第三十七話 真実は希望か絶望か
一七八九年八月。
ヴェルサイユ。
憲法制定国民議会の議場には、数か月前とは異なる緊張が漂っていた。
三部会が招集された当初、議員たちが争っていたのは、議決の方法だった。
身分ごとに一票とするのか。
全代表が一人一票を持つのか。
第三身分だけで国民を代表できるのか。
聖職者と貴族は、第三身分と合同で審議すべきなのか。
そして最後には、誰がフランスという国家を代表するのかが争われた。
国王か。
三つの身分か。
それとも、身分を越えた国民そのものか。
だが今、議員たちの前には、それらの理念だけでは解決できない現実が置かれていた。
フランス王国の財政。
国王が憲法制定国民議会の存在を認め、ジャック・ネッケルの留任を決めたことで、武力による衝突は避けられた。
ネッケル罷免の知らせはパリへ届かなかった。
軍隊もパリ市内へ進軍しなかった。
民衆が武器を求めてバスティーユ牢獄へ押し寄せることもなかった。
しかし、銃声が響かなかったからといって、王国の危機が消えたわけではない。
むしろ、武力衝突によって覆い隠されるはずだった財政問題が、そのまま議場の中央へ残された。
これまでは、国王政府が全てを決めてきた。
戦争を始める。
国債を発行する。
税を徴収する。
大臣を任命する。
支出の内容は、ごく限られた者しか知らない。
国民は、結果として新たな税を求められた時にだけ、国家の金が足りないことを知らされた。
だが、その方法はもう通用しなかった。
議員たちは、政府へ協力する前に、国家財政の全体を明らかにするよう求めた。
「数字を出せ。」
一人の議員が叫んだ。
「我々は、もう曖昧な説明では納得しない。」
「財政が危機的であると言うなら、何が、どれほど不足しているのかを示せ。」
別の議員が続く。
「国民へ新たな負担を求めるのであれば、これまで集めた税を何に使ったのか説明する義務がある。」
「王国の帳簿は、国王個人の秘密ではない。」
「国民には、知る権利がある。」
議場の正面には、大きな計算表が掲げられていた。
黒い文字で、いくつもの項目が並んでいる。
通常歳入。
通常支出。
臨時支出。
軍事費。
王室費。
年金と恩給。
国債残高。
年間利払い。
徴税費用。
確認済みの数字。
推計を含む数字。
現時点では確認できていない数字。
数週間前、ネッケルは国民議会で、一七八一年の『国王への財政報告書』が国民へ誤解を与えたことを認めた。
今度は、通常会計の収支だけを見せるのではない。
戦争によって増えた債務。
国債の利払い。
各省庁が抱える未払い。
王室と宮廷の支出。
徴税の途中で失われる金。
現時点で把握できる限りの全てを、一つの報告へまとめようとしていた。
その作業は、ネッケルが想像していた以上に困難だった。
フランス王国には、国家全体の収入と支出を即座に確認できる一つの帳簿が存在しなかった。
陸軍は陸軍の帳簿を持っている。
海軍は海軍の帳簿を持っている。
王室は王室の支出記録を持っている。
地方の会計は、報告が何年も遅れているものさえある。
徴税請負人が集めた金額と、実際に国庫へ納められた金額にも差がある。
ある帳簿では支出とされている金が、別の帳簿では未払いのまま残されている。
国債の元本と利払いも、発行された時期や条件によって分けられ、一目では全体を把握できない。
完全な数字を出せと議会は求めた。
しかし、完全な数字を政府自身が持っていなかった。
ネッケルは、その事実まで隠さず報告書へ記した。
「諸君。」
ネッケルが議場の中央へ立った。
以前のように、自信に満ちた財政家として振る舞うことはしなかった。
この報告によって、自らの評判が失われる可能性も理解していた。
「初めに申し上げます。」
「本日示す数字には、確定しているものと、推計を含むものがあります。」
「王国の会計は複雑に分かれ、全ての報告が同じ基準で作られているわけではありません。」
「したがって、一リーブルの誤差もない完全な数字であるとは申し上げられません。」
議場がざわめいた。
「また言い逃れをするつもりか。」
「都合の悪い数字を推計として隠すのではないか。」
声が飛んだ。
