第三十六話 王妃の恐怖ーーウィーンへの手紙
一七八九年七月末。
深夜。
マリー・アントワネットは、王の私室で夫の帰りを待っていた。
机の上には、ほとんど手をつけていない夕食が残されている。
暖炉の火は小さくなり、燭台の蝋燭も半分ほどまで短くなっていた。
憲法制定国民議会で始まった財政審議は、日が暮れても終わらなかった。
ネッケルが一七八一年の財務報告書について説明し、ルイ自身も議員たちの前で責任を認めたという知らせは、すでに王妃のもとへ届いていた。
夫は逃げなかった。
大臣一人へ責任を押しつけることもなかった。
それは喜ぶべきことのはずだった。
だが、マリー・アントワネットは安心できなかった。
議場へ向かう前の夫の顔を覚えている。
唇から血の気が消え、手は冷たくなっていた。
上着の釦を留めようとしても指が震え、何度も同じ穴へ通し損ねていた。
「無理をなさらないでください。」
そう言うと、ルイは怯えた目で王妃を見た。
「行かなければ、また一人を処刑台へ送ることになる。」
意味の分からない言葉だった。
処刑台へ送られるのは、ネッケルではない。
今日は財政について説明するだけである。
誰かへ死刑判決を下す日ではない。
それでもルイには、議場へ向かうことと処刑台へ向かうことが、同じもののように感じられているらしかった。
廊下の向こうから、扉の開く音が聞こえた。
マリー・アントワネットは立ち上がった。
しばらくして、ルイが部屋へ入ってきた。
ひどく疲れた顔をしていた。
上着は乱れ、額には汗が浮かんでいる。
暑さのせいではない。
部屋へ入った後も、何度も背後を振り返っていた。
誰かが追ってきていないか確かめるような動きだった。
「お帰りなさい。」
王妃が声をかける。
ルイは答えなかった。
扉が閉じられるのを見届け、ようやく小さく息を吐いた。
「今日は。」
夫が呟いた。
「誰も、余へ死刑と投票しなかった。」
マリー・アントワネットは言葉を失った。
「財政についての審議だったのでしょう。」
「ああ。」
「それなら、死刑を決める投票など行われるはずがありません。」
「分かっている。」
ルイは首へ手を当てた。
「頭では、分かっている。」
「だが、議員が一人ずつ立ち上がるたび、また死刑と口にするように見えた。」
「机を叩く音が、処刑場の太鼓に聞こえた。」
「議長の前にある机が、首を載せる台に見えた。」
ルイは自分の言葉が異常であると分かっているのか、苦しそうに顔を歪めた。
「おかしいだろう。」
「余にも分かっている。」
「議場と処刑台は違う。」
「一七八九年と一七九三年も違う。」
「だが、身体が分かってくれない。」
マリー・アントワネットは夫へ近づき、その両手を取った。
氷のように冷たい。
「今は宮殿です。」
「ええ。」
「私もここにいます。」
「ああ。」
「あなたの首もつながっています。」
ルイは頷いた。
それでも首へ触れることをやめなかった。
王妃は夫を椅子へ座らせ、水を差し出した。
ルイは杯を受け取ったが、縁へ唇をつけたまま飲もうとしなかった。
水面が小さく揺れている。
手の震えが杯へ伝わっていた。
「ネッケルは、何と。」
「報告書が誤解を与えたと認めた。」
「自分の責任も認めた。」
「あなたも認めたのですね。」
「余の名で公表したのだ。」
ルイは俯いた。
「ネッケルだけの責任にすれば、以前と同じになる。」
「以前。」
その一言へ、ルイの肩が強張った。
「君には話しただろう。」
「ネッケルを追放した人生。」
「軍隊を集めなかった人生。」
「パリへ行き、群衆に踏み殺された人生。」
「兵士を集め、バスティーユが落ちた人生。」
「ヴァレンヌへ逃げ、捕まった人生。」
「そして処刑された人生。」
