第四十話 理想と現実
一七八九年九月。
ヴェルサイユ宮殿。
『人間と市民の権利の宣言』が採択されてから、数日が過ぎた。
宣言の写しは印刷所で大量に刷られ、新聞、パンフレット、郵便馬車、行商人、議員から選挙区へ送られる書簡を通じて、王国各地へ広がっていた。
パリからヴェルサイユへ。
ヴェルサイユから地方都市へ。
地方都市から村へ。
教会の掲示板。
市庁舎の壁。
市場の柱。
宿屋の食堂。
酒場の机。
至るところで、新しい言葉が読まれ、語られた。
自由。
平等。
権利。
主権。
圧政への抵抗。
一つ一つは短い言葉だった。
だが、それまで国王や法律家だけが使っていた政治の言葉を、農民も、職人も、商人も、自分の生活へ当てはめ始めていた。
「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生きる。」
その一文を聞いた農民は尋ねた。
「それなら、なぜ私は領主へ貢租を納めなければならない。」
「なぜ、領主の水車を使うために金を払わなければならない。」
「なぜ、領主の鳩が畑の種を食べても追い払えない。」
「全ての市民は、能力に応じて平等に公職へ就く資格を持つ。」
その一文を読んだ平民出身の兵士は尋ねた。
「それなら、なぜ将校になるために貴族の家系が必要なのか。」
「思想と意見の自由な伝達は、人間の最も貴重な権利である。」
その一文を読んだ印刷業者は尋ねた。
「それなら、なぜ国王や地方当局の許可を得なければ新聞を出せないのか。」
「全ての市民は、自ら、または代表を通じて、公の負担の必要性を確認し、自由に同意する権利を持つ。」
その一文を読んだ納税者は尋ねた。
「それなら、国民議会が新しい税制を決める前に、なぜ古い税を支払わなければならない。」
議会で慎重に選ばれた文章は、地方へ届くと、人々が長年抱いてきた不満を表す言葉へ変わった。
宣言は、個々の税や領主権を直ちに廃止する法律として作られたものではない。
国家と法律が従うべき基本原則を示した文書だった。
しかし、その違いを理解している者は少なかった。
そもそも、宣言の全文を読んだ者ばかりではない。
新聞に掲載された一部だけを読んだ者。
酒場で他人から聞いた者。
市場で語られている噂だけを知った者。
読み書きのできない者へ、別の誰かが自分の理解で説明した場合もある。
「人は自由である。」という最初の言葉は伝わる。
だが、「他人を害さない範囲で。」という条件は抜け落ちる。
「税には国民の同意が必要である。」という言葉は伝わる。
だが、「代表を通じて。」という手続きは忘れられる。
「圧政へ抵抗する権利がある。」という言葉は伝わる。
だが、何を圧政と呼び、どのような方法で抵抗するのかは誰にも説明されない。
言葉だけが、制度よりも先に王国中を走り始めていた。
「陛下。」
朝早く、内務を担当する官僚が国王の執務室へ入ってきた。
両腕には、地方から届いた報告書が抱えられている。
顔色は優れなかった。
ルイ十六世は、机の上に置いていた人権宣言の写しから目を上げた。
「何が起きた。」
「複数の地方から、税の徴収に関する報告が届いております。」
官僚は一通目を開いた。
「ブルゴーニュの一部の村で、徴税人が追い返されました。」
「負傷者は。」
「確認されておりません。」
「徴税人を村へ入れず、税の納付を拒んだだけとのことです。」
「理由は。」
「人権宣言によって、国民の同意を得ていない税は無効になったと主張しております。」
ルイは眉間へ皺を寄せた。
「国民議会は、現在の税を廃止していない。」
「その説明が、地方へ届いておりません。」
官僚は次の報告書を開いた。
「ノルマンディーでは、街道の通行税と地方関税の支払いを拒む商人が増えております。」
「商人たちは、同じフランス人が王国内を移動するだけで税を取られるのは、自由と平等へ反すると主張しています。」
「それは。」
ルイは言葉を止めた。
国内の複雑な関税障壁を整理する必要があることは、以前から理解している。
商人たちの主張そのものが、完全に間違っているわけではない。
だが、現在の国庫は、その通行税や関税から得る収入にも頼っている。
代わりの税を用意せずに徴収が止まれば、財政危機はさらに深刻になる。