ネッケルは反論せず、ざわめきが収まるのを待った。
「以前の私は、不確かな部分を一つの数字へまとめ、それが確実な事実であるかのように示しました。」
「それによって、簡潔で理解しやすい報告書を作ることはできました。」
「しかし同時に、国民へ誤った安心を与えました。」
「今度は、不確かなものを確実であるようには示しません。」
「分からない部分は、分からないと申し上げます。」
「その上で、現時点における王国財政の姿を説明いたします。」
ネッケルは、壁に掲げられた計算表を振り返った。
「フランス王国の問題は、収入そのものが存在しないことではありません。」
「人口も、農地も、産業も、商業も存在します。」
「毎年、王国全体から莫大な税が集められています。」
「問題は、その収入に対して支出が恒常的に多いこと。」
「集められた税が、複雑な徴税制度の途中で失われていること。」
「そして、過去の戦争によって積み上がった債務の利払いが、毎年の歳入を圧迫していることです。」
係官が長い棒で、計算表の数字を指した。
「現在確認できる年間歳入は、およそ五億リーブル。」
「これに対し、年間支出は六億リーブルを大きく上回ると見積もられます。」
「従って、一年間に生じる不足は少なくとも一億リーブルを超えます。」
議場のあちこちから息を呑む音が聞こえた。
「一億。」
「毎年、それほど足りないのか。」
「では、これまでは何で埋めていた。」
ネッケルは答えた。
「借入です。」
さらに次の数字が示された。
「過去の戦争と累積した赤字によって、王国が負う債務の総額は、およそ四十億リーブルに達すると推計されます。」
今度は、議場が完全に静まり返った。
四十億。
あまりにも大きな数字だった。
一人の人間が生涯に目にすることのない金額。
農民が一年働いて得る金。
職人が一日に受け取る賃金。
一個のパンの値段。
そうした身近な数字と比べることさえできない。
議員たちは、目の前に書かれた数字が、本当に同じ国の金を示しているのか理解できなかった。
「これほど。」
誰かが呟いた。
「これほどの借金を抱えていたのか。」
ネッケルは続けた。
「さらに問題なのは、債務の総額だけではありません。」
「毎年、元本の償還と利払いのために、歳入の半分近く、あるいはそれ以上が拘束されています。」
「今年集めた税の多くが、今年の行政や国民のために使われるのではなく、過去に行った戦争と借入の支払いへ消えているのです。」
議場が騒然となった。
「それでは、王国はすでに破産しているではないか。」
「なぜ、今まで隠していた。」
「一七八一年の報告書では黒字だと示したはずだ。」
一人の議員が立ち上がり、ネッケルを指した。
「ネッケル殿。」
「あなたは以前、財政報告書によって国民へ安心を与えた。」
「通常収支には余剰があると示した。」
「しかし、今日の報告を見れば、フランスは破産寸前ではありませんか。」
ネッケルは逃げずに答えた。
「はい。」
その一言によって、議場の声が止まった。
「王国の財政は、危機的な状態にあります。」
「現状を変えなければ、支払い不能へ陥る危険があります。」
「認めるのか。」
「認めます。」
「では、一七八一年の報告書は虚偽だったのですか。」
「記載した通常収支の数字を、全て虚偽だったとは考えておりません。」
ネッケルは慎重に言葉を選んだ。
「しかし、通常収支の余剰を示す一方で、戦争の臨時支出、借入の増加、将来の利払いが持つ危険を十分に示さなかった。」
「その結果、王国財政の全体が健全であるかのような印象を与えました。」
「その責任から逃れるつもりはありません。」
「だが。」
別の議員が声を上げた。
「責任を認めるだけでは、四十億リーブルの借金は消えない。」
「何をすればよいのです。」
ネッケルは計算表へ向き直った。
「国家財政を、家庭の帳簿と全く同じものとして考えるべきではありません。」
その言葉に、議員の一人が眉をひそめた。
「国家ならば、借金を返さなくてもよいとでも。」
「違います。」
ネッケルは即座に否定した。
「国家は家庭よりも長く存続します。」
「毎年、継続して税収を得ることができます。」
