳の娘を、一人で育てている。
魚が売れなければ収入はない。
収入がなければパンを買えない。
それでも家賃は待ってくれない。
塩にも税が掛かる。
魚を市場へ運ぶにも金が掛かる。
自分は働いている。
税を含んだ価格を毎日支払っている。
それなのに、選挙法では受動市民とされた。
直接税を一定額納めていない。
男性ではない。
その二つの理由によって、国民の代表を選ぶ一票は与えられない。
人権宣言には、人は自由かつ権利において平等であると書かれていた。
だが、パンを買うための列では、自由も平等も腹を満たさなかった。
「人権宣言が出たら、何か変わると思っていた。」
マルグリットの後ろにいた女が言った。
「私もだよ。」
「税が公平になる。」
「パンの値段も少しは下がる。」
「そう聞いた。」
「何も変わっていない。」
列の前方で、大きな声が上がった。
「今日は売れない。」
パン屋の主人だった。
「粉が届くまで、店を開けられない。」
一瞬の沈黙。
その後、女たちの不満が一斉に噴き出した。
「またか。」
「子供に何を食べさせろと言うんだ。」
「どこへ行けば粉がある。」
「ヴェルサイユにはあるんだろう。」
「宮廷では、毎日白いパンを食べている。」
「王様は財政の数字ばかり見て、私たちの食卓を見ていない。」
パン屋の主人は、慌てて戸を閉めようとした。
誰かが戸を押さえる。
別の女が止めに入った。
「パン屋を壊しても、粉は出てこない。」
「では、どこへ行けばいい。」
「市庁舎だ。」
マルグリットが答えた。
周囲の視線が集まる。
「パリの役人に聞く。」
「小麦粉はどこにあるのか。」
「いつ届くのか。」
「誰が止めているのか。」
「また、待てと言われたら。」
マルグリットは雨の向こう、ヴェルサイユのある方角を見た。
「その時は、王様と議会へ直接聞く。」
女たちは列を離れ始めた。
最初は数十人だった。
パンを買えなかった者たちが、市庁舎へ向かって歩き出す。
市場の別の通りで、その話を聞いた女たちが加わる。
洗濯女。
針仕事で暮らす女。
魚売り。
野菜売り。
酒場で働く女。
子供を抱いた母親。
一人暮らしの未亡人。
「市庁舎へ行く。」
「パンを求める。」
「ヴェルサイユへ請願を持っていく。」
声が広がるにつれ、人数が増えていった。
誰かが古い太鼓を持ち出した。
一定の調子で打ち鳴らす。
雨音へ太鼓の音が重なった。
市庁舎へ到着した時には、数百人となっていた。
市の役人たちは、突然押し寄せた群衆を前に戸惑った。
「代表者を選んでください。」
窓口の役人が呼びかけた。
「全員が中へ入ることはできません。」
「代表なら、この間選んだじゃないか。」
群衆の中から声が飛んだ。
「私たちは選べなかったけどね。」
笑いが起きた。
だが、その笑いには怒りが混じっていた。
マルグリットを含む数人が、女性たちの代表として市庁舎へ入った。
役人は穀物輸送の記録を示した。
地方からパリへ向かう小麦。
製粉所へ送られる穀物。
パン屋へ配られる小麦粉。
数字の上では、全てが完全に止まっているわけではない。
だが、予定どおり届いていない荷車がある。
街道で止められたもの。
地方の市場で高く売れるため、パリへ来る前に売られたもの。
略奪を恐れて出発を遅らせている商人。
通行税や輸送費を巡り、役人と争っている者。
一つ一つの遅れが重なり、パリのパン屋へ粉が届かなくなっていた。
「では、いつ届く。」
マルグリットが尋ねた。
「手配しています。」
「いつだ。」
「数日中には。」
「今日、子供に食べさせるパンを聞いている。」
役人は答えられなかった。
「ヴェルサイユの政府にも報告を送っています。」
「返事は。」
「まだです。」
「ならば、私たちが取りに行く。」
マルグリットは言った。
「王様と国民議会へ、直接答えてもらう。」
役人が慌てる。
「雨の中を歩くのですか。」
「ここで待っていれば、パンが出てくるのか。」
「大勢で宮殿へ向かえば、暴動と受け取られます。」