「リヨンでは。」
官僚は続けた。
「ギルドへ所属していない職人が、独自に工房を開こうとしております。」
「親方たちが営業を止めるよう求めたところ、『全ての市民は平等であり、職業を選ぶ自由がある。』と反論しました。」
「争いになったのか。」
「今のところ、口論と小規模な衝突だけです。」
「今のところ。」
ルイは、その言葉を繰り返した。
「他には。」
「領主の森へ入り、薪を持ち帰る農民。」
「領主の鳩や兎を捕らえる者。」
「強制されていた水車の使用を拒む村。」
「十分の一税の納付を止めた教区。」
「塩税を自由への侵害と呼び、密売人から塩を買う住民。」
「新聞の発行を止めようとした地方当局へ、言論の自由を主張する印刷業者。」
官僚は一度、言葉を切った。
「さらに、軍の一部では。」
ルイの肩が強張った。
「何だ。」
「兵士たちが、命令と法律の関係について質問しております。」
「人権宣言によれば、主権は国民にある。」
「それなら、国民へ銃を向けるよう命じられた場合、兵士には拒否する権利があるのではないかと。」
ルイの呼吸が浅くなった。
バスティーユ牢獄。
国民衛兵。
軍隊の命令拒否。
テュイルリー宮殿。
スイス衛兵。
前の人生で見た光景が、次々に蘇った。
軍が命令へ従わなくなれば、王権は守れない。
行政も治安も維持できない。
だが、国王が国民を虐殺せよと命じた時にまで、兵士は無条件で従うべきなのか。
その問いへ簡単な答えはなかった。
「暴動は起きているのか。」
ルイは震える声で尋ねた。
「いえ。」
官僚は答えた。
「現時点では、大規模な武装蜂起ではありません。」
「領主館が襲撃されたという報告も、ごく少数です。」
「ほとんどは、納付拒否、営業規則の無視、役人との口論です。」
「ただ。」
官僚は慎重に言葉を選んだ。
「誰もが、自分に都合のよい形で人権宣言を解釈し始めております。」
ルイは机の上の宣言を見た。
自由を宣言した。
平等を宣言した。
国民へ権利があると認めた。
間違ったことをしたとは思いたくなかった。
しかし、人々が自分の判断だけで法律を無効とし始めれば、国家は動かなくなる。
「彼らは、余たちの説明を待っているのか。」
ルイが尋ねた。
官僚は、すぐには答えなかった。
「説明を待つ者もおります。」
「ですが、すでに自分たちの解釈こそ正しいと信じている者もおります。」
「古い税を支払いたくない者。」
「ギルドの規則を破りたい者。」
「密輸によって利益を得たい者。」
「領主への負担をなくしたい農民。」
「純粋に正義を求める者だけではありません。」
「人権宣言を、自らの利益を守る道具として使う者もおります。」
「それは議員も同じではないか。」
ルイは苦い声で言った。
「貴族は財産権によって領主貢租を守ろうとする。」
「農民は平等によって貢租を拒もうとする。」
「商人は自由によって関税を拒み、ギルドの親方は財産と契約によって独占を守ろうとする。」
「皆が同じ宣言から、自分の欲しい言葉を取り出している。」
官僚は返答できなかった。
その日の憲法制定国民議会。
議場には、いつになく重い空気が漂っていた。
机の上には、地方から届いた報告書が積み上げられている。
改革派の議員が立ち上がった。
「諸君。」
「我々は自由を宣言した。」
「だが、無秩序を宣言したのではない。」
「全ての市民は権利を持つ。」
「同時に、他の市民が同じ権利を持つことを認めなければならない。」
「自分が不当だと思う税を拒み、自分が不当だと思う契約を破り、自分が不当だと思う法律へ従わない。」
「それを全員が行えば、最も強い者だけが自分の自由を実現する社会になります。」
保守派の伯爵が、即座に立ち上がった。
「だから申し上げたのだ。」
「理念だけを先に掲げれば、国は混乱する。」
「農民は税を拒む。」
「商人は関税を拒む。」
「職人は規則を拒む。」
「次には兵士が命令を拒否し、裁判で敗れた者が判決を拒否するだろう。」
伯爵は人権宣言の写しを持ち上げた。
「自由。」
「平等。」
「抵抗。」
「この言葉だけを与え、何をしてはならないのかを説明しなかった。」
「責任は、この宣言を採択した諸君にある。」
改革派から反発の声が飛んだ。
「国民が無知だから自由を与えるべきではないと言うのか。」
