第四十二話 王の一票
一七八九年九月。
ヴェルサイユ宮殿。
憲法制定国民議会。
議会の定期開催について、基本原則が決められた。
国民議会は、憲法によって定められた日に毎年開かれる。
国王は、王国の元首として議会の開会を宣言し、国家の状況を報告する権利と義務を持つ。
国王が開会を拒んでも、定められた日になれば議会は自動的に開かれる。
戦争、凶作、財政危機などの重大な事態が生じた時には、国王も臨時議会を召集できる。
国王の権利は、国民の声を閉ざすことではなく、国民の代表を国家へ呼び集めることとされた。
だが、議会を開いた後、国王が何をできるのかは決まっていなかった。
憲法草案の次の頁。
そこには、ルイ十六世が何度も恐れてきた言葉が記されていた。
『国王拒否権』
議会が可決した法律を、国王は拒否できるのか。
国王の同意がなければ、法律は成立しないのか。
それとも、国王は議会の決定へ無条件に従わなければならないのか。
国民主権と王政を両立させる上で、避けることのできない問題だった。
ルイは、前世で成立した一七九一年憲法を思い出していた。
あの憲法でも、国王には停止的拒否権が認められた。
議会の法律を永久に葬ることはできない。
一定期間だけ成立を止め、次の議会へ判断を委ねる権利だった。
しかし、その限られた権利でさえ、国民の疑いを招いた。
亡命貴族への処罰。
宣誓を拒む聖職者への措置。
革命を守るために必要だと議会が考えた法律へ、ルイは拒否権を用いた。
その結果、国王は革命の敵と見なされた。
パリでは、国王を嘲る言葉が広がった。
「拒否権氏。」
ムッシュー・ヴェト。
王が拒否権を使うたび、議会と国民の間へ立ちはだかる存在として描かれた。
拒否権は王政を守らなかった。
むしろ、国王が国民の意思を妨げているという証拠として使われた。
ルイには、それが分かっていた。
だからこそ、拒否権という言葉を見るだけで、首筋に冷たい感覚が走った。
拒否権を求めれば、また同じ道へ進むかもしれない。
だが、拒否権を持たなければ、国王は議会が決めたことを実行するだけの存在になる。
議会が過ちを犯しても止められない。
多数派が人権宣言へ反する法律を作っても、行政の長として実行しなければならない。
どちらを選んでも、危険がある。
議長が木槌を鳴らした。
「本日の議題は、国王による法律の裁可及び拒否権についてである。」
議場が静まる。
憲法委員会の議員が、複数の案を読み上げた。
「第一案。」
「国民議会が可決した法律は、国王の裁可を得なければ成立しない。」
「国王が裁可を拒否した場合、その法案は廃案となる。」
「絶対的拒否権である。」
王党派の席から拍手が起こった。
「第二案。」
「立法権は国民議会へ完全に属する。」
「議会が可決した法律は、国王の同意を必要とせず成立する。」
「国王に拒否権を認めない。」
今度は急進的な改革派から拍手が起こった。
「第三案。」
「国王は、議会へ法案の再審議を求めることができる。」
「議会が再び同じ法案を可決した場合には、国王の裁可を得ず成立する。」
「一回限りの再議要求権である。」
「第四案。」
「国王は、議会が可決した法案の成立を一定期間停止できる。」
「ただし、後に選ばれる議会が同じ法案を繰り返し可決した場合、国王の裁可がなくとも法律として成立する。」
「停止的拒否権である。」
四つの案。
それぞれが、異なる王と議会の関係を作る。
王党派の侯爵が最初に立ち上がった。
「絶対的拒否権以外に、王政を守る方法はない。」
議場へ力強い声が響いた。
「国王は一つの選挙区から選ばれた代表ではない。」
「パリの代表でも、ブルターニュの代表でも、第三身分だけの代表でもない。」
「王国全体を、世代を越えて代表する存在だ。」
「議員は数年で入れ替わる。」
「その時々の情勢と世論に左右される。」
「だが、国王は国家の継続性を守る。」
「一時の熱狂によって作られた法律が、王国を破壊することを防ぐ責任がある。」
改革派の議員が立ち上がった。
「国王が常に冷静で、議会だけが常に熱狂すると、なぜ言えるのです。」
「国王も一人の人間です。」
「誤った助言を受ける。」
「宮廷の利益へ影響される。」
「自らの権力を守るため、国民に必要な法律を拒む可能性もある。」
