第四十一話 王の権利
一七八九年九月。
ヴェルサイユ宮殿。
憲法制定国民議会。
『人間と市民の権利の宣言』が採択され、その理念を地方へ説明するための布告が送られた。
自由。
平等。
国民主権。
法の前における平等。
思想と信仰、言論の自由。
公平な租税。
公務を担う者の説明責任。
理念は定められた。
だが、理念だけでは国家を動かすことはできない。
自由を守る法律を、誰が作るのか。
法律を、誰が執行するのか。
国王と議会が対立した場合、どちらの判断を優先するのか。
議会自身が人権を侵害する法律を作った時、誰が止めるのか。
王国が戦争や飢饉に直面した時、誰が国民の代表を集めるのか。
憲法委員会の机には、何十枚もの草案が積み上げられていた。
それぞれの草案が、異なるフランスの未来を描いている。
強い王権を残し、その下に議会を置く案。
国王と二つの議院が権力を分ける案。
一つの国民議会へ立法権を集中させる案。
国王を法律の執行者として残す一方、立法への関与をほとんど認めない案。
国王へ法律を拒否する権利を与える案。
一定期間だけ法律を止める権利を与える案。
拒否権そのものを認めない案。
どの制度を選ぶかによって、フランスが立憲君主国として生き残るのか、王政と議会の対立によって再び混乱へ向かうのかが決まる。
議長が木槌を鳴らした。
「本日の議題は、立法権及び国王と国民議会の関係についてである。」
「憲法委員会から、最初の草案を説明していただく。」
委員の一人が立ち上がった。
「人権宣言第三条により、主権の源は国民に存すると確認されました。」
「従って、法律は国民の意思を表すものでなければなりません。」
「立法権は、国民から選ばれた代表によって構成される議会が行使する。」
「国王は行政権を担い、議会が制定した法律を執行する。」
改革派の議員たちから拍手が起こった。
だが、王党派はすぐに反発した。
「それでは国王は、議会の命令へ従うだけの官吏ではないか。」
「フランス王国は、共和国ではない。」
「王政を残すのであれば、国王は法律の制定にも関与しなければならない。」
年配の侯爵が立ち上がった。
「国王には、議会を召集する権利がある。」
「議会を休会させる権利がある。」
「必要であれば解散する権利も認めるべきだ。」
「さらに、国王が王国の利益へ反すると判断した法律を拒否する絶対的な権利が必要である。」
議場がざわめいた。
「絶対的拒否権など認めれば、改革は全て国王一人に止められる。」
「議会を解散する権利を与えれば、都合の悪い議会を消すことができる。」
「国民主権の意味がなくなる。」
王党派の侯爵は反論した。
「一時の激情によって作られた法律から国家を守る者が必要だ。」
「議会の多数が常に正しいと、誰が保証する。」
「パリの群衆が議員へ圧力をかけ、性急な法律を可決させた時、誰が止めるのだ。」
「国王は、一つの都市や一つの選挙区ではなく、王国全体を代表する。」
「変わり続ける議会に対し、国家の継続性を守る存在である。」
その主張にも道理があった。
国王の権力だけが暴走するわけではない。
議会の多数派も間違える。
一時の怒り。
恐怖。
流行する思想。
群衆からの圧力。
それらによって、人権宣言へ反する法律が作られる可能性もある。
前の人生でルイは、その光景を実際に見た。
自由を守ると宣言した議会が、反革命の疑いを理由に人々を拘束した。
国民の安全を守るという名目で、処刑が繰り返された。
多数派の決定であるというだけで、全てが正しくなるわけではない。
しかし、国王へ議会を自由に閉じる権利を与えれば、別の危険が生まれる。
改革派の議員が立ち上がった。
「国王に議会の召集権を独占させるべきではありません。」
「なぜなら、召集する権利は、召集しない権利にもなるからです。」
議場が静まった。
「一六一四年に三部会が開かれた後、今回まで何年が過ぎたか。」
「百七十五年です。」
「フランス国民は百七十五年間、全国の代表が集まる議会を持つことができなかった。」
「国王が必要としなかったからです。」
「いや。」
別の議員が叫んだ。
「国庫が破綻し、自力では税を増やせなくなるまで、王権は国民の代表を必要としなかったのだ。」
王党派から怒号が飛んだ。