「古い不正を守るために、混乱を口実としているだけだ。」
「実際に税が不公平なのは事実ではないか。」
「領主権が農民を苦しめているのも事実だ。」
議場が騒然となった。
保守派は、人権宣言が秩序を壊したと主張する。
改革派は、混乱の原因は宣言ではなく、古い制度の不公平にあると反論する。
どちらも完全には間違っていなかった。
宣言がなければ、不満が消えていたわけではない。
だが、宣言が人々へ抵抗の言葉を与えたことも事実だった。
その時、一人の穏健派議員が立ち上がった。
「問題を、国民の悪意だけに求めるべきではありません。」
怒号の中でも、その落ち着いた声は議場へ届いた。
「地方の者たちは、何が変わり、何がまだ変わっていないのかを知らないのです。」
「人権宣言は王国中へ送られた。」
「だが、それを具体的な法律へ変える作業は終わっていない。」
「我々は自由を宣言した後、人々へ『詳細は後で決める。』としか伝えていない。」
「その空白を、噂と期待が埋めている。」
別の議員が反論した。
「宣言の本文には、自由の限界は法律によって定めると書かれている。」
「全文を読めば理解できるはずだ。」
「全国民が、法律家と同じように文章を読めるとお考えですか。」
穏健派議員は問い返した。
「文字を読めない者もいる。」
「標準的なフランス語を十分に理解できない地域もある。」
「全文ではなく、一条だけを書いた紙を読んだ者もいる。」
「市場で聞いた噂しか知らない者もいる。」
「我々は国民へ新しい原則を示した。」
「ならば、それが現在の生活へどのように適用されるのかを説明する責任もある。」
ルイは、その言葉に小さく頷いた。
前世で暮らしていた時代では、法律が変われば、その内容が新聞や放送で伝えられた。
施行日が決められる。
準備期間が置かれる。
行政機関が説明を行う。
それでも誤解は起きる。
まして一七八九年のフランスには、王国中へ同時に情報を伝える方法がない。
一枚の布告が地方へ届くまで、何日も、時には何週間も掛かる。
届いた後も、市庁舎へ貼り出すだけでは、文字を読めない者へ伝わらない。
法律の文章は長く、難しい。
「国民が理解しないのが悪い。」と責めるだけでは、何も解決しない。
ルイは立ち上がった。
「諸君。」
議場が静かになっていく。
「私から、一つ提案したい。」
ルイは手元の宣言を持ち上げた。
「人権宣言は、国家が従うべき原則である。」
「だが、理念だけでは行政は動かない。」
「税を集める者。」
「税を支払う者。」
「領主。」
「農民。」
「商人。」
「職人。」
「兵士。」
「それぞれが、明日から何をすべきなのか分からない。」
「ならば、我々が明確に示すべきではないか。」
「何が直ちに変わるのか。」
「何を今後、法律によって改革するのか。」
「新たな法律が成立するまで、何が従来どおり効力を持つのか。」
議員たちは互いの顔を見た。
急進的な改革派の一人が立ち上がった。
「陛下。」
「人間が生まれながらに持つ権利を、将来の法律ができるまで待たせるのですか。」
「不当な法律であっても、正式に廃止されるまでは従えと。」
「そうではない。」
ルイは答えた。
「人間を理由なく拘束すること。」
「裁判を受けさせず罰すること。」
「信仰や意見だけを理由に逮捕すること。」
「そのような国家権力による侵害は、今から止めなければならない。」
「では、古い税は。」
「新しい税制ができるまで、全て止めれば国家が止まる。」
議場がざわつく。
ルイは続けた。
「問題は、全てを同じ種類の変化として扱っていることだ。」
「国家が国民へ行ってはならないことは、直ちに止める。」
「だが、何百万人もの生活と財産、契約に関わる制度は、移行の手続きを定める。」
「税を一日で全廃し、軍も裁判所も穀物供給も維持できなくなれば、それによって最も苦しむのは貧しい者たちだ。」
法律家の議員が立ち上がった。
「陛下の提案を、三つに分けてはどうでしょう。」
「第一に、宣言の採択と同時に、国家機関が直ちに守らなければならない権利。」
「第二に、一定の期限までに新たな法律を制定し、段階的に改める制度。」
「第三に、新法が成立するまで暫定的に効力を保つ義務。」
「それならば、自由を先送りするのではなく、変更の方法を示すことができます。」