マリー・アントワネットは黙って聞いていた。
最初にその話を聞かされた夜、彼女は夫を抱き締めた。
時間が戻るという話を信じたからではない。
ルイが本当に苦しんでいることは、疑いようがなかったからだ。
だが、それから何日が過ぎても、王妃は夫の話をどのように受け止めればよいのか分からなかった。
人間が死んだ後、過去へ戻る。
しかも一度ではない。
異なる選択をするたび、違う死に方をし、また一七八九年へ戻ってくる。
常識で考えれば、あり得ない。
悪夢。
妄想。
極度の疲労。
政治的な重圧。
最愛の長男ルイ=ジョゼフを失ったばかりの悲しみ。
それらによって、夫の心が壊れてしまったのではないか。
そう考える方が自然だった。
六月四日。
病に苦しみ続けた幼い王太子は、七歳で亡くなった。
国王夫妻が息子の死を悲しむ間にも、三部会は対立を深めた。
第三身分は国民議会を名乗り、球戯場で誓いを立て、王権へ譲歩を迫った。
親である前に、国王と王妃であることを求められた。
泣くための時間さえ、政治は与えてくれなかった。
長男の死と王国の危機が重なり、ルイの心が耐えられなくなったとしても不思議ではない。
だが、ただ心を病んだだけだと片づけるには、夫の恐怖はあまりにも具体的だった。
タンプル塔。
国民公会。
ルイ・カペー。
ヴァレンヌ。
ドルーエという名の男。
革命広場。
一月二十一日。
午前十時二十二分。
斜めの刃。
太鼓によって消された最後の言葉。
ルイは、それらを夢の断片として語るのではなかった。
どの扉から部屋へ入ったのか。
馬車の中で誰がどこへ座っていたのか。
縄が手首へ巻きつけられた時、どの指から感覚がなくなったのか。
首を固定する板が、頬のどこへ触れたのか。
実際に経験した者のように語った。
そして話している間、身体までその時の痛みを思い出していた。
胸を押さえ、息ができなくなる。
首を守るように両手を当てる。
背後で金属音が鳴ると、床へ身を伏せる。
眠っている間に、「板を閉じるな。」と叫ぶ。
単なる作り話で、ここまで怯え続けられるものなのか。
「マリー。」
夫の声で、王妃は思考から引き戻された。
「何です。」
「余は今日、正しいことをしたのだろうか。」
「少なくとも、逃げませんでした。」
「それが正しいとは限らない。」
ルイは怯えた目で妻を見た。
「財政の真実を公表すれば、国債の信用が崩れるかもしれない。」
「金が借りられなくなれば、軍も行政も止まる。」
「パンを買うための金もなくなる。」
「民衆は、余が国を破産させたと知る。」
「その時には、また。」
ルイの呼吸が速くなった。
「また、何です。」
「王を殺せと叫ぶ。」
「共和国万歳と。」
「まだ、共和国などありません。」
「今はない。」
ルイは即座に答えた。
「だが、生まれる。」
「王政は廃止される。」
「昨日まで陛下と呼んでいた者たちが、余をルイ・カペーと呼ぶ。」
「裁判が始まる。」
「投票が行われる。」
「死刑になる。」
「そして、余の九か月ほど後に君も。」
夫の言葉が止まった。
マリー・アントワネットは、ルイの手を握る力を強めた。
「私も、どうなるのです。」
「言いたくない。」
「最初の夜には、私も処刑されるとおっしゃいました。」
「ああ。」
「どこで。」
「やめよう。」
「どのように。」
「マリー。」
「あなたは全てを一人で抱えないと約束したでしょう。」
ルイの顔が苦痛に歪んだ。
王妃を守るために黙ることと、恐怖から事実を隠すことの違いを見つけられないようだった。
長い沈黙の末、夫は震える声で話し始めた。
「君は、タンプル塔から別の牢獄へ移される。」
「コンシェルジュリー。」
「裁判にかけられる。」
「国庫を浪費した。」