「国王陛下への侮辱だ。」
「事実を述べただけだ。」
「今回、三部会を召集なさったのは陛下ではないか。」
「財政危機がなければ召集したのか。」
ルイは、席の上で身体を強張らせた。
自分へ向けられた言葉ではないと理解していても、一つ一つが責め立てる声に聞こえた。
国民から金を得るために三部会を呼んだ。
改革へ協力してもらうために国民の代表を集めた。
だが、彼らが国民議会を名乗り、自分たちで憲法を作ろうとすると恐ろしくなった。
解散させようとした。
軍隊を集めようとした。
ネッケルを罷免しようとした。
以前の人生で、自分が選んだ道だった。
王党派の侯爵がルイへ向き直った。
「陛下。」
「王権を守るためにも、議会の召集と解散は国王の大権として残すべきです。」
「議会が常に開かれていれば、行政へ干渉し、国王の権限を少しずつ奪います。」
「必要な時だけ召集し、役目を終えれば閉会させる。」
「それが王国の秩序です。」
ルイは、返事ができなかった。
必要な時だけ議会を開く。
それは国王にとって都合のよい制度だった。
金が必要な時。
新たな税を認めてほしい時。
国民へ協力を求めたい時。
その時だけ代表を呼ぶ。
国王に都合の悪い要求を始めたら閉じる。
それでは議会は、国王のために国民の同意を用意する道具にすぎない。
だが、議会を常に開かせれば、王権が少しずつ奪われるかもしれない。
法律。
税。
軍隊。
外交。
最後には、国王の存在そのものまで不要だと言われるかもしれない。
ルイの目の前に、タンプル塔の石壁が浮かんだ。
国民公会。
王政廃止。
ルイ・カペー。
死刑。
喉が締まり、呼吸が浅くなった。
逃げたい。
審議を延期したい。
何も決めず、宮殿の私室へ戻りたい。
だが、何も決めないことも一つの選択だった。
曖昧なまま残せば、国王と議会は、その都度自分に都合のよい解釈をする。
やがて両者が同じ権限を主張し、正面から衝突する。
一七九一年憲法の下で起きたことだった。
ルイは震える両手を膝の上で握り締めた。
恐怖だけで選ばない。
王政を守るためだけでもない。
国民に対して恥じない制度を考える。
「発言を求めたい。」
ルイは立ち上がった。
議長が驚いたように国王を見る。
「陛下の発言を認めます。」
議場が静まっていく。
ルイは用意していたわけではなかった。
何を言うか、完全にまとまっていない。
それでも、今言わなければ王党派が求める強い国王か、改革派が求める立法から切り離された国王か、その二つから選ぶことになる。
「国王に。」
ルイは一度、言葉を止めた。
喉が乾いている。
「国王に残すべき権利について、提案したい。」
王党派の議員たちが身を乗り出した。
改革派は警戒した表情を浮かべる。
「王の権利を。」
ルイは議員たちを見渡した。
「議会を開くこととしたい。」
議場が静まり返った。
誰も、すぐには意味を理解できなかった。
王党派の侯爵が眉をひそめる。
「議会を、開く。」
「ああ。」
「召集する権利ということでしょうか。」
「召集するだけではない。」
ルイは答えた。
「国王が、国民の代表を王国の名において迎え、議会の開会を宣言する。」
「王国が抱える問題を報告する。」
「財政。」
「外交。」
「治安。」
「食糧。」
「国民全体で議論しなければならない課題を、議会へ示す。」
「議会を閉じ、国民の声を止めることを国王の大権とするのではない。」
「国民の代表を集め、議論を始めさせることを、王の権利とする。」
小さなどよめきが広がった。
改革派の議員が立ち上がった。
「陛下。」
「それでは結局、国王が開会を宣言しなければ、議会は開けないのではありませんか。」
「その通りだ。」
別の議員も続く。
「百七十五年間、三部会が開かれなかった理由を、今まさに議論したばかりです。」
「国王へ開会権を与えれば、将来の国王が議会を開かない可能性がある。」
「余も、それを考えた。」
ルイは答えた。
「だから、定期議会の開催日は憲法によって決める。」
「国王が必要だと判断した時だけ開くのではない。」
「毎年、定められた日に国民の代表は集まる。」
「国王は、その議会を正式に開く。」
議員たちは互いの顔を見た。
「陛下が開会を拒まれた場合は。」
法律家の議員が尋ねた。
ルイの胸が痛んだ。