改革派の中からも、賛同の声が上がり始めた。
保守派議員が尋ねた。
「暫定的に効力を保つ税は、国民の同意を得ていないのではないか。」
ネッケルが発言を求めた。
「国民議会が、期限を定めて暫定的な徴収を承認すればよいのです。」
「これまで国王政府だけが課していた税を、国民の代表が必要性を確認した上で、一時的に継続する。」
「同時に、新たな税制を制定する期限を定める。」
「それならば、人権宣言の原則と国家の存続を両立できます。」
「その期限が過ぎても改革が終わらなければ。」
「暫定承認は失効する。」
ネッケルは答えた。
その言葉によって、政府にも議会にも時間制限が課されることになる。
改革を約束しながら、何年も古い制度を残すことはできない。
だが、翌日から税収が消えることも避けられる。
議論は具体的な内容へ進んだ。
直ちに行うもの。
恣意的な逮捕命令を停止する。
逮捕と拘禁は、法律で定められた手続きによって行う。
宗教上の意見だけを理由に処罰しない。
身分を理由として新たな免税特権を与えない。
新たな税は、国民議会の同意なしに課さない。
行政機関は、収入と支出を記録し、求められれば説明できるようにする。
期限を定めて改革するもの。
身分ごとに異なる税負担。
国内関税。
徴税請負人制度。
ギルドの営業独占。
軍と行政官職の身分制限。
領主裁判権。
狩猟権。
水車や共同炉の使用を強制する権利。
土地と結びついた領主貢租。
教会の十分の一税。
新法が成立するまで暫定的に存続するもの。
現在徴収されている主要な税。
すでに結ばれた合法的な契約。
行政と裁判所の通常業務。
軍隊の指揮命令系統。
ただし、それらが人権宣言へ明らかに反する場合には、国民議会と裁判所による審査を受ける。
急進派の議員は不満を示した。
「領主貢租の支払いを続けろと言うのですか。」
「農民は、いつまで待てばよい。」
特権整理委員会の議員が答えた。
「人身へ課された隷属的な義務と、土地の契約に基づく貢租を分ける法案を、一か月以内に提出する。」
「期限を明記する。」
「待てと言うだけにはしない。」
保守派貴族も反論した。
「一か月で何百年もの権利を整理できるはずがない。」
「だからといって、期限を設けなければ何も変わりません。」
議論は激しかった。
それでも今回は、宣言そのものを取り消せという声と、古い法律を全て即日無効にせよという声の間に、具体的な移行方法が見え始めていた。
「では、全国へ通達を送る。」
議長が告げた。
「ただし、法律家にしか理解できない文章を送っても意味がない。」
穏健派議員が付け加えた。
「短く、具体的な説明が必要です。」
ネッケルが静かに笑った。
「財政報告と同じです。」
ルイが彼を見る。
「どういう意味だ。」
「情報が不足すると、人は知らない部分を想像で補います。」
「国家財政を隠せば、国庫には無限の金があると考える者と、明日にも破産すると考える者が現れる。」
「人権宣言も同じです。」
「何が変わるのかを説明しなければ、何も変わらないと考える者と、全てが変わったと考える者が現れます。」
「そして、想像は多くの場合、現実より極端になる。」
ルイは頷いた。
「布告を一枚送るだけでは足りない。」
「はい。」
「教会と市庁舎で読み上げさせる。」
「市場でも。」
「文字を読めない者へ、口頭で説明する必要がある。」
一人の議員が懸念を示した。
「地方の聖職者へ任せれば、自分たちに都合のよい説明をする者が出るかもしれません。」
「市の役人も同じだ。」
別の議員が言った。
「古い制度によって利益を得ている者が、人権宣言には何の効力もないと説明する可能性がある。」
「ならば、複数の者に読ませる。」
ルイは提案した。
「教区司祭。」
「市町村の役人。」
「可能であれば、その地方から選ばれた議員か、その代理人。」
「一人の説明だけに任せない。」
「質問を受ける場も作る。」
議員たちがざわめいた。
国王の布告は、本来なら読み上げられ、従うよう命じられるものだった。
国民から質問を受けることを前提として作られるものではない。
「質問とは。」
「税はなくなったのか。」
「領主貢租は支払うのか。」
「新聞は自由に出せるのか。」