「私たちはパンを求めている。」
マルグリットは答えた。
「王様の首を取りに行くんじゃない。」
その言葉を聞き、市庁舎の役人の顔が強張った。
冗談として口にするだけでも危険な言葉だった。
だが、群衆の中には、その言葉を笑う者もいた。
笑わない者もいた。
市庁舎を出た女性代表は、ヴェルサイユへ請願を届けると発表した。
請願書には、三つの要求が書かれた。
パリへ運ばれる穀物と小麦粉の量、保管場所、輸送予定を公開すること。
街道での略奪と不正な買い占めを防ぎ、速やかに小麦粉を届けること。
市場で働く女性の代表にも、食糧供給の審議へ参加することを認めること。
「選挙権まで求めないのか。」
若い女が尋ねた。
マルグリットは首を横へ振った。
「今日、子供が腹を空かせている。」
「まずパンだ。」
「それに。」
彼女は請願書を持ち上げた。
「選挙権を認めるか決めるのは、結局あの人たちだ。」
「ならば、私たちが何も分からない女ではないと、先に見せてやる。」
午前。
行進が始まった。
パリからヴェルサイユまで、およそ二十キロ。
雨は止まない。
女たちは濡れた石畳と泥の街道を歩いた。
靴の中へ水が入り、裾は泥にまみれた。
子供を家へ置いてきた者。
幼い子を背負って歩く者。
空の籠を腕へ掛けた者。
籠の底を叩きながら、「パンを。」と声を上げる者。
最初は市場の女性が中心だった。
だが、行進がパリを出る頃には、失業した職人や労働者も加わっていた。
中には棒を持つ者がいる。
古い槍を持つ者。
腰へ包丁を差した者。
武器を持たず、ただ一緒に歩く男もいる。
酒を飲み、王妃を侮辱する言葉を叫ぶ者まで混じり始めた。
「オーストリア女の倉庫を開けろ。」
男の一人が叫んだ。
マルグリットが振り返った。
「王妃の悪口を言うために来たなら、パリへ帰りな。」
「何だと。」
「私たちはパンを取りに行く。」
「宮殿を襲いに行くんじゃない。」
「女が命令するのか。」
「この行進を始めたのは女だ。」
周囲の女性たちがマルグリットの側へ集まった。
男は舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。
しかし、行進の人数が増えるほど、誰が何を目的としているのか分からなくなった。
パンを求める者。
選挙権を求める者。
領主制廃止を求める者。
王家をパリへ移したい者。
混乱へ乗じて略奪しようとする者。
同じ街道を歩いていても、望むものは違っていた。
午後。
ヴェルサイユ宮殿。
「陛下。」
侍従が、ほとんど駆け込むように国王の執務室へ入ってきた。
「パリから、数千人の群衆がこちらへ向かっております。」
ルイの手から、読んでいた書類が落ちた。
「何人だ。」
「最初の報告では二千。」
「現在は、五千を超えるとも。」
「武器は。」
「大半は持っておりません。」
「ですが、棒、槍、包丁を持つ者が混じっています。」
「男もいるのか。」
「はい。」
ルイの顔から血の気が引いた。
十月五日。
パリの女性たちが、雨の中をヴェルサイユへ行進する。
史実と同じ日だった。
バスティーユ牢獄は陥落していない。
大恐怖も起きなかった。
人権宣言を受け入れた。
議会を定期的に開くことも認めた。
停止的拒否権についても、国民議会と協力して決めた。
選挙制度まで話し合った。
歴史は変わったと思っていた。
それでも、女性たちはヴェルサイユへ向かっている。
「来る。」
ルイが呟いた。
「また、来る。」
「陛下。」
「門を破る。」
「衛兵が殺される。」
「王妃の寝室へ入る。」
「マリーを殺そうとする。」
「余たちはパリへ連れていかれる。」
ルイの呼吸が急激に速くなった。
胸へ手を当てる。
空気が入ってこない。
壁が迫ってくる。
廊下の向こうから、群衆の足音が聞こえるような気がした。
「馬車を。」
ルイは叫びかけた。
逃げなければならない。
群衆が到着する前に、宮殿を離れる。
モンメディ。