将来の国王が、憲法に従わないことを最初から想定する。
国王への不信を文章へ刻むことになる。
それでも、そこを曖昧にしてはならない。
「国王が定められた日までに開会を宣言しない場合。」
ルイは慎重に答えた。
「議会は自動的に開かれる。」
議場が騒然となった。
王党派の侯爵が立ち上がる。
「それでは、国王の開会権など形だけではありませんか。」
「国王がいなくても議会を開けるなら、何の権利なのです。」
「国王が国民の声を永久に閉ざすための権利ではない。」
ルイは答えた。
「国王が、議会と共に国家を始動させる役割だ。」
「王が出席し、王国の現状を国民の代表へ報告する。」
「国王と議会が、互いを敵としてではなく、同じ国家を担う者として一つの年を始める。」
「それを形式だけと呼ぶなら、王冠も旗も宣誓も形式にすぎない。」
「だが、国家は形式によって、誰がどの役割を負うのかを示す。」
改革派の議員が問い返した。
「定期議会が自動的に開かれるのであれば、国王へ認められる実際の権限は何です。」
「王国が定期会期の途中で重大な危機へ直面した場合、臨時議会を召集する権利を持つ。」
ルイは答えた。
「戦争の危険。」
「凶作。」
「国家財政の急変。」
「全国に関わる災害。」
「通常の会期を待てない問題が生じた時、国王は国民の代表を呼び集める。」
「その権利は国王だけが持つのですか。」
「いや。」
ルイは首を横へ振った。
「議会の一定数の議員、あるいは地方の代表から十分な要請が集まった場合にも、臨時会を開けるようにする。」
「それでは、国王の権利ではない。」
王党派が不満を示す。
「国王にも認められる権利だ。」
ルイは答えた。
「余は、国王にしかできないことを増やしたいのではない。」
「国家が危機へ陥った時、国王にも国民の代表を集める手段を残したいのだ。」
議場には、困惑が広がっていた。
国王自身が提案しているにもかかわらず、王権を強くするための案ではない。
国王が議会を呼べる。
だが、議会は国王が呼ばなくても定期的に開かれる。
国王が開会を宣言する。
だが、拒んだ場合には議会が自動的に開かれる。
国王が臨時会を召集できる。
だが、一定の条件では議員や地方も召集を求められる。
王党派には弱すぎる。
急進派には、国王が議会へ関与する余地を残しすぎている。
穏健派の議員が立ち上がった。
「陛下の提案を、正しく理解したい。」
「王の開会権とは、議会を開かせるかどうかを自由に決める権利ではない。」
「ああ。」
「憲法によって開催が決まっている議会を、国王が王国の名で正式に開く権利。」
「同時に、国家の危機に際して臨時会を招集する権利。」
「その通りだ。」
「それは、権利であると同時に義務ではありませんか。」
議場が静まった。
ルイは、その言葉を胸の中で繰り返した。
権利であると同時に義務。
王の権利は、王個人が好きな時に使い、嫌なら使わなくてもよいものではない。
国家と国民のために行使しなければならない役割である。
「そうだ。」
ルイは頷いた。
「ならば、そのように書いてくれ。」
「国王は議会を開く権利を持つ。」
「そして、定められた時に議会を開く義務を負う。」
王党派の侯爵が、信じられないという顔で国王を見た。
「陛下。」
「権利を、ご自身から義務へ変えられるのですか。」
「義務のない権利が、今の特権を作ったのではないか。」
ルイは答えた。
前の議論で得た言葉だった。
かつて貴族の特権には、軍務や地方統治という義務があった。
時代が変わり、義務が薄れた後も、権利だけが残った。
王権も同じではないか。
国民を守る。
司法を維持する。
飢饉へ対応する。
国家の継続性を保つ。
それが王の義務であるなら、王の権利もそのために使われなければならない。
「国王の権利とは。」
ルイは続けた。
「国民の声を閉ざすためのものであってはならない。」
「国民の声を国家へ呼び集めるためのものにしたい。」
議場の一部から拍手が起こった。
最初は穏健派の席からだった。
やがて改革派の一部も加わった。
だが、全員が賛成したわけではない。
急進派の議員が立ち上がった。
「国王が開会の演説で議題を示せば、議会の審議を支配することになりませんか。」
「国王が触れなかった問題を、議会は審議できるのですか。」