「外国と通じた。」
「国民へ敵対した。」
「そのように責められる。」
「子供に関する、口にするのもおぞましい罪まで。」
マリー・アントワネットの顔から血の気が引いた。
「どのような罪です。」
「言えない。」
ルイは首を横へ振った。
「それだけは言えない。」
「君は髪を切られ、手を縛られる。」
「荷車に乗せられ、大勢の群衆の中を処刑場まで運ばれる。」
「余の時には閉じた馬車だった。」
「だが、君にはそれさえ与えられない。」
「やめてください。」
今度は王妃の方が耐えられなくなった。
夫の話が真実であるかどうかは分からない。
それでも、自分が髪を切られ、後ろ手に縛られ、群衆の前へ引き出される光景が頭に浮かんだ。
ルイは我に返ったように口を閉じた。
「すまない。」
「君を怖がらせるつもりでは。」
「では、何のために話したのです。」
「一人で抱えないためだ。」
ルイの目から涙がこぼれた。
「だが、話せば君まで怖くなる。」
「黙れば、君を一人にする。」
「どうすればよいのか分からない。」
マリー・アントワネットは、夫の頭を胸元へ抱き寄せた。
「今夜は、もう考えなくてよいのです。」
「眠ってください。」
「眠れば、また処刑される。」
「私がそばにいます。」
「目を覚ました時、君がいなくなっているかもしれない。」
「いなくなりません。」
「本当に。」
「ええ。」
「約束してくれるか。」
「約束します。」
王妃は夫を寝室へ連れていった。
ルイは妻の手を握ったまま、ようやく目を閉じた。
眠りに落ちた後も、指の力は緩まなかった。
しばらくすると、呼吸が乱れ始めた。
「太鼓を止めろ。」
ルイが呟いた。
「まだ話している。」
「聞いてくれ。」
「余は、国民の血を。」
言葉が途切れる。
身体が大きく震えた。
「嫌だ。」
「もう死にたくない。」
マリー・アントワネットは夫の額へ手を当てた。
熱はない。
悪夢に苦しんでいるだけだった。
「ここにいます。」
耳元で何度も囁いた。
「あなたは生きています。」
やがてルイの呼吸が少しずつ落ち着いていった。
だが、王妃は眠れなかった。
夫の隣で横になり、暗い天井を見つめ続けた。
ルイは頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
その考えは消えなかった。
時間が戻ったという話まで信じることはできない。
だが、話の全てが妄想だったとしても、ただ一つだけ否定できないものがあった。
国王が処刑される可能性である。
ほんの数年前までなら、考えることさえ馬鹿げていた。
フランス王は、神から統治権を与えられた存在だった。
王冠は何百年も続き、国王の身体は国家そのものと見なされてきた。
国王を裁判へかけ、死刑にするなど、フランス人自身が許すはずはない。
そう信じていた。
しかし、今はどうだろう。
第三身分は国王の許可を待たずに国民議会を名乗った。
球戯場では、憲法が制定されるまで解散しないと誓った。
国王が命令しても、議員たちは議場から立ち去らなかった。
パリでは、王妃を侮辱するパンフレットが公然と売られている。
浪費家。
外国女。
オーストリアの女。
フランスを食い物にする敵。
これまでなら処罰されたはずの言葉が、街角で大声で読まれている。
国王の命令へ従わない者が増えている。
兵士の中にも、民衆へ銃を向けることを拒む者がいる。
国王は、神聖で触れることのできない存在ではなくなりつつあった。
そして歴史には、裁かれた王がいる。
イングランド王チャールズ一世。
議会との戦争に敗れ、裁判にかけられ、処刑された王。
王を殺す国などないとは言えない。
起きたことがない未来ではない。