「街道、港湾、運河、農業、商業へ資金を投じ、その生産力が高まれば、将来の歳入も増やすことができます。」
「一時的な支出を数十年にわたって負担するために借入を用いること自体は、必ずしも誤りではありません。」
「では、借金に問題はないのですか。」
「問題があります。」
ネッケルは答えた。
「将来の収入を増やすための借金と、毎年の不足を隠すための借金は違います。」
「橋を造り、商業を活発にするための借入であれば、その橋が将来の富を生み出す可能性があります。」
「しかし、利息を支払うために新たな借金を重ねるだけであれば、債務は増えても、返済する力は増えません。」
「現在のフランスは、後者へ近づいています。」
議場が再び静まり返った。
ルイ十六世は、議場の端に設けられた席で、その説明を聞いていた。
目の前へ示された四十億リーブルという数字。
幼い頃から何度も見てきた数字だった。
王になる前から、フランスが莫大な債務を抱えていることは知っていた。
即位した後も、テュルゴー、ネッケル、カロンヌ、ブリエンヌと、何人もの大臣から同じ警告を受けた。
それでも、こうして国民の代表の前へ掲げられると、全く違うものに見えた。
秘密の帳簿に書かれている間、それは国王と大臣だけが抱える問題だった。
今は違う。
国民全体が、その債務を知った。
前の人生では、フランス革命は政治事件として語られていた。
バスティーユ牢獄。
人権宣言。
ヴェルサイユ行進。
ヴァレンヌ逃亡。
王政廃止。
国王裁判。
そして、ギロチン。
だが、その全ての底には、支払えない金があった。
改革を行うにも金がいる。
軍隊を動かすにも金がいる。
穀物を買うにも金がいる。
行政を維持するにも金がいる。
王権を守るにも、革命を進めるにも、結局は国家の収入と信用が必要だった。
「では、どうする。」
議員の一人が尋ねた。
「増税か。」
「支出削減か。」
「それとも、また新しい国債を発行するのか。」
その問いを合図に、議論が始まった。
最初に槍玉へ上がったのは、王室費だった。
「国民がパンを買えずにいる時、宮廷だけが贅沢を続けることは許されない。」
「王室の馬車。」
「宴会。」
「衣装。」
「離宮。」
「貴族へ与えられる年金。」
「全てを削減すべきだ。」
議員たちの声が次々に上がる。
特に、王妃へ対する非難は激しかった。
「オーストリア女の浪費を止めろ。」
誰かが叫んだ。
ルイの身体が強張った。
議場の空気が、一瞬で処刑前の裁判へ変わった。
外国と通じた王妃。
国庫を浪費した王妃。
国民の敵。
マリー・アントワネットが未来の裁判で浴びせられる言葉と同じだった。
ルイは立ち上がりかけた。
怒鳴り返したかった。
妻へ責任を押しつけるなと叫びたかった。
しかし、ここで感情的になれば、王室費の議論そのものから逃げたと思われる。
ルイは震える手で椅子をつかみ、ゆっくりと立った。
「王室費は削減する。」
議場が静まった。
「陛下。」
王党派の議員が慌てて声を上げた。
「王家の威信を守るためには、相応の支出が必要です。」
「外国の使節を迎える。」
「国家の儀礼を行う。」
「多数の使用人と官吏を養う。」
「王室費の全てが浪費ではありません。」
「分かっている。」
ルイは答えた。
「王室を明日から空にするとは言っていない。」
「儀礼も外交も、国家に必要な費用だ。」
「宮廷で働く者の多くは、贅沢をしている貴族ではない。」
「料理人。」
「御者。」
「洗濯をする者。」
「庭園を管理する者。」
「一度に解雇すれば、その者たちと家族の生活を奪う。」
ルイは一度、息を整えた。
「だから、順番を決める。」
「新たな高額年金の付与を停止する。」
「実際に職務を行っていない者へ支払われている金を調べる。」
「急を要しない建築と改修を延期する。」
「王家の複数の家政組織を整理する。」
「高額な王室支出は議会の財政委員会へ示す。」
「その一方で、低い賃金で働く者を突然街路へ放り出すことはしない。」
「陛下。」
側近がなおも止めようとした。
「そこまで公開すれば、王家の威厳が。」
「威信とは、使った金額の大きさで決まるものではない。」
ルイは言った。
「国民が国家を信じられるかどうかで決まる。」