ランブイエ。
どこでもよい。
人のいない場所へ逃げる。
だが、言葉が途中で止まった。
逃げれば、またヴァレンヌへ続く。
国王は国民を捨てたと見なされる。
信用を失う。
処刑台へ戻る。
「馬車を。」
侍従が命令を待っている。
ルイは目を閉じた。
マリー・アントワネットへ全てを打ち明けた夜を思い出す。
今夜は逃げない。
二人で考える。
あの約束を、再び破るのか。
「用意するな。」
ルイは絞り出すように命じた。
「馬車は出さない。」
身体は逃げろと叫んでいた。
足は今にも扉へ向かいそうだった。
それでも、椅子へ座り直した。
報告を聞きつけた大臣と廷臣たちが、次々に執務室へ集まってきた。
保守派は、宮殿の門を閉じ、衛兵を配置するよう求めた。
「陛下。」
「群衆が到着する前に、道路を封鎖すべきです。」
「宮殿へ近づけてはなりません。」
「軍隊を出し、パリへ押し戻すのです。」
ルイの身体が震えた。
兵を出さなければ、群衆に踏み殺された。
兵を集めれば、民衆が恐怖し、バスティーユを襲った。
どちらの記憶も残っている。
「兵士は宮殿と家族を守るために残す。」
ルイは慎重に答えた。
「だが、街道へ進軍させない。」
「群衆へ大砲を向けない。」
「門を守り、武器を持って侵入しようとする者だけを止める。」
「陛下。」
「数千人を門前まで来させるおつもりですか。」
「遠くで兵と衝突させるよりはよい。」
「宮殿が包囲されます。」
「では、撃つのか。」
ルイの声が震えた。
「パンを求めて歩いてくる女たちを。」
誰も答えられなかった。
ネッケルが発言した。
「代表者を選ばせ、まず国民議会で請願を受けるべきです。」
「その後、陛下が代表者へお会いになる。」
保守派の廷臣が反対する。
「国王が群衆の要求を聞けば、大勢で押しかければ王を動かせるという前例になります。」
「聞かなければ、彼らは自分たちで扉を開けようとします。」
ネッケルは答えた。
「しかも、今回の要求には理由があります。」
「パリの小麦粉供給は不安定です。」
「輸送の遅れと買い付け競争が重なり、パン屋へ粉が届いていない。」
「では、政府の失敗だと。」
「原因の全てが政府ではありません。」
「ですが、政府が何を行っているかを説明していないことは、我々の責任です。」
扉が開き、マリー・アントワネットが入ってきた。
夫の様子を聞き、私室から来たのだった。
ルイは妻の姿を見ると、わずかに呼吸を取り戻した。
「マリー。」
「聞きました。」
王妃は夫の側へ立ち、その冷たい手を握った。
「史実と同じだ。」
ルイが小さな声で言った。
「女たちが来る。」
「君を殺そうとする。」
「まだ、そう決まったわけではありません。」
「余は見た。」
「彼女たちは王妃の部屋へ入る。」
「衛兵が殺される。」
「君は逃げる。」
「そして余たちは。」
「今来ている女性たちは、あなたが見た者たちと全く同じなのですか。」
王妃が尋ねた。
ルイは答えられなかった。
同じ日。
同じ雨。
同じパリの女性たち。
だが、この世界ではバスティーユ襲撃が起きていない。
王家と国民議会の関係も違う。
選挙から女性を除外した直後でもある。
歴史は似ている。
だが、全く同じとは限らない。
「彼女たちは受動市民と呼ばれました。」
マリー・アントワネットは言った。
「ですが、母親として子供のパンを求めることまで、受動的ではいられないのでしょう。」
「余に会わせろと。」
「会ってください。」
「怖い。」
「ええ。」
「殺されるかもしれない。」
「衛兵を置き、少人数の代表と会えばよいのです。」
王妃は夫の手を強く握った。
「逃げないと決めたのでしょう。」
ルイは長く震えた後、小さく頷いた。
「代表者と会う。」
夕刻。
行進はヴェルサイユへ到着した。
雨に濡れ、泥にまみれた数千人の人々が、宮殿と国民議会の周辺へ集まった。
疲労。
空腹。
怒り。
期待。
パリから二十キロを歩いてきた者たちは、簡単な約束だけを聞いて帰るつもりはなかった。