一七八九年のフランスが、同じ道を歩まないと誰が保証できるのか。
ルイの語る細部が全て妄想だったとしても、その結末だけは現実になるかもしれない。
その考えに至った瞬間、マリー・アントワネットの身体が冷たくなった。
夫が処刑される。
自分も処刑される。
子供たちは幽閉される。
幼いルイ=シャルルは、両親から引き離される。
マリー=テレーズは、一人で家族を失う。
王妃は隣で眠る夫の手を見た。
大きく、錠前や道具を扱うことを好む、不器用な手だった。
その手が縄で縛られる。
次に、自分の手が縛られる。
「嫌。」
小さな声が漏れた。
ルイだけではなかった。
自分も怖い。
今すぐ子供たちを連れ、フランスから逃げ出したい。
だが、夫は逃亡した結果まで話していた。
大型の馬車。
遅れた出発。
サント=ムヌー。
ドルーエ。
ヴァレンヌ。
捕らえられ、パリへ連れ戻される王家。
逃げれば助かるとは限らない。
外国軍へ助けを求めれば、王家はオーストリアと結んでフランスを攻撃しようとしていると疑われる。
何もしなければ、夫の予言通りになるかもしれない。
何を選んでも危険だった。
それでも、何もしないで待つことはできなかった。
マリー・アントワネットは、夫の手をゆっくりと寝台へ戻した。
ルイが目を覚まさないことを確かめ、音を立てずに起き上がる。
隣室へ移り、扉を細く開けたままにした。
夫の声が聞こえるようにするためだった。
机の前へ座る。
燭台へ火を移す。
小さな炎が、白い便箋を照らした。
誰へ書くべきか。
母マリア・テレジアは、もういない。
母が生きていれば、夫が狂ったようなことを話していると正直に打ち明けられただろうか。
叱責されるかもしれない。
王妃として毅然としていなさいと言われるかもしれない。
それでも最後には、娘と孫たちを守る方法を考えてくれたはずだった。
今、ウィーンにいる家族の中心は、兄ヨーゼフ二世だった。
神聖ローマ皇帝。
フランス王妃の兄。
そして、マリー・アントワネットがまだオーストリアの大公女だった頃から、自分の軽率さを厳しく諫めてきた人物だった。
兄なら、夫の話を信じないだろう。
ルイは政治的重圧によって心を病んでいると判断するかもしれない。
王妃である自分まで取り乱していると叱るかもしれない。
それでも、他に頼れる者はいなかった。
マリー・アントワネットは羽根ペンを取った。
墨をつける。
だが、最初の一文字を書くまで、長い時間が掛かった。
この手紙が誰かに読まれれば、危険である。
フランス王妃が外国の皇帝へ助けを求めた。
その事実だけで、どのように解釈されるか分からない。
夫が語った未来では、自分は外国と通じた罪を問われる。
その未来を避けるための手紙が、かえって疑いの証拠になるかもしれない。
ペンを置くべきだった。
夫を起こし、二人で相談するべきだった。
ルイは、もう一人で抱えないと約束した。
自分も同じ約束を守るべきだった。
しかし、寝室から夫の声が聞こえた。
「マリー。」
眠ったまま、自分の名を呼んでいる。
「逃げてくれ。」
「子供たちを。」
その声を聞いた瞬間、王妃は書き始めた。
「親愛なる兄上。」
「この手紙は、皇帝陛下への公式な書簡ではなく、恐怖に苦しむ妹から兄へ宛てたものとしてお読みください。」
「そして、どうか内容を他の誰にも明かさないでください。」
一度ペンを止める。
夫が語ったことを、そのまま書くべきだろうか。
あまりにも荒唐無稽だった。
だが、曖昧に書けば、危険の大きさが伝わらない。
王妃は意を決して続けた。
「ルイの様子が普通ではありません。」
「彼は、自分が一度ならず処刑され、死ぬたびに過去へ戻ってきたと申しております。」