「絶対的拒否権を認めれば、国民全体の代表が可決した法律を、一人の人間が永久に消せる。」
「それは国民主権ではない。」
侯爵は反論する。
「では、議会の多数派が貴族の土地を全て補償なく奪う法律を可決したらどうする。」
「特定の信仰を禁止したら。」
「国王を支持する新聞を全て閉鎖したら。」
「少数者を守る者が必要だ。」
「人権宣言と裁判所が守るべきです。」
「その裁判所を作る法律も、議会が決めるのではないか。」
議場がざわめいた。
国王の専制。
議会の専制。
どちらも起こり得る。
権力を一か所へ集めれば、決断は早くなる。
だが、その権力が誤った時に止める者がいなくなる。
次に、拒否権を一切認めない案を支持する議員が立ち上がった。
「法律は一般意思の表現である。」
「国民の代表が可決した法律を、国王が拒むことはできない。」
「国王は行政権を持つ。」
「議会が作った法律を忠実に執行する。」
「それで十分である。」
王党派から怒号が飛んだ。
「それでは国王は議会の雇われ人ではないか。」
「王政の名だけを残した共和国だ。」
「行政を担う者が、実行不可能な法律へ何の意見も述べられない方がおかしい。」
拒否権を認めない議員は、さらに続けた。
「国王へ拒否権を与えれば、その一度一度が国民との対立になる。」
ルイの身体が強張った。
まるで、自分の未来を見てきたかのような言葉だった。
「国民議会が必要と認めた法律を、国王が拒む。」
「国民は、王が特権と旧制度を守ろうとしていると考える。」
「国王は、自分には国家を守る責任があると考える。」
「双方が、自分こそ国民を守っていると主張する。」
「その結果、王と議会は互いを敵と見なすようになる。」
ルイの耳の奥で、群衆の声が蘇った。
拒否権を撤回しろ。
大臣を戻せ。
革命を裏切るな。
一七九二年六月二十日。
テュイルリー宮殿へ押し入った群衆。
頭へ載せられた赤い帽子。
机の下で震えていた両膝。
ルイは無意識に椅子の端をつかんだ。
このまま史実通りの議論へ進めば、また停止的拒否権が認められる。
自分はそれを使う。
国民から敵と見なされる。
最後には王政が倒れる。
ならば、拒否権以外の方法を考えなければならない。
「発言を求めたい。」
ルイは立ち上がった。
議長が国王へ視線を向ける。
「陛下の発言を認めます。」
「私は。」
ルイは一度、乾いた唇を舐めた。
「これらとは別の案を提案したい。」
議場が静まった。
「国王へ、拒否権を与えるのではなく。」
ルイは議員たちを見渡した。
「国王も、他の議員と同じように一票を持つことはできないだろうか。」
数秒間、誰も声を上げなかった。
意味を理解するまでに時間が掛かった。
その後、議場は爆発したような騒ぎに包まれた。
「国王が一票。」
「他の議員と同じだと。」
「陛下。」
王党派の侯爵が、ほとんど叫ぶように声を上げた。
「お考え直しください。」
「フランス国王を、千人を超える議員の一人へ落とすおつもりですか。」
「一票ではないか。」
ルイは答えた。
「議員も一人一票を持つ。」
「余も議論を聞き、自分の考えを述べ、最後に一票を投じる。」
「反対する時には、法律そのものを止めるのではなく、反対票を一つ投じる。」
「賛成する時には、賛成票を一つ投じる。」
「それなら、国王が国民議会の外から意思を押しつけるのではなく、議会の中で責任を分け合える。」
侯爵の顔が赤くなった。
「国王の一票が、地方の一議員と同じ価値しか持たないのですか。」
「法律の決定においては、同じ一票だ。」
「それは王権の放棄です。」
王党派席から怒号が飛ぶ。
「陛下はご自身を、市民の一人へ引き下げられるおつもりか。」
「国王は国民と同じではない。」
「国王は国家そのものだ。」
「千人が誤った決断をしても、国王が一人で王国を守らなければならない。」
ルイの胸が締めつけられた。
自分でも、この提案が王権を大きく変えることは理解していた。
だが、拒否権を持てば、いずれ拒否する。
拒否すれば、国民から憎まれる。
一票だけなら、国王が反対しても法案は多数決で成立する。
国民の意思を妨げたと非難されることはない。
処刑台へ続く一つの道を、消すことができるかもしれない。
「国王が国民の一人であって、何が悪い。」
ルイは言った。
「王が国民ではないなら、何者なのだ。」