王室費は、フランス財政危機の最大の原因ではなかった。
戦争費。
債務の利払い。
徴税制度の非効率。
特権によって歪められた税負担。
それらの方が、王室の食卓や衣装よりもはるかに大きい。
宮廷の支出を削減しただけで、一億リーブルを超える赤字が消えるわけではない。
それでも、国民へ新たな負担を求める前に、王家も負担を受け入れる。
その姿勢を示すことには、大きな政治的意味があった。
次に議題となったのは、徴税請負人制度だった。
フェルム・ジェネラル。
国王政府は、塩税や煙草税、関税などの徴収を民間の組織へ請け負わせていた。
徴税請負人は、あらかじめ一定額を国庫へ納める。
その代わり、実際に徴収した税額との差を利益とする。
政府にとっては、税が集まるまで待たずに安定した収入を得られる利点があった。
全国へ多数の役人を配置する必要もない。
しかし、国民にとって徴税請負人は、国王の名を使って利益を得る者だった。
「国家の税は、国家が集めるべきだ。」
議員が叫んだ。
「民間の徴税人が国民から取り立て、その差額で富を築くなど許されない。」
「税を納めても、その全てが国庫へ届いていない。」
「徴税請負人制度を直ちに廃止せよ。」
議場から賛同の声が上がった。
だが、ネッケルは慎重だった。
「制度に重大な問題があることは認めます。」
「徴税請負人の利益と権限を見直す必要もあります。」
「しかし、明日から全てを廃止すれば、国家が税を集められなくなる危険があります。」
「国家が直接集めればよい。」
「そのための役人は、どこにいますか。」
ネッケルは問い返した。
「全国の村と都市で税額を確認する者。」
「納税記録を作る者。」
「未納者へ対応する者。」
「集めた金を安全に国庫まで運ぶ者。」
「不正を監査する者。」
「その行政組織を作らず、契約だけを廃止すれば、税収は国民のもとへ残るのではありません。」
「地方の有力者や役人の手元で消える可能性があります。」
「では、不公平な制度を維持しろと。」
「違います。」
ネッケルは首を横へ振った。
「廃止するための準備を始めるべきだと申し上げています。」
ルイはその議論を聞きながら、現代で学んだ言葉を思い出していた。
徴税効率。
行政能力。
制度変更に伴う費用。
どれほど正しい制度を考えても、それを実行する役人と記録がなければ、国家は動かない。
腐敗した徴税請負人を追い出せば、翌日から清廉な国家公務員が同じ仕事を引き継いでくれるわけではない。
古い制度には問題がある。
だが、その制度が現実に担っている機能まで一度に破壊すれば、改革そのものが国家を止めてしまう。
「改革には順番が必要だ。」
ルイは発言した。
「まず、徴税請負人が実際に集めた金額と、国庫へ納めた金額を報告させる。」
「手数料と利益を公開する。」
「契約を更新する時には、条件を議会の財政委員会へ示す。」
「同時に、いくつかの地方で国家による直接徴税を試みる。」
「その結果を比較しながら、段階的に置き換える。」
急進的な改革を求める議員から、不満の声が上がった。
「それでは遅すぎる。」
「徴税請負人へ利益を与え続けるつもりか。」
ルイは、その声へ身体を震わせながらも答えた。
「明日から理想の制度になると約束することはできない。」
「できないことを、できると言ってはならない。」
「余は、それによって何度も信用を失った。」
議論は国債へ移った。
「これ以上、新たな借金を増やすべきではない。」
一人の議員が叫んだ。
「借金によって今日をしのぎ、明日の国民へ支払いを押しつける。」
「その繰り返しによって、四十億リーブルへ達したのではないか。」
「今後の国債発行を禁止すべきだ。」
議場から拍手が起こった。
だが、ネッケルは首を横へ振った。
「今この瞬間に借入を禁止すれば、国家は数週間のうちに支払いを止めます。」
「役人の給与。」
「軍隊の維持。」
「債務の償還。」
「穀物を購入するための資金。」
「税収が国庫へ届くまで待つことのできない支払いが存在します。」
「また借りると言うのか。」
「緊急の資金として、まず三千万リーブルが必要です。」
議員たちが一斉に声を上げた。
「三千万。」
「この報告の直後に、さらに国債を買う者がいるのか。」