「ある時には群衆に踏み殺され、ある時には逃亡に失敗し、最後には議会によって死刑を宣告され、ギロチンで首を落とされたと。」
「もし他の者からこの話を聞いたなら、私も正気ではないと判断したでしょう。」
「今も、夫の話をそのまま信じているわけではありません。」
「ですが、彼の恐怖は偽りではありません。」
「眠るたびに処刑台の夢を見ます。」
「人々が集まると息ができなくなり、金属音を聞くと首を守ろうとします。」
「まだ起きていないはずの出来事を、実際に経験した者のように語ります。」
王妃の手が止まった。
次に書こうとしていることが、あまりにも恐ろしかった。
それでも書いた。
「彼によれば、王政は廃止されます。」
「夫はルイ・カペーと呼ばれ、一七九三年一月二十一日に処刑されます。」
「私は夫の約九か月後、外国と通じた罪などによって裁かれ、同じく処刑されると申しております。」
「子供たちも両親から引き離されます。」
涙が便箋へ落ちた。
墨が滲む。
王妃は慌てて布で押さえた。
夫の予言を書き写しているだけだ。
まだ起きていない。
未来は決まっていない。
そう言い聞かせても、子供たちの顔が浮かんだ。
「兄上。」
「私は、オーストリア軍を動かしてほしいとお願いしているのではありません。」
「フランスへ圧力を加えれば、王家が外国軍を使って国民を屈服させようとしていると受け取られます。」
「それは夫の恐れている未来を、かえって近づけるでしょう。」
「どうか、公然とした介入はなさらないでください。」
「ただ、フランスとウィーンの間に、誰にも知られない連絡手段を残してください。」
「メルシー伯へ、私と子供たちの状況を注意深く見守るよう命じてください。」
「もし宮廷の秩序が崩れ、子供たちの命が危険にさらされた時には、彼らを受け入れていただけるという約束が欲しいのです。」
「私は王妃としてではなく、母親として、このお願いを書いています。」
そこまで書くと、マリー・アントワネットはペンを置いた。
兄へ何を求めているのだろう。
まだ起きてもいない危険に備え、フランス王家の子供をオーストリアへ逃がす準備をしてほしい。
もしこの手紙が知られれば、王妃はすでに国外逃亡を計画していると疑われる。
夫がネッケルと共に政府の信用を作り直そうとしている時に、自分はその背後で外国へ助けを求めている。
「私は、何をしているの。」
王妃は呟いた。
便箋を破ろうとした。
両手で端をつかむ。
しかし、破ることはできなかった。
夫の頭がおかしくなっているだけなら、この手紙は必要ない。
だが、もし。
ほんのわずかでも。
ルイが語る未来が本当に起こるのなら。
子供たちを守る道を用意しなかったことを、永遠に後悔する。
王妃は最後の文章を書き加えた。
「兄上がこの話を信じられないことは理解しています。」
「私自身も、信じることができません。」
「ですが今のフランスを見れば、国王が決して傷つけられない存在であるとは、もう言い切れません。」
「夫の予言が妄想であったとしても、そこに描かれた危険まで妄想だとは思えないのです。」
「どうか、この手紙を笑わないでください。」
「妹と、その家族のために、返事をください。」
「あなたの妹、アントワネット。」
王妃は手紙を読み返した。
書かれている内容は、やはり狂っているように見えた。
夫が何度も処刑され、過去へ戻ってきた。
王政が廃止され、国王と王妃がギロチンへ送られる。
兄が読めば、フランス国王だけでなく王妃まで正気を失ったと思うかもしれない。
それでも、王妃は便箋を折った。
外側には政治的な内容を書かず、兄個人へ宛てた私信として封をする。
王家の印章ではなく、私的な封蝋を使った。
この手紙は通常の宮廷の郵便へ預けることができない。