議場が再び騒然となった。
「陛下。」
侯爵の声が震えていた。
「王は国民の一人ではありません。」
「国民全体を体現する存在です。」
「王冠を議員の椅子一つへ置き換えるなど、王政を自ら破壊する行為です。」
今度は急進派の議員が立ち上がった。
「私も、陛下の案には反対します。」
ルイは驚いて彼を見た。
王党派が反対することは予想していた。
国王の権限を減らしたい改革派なら、賛成すると思っていた。
「なぜだ。」
「議員は、国民から選ばれます。」
急進派議員は答えた。
「陛下は、どの選挙区から選ばれたのですか。」
「選ばれてはいない。」
「では、その一票は世襲の一票です。」
議場が静まった。
「人権宣言は、全ての市民が能力と功績以外の区別なく公職へ就く資格を持つと定めました。」
「国王が生まれによって一票を持つなら、世襲による立法権を一つ残すことになります。」
「一票だけなら問題ないと。」
「数ではありません。」
議員は答えた。
「立法権の根拠の問題です。」
別の改革派議員も立ち上がった。
「それに、国王の一票が、本当に我々の一票と同じになるでしょうか。」
「どういう意味だ。」
「国王が賛成すると公言した法案へ反対すれば、官職を失うかもしれない。」
「宮廷から遠ざけられるかもしれない。」
「自分の選挙区が不利益を受けるかもしれない。」
「そう恐れる議員が現れます。」
「余は、そのような報復をしない。」
「陛下ご自身がなさらなくても、大臣や廷臣が国王の名を利用する可能性があります。」
「国王が議場にいるだけで、形式上は一票でも、実際には何十票、何百票へ影響を与える。」
ルイは答えられなかった。
議場へ国王が入るだけで、空気が変わる。
国王が見ている前で、本当に全ての議員が自由に発言できるのか。
六月二十三日の王室会議では、国王の命令へ従わず残った議員たちさえ、王が現れた時には緊張した。
国王の一票は、紙の上では一票であっても、現実には普通の一票ではない。
法律家の議員が、さらに別の問題を指摘した。
「陛下は行政権を担われます。」
「法律を執行する者が、その法律を作る議会の一員にもなる。」
「それでは、立法権と行政権の分離が曖昧になります。」
「大臣が提出した法案へ国王が投票し、成立した後は国王が執行する。」
「その法律に問題が起きた時、国王は立法者として責任を負うのですか。」
「それとも、国王は不可侵であるため責任を負わないのですか。」
「議員と同じ一票を持ちながら、議員と同じ責任を負わないのであれば、それは平等な一票ではありません。」
ルイは、握り締めた手へ爪が食い込むのを感じた。
王党派からは、国王を一議員へ落とすなと責められる。
改革派からは、選挙を受けていない世襲の一票だと責められる。
穏健派からは、行政権と立法権を混ぜると指摘される。
自分では、国王と議会が同じ場所で責任を分け合う方法だと思っていた。
だが、考えれば考えるほど問題が現れた。
「陛下。」
保守派の侯爵が、再び立ち上がった。
「国王であることを、それほど重荷に感じておられるのですか。」
ルイの顔から血の気が引いた。
「何を。」
「一票の議員になりたいというのなら、王冠を置かれればよい。」
「国王が国王であることをお捨てになるなら、それは憲法ではなく退位です。」
退位。
その言葉が議場へ響いた。
王政廃止。
ルイ・カペー。
処刑台。
記憶が一気に蘇った。
息が吸えない。
議場の天井が低くなり、何百人もの議員が自分を取り囲んでいるように見えた。
死刑。
死刑。
死刑。
一人ずつ壇上へ上がり、投票する姿が重なる。
ルイの身体がよろめいた。
ネッケルが立ち上がり、国王の腕を支えた。
「陛下。」
「触るな。」
ルイは反射的に叫んだ。
議場が静まった。
ネッケルはすぐに手を離した。
ルイは自分の首へ手を当て、必死に呼吸しようとした。
吸う。
吐く。
ここは裁判ではない。
退位も決まっていない。
自分が提案した制度について議論しているだけだ。
「すまない。」
ルイは小さく言った。
一度席へ座り、水を飲んだ。
議長が休会を提案しようとしたが、ルイは首を横へ振った。
「続けてくれ。」
「しかし。」
「最後まで聞く。」
逃げないと決めた。
自分の提案が否定されることからも逃げてはならない。
議論はさらに続いた。