「国庫が危険だと公表しておきながら、信用しろと言うのか。」
ネッケルは真正面から答えた。
「その通りです。」
「危機を隠したまま貸してほしいと求めるのではありません。」
「危機の内容を示す。」
「何を削減するのかを示す。」
「誰へ新たな負担を求めるのかを示す。」
「国民議会が財政を監督し、国家が債務を返済する意思を保証する。」
「その上で、フランスへ資金を貸してほしいと求めます。」
一人の議員が立ち上がった。
「国王の債務を、国民が保証するのですか。」
その問いによって、議場の空気が変わった。
これまで、国債は国王が借りた金と考えられてきた。
国王政府が発行し、国王の歳入によって返済する。
だが、国王の命令だけでは税制を改革できず、議会の協力なしに新たな負担を求められないのであれば、債権者は国王の約束だけを信用しなくなる。
国民の代表が返済を保証する。
それは、王の債務を国家の債務へ変えることを意味していた。
「国王の借金の責任を、なぜ国民が負う。」
「戦争を決めたのは国民ではない。」
反対の声が上がった。
すると別の議員が反論した。
「国家が債務を否認すれば、損をするのは大銀行家だけではない。」
「年金を国債によって受け取る未亡人。」
「老後の蓄えを公債へ換えた職人。」
「少額の利息で暮らす地方の家族。」
「彼らの財産まで奪うことになる。」
「では、過去の政府が作った借金を、永遠に払い続けろと言うのか。」
「債務を返さない国家へ、今後誰が金を貸す。」
議論は対立した。
国債を守れば、国民の税が利払いへ使われる。
国債を切り捨てれば、債権者の財産を奪い、国家の信用も失う。
どちらにも犠牲がある。
ルイは、イギリスについて学んだことを思い出していた。
イギリス政府がフランスより低い利率で多額の資金を借りられたのは、単に銀行が存在したからではない。
議会が税を承認し、その税収によって債務を返済する仕組みがあった。
国王一人の都合で債務を否認できない。
政権が変わっても、国家の約束は残る。
その確信が、信用を生み出していた。
フランスが必要としているのも、国王個人への信用ではない。
国王が善良かどうかに左右されない仕組み。
政府と国民議会の双方が、国家の約束を守る制度だった。
だが、それを認めることは、財政に関する国王の権限を議会と分けることでもある。
王権を守りたいという恐怖が、ルイの胸を締めつけた。
一度権限を渡せば、二度と戻らないかもしれない。
議会は、さらに多くを求めるかもしれない。
やがて国王は必要ないと言われるかもしれない。
その先に、王政廃止と処刑台が見えた。
ルイは首へ手を伸ばしかけた。
途中で止め、震える手を握り締めた。
恐怖だけで決めない。
マリー・アントワネットと交わした約束を思い出した。
「国家の債務は守る。」
ルイは立ち上がって言った。
議場が静まる。
「過去の政府が作った債務であっても、フランスという国家が負った約束だ。」
「国王が代わっても、大臣が代わっても、議会の多数が変わっても、正当な債務を一方的に消すことはしない。」
「ただし。」
ルイは続けた。
「その代わり、今後の借入は、目的と返済方法を明らかにする。」
「借りた金が何へ使われるのか。」
「何年で返すのか。」
「どの税収を返済へ充てるのか。」
「国王政府だけで決めず、国民議会へ説明する。」
王党派から反対の声が上がった。
「それでは、財政権を議会へ渡すことになります。」
「国王が戦争を必要と判断しても、議会が金を出さなければ軍を動かせなくなる。」
ルイは、その意味を理解していた。
金を制する者が、政治を制する。
議会が税と借入を握れば、国王は議会を無視できなくなる。
それでも、秘密の借金によって王権を保つ道が、すでに限界へ達していることも知っていた。
「国民に負担を求めるなら、その代表へ説明しなければならない。」
ルイは答えた。
「説明できない戦争であれば、始めるべきではない。」
議場に大きなどよめきが広がった。
それは単なる財政改革ではなかった。
国王が、自らの戦争権限へ事実上の制約を認めた瞬間だった。
議論は、さらに経済成長へ向かった。