宮殿の門は閉じられていた。
衛兵が配置されている。
だが、銃口は群衆へ向けられていない。
大砲も置かれていない。
国民議会は、女性たちから代表を選ぶよう求めた。
マルグリットを含む十数人が、議場へ入った。
濡れた服。
泥のついた靴。
高価な衣装も、教育を受けた者の話し方も持たない。
それでも、彼女たちは何千人もの声を背負って中央へ立った。
議長が尋ねた。
「何を求めますか。」
マルグリットは請願書を開いた。
「パンです。」
議場が静まった。
「私たちは、法律を読みに来たんじゃない。」
「人権宣言を否定しに来たんでもない。」
「子供が、今日食べるパンを求めて来ました。」
「パリへ小麦粉が届かない。」
「パン屋は、粉がないと言う。」
「役人は、数日待てと言う。」
「子供の腹は、数日待ってくれません。」
一人の議員が答えた。
「議会は、穀物を生み出すことはできません。」
「分かっています。」
マルグリットは言った。
「だから、どこにあるのか聞きに来た。」
「どの倉庫に、いくらある。」
「何台の荷車が、いつパリへ着く。」
「途中で誰が止めている。」
「それを教えてください。」
議員たちは顔を見合わせた。
彼女たちは、ただパンを安くしろと叫んでいるのではなかった。
市場で毎日食糧を扱っている。
どの道から魚や野菜が届くのか。
雨が続けば何が遅れるのか。
商人が値上がりを待てば、荷がどこで止まるのか。
生活を通じて、供給の仕組みを知っていた。
「それから。」
マルグリットは続けた。
「食糧について話し合う場所へ、市場の女も入れてください。」
議場がざわついた。
「選挙権を求めているのですか。」
議員が尋ねる。
「今日は違います。」
「ですが、私たちの知らないところで、私たちが買うパンのことを決めないでほしい。」
「商人。」
「役人。」
「パン屋。」
「議員。」
「そこへ、毎日パンを買う者も加えてください。」
「女は議員ではない。」
保守派の議員が言った。
「食糧行政の専門家でもない。」
マルグリットは、その議員を見た。
「あなたは、今朝パン屋へ何時から並びました。」
議場の一部から笑いが起こった。
保守派議員は顔を赤くした。
「国政と買い物は違う。」
「国政が失敗すると、私たちの買い物からパンが消える。」
マルグリットは言い返した。
大きな拍手が傍聴席から起こった。
議長が静粛を求める。
女性代表たちは、その後、国王との面会を認められた。
宮殿の一室。
ルイは椅子へ座り、彼女たちを待っていた。
立って迎えようとしたが、膝の震えが止まらなかった。
マリー・アントワネットが隣にいる。
衛兵は壁際へ控えているが、剣を抜いてはいない。
扉が開き、濡れた衣服の女性たちが入ってきた。
ルイの呼吸が止まりかけた。
彼女たちの背後に群衆が見えた。
槍。
処刑台。
革命広場。
板が首へ降りてくる。
マリー・アントワネットの指が、机の下で夫の手へ触れた。
今は違う。
ルイは必死に自分へ言い聞かせた。
「近くへ。」
声が掠れた。
「請願を聞きたい。」
マルグリットたちが国王の前へ進んだ。
国王が自分たちを見て怯えていることへ、すぐに気づいた。
顔色は悪い。
手が震えている。
何度も首へ触れようとしている。
マルグリットは、少し困惑した。
自分たちは国王を恐れてここまで来たわけではない。
国王の方が、自分たちを恐れているとは思っていなかった。
「陛下。」
「何だ。」
「私たちは、陛下を殺しに来たのではありません。」
ルイの肩が大きく震えた。
あまりに直接的な言葉だった。
衛兵が動きかける。
ルイは片手を上げて止めた。
「分かっている。」
実際には、完全には信じられていなかった。
「パンを求めて来ました。」
「ああ。」
「約束だけでは帰れません。」
マルグリットは言った。
「何をすればよい。」
国王から尋ねられるとは思っていなかったのか、女性たちは互いの顔を見た。
「まず。」