「ギルドへ入らず商売できるのか。」
「人々が実際に尋ねていることへ、同じ答えを用意する。」
ルイは答えた。
「難しい法律の文章だけを渡すのではない。」
「問いと答えの形で説明する。」
その日の夜。
王と議会の代表者たちは、全国へ送る説明文書の作成を始めた。
最初に作られた文章は、法律家が書いたものだった。
長い。
言葉が難しい。
一つの文章に、いくつもの条件が詰め込まれている。
ルイは最初の数行を読んだだけで眉をひそめた。
「これを、市場で働く者が理解できると思うか。」
法律家が困った表情を浮かべる。
「正確に書こうとすれば、どうしても長くなります。」
「正確でも、読まれなければ意味がない。」
ルイは草案を宮殿の私室へ持ち帰った。
マリー・アントワネットは、夫から渡された文書へ目を通した。
「何が書かれているのか、私にも分かりません。」
王妃は率直に言った。
「君にも。」
「三度読めば理解できるかもしれません。」
「ですが、三度読む時間のない者もいます。」
ルイは椅子へ座り、両手で頭を抱えた。
「短くすれば、例外が抜ける。」
「長くすれば、誰にも伝わらない。」
「どちらを選んでも誤解される。」
「ならば、二つ作ればよいのではありませんか。」
「二つ。」
「法律として正確な布告。」
王妃は長い草案を指した。
「そして、国民へ説明するための短い文書です。」
「短い文書が、法律そのものと違う意味へ受け取られたら。」
「だから両方を一緒に送るのです。」
マリー・アントワネットは新しい紙を取り、最初の問いを書いた。
「人権宣言によって、税は全てなくなりましたか。」
その下へ、簡潔な答えを書く。
「いいえ。国民議会が新しい税制を定めるまで、現在の税は期限を定めて続きます。ただし、身分によって負担が異なる制度は改められます。」
次の問い。
「領主へ支払う貢租は、全てなくなりましたか。」
答え。
「まだ全てはなくなっていません。人間を身分によって拘束する義務と、土地に付随する貢租を分け、一か月以内に新しい法律を審議します。」
「自由になったのに、なぜ法律へ従わなければならないのですか。」
「自由とは、他人の自由と権利を傷つけない範囲で行動できることです。全員が自分だけの判断で法律を破れば、弱い者の自由が最初に失われます。」
ルイは妻の書いた文章を読んだ。
「君の方が、余たちより分かりやすい。」
「王妃である私にも理解できない文章を、地方の農民へ理解しろという方が無理なのです。」
王妃は少し笑った。
「それから、命令する言葉だけでは駄目です。」
「なぜ、今も税が必要なのかを書いてください。」
「軍隊を維持する。」
「裁判所を動かす。」
「街道を守る。」
「穀物を運ぶ。」
「それを説明すれば、全員ではなくても理解する者はいるでしょう。」
「それでも、支払いたくない者はいる。」
「当然です。」
王妃は答えた。
「説明すれば、誰もが喜んで従うと思わない方がよいでしょう。」
「ですが、説明しなければ、従おうとする者まで疑います。」
翌日、ルイは王妃と作った簡潔な説明文を議会へ提出した。
細かな修正が加えられた。
地方によって言葉が異なることを考慮し、可能な地域では現地で使われる言葉へ訳すことも決められた。
各教区では、日曜日の礼拝後に読み上げる。
都市では、市庁舎と市場で読み上げる。
文字を読める者のために掲示する。
質問が出た場合には記録し、地方当局から議会へ送る。
地方へ帰る議員には、自らの選挙区で説明会を開くことが求められた。
布告を送りつけるだけではない。
国民へ説明し、国民からの疑問を再び議会へ戻す。
これまでの王政では考えられなかった、新しい政治の形だった。
数日後。
国王と憲法制定国民議会の名による布告が、全国へ向けて発送された。
そこには、次のように記されていた。
「人間と市民の権利の宣言は、フランスの国家と法律が従うべき基本原則を示すものである。」
「宣言の採択により、全ての旧法、租税、契約及び義務が同時に消滅したものではない。」
「国家権力は、何人も法律によらず逮捕または処罰してはならない。」
「新たな租税と特権は、国民議会の同意なく設けることができない。」
「現在の租税は、新たな公平税が定められるまで、国民議会の暫定的な承認によって徴収を継続する。」