「支出を減らし、税を公平にし、信用を回復する。」
「それだけで四十億リーブルを返せるのか。」
議員が尋ねた。
ネッケルは答えた。
「王国の生産と商業が拡大しなければ、返済は困難です。」
「農業の収穫を増やす。」
「国内の関税障壁を整理する。」
「街道と港を整備する。」
「商業と工業を妨げる規則を見直す。」
「国民の所得が増えれば、重い税率を課さなくても、国家の歳入を増やすことができます。」
ルイは、かつてテュルゴーと語った未来を思い出した。
穀物取引の自由化。
ギルドの廃止。
道路労役の改革。
土地へ公平に課税する制度。
経済を成長させ、その成長によって税収を増やす。
方向は間違っていなかった。
だが、テュルゴーの改革は抵抗を受けた。
穀物価格が上がれば、自由化そのものが批判された。
ギルドを廃止しようとすれば、既得権を持つ者が反発した。
特権身分へ課税しようとすれば、高等法院と貴族が抵抗した。
正しい改革であっても、効果が現れるまでには時間が掛かる。
道路を造っても、翌日に税収が増えるわけではない。
農業の生産性を高めても、次の収穫まで待たなければならない。
商業を成長させても、国庫へ新たな税が届くまでには何年も掛かる。
「未来の成長を待つ余裕があるのか。」
議場の後方から、誰かが呟いた。
その言葉によって、議場が静まり返った。
未来には希望がある。
しかし、国庫は今日の支払いを求められている。
三千万リーブルの緊急公債。
それが集まらなければ、改革の成果を待つ前に政府が止まる。
ネッケルは答えられなかった。
ルイも答えられなかった。
議論は夜まで続いた。
王室費をどこまで削るのか。
徴税請負人制度を、どの順番で改めるのか。
特権階級へどのように課税するのか。
新たな国債を誰が引き受けるのか。
債務を国民議会が保証するのか。
国王と議会のどちらが、財政を決定するのか。
改革派は、公開された数字の中に新しい国家を作る機会を見た。
王党派は、財政危機を利用して王権が奪われることを恐れた。
急進的な議員は、古い制度を一度に破壊しなければ何も変わらないと訴えた。
穏健派は、急激な改革によって税収と行政が止まることを警戒した。
全員が国家を救うと口にした。
だが、誰が負担し、誰が権限を持ち、誰が将来の利益を得るのかについては、誰一人として同じ答えを持っていなかった。
その頃、パリでは財政報告の内容が新聞とパンフレットによって広められていた。
『フランスの債務、四十億リーブル。』
『国王政府、毎年一億リーブルを超える赤字。』
『歳入の半分が利払いへ消える。』
大きな数字は、人々の恐怖を刺激した。
「四十億とは、パン何個分だ。」
「我々から集めた税は、どこへ消えた。」
「王妃の首飾りに使ったのか。」
「戦争へ使った。」
「貴族の年金へ消えた。」
「徴税請負人が奪った。」
人々は、自分が憎む相手へ原因を求めた。
王室。
貴族。
聖職者。
銀行家。
徴税請負人。
外国人。
財政危機には多くの原因があったが、複雑な仕組みより、一人の悪人を見つける方が理解しやすかった。
国債を持つ者は不安に駆られた。
国家が債務を守ると国王が宣言しても、本当に返済できるのかは分からない。
三千万リーブルの新たな公債へ申し込むべきか、手元の国債を売るべきか。
銀行家たちは、金利と危険を計算した。
一方、パンを買えない者にとって、四十億リーブルも三千万リーブルも、遠い世界の数字だった。
「帳簿を公開すれば、明日のパンは安くなるのか。」
その問いへ答えられる者はいなかった。
議会でどれほど立派な演説が行われても、翌朝のパン価格は下がらない。
徴税制度を改革しても、失業した職人へ今日の賃金が戻るわけではない。
国民が政治を待てる時間と、政治が改革に必要とする時間は違っていた。
夜。
議会が閉会した後、ルイとネッケルは国王の執務室へ戻った。
机の上には、公開された財政報告書の写しが置かれている。
四十億リーブル。
一億リーブルを超える年間不足。
歳入の半分近くを占める債務支払い。
数字は、議場を離れても変わらない。
「陛下。」
ネッケルが窓の外を見ながら言った。
「公開したことで、信用は回復するでしょうか。」