マルグリットは答えた。
「ヴェルサイユとパリ周辺に、どれだけ小麦があるのかを見せてください。」
「次に、いつ、何台の荷車をパリへ送るのか決めてください。」
「街道で奪われないよう、守ってください。」
「ですが、兵士が小麦を別の場所へ運ばないよう、私たちにも見張らせてください。」
「役人を信用していないのか。」
「役人は、数日待てと言いました。」
マルグリットは答えた。
「だから、自分の目で見たいのです。」
ルイはネッケルへ視線を向けた。
ネッケルが用意していた資料を開く。
「ヴェルサイユと近隣の政府倉庫、軍用倉庫には、一定量の穀物があります。」
「ただし、全てを放出すれば、軍と救貧施設の供給が不足します。」
「今夜、緊急分として放出できる量を計算します。」
「地方から購入済みの穀物もあります。」
「護衛を付け、パリへ優先的に運ばせます。」
マルグリットが尋ねる。
「いつ出ます。」
「明朝。」
ネッケルが答えた。
「夜のうちに荷車を集め、積み込みます。」
「何台です。」
ネッケルは係官へ確認した。
「最初の便は、集められる限りで三十台前後。」
「それだけでパリ全体を満たせるのか。」
「満たせません。」
ネッケルは正直に答えた。
「数日分の不足を全て解決する量ではありません。」
「ですが、最初の供給にはなります。」
「その後の便も、出発日と荷の量を公表します。」
ルイが続けた。
「パリの市当局。」
「国民議会の食糧担当委員。」
「穀物商。」
「製粉業者。」
「パン屋。」
「そして、市場で選んだ女性代表。」
「それらによる臨時の食糧供給委員会を作る。」
廷臣の一人が驚いて声を上げた。
「陛下。」
「選挙資格を持たない者を、国家の委員会へ加えるのですか。」
「法律を作る議会ではない。」
ルイは答えた。
「食糧の量と輸送を確認する行政上の委員会だ。」
「毎日市場を見ている者の知識を使う。」
「だが。」
「余たちは、能力によって公務へ関われる国家を作ると宣言した。」
ルイは女性たちを見た。
「市場の状態を最もよく知る者が女であるなら、女を入れない理由はない。」
女性代表の間に、驚きが広がった。
マリー・アントワネットも、夫の横顔を見た。
数日前、自分へ「女性の選挙権については分からない。」と答えた男だった。
今も、選挙制度を変えたわけではない。
それでも、女性を守られるだけの受動的な存在として扱うことを、少しずつやめようとしていた。
「委員会は、穀物の入荷量、在庫、製粉量、パン屋への配分、平均価格を毎週公表する。」
ルイは言った。
「荷車へ同行する者も、女性代表の中から選んでよい。」
「本当に。」
マルグリットが尋ねた。
「本当に、私たちへ帳簿を見せるのですか。」
「見せる。」
「都合の悪い数字も。」
ルイは一瞬、ネッケルを見た。
「都合の悪い数字ほど、隠してはいけないらしい。」
ネッケルがわずかに苦笑した。
会見は、それで終わらなかった。
マリー・アントワネットが女性たちへ尋ねた。
「市場では、パンはいくらになっているのです。」
女性の一人が答えた。
王妃が細かな価格を知らないことへ、露骨に不満を見せる者もいた。
「陛下の食卓には、毎日パンがあるのでしょう。」
「あります。」
王妃は否定しなかった。
「だから、私にはあなた方の空腹を完全には理解できません。」
女性たちが黙った。
言い訳をすると思っていた。
「ですが、知らないままでよいとも思いません。」
王妃は続けた。
「王室が購入している小麦粉とパンの量も、委員会へ示します。」
「宮殿が市民の分を奪っているという噂が事実でないなら、数字によって説明できます。」
「必要以上の在庫があるなら、放出します。」
マルグリットは、王妃をじっと見た。
市場で語られるオーストリア女。
国庫を使い果たし、国民の飢えを笑っている王妃。
目の前にいる女は、高価な服を着ている。
空腹を知らない。
それでも、噂の中にいる怪物と同じには見えなかった。