「身分による租税免除、領主権、国内関税、ギルド規則及び官職制限については、期限を定めて新法を審議する。」
「新法が公布されるまで、何人も暴力または私的な判断によって税、契約及び法的義務を破棄してはならない。」
「国民は、新法の内容と公の負担の使途について説明を求める権利を持つ。」
布告には、短い問答形式の解説も添えられた。
ブルゴーニュのある村。
日曜日の礼拝が終わった後、司祭が教会前の広場で布告を読み上げた。
村人たちは黙って聞いていた。
「税は、まだ払うのか。」
一人の農民が尋ねた。
「今の税は、期限を定めて続くと書かれている。」
司祭が答える。
「それなら、何も変わっていないではないか。」
別の農民が不満を漏らした。
村の書記が説明した。
「違う。」
「これまでは、国王政府がいつまででも徴収できた。」
「今度は国民議会が暫定的に認め、次の制度を作る期限を決めた。」
「期限を過ぎても変わらなければ。」
「その時は、我々の代表へ説明を求められる。」
全員が納得したわけではない。
それでも、その村では追い返されていた徴税人が再び入ることを許された。
ただし、村人たちは納めた税額の受領証を要求した。
以前なら、徴税人が金を受け取れば終わりだった。
今度は、その金がどこへ送られるのかを記録させようとした。
ノルマンディーの街道。
通行税を拒んでいた商人たちは、布告を読んだ後も不満を捨てなかった。
「国内関税を改めると言うなら、なぜ今日も払う。」
「新法ができるまでだ。」
役人が答える。
「その新法は、いつできる。」
「議会が期限を示す。」
「期限が延ばされたら。」
役人は答えられなかった。
商人たちは税を支払った。
だが、納得して従ったのではない。
改革が約束どおり行われるか監視するため、都市ごとに陳情書を作り始めた。
リヨン。
ギルドへ所属せず工房を開こうとした職人は、営業を一時的に止めるよう命じられた。
「自由は、また先延ばしか。」
職人は怒った。
「ギルド規則は見直される。」
都市当局は説明した。
「いつだ。」
「議会で審議される。」
「その間、親方たちは利益を守り、我々は仕事を持てない。」
職人たちは布告を受け入れなかった。
暴動にはならなかったが、集会を開き、職業選択の自由を直ちに認めるよう請願を始めた。
布告によって、全ての混乱が収まったわけではない。
ある地方では、税の納付が再開された。
別の地方では、「議会は自由を宣言した直後に取り上げた。」という批判が広がった。
保守派は、布告を秩序回復の命令として利用しようとした。
急進派は、国王と議会が古い制度を守るために人権宣言へ条件を付けたと非難した。
密輸人の中には、自由を主張しながら利益だけを得ようとする者もいた。
領主の中には、暫定的に権利が存続するという部分だけを強調し、改革の期限について説明しない者もいた。
同じ布告が、また異なる形で使われた。
パリの市場。
パン屋の前には、長い列ができていた。
人権宣言が採択されても、パンの価格は下がっていない。
「自由になったのだから、パンも安くなると思っていた。」
一人の女が言った。
「自由に値段をつけられるから、逆に高くなるんじゃないか。」
別の者が答える。
「税がなくなると聞いた。」
「なくならないらしい。」
「それなら、何のための人権宣言だ。」
「王様が全部変えると言っている。」
「いつ。」
「知らない。」
列の前方から、パンが売り切れたという声が聞こえた。
不満の声が広がる。
誰も、理念だけで腹を満たすことはできない。
言論の自由があっても、パンを買う金がなければ飢える。
法の前で平等であっても、富の差が消えるわけではない。
人権宣言は、国民へ幸福を約束したものではなかった。
自由に幸福を求める権利を認めた。
だが、その自由を使うために必要な食糧、教育、財産まで与えたわけではない。
人々が宣言へ期待したものと、宣言が実際に保障したものの間には、大きな隔たりがあった。
ヴェルサイユ宮殿。
夜。
ルイは各地から届いた新たな報告書を読んでいた。
納税が再開された村。
依然として拒否を続ける村。
領主権の廃止を求める請願。
ギルド改革を求める職人の署名。
言論の自由を理由に出版許可制度の撤廃を求める印刷業者。