「できる。」
ルイは答えた。
「国王の演説は、議会へ命令するものではない。」
「政府が把握している王国の状況を報告し、必要と考える課題を示すものだ。」
「議会は、それ以外の問題も審議できる。」
「国王は、議会が何を話すかを制限しない。」
「開会式へ出席した国王が軍隊を伴い、議員へ圧力をかけることは。」
その問いに、ルイの表情が固まった。
六月二十三日の王室会議。
国王の命令。
議場を囲む兵士。
立ち去れと命じても残った第三身分の議員たち。
「議場内へ軍隊を入れない。」
ルイは答えた。
「議会の安全を守る衛兵を除き、国王が軍事力を示すために兵を配置することは禁じる。」
「開会演説は命令ではなく、報告と要請であると憲法へ記す。」
王党派から、また反対の声が上がった。
「国王が議会へお願いするのですか。」
「国王の言葉は命令であるべきだ。」
ルイは首を横へ振った。
「法律を作る議会へ意見を求める時、それは命令ではない。」
「国王が命令を下すのは、成立した法律を行政機関へ執行させる時だ。」
「議論を始める前から結論を命じるのであれば、議会を開く意味がない。」
その言葉によって、議場の空気が再び変わった。
国王が立法権と行政権の違いを自ら認めた。
法律を作る場では、国王も理由を説明し、協力を求める。
法律が成立した後は、行政の長として執行する。
王権を完全に失うのではない。
役割を明確に分ける。
憲法委員の一人が、国王の提案を整理して読み上げた。
「第一。」
「国民議会は、憲法によって定められた日に毎年招集される。」
「第二。」
「国王は王国の元首として議会の開会を宣言し、国家の現状及び政府が審議を必要と考える課題を報告する権利と義務を持つ。」
「第三。」
「国王が所定の日までに開会を宣言しない場合、議会は憲法の規定に基づき自動的に開会する。」
「第四。」
「戦争、財政危機、凶作その他の重大な事態が生じた場合、国王は臨時議会を召集できる。」
「第五。」
「一定数の議員または地方代表から要請があった場合にも、定められた手続きによって臨時議会を開くことができる。」
「第六。」
「国王の開会演説は議会の審議事項を制限せず、議員は国王が言及しなかった問題についても審議できる。」
「第七。」
「国王は軍事力を用いて議会の審議へ圧力を加えてはならない。」
議場で、条文案についての議論が始まった。
王党派は、自動開会の規定を削除するよう求めた。
急進派は、国王が開会式へ関与すること自体を不要だと主張した。
一部の議員は、臨時会の召集条件が緩すぎれば議会が常に開かれ、行政へ干渉すると警告した。
別の議員は、条件が厳しすぎれば危機の際に議会を開けないと反論した。
議論は夕刻まで続いた。
最後に、原則についての採決が行われた。
国民議会は、定期的に自動招集される。
国王は、その議会を正式に開き、王国の現状を報告する権利と義務を持つ。
国王が開会を拒んでも、議会の開催そのものを妨げることはできない。
重大な危機に際し、国王は臨時議会を召集できる。
細かな条件は今後も審議されることになったが、基本原則は可決された。
採決結果が告げられると、議場から拍手が起こった。
ルイは、自分が何をしたのかを考えた。
国王だけが持っていた議会召集権を、自動化した。
将来の国王が議会を百年も開かないという道を閉ざした。
王権を一つ手放したと言うこともできる。
その代わり、国王が議会の外へ追い出されることを避けた。
毎年、国王は国民の代表の前へ立つ。
政府が知る王国の状態を報告する。
議会へ必要な法律を求める。
国王と議会が、少なくとも一年の始まりには同じ場所へ立つ。
それによって対立をなくせるとは限らない。
だが、互いに何を考えているか分からないまま、疑いだけを積み上げるよりはよいかもしれない。
議会を閉じる王ではない。
議会を開く王。
それが、新しい王権の形になり得るのかもしれなかった。
閉会後。
ルイが宮殿の回廊へ出ると、ネッケルが追いついた。
「陛下。」
「何だ。」
「本日のご提案は、以前からお考えだったのですか。」
「いや。」
ルイは正直に答えた。
「議場で聞きながら考えた。」
「随分と大きな権限を手放されました。」
ルイの足が止まった。