ある議員は、国王の一票に象徴的な価値があると認めた。
「国王が議会の外にいるのではなく、議論へ参加するという考えには意味がある。」
「だが、投票権ではなく、発言権や法案提出権として認める方がよい。」
別の議員は、国王が議場へ常に出席することの現実性を疑った。
「国王には、行政、外交、軍事を指揮する責任がある。」
「連日の審議と採決へ参加すれば、本来の行政が止まる。」
「代理人へ一票を持たせるのか。」
「それでは国王の一票ではなく、大臣の一票になる。」
また別の議員は、国王の一票が公開されるのか、秘密にされるのかを問題にした。
「公開すれば、国王の意向が議員へ圧力を与える。」
「秘密にすれば、国王がどの法律に責任を負ったのか分からない。」
どの方法にも問題があった。
やがて、国王の一票案について採決が行われた。
賛成は、ごく少数だった。
反対は、王党派、急進派、穏健派のそれぞれから集まった。
理由は全く違う。
王党派は、国王を一議員へ落とす案だとして反対した。
急進派は、選挙を受けない世襲の一票だとして反対した。
穏健派は、立法権と行政権を混同するとして反対した。
国王が一票を持つ案は、大差で否決された。
採決結果を聞いたルイは、しばらく俯いていた。
恥ずかしかった。
自分だけが、よい考えだと思い込んでいた。
拒否権を持つことが怖いという個人的な感情から、制度全体を歪めようとしていたのではないか。
前の人生で「拒否権氏」と呼ばれたくない。
群衆から責められたくない。
処刑されたくない。
その恐怖から逃げるため、一票という案へ飛びついたのではないか。
「陛下。」
議長が慎重に呼びかけた。
「採決結果を。」
「受け入れる。」
ルイは顔を上げた。
声はまだ震えていた。
「余の案にも、問題が多かった。」
「国王の一票は、他の一票と同じにはならない。」
「選挙を受けず、責任の形も違う。」
「それを認める。」
議場の空気が少し和らいだ。
「だが。」
ルイは続けた。
「一つだけ、忘れないでほしい。」
「余が一票を提案したのは、議会を支配したいからではない。」
「議会が決めたことを、外から一人で消す権利を持つことが怖かったからだ。」
「絶対的拒否権は求めない。」
王党派席から激しい反発が起こった。
「陛下。」
「それでは王権を守れません。」
「国王が一度拒否しただけで廃案となる制度には同意しない。」
ルイは明確に答えた。
「余も間違える。」
「国王一人の判断が、国民の代表全ての意思より永久に優先される仕組みは持ちたくない。」
絶対的拒否権の案は、大きく後退した。
だが、拒否権を一切認めない案にも反対が多かった。
行政を担う国王が、実行不可能な法律や外交上危険な法律へ何も意見できないのは不合理だ。
議会が一時の激情で法案を可決した場合、考え直す時間が必要である。
少数者の権利を守るためにも、別の判断を挟む仕組みが必要だった。
次に、一回限りの再議要求権が検討された。
「国王が反対する場合、理由を付して法案を議会へ返す。」
「議会が再度可決すれば、直ちに法律となる。」
改革派の一部は、この案を支持した。
国王へ意見を述べる機会を与えながら、最終決定は議会が持つ。
しかし、王党派は弱すぎると反対した。
「同じ議員が、数日後に同じ法案を可決するだけだ。」
「熱狂した議会へ、考え直す時間を与えることにならない。」
穏健派も問題を指摘した。
「議会の多数派が誤っている場合、その多数派自身による再採決だけでは十分な確認にならない。」
「ならば、誰に確認する。」
「国民です。」
その言葉から、停止的拒否権の議論が始まった。
国王が法案へ反対した場合、その法律を永久に消すのではなく、成立を一時的に止める。
国王は、拒否の理由を国民と議会へ公開する。
その間に選挙が行われる。
国民は、法案を支持する議員を再び選ぶのか。
それとも、国王の反対理由へ納得し、別の議員を選ぶのか。
次の議会が同じ法案を可決すれば、国民が改めて支持したことになる。
複数の議会が同じ判断を繰り返した場合には、国王もそれ以上止めることはできない。
王党派の議員が尋ねた。
「停止期間は、どれほどとする。」
「一会期では短すぎる。」
「一世代では長すぎる。」
議論が続いた。
現在の議会だけで再可決すれば成立させる案。