兵士の義務と市民の権利を明確にするよう求める連隊。
混乱は少し収まった。
だが、それは以前の静けさへ戻ったという意味ではない。
人々は、再び黙って従うようになったのではなかった。
質問するようになった。
期限を尋ねるようになった。
税の使い道を記録させるようになった。
請願書を作り、自分たちの代表へ送るようになった。
「布告は成功したのだろうか。」
ルイが尋ねた。
向かいに座るネッケルは、報告書をめくりながら答えた。
「税収が完全に止まることは避けられました。」
「それなら。」
「ですが、以前と同じ統治へ戻ったわけではありません。」
ネッケルは一枚の報告書を国王へ差し出した。
「国民は、理由を求め始めています。」
「今後は、国王の名で命令するだけでは足りません。」
「なぜ必要なのか。」
「誰が決めたのか。」
「いつまで続くのか。」
「集めた金を何へ使うのか。」
「それを説明しなければ、従わないでしょう。」
ルイは疲れた表情で椅子へ背を預けた。
「自由の代償か。」
「自由を認めれば、統治する側は説明を求められます。」
「国民の側も、自分の自由が他人へ与える影響について責任を負わなければならない。」
「どちらにとっても、簡単な制度ではありません。」
「専制の方が簡単だな。」
ルイは自嘲するように笑った。
「命じ、従わなければ罰する。」
「少なくとも、何をすればよいかは分かりやすい。」
「ですが、その簡単さによって積み上がった不信が、今のフランスです。」
ネッケルの言葉に、ルイは何も返せなかった。
やがて、ネッケルは別の書類を机へ置いた。
これまでの地方報告とは違う。
厚い革表紙で綴じられている。
表紙には、大きな文字が記されていた。
『憲法』
ルイの喉が鳴った。
「これは。」
「憲法委員会がまとめた、今後の審議項目です。」
ネッケルは答えた。
「人権宣言によって、国家が守るべき理念は定められました。」
「地方へ送った布告によって、旧法を変更するには新たな法律が必要であることも確認されました。」
「それなら。」
ネッケルは国王を見た。
「誰が、その法律を作るのか。」
「誰が執行するのか。」
「法律が人権宣言へ反していないか、誰が判断するのか。」
「それを決めなければなりません。」
ルイは革表紙へ手を載せた。
開かなくても、中で待っている議題が分かった。
立法権。
行政権。
司法権。
国王の拒否権。
大臣の任免。
議会の解散。
戦争と講和。
租税を決める権限。
一院制か、二院制か。
選挙権を誰へ与えるのか。
国王は法律を止められるのか。
止められるなら、どれほどの期間か。
前の人生で成立した一七九一年憲法。
停止的拒否権。
立法議会との対立。
拒否権を使うたび、革命の敵と呼ばれた。
王権を守ろうとするほど、国民から疑われた。
最後には、憲法へ宣誓した国王自身が、その憲法から逃げようとしてヴァレンヌで捕らえられた。
記憶が蘇り、ルイの指先が震え始めた。
書類を押さえる手へ力を入れなければ、逃げるように引っ込めてしまいそうだった。
「いよいよ来たか。」
ルイは呟いた。
「はい。」
「この議論が、王の権限を決める。」
「同時に、議会の限界も決めます。」
ネッケルは答えた。
「人権宣言を掲げるだけでは、自由は守られません。」
「権力をどこへ置き、どのように互いを制限させるのか。」
「制度として形にしなければならないのです。」
ルイは、ゆっくりと革表紙を開いた。
最初の頁には、憲法委員会からの問いが記されていた。
『フランスの立法権は、誰に属するか。』
その一文を見ただけで、胸が締めつけられた。
以前のルイにとって、憲法は王権を縛る檻だった。
逃げなければ、全てを奪われる。
そう考えた。
だが、その檻から逃げようとした結果、国民の信用を完全に失った。
今度は逃げないと決めた。
ならば、憲法を他人から押しつけられる鎖として恐れるだけではいけない。
国王と議会。
自由と秩序。
権利と義務。
その全てが共に存在できる形を、自分も作らなければならない。
理念は、すでに宣言された。
次に問われるのは、その理念を誰が守り、誰が執行し、誰が権力の暴走を止めるのかだった。
フランスの未来を決める、本当の憲法論議が始まろうとしていた。