メルシー伯を通し、オーストリアの外交便でウィーンへ送らなければならない。
寝室から物音が聞こえた。
マリー・アントワネットは反射的に手紙を胸元へ隠した。
「マリー。」
ルイの声だった。
王妃は急いで寝室へ戻った。
夫は寝台の上で身体を起こしていた。
暗闇の中で、怯えた目をしている。
「どこへ行っていた。」
「隣の部屋です。」
「いなくなったのかと思った。」
「約束したでしょう。」
王妃は寝台へ腰を下ろし、夫の頬へ触れた。
「私はここにいます。」
ルイは安堵したように目を閉じた。
だが、すぐに王妃の指先についた墨へ気づいた。
「何かを書いていたのか。」
マリー・アントワネットの胸が強く鳴った。
兄への手紙だと正直に言うべきだった。
夫が全てを話したように、自分も不安を打ち明けるべきだった。
「ええ。」
「何を。」
短い沈黙。
王妃は、胸元に隠した手紙の感触を確かめた。
「実家へ。」
「ウィーンへ。」
ルイの顔が強張った。
「軍を求めるのか。」
「違います。」
王妃は即座に答えた。
「それだけはしてはならないと書きました。」
「では、何を。」
「連絡手段を残してほしいと。」
「もし子供たちが危険になった時、受け入れてほしいと。」
ルイは何も言わなかった。
マリー・アントワネットは、夫が怒るのを待った。
自分に相談せず、外国へ手紙を書いた。
王妃の行動が明らかになれば、国王への信用まで損なわれる。
非難されても当然だった。
「すまない。」
ところが、謝ったのはルイだった。
「余が君を怖がらせた。」
「あなたのせいだけではありません。」
王妃は首を横へ振った。
「私も、今のフランスを見ています。」
「あなたの話が全て悪夢だったとしても、王家が安全だと言い切ることはできません。」
ルイは手紙を見せてほしいとは言わなかった。
ただ、妻の手を握った。
「軍を求めてはいけない。」
「分かっています。」
「国境で兵が動けば、王家が外国と結んだと思われる。」
「ええ。」
「手紙も、誰かに読まれれば。」
「分かっています。」
「それでも送るのか。」
マリー・アントワネットは答えられなかった。
子供たちを守りたい。
だが、そのために送った手紙が、外国との内通を疑われる原因になるかもしれない。
未来を避けるために選んだ行動が、その未来を近づける。
夫が何度も陥ったのと同じ罠だった。
「今夜は送らないでくれ。」
ルイが言った。
「捨てろとは言わない。」
「明日、二人でもう一度読もう。」
「二人で。」
王妃は胸元から手紙を取り出した。
封蝋はまだ完全には固まっていない。
「ええ。」
「二人で考えましょう。」
マリー・アントワネットは手紙を机の上へ戻した。
破らなかった。
使者へ渡すこともしなかった。
ウィーンへ助けを求めるべきか。
フランス国内で王家の信用を守るべきか。
子供たちの逃げ道を用意することが、母親の責任なのか。
それとも、王妃としての裏切りになるのか。
答えは出ていない。
ただ、この夜から恐怖を抱える者は、ルイ一人ではなくなった。
夫の話を全面的に信じたわけではない。
時間が戻るという奇跡を受け入れたわけでもない。
それでもマリー・アントワネットは、国王と王妃が処刑される未来を、もはや単なる狂人の妄想として笑うことができなくなっていた。
机の上には、ウィーンへ宛てた一通の手紙が残されている。
それは家族を守るための備えであると同時に、見つかれば王家を外国との陰謀へ結びつけかねない危険な紙だった。
マリー・アントワネットは夫の隣へ戻り、その手を握った。
眠りにつくことはできなかった。
夫が語った処刑の未来よりも、その未来を恐れた自分が、すでに最初の一歩を踏み出しかけていたことの方が恐ろしかった。