信じたわけではない。
だが、直接見たことで、憎む対象が一人の人間へ変わった。
「明日の朝。」
マルグリットが言った。
「荷車を見届けます。」
「そうしてくれ。」
「何も出なければ、また来ます。」
その言葉に、ルイの身体が強張った。
それでも頷いた。
「その時は、なぜ出なかったのか説明する。」
女性代表が会見を終えて外へ出ると、群衆へ結果を伝えた。
明朝、穀物を積んだ荷車がパリへ向かう。
市場女性の代表が積み込みと輸送へ立ち会う。
食糧供給委員会へ女性代表が加わる。
政府と王室の在庫を公表する。
群衆の多くは歓声を上げた。
しかし、全員が納得したわけではない。
「三十台で何が変わる。」
「また約束だけかもしれない。」
「国王をパリへ連れていけば、毎日我々の声が届く。」
男たちの一部が声を上げた。
「王をパリへ。」
「王家を宮殿から出せ。」
マルグリットたちは反対した。
「今日はパンを求めに来た。」
「王様をさらいに来たんじゃない。」
「パリへ戻れば、また忘れられる。」
「だから委員会へ代表を残す。」
「女が国王を守るのか。」
「国王ではない。」
マルグリットは答えた。
「私たちの請願を守っている。」
夜。
雨は弱まったが、群衆の多くはヴェルサイユへ残った。
翌朝の荷車を、自分の目で確認するためだった。
国民議会の周辺。
市場の広場。
宮殿前の街路。
人々は軒下や仮設の火の周囲へ集まり、濡れた服を乾かした。
政府はヴェルサイユのパン屋へ命じ、可能な限りのパンを供給させた。
それでも、全員へ十分に行き渡る量はない。
酒が回り、怒鳴り声が増えた。
行進へ途中から加わった一部の男たちは、門の近くで集まり始めた。
「王は逃げるかもしれない。」
「朝まで待つな。」
「今のうちに宮殿へ入れ。」
深夜。
十数人が宮殿の通用門へ近づいた。
扉を押し、衛兵へ開けるよう要求する。
「国王が逃げないか確認する。」
「代表者が会った。」
衛兵は答えた。
「朝まで待て。」
男の一人が棒で門を叩いた。
金属音が夜の宮殿へ響いた。
ルイは寝室で飛び起きた。
「来た。」
全身が震え始める。
「門を破った。」
「まだ破られていません。」
マリー・アントワネットが夫の肩をつかんだ。
廊下では衛兵が走っている。
扉が次々に閉じられる。
過去の宮殿襲撃と同じ音だった。
「逃げ道を。」
ルイが言った。
「裏門から。」
言い終わる前に、王妃が夫の手を握った。
「あなた。」
「分かっている。」
ルイは目を閉じた。
「逃げない。」
言葉にしても、足は扉の方角を向いている。
「逃げない。」
もう一度繰り返した。
宮殿前では、騒ぎに気づいた市場の女性たちが門へ駆けつけていた。
「何をしている。」
マルグリットが男たちの前へ立った。
「王が逃げる前に押さえる。」
「国王は逃げないと約束した。」
「王の約束を信じるのか。」
「信じられるかどうか、朝になれば分かる。」
「退け。」
男がマルグリットを押そうとした。
周囲の女たちが一斉に前へ出た。
「私たちの行進を、宮殿泥棒の口実にするな。」
「パンを取りに来た。」
「血を流しに来たんじゃない。」
門を守る衛兵も剣を抜かなかった。
指揮官は、直ちに発砲しないという国王の命令を守っていた。
女性たちと男たちが押し合いになった。
怒鳴り声。
門を叩く音。
衛兵の警告。
緊張は続いた。
やがて、人数で勝る市場の女性たちが、侵入を試みた男たちを門から遠ざけた。
大きな流血は起きなかった。
衛兵の一人が腕を負傷し、女の一人が転んで膝を切った。
それだけで済んだ。
報告を受けたルイは、寝台の端へ座り込んだ。
「女たちが止めたのか。」
「はい。」
「彼女たち自身が。」
マリー・アントワネットが答えた。
「あなたの言葉を信じたからではないかもしれません。」
「自分たちの請願を、暴動へ変えられたくなかったのでしょう。」
「同じことだ。」
ルイは震えながら言った。
「少なくとも、朝まで待ってくれた。」