「やはり、そう思うか。」
「議会を開かないという選択は、今後の国王には認められなくなります。」
ネッケルは答えた。
「議会を開いた後、都合が悪くなったからと閉じることも難しくなる。」
「王権を守ろうとする者からは、弱い国王と批判されるでしょう。」
ルイの顔が曇った。
「間違えたと思うか。」
「いいえ。」
ネッケルは首を横へ振った。
「権限を一つ失う代わりに、役割を一つ得られました。」
「役割。」
「国王と議会が対立することを当然と考えるのではなく、国王が議会の始まりを担う。」
「議会が国王を倒すための場所ではなく、国王と共に国家の問題を話し合う場所であると、毎年確認できます。」
「それが形式だけで終わらなければ、大きな意味を持つでしょう。」
「形式だけにしないためには、余が毎年、本当のことを話さなければならない。」
「財政を隠し。」
「凶作を軽く見せ。」
「軍の敗北を報告しない。」
「そのような演説をすれば、誰も国王の言葉を聞かなくなる。」
「その通りです。」
ルイは苦笑した。
「また正直さか。」
「信用を作る方法は、それほど多くありません。」
ネッケルも、わずかに笑った。
その夜。
ルイは、マリー・アントワネットへ議会での提案を話した。
王妃は黙って最後まで聞いていた。
「つまり。」
話を聞き終えた王妃が言った。
「あなたは、議会を開く権利を国王へ残した。」
「ああ。」
「ですが、開かない自由は捨てた。」
「ああ。」
「それは権利というより、仕事ではありませんか。」
ルイは一瞬、言葉を失った。
やがて、力なく笑った。
「議員にも同じことを言われた。」
「王の権利は、権利であると同時に義務だと。」
「嫌なのですか。」
「怖い。」
ルイは正直に答えた。
「毎年、何百人もの議員の前へ立たなければならない。」
「責められるかもしれない。」
「嘘をついていると疑われるかもしれない。」
「やがて、国王は必要ないと言われるかもしれない。」
マリー・アントワネットは夫の手を取った。
「それでも、議会を閉じる権利を求めなかったのですね。」
「閉じても、なくならないからだ。」
ルイは答えた。
「議場を閉じれば、議員は別の場所へ集まる。」
「新聞で訴える。」
「街頭で話す。」
「人の不満そのものを、扉で閉じ込めることはできない。」
「それなら最初から開いておいた方がよいと。」
「ああ。」
「少なくとも、余にも彼らの声が聞こえる。」
「彼らにも、余の言葉を聞かせることができる。」
王妃は、夫の手を握る力を少し強めた。
「以前のあなたなら、議会を閉じる方を選んでいたでしょうね。」
「余も、そう思う。」
「今も、閉じられるなら閉じたいと思う時がある。」
「ですが、選ばなかった。」
「ああ。」
それだけは、前の人生とは違っていた。
翌朝。
パリでは、早くも国王の提案を伝える新聞が売られていた。
『国王、自ら議会の定期開催を提案。』
『王は国民の代表を毎年迎える。』
『国王の召集権、憲法上の義務へ。』
改革派の新聞は、ルイを「議会を開く王」と呼んだ。
王党派のパンフレットは、国王が王権を自ら削り、議会の案内役へ身を落としたと非難した。
急進派の新聞は、開会式という名で王権の威光を残そうとしていると警戒した。
同じ提案が、希望、屈服、策略という三つの異なる意味で語られた。
それでも、一つだけ確かな変化があった。
今後、国王が国民の代表を百年以上も呼ばないということはできない。
議会は、危機の時だけ一時的に開かれる場所ではなくなった。
国王が金を必要とする時だけ、国民へ協力を求める場所でもない。
国家の問題を毎年議論する、恒久的な制度になろうとしていた。
だが、国王が議会を開いた後に、議会の決定へ何ができるのかは、まだ決まっていない。
議会が可決した法律へ、国王は必ず従うのか。
一度だけ考え直すよう求められるのか。
一定期間、法律を止められるのか。
それとも、国王が認めない限り法律は成立しないのか。
憲法草案の次の頁には、一つの言葉が記されていた。
『国王拒否権』
ルイは、その文字を見つめた。
前の人生で、自分を「拒否権氏」と嘲らせ、議会と王権の亀裂を深めた権利。
議会を開く権利よりもはるかに危険な、王と国民議会の最後の境界が、次の審議を待っていた。