ルイはすぐには答えなかった。
昼間、議員たちの前で発言した時の恐怖が、まだ身体に残っている。
財政の全貌を知らせたことで、国債が売られるかもしれない。
新たな公債へ誰も申し込まないかもしれない。
国民が、フランスは破産寸前だと知った。
自分は国王として、国家の弱さを自ら公表した。
「分からない。」
ルイは正直に答えた。
「むしろ、明日は今日より信用が下がるかもしれない。」
「私も、その可能性を恐れています。」
「だが、隠し続けても、いずれ支払いが止まった時に全てが明らかになる。」
ルイは報告書へ目を落とした。
「その時には、金だけでなく、言葉まで信用されなくなる。」
ネッケルは疲れた表情で椅子へ腰を下ろした。
「真実とは、必ずしも人を安心させるものではありませんね。」
「ああ。」
「時には、知らなかった時よりも人を恐れさせる。」
「では、国民へ希望を与えるためなら、全てを話さない方がよかったのでしょうか。」
ルイは首を横へ振った。
「嘘の安心は、借りた金と同じだ。」
「今日を楽にする代わりに、明日返さなければならない。」
「しかも、利息がつく。」
ネッケルが、わずかに笑った。
「財政の話に例えられますか。」
「余たちには、それしかない。」
ルイも小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「苦しい真実だけでは足りない。」
「何をすれば変えられるのかを示さなければ、真実は絶望になる。」
「王室費を削る。」
「徴税制度を改める。」
「特権を持つ者にも負担を求める。」
「国家の債務を、国王と議会が共に保証する。」
「それでも足りなければ。」
ルイは言葉を止めた。
それでも足りない。
二人とも、そのことを理解していた。
王室費を削っても、一億リーブルを超える赤字は消えない。
徴税制度の改革には時間が掛かる。
新たな公平税を作っても、収入が国庫へ届くのは先である。
三千万リーブルの緊急借入に成功しても、数か月の時間を買うだけにすぎない。
「王国には、金がありません。」
ネッケルが言った。
「ですが、土地はあります。」
ルイは顔を上げた。
「王領地か。」
「王領地だけでは足りません。」
ネッケルは、それ以上を口にしなかった。
同じ頃。
議会の別室では、数人の議員が一枚の地図を囲んでいた。
フランス各地に広がる土地。
修道院。
司教領。
教会が所有する農地。
森。
建物。
そこに記された財産は、国庫の現金とは比べものにならないほど大きかった。
一人の議員が地図の上へ指を置いた。
「国家には金がない。」
「だが、フランスには土地がある。」
向かいに座る聖職者が眉をひそめた。
「それは教会の土地だ。」
「教会が所有しているのか。」
議員が問い返した。
「それとも、信徒と貧者のために預かっているのか。」
誰も答えなかった。
「もし国家が聖職者の生活と救貧を引き受けるなら。」
男は静かに続けた。
「教会の財産を、国家の債務を救うために使うことはできないだろうか。」
別の議員が尋ねた。
「土地を売るのか。」
「一度に売れば、価格が崩れる。」
「ならば、土地を担保に資金を集める。」
「土地を担保にした証券を発行するのだ。」
その言葉を聞く者の中には、希望を見いだした者もいた。
四十億リーブルの債務へ対抗できる、巨大な資産。
現金のない国家が、土地によって信用を作る方法。
だが、その証券が将来、何へ変わるのかを知る者はいなかった。
まだ、アッシニャという名前さえ与えられていない。
国王も議会も、財政公開によって最も困難な一歩を踏み出した。
だが、真実を公開したことで、議会は国王政府の帳簿を見る権利を得た。
帳簿を見る権利は、支出を決める権利へつながる。
支出を決める権利は、国家の財産を処分する権利へつながる。
そして次に問われるのは、フランスの土地が誰のものなのかという問題だった。
国王のものか。
教会のものか。
それとも、国民のものか。
財政の真実は、希望にも絶望にもなり得た。
どちらになるかを決めるのは、公開された数字ではない。
その数字を知った人々が、何を奪い、何を守り、誰に犠牲を求めるのか。
これから始まる選択だった。