夜明け前。
ヴェルサイユと周辺の倉庫では、穀物の積み込みが行われていた。
役人。
兵士。
荷車の御者。
国民議会の委員。
そして市場女性の代表。
袋の数を一つずつ確認する。
帳簿へ記録する。
荷車ごとの行き先を決める。
途中で別の市場へ売られないよう、封印を付ける。
護衛の兵士には、穀物を守るための武器は与えられた。
だが、沿道の住民へ威嚇的な態度を取らないよう命じられた。
朝。
空が白み始める頃、三十台を超える荷車が宮殿前へ並んだ。
穀物袋。
小麦粉。
一部には、ヴェルサイユのパン屋が夜通し焼いたパンも積まれている。
群衆の間から歓声が上がった。
十分な量ではない。
パリ全体を何週間も養えるわけではない。
それでも、何も積まれていない約束だけではなかった。
マルグリットは一台目の荷車へ上がり、袋の封印を確認した。
ルイとマリー・アントワネットも、宮殿の入口まで出ていた。
ルイの顔色は悪い。
群衆を前にすると、足が震える。
衛兵へ囲まれていなければ立っていられないほどだった。
それでも、室内には隠れなかった。
マルグリットが国王へ声をかけた。
「陛下。」
ルイは身体を強張らせながら、彼女を見る。
「約束の荷車は見ました。」
「ああ。」
「次の便も、帳簿へ書いてください。」
「書かせる。」
「書いてあるだけでは駄目です。」
「分かっている。」
「届くまで、見届けます。」
ルイは小さく頷いた。
「頼む。」
国王から頼むと言われ、マルグリットは少し驚いた。
「市場の者は。」
ルイは続けた。
「紙の上の数字が、本当にパンへ変わったかを見てほしい。」
「余たちには、そこまで見えていなかった。」
「では、見てきます。」
荷車が動き始めた。
女性たちは、その前後を歩いた。
パリから雨の中を歩いてきた道を、今度は穀物と共に戻っていく。
「パンを持って帰る。」
声が上がる。
「帳簿も持って帰る。」
別の女が叫んだ。
笑いが起こった。
国王と王妃をパリへ連れていくことはなかった。
宮殿の衛兵も殺されなかった。
王妃の寝室へ群衆が侵入することもなかった。
王家はヴェルサイユへ残った。
史実とは違う十月六日の朝だった。
しかし、全てが以前のまま保たれたわけではない。
市場の女性たちは、食糧供給委員会へ代表を送る権利を得た。
国民議会は、請願を受け取るだけではなく、選挙権を持たない者を行政上の審議へどのように参加させるかを検討し始めた。
王室と政府は、穀物在庫と輸送予定を公表することになった。
市場の女たちは、国政が遠い宮殿の中だけで行われるものではないと証明した。
だが、別の前例も残された。
大勢でヴェルサイユへ歩けば、国王と議会を動かせる。
門前へ集まり、帰らずに待てば、約束を具体的な行動へ変えさせられる。
今回はパンを求める女性たちが、暴力を望む者を止めた。
次に集まる群衆も、同じように自制するとは限らない。
ルイは、遠ざかっていく荷車と人々を見つめていた。
「終わったのですか。」
マリー・アントワネットが尋ねた。
「今日は。」
ルイは答えた。
「だが、また来る。」
「次も、話を聞けばよいのです。」
「話を聞くだけでは足りない時が来るかもしれない。」
ルイは自分の首へ手を当てた。
「それでも。」
王妃が、その手を包んだ。
「今日は逃げませんでした。」
「ああ。」
「兵士に撃たせませんでした。」
「ああ。」
「そして、彼女たちはパンを持って帰りました。」
ルイは、ゆっくりと頷いた。
一票を持たない者たちは、自分の足で二十キロを歩いた。
議場へ入る資格を持たない者たちは、議場の外まで声を運んだ。
彼女たちは王政を倒さなかった。
だが、政治が選挙権を持つ者だけのものではないことを、国王と議会へ認めさせた。
バスティーユの石壁は崩れなかった。
ヴェルサイユ宮殿も占領されなかった。
それでも、王と国民の間にあった見えない壁の一つは、一票なき者たちの足音によって確かに崩れ始めていた。