次に選ばれる一つの議会が同文で可決すれば成立させる案。
二つの立法議会が続けて同じ法案を可決した場合に成立させる案。
国王の拒否を何年有効とするか。
どの法案を拒否権の対象とするか。
租税や予算まで拒否できるのか。
憲法上の権利を国王が止められるのか。
大臣の責任追及へ拒否権を使えるのか。
一つずつ検討された。
ルイも議論へ加わった。
「拒否するなら、理由を公表しなければならない。」
「陛下。」
王党派の議員が反論する。
「国王は議会へ理由を説明する義務を負うのですか。」
「理由を説明できない拒否なら、行うべきではない。」
ルイは答えた。
「国王が反対した、という一言だけでは、国民は自分たちの意思を妨げられたと考える。」
「どの部分が危険なのか。」
「行政上、なぜ実行できないのか。」
「人権宣言のどの原則へ反するのか。」
「それを文章で示す。」
「拒否は秘密の命令ではない。」
「国民へ向けた、再考の要請とする。」
穏健派の議員が頷いた。
「それなら、停止的拒否権は国王が法律を葬る権利ではなく、時間を求める権利となる。」
「時間。」
ルイは、その言葉を繰り返した。
「そうだ。」
「余が正しいと決める権利ではない。」
「もう一度考えてほしいと求める権利だ。」
急進派は、それでも反対した。
「一人の意思が、国民の代表の決定を数年間止めることに変わりはない。」
「飢えた国民へ、次の選挙まで待てと言うのか。」
「緊急の法律まで止められれば、国家が危険になる。」
そのため、拒否権を使える範囲にも制限を設けることが検討された。
憲法そのものの根本原則。
議会が自らの権限を維持するために必要な手続き。
国王や大臣の責任を審査する行為。
国民議会の存在そのもの。
それらを国王の通常の拒否だけで永久に止めることはできない。
租税と予算についても、国家を停止させるために拒否権を使えないよう、別の調整手続きを設ける必要があるとされた。
議論は何日も続いた。
一七八九年九月十一日。
停止的拒否権について、最終的な採決が行われた。
絶対的拒否権。
停止的拒否権。
拒否権なし。
議員たちは、自分が支持する案へ票を投じた。
ルイは投票できない。
自分で提案した一票案は否決された。
国王は、議場の端で結果を待つしかなかった。
議員が一人ずつ意思を示す光景は、死刑投票の記憶を呼び起こした。
手の震えが止まらない。
誰かが「絶対的拒否権」と口にする。
別の者が「拒否権なし」と答える。
「停止的拒否権。」
「停止的拒否権。」
同じ言葉が繰り返される。
死刑ではない。
自分の命を決めているのではない。
それでも、投票という行為そのものが恐ろしかった。
やがて結果が告げられた。
国王に絶対的拒否権は認められない。
しかし、拒否権そのものを完全に奪うこともしない。
国王は、国民議会が可決した法案について、理由を明らかにした上で裁可を拒み、その成立を一定期間停止できる。
拒否された法案は廃案とはならない。
後に選ばれる議会が、同じ内容を繰り返し可決した場合には、国王の裁可がなくても法律として成立する。
停止的拒否権。
王と議会のどちらにも、最後の勝利を与えない制度だった。
国王は、一時の議会の判断を止められる。
だが、国民の意思を永久に止めることはできない。
議会は、直ちに国王の反対を押し切ることはできない。
だが、選挙を経て同じ意思が示されれば、最後には法律を成立させられる。
国王が正しいか。
議会が正しいか。
その答えを、時間と次の選挙へ委ねる制度だった。
議長が国王へ尋ねた。
「陛下。」
「国民議会は、国王へ停止的拒否権を認めることを決しました。」
「この原則を受け入れられますか。」
ルイは、すぐには答えられなかった。
また、同じ権利を持つことになる。
前の人生で国民から憎まれる原因となった権利。
使えば敵と呼ばれる。
使わなければ、国王として何のために持っているのかと問われる。
それでも今回は、以前と全く同じではない。
拒否するなら理由を公表する。
法律を永久には消せない。
次の選挙を経た国民の判断へ従う。
拒否権を、王の沈黙した命令ではなく、国民へ向けた再考の要請として使う。
「受け入れる。」
ルイは答えた。
「ただし、私自身にも約束させてほしい。」
議場が静まる。
「拒否権を用いる時、私は『国王が望まないから。』という理由では拒まない。」
「どの条文へ反対するのか。」
「何を危険だと考えるのか。」
「どのような修正なら受け入れられるのか。」
「それを国民と議会へ明らかにする。」
「国王の拒否は、議論を終わらせる言葉ではない。」
「議論をもう一度始める言葉とする。」
穏健派の席から拍手が起こった。
急進派は警戒を解かなかった。
王党派も、国王が絶対的拒否権を自ら求めなかったことへ不満を抱いていた。
それでも、憲法の一つの柱が決まった。
閉会後。
ルイは疲れ切った様子で議場を出た。
ネッケルが隣を歩く。
「陛下。」
「一票の案が否決されたことを、後悔しておられますか。」
ルイは長い間、答えなかった。
「恥ずかしいとは思っている。」
「悪い提案だったと。」
「余は、一票なら誰からも憎まれないと思った。」
ルイは正直に答えた。
「反対しても、数で負ければ終わる。」
「責任を負わずに済む。」
「拒否権を使った時のように、国民の前へ一人で立たなくてよい。」
「つまり。」
ネッケルは静かに言った。
「議会と責任を分け合いたかったのではなく、拒否する責任から逃げたかった部分もあったと。」
「ああ。」
ルイは認めた。
「全てではない。」
「だが、そういう気持ちもあった。」
「それに気づけたのであれば、議論は無駄ではなかったでしょう。」
「停止的拒否権も怖い。」
「権利には、使う責任と、使わない責任があります。」
「使えば国民から憎まれるかもしれない。」
「使わず、悪い法律をそのまま執行すれば、別の者が苦しみます。」
「嫌な権利だな。」
「重要な権利は、多くの場合そういうものです。」
その夜。
ルイはマリー・アントワネットへ、議会で起きたことを話した。
王妃は、一票の提案を聞くと驚いた顔をした。
「あなたが、他の議員と同じ一票を。」
「ああ。」
「議員として毎日議場へ通うおつもりだったのですか。」
「そこまでは考えていなかった。」
「代理人へ投票させるのですか。」
「それも考えていなかった。」
「行政は誰が行うのです。」
「議会でも同じことを言われた。」
ルイは項垂れた。
マリー・アントワネットは、呆れたような、それでもどこか安心したような顔で夫を見た。
「少し、考えが足りませんでしたね。」
「ああ。」
「ですが。」
王妃は夫の手を取った。
「以前のあなたなら、間違いを指摘されると、相手を遠ざけようとしたのでしょう。」
「おそらく。」
「今日は受け入れた。」
「恥ずかしかったが。」
「恥ずかしいだけで済んだのです。」
王妃は静かに言った。
「処刑されたわけではありません。」
ルイは思わず自分の首へ触れた。
「そうだな。」
「意見を否定されることと、あなた自身を否定されることは違います。」
「分かっている。」
「これから、少しずつ身体にも分かってもらいましょう。」
翌朝。
パリでは、拒否権を巡る議論が新聞で大きく報じられた。
『国王、一票を要求。』
『王は議員か、王か。』
『絶対的拒否権は退けられる。』
『国王に停止的拒否権。』
王党派の新聞は、王冠が議会へ屈したと嘆いた。
急進派の新聞は、停止的であっても一人の意思が国民の法律を止めることは許されないと批判した。
穏健派は、王と議会の衝突を時間と選挙によって解決する仕組みだと評価した。
そして、ある風刺画には、議場の中で小さな投票札を持つ太った国王が描かれていた。
その下には、こう書かれていた。
『一票を失い、拒否を得た王。』
ルイは、その風刺画を見ても笑えなかった。
だが、破り捨てることもしなかった。
一票の提案は否決された。
絶対的拒否権も認められなかった。
国王は、議会の決定を永久に消す力を持たない。
それでも、国家が危険だと考えた時には、理由を示して立ち止まらせることができる。
停止的拒否権は、王政を救う保証ではない。
前の人生では、その権利が国王と革命を引き裂いた。
今度の人生でも、同じことが起きるかもしれない。
問題は、拒否権を持っていることではない。
いつ使うのか。
何のために使うのか。
そして、拒否した相手へ説明できるのか。
憲法に書かれた権利は決まった。
だが、その権利が王と国民の間に橋を架けるのか、再び断頭台へ続く亀裂を作るのかは、ルイが最初に拒否権を使う日まで分からなかった。




