第三十五話 問われる信用
一七八九年七月末。
ヴェルサイユ。
歴史は、わずか一つの選択によって、別の道を歩み始めていた。
ジャック・ネッケルは罷免されなかった。
パリ周辺に集められていた軍隊は、市内へ進軍しなかった。
国王は、国民議会を武力で解散させる意思がないと布告した。
そのため、ネッケル罷免を反革命の始まりと受け取った民衆が、一斉に武器を求めて立ち上がることもなかった。
バスティーユ牢獄へ大砲が向けられることもなかった。
城壁の上から銃声が響くこともなかった。
守備隊司令官の首が、槍の先へ掲げられることもなかった。
少なくとも、七月十四日は流血の日にならなかった。
だが、フランスが抱えていた問題そのものが消えたわけではない。
国庫は空に近い。
新たな国債を引き受ける者は減っている。
利払いは歳入を圧迫している。
税を納める者と、特権によって負担を免れる者の間には、あまりにも大きな不公平がある。
パリのパン価格は依然として高く、仕事を失った者たちは街路へあふれている。
農村では、領主が穀物を隠しているという噂が広がり、街道では穀物を積んだ荷車が止められる事件も起き始めていた。
国民議会は、自らを憲法制定国民議会と位置づけた。
議員たちが求めているのは、財政危機を乗り切るための一時的な協力ではない。
国王の権限。
議会の権限。
税を決める権利。
法律を作る権利。
国家の主権が誰に属するのか。
フランスそのものを、新しく作り直そうとしていた。
武力衝突が避けられたことで、全ての争いは政治の場へ集められた。
銃声の代わりに怒号が響き、砲弾の代わりに言葉が飛び交う。
流れる血は少なくても、争いが穏やかになったわけではなかった。
その日、議場の正面には、何十冊もの帳簿が積み上げられていた。
革表紙の厚い帳簿。
各省庁から集められた支出記録。
徴税請負人から提出された税収報告。
国債の発行額。
利払いの予定表。
王室費。
軍事費。
年金。
恩給。
官職の維持費。
どの帳簿にも、長年にわたって積み重ねられた王国の病が記されていた。
議場の外には、大勢の市民が集まっていた。
武器を持つ者は、ほとんどいない。
彼らが手にしているのは新聞とパンフレットだった。
「ネッケルが全てを話す。」
「本当に国庫は空なのか。」
「黒字だったという話は何だったのだ。」
「国王は何を隠していた。」
人々は、自分たちが信用してきた男の言葉を待っていた。
期待と疑い。
尊敬と怒り。
相反する感情が、議場の周囲を覆っていた。
ジャック・ネッケルは、議場へ続く廊下で立ち止まっていた。
扉の向こうから、議員たちのざわめきが聞こえる。
罷免されるはずだった夜、ルイ十六世と交わした約束を思い出す。
国庫の現状を隠さない。
過去の報告書が与えた誤解から逃げない。
国民の代表へ、全てを説明する。
それを約束した時、ネッケルは覚悟したつもりだった。
だが今、実際に数百人の議員を前にしようとすると、胃の奥が重くなった。
宮殿の外では、人々が自分を英雄のように呼んでいる。
議場の中では、その英雄が本当に信用に値するのかが裁かれようとしている。
人気とは、信用そのものではない。
期待が高いからこそ、失望へ変わった時の反動も大きい。
「ネッケル殿。」
議場の係官が呼びかけた。
「準備が整いました。」
ネッケルは目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
「参りましょう。」
扉が開かれた。
議場のざわめきが、一瞬だけ静まった。
無数の視線が、ネッケルへ集中する。
第三身分の議員。
聖職者。
貴族。
改革を求める者。
王権を守ろうとする者。
国王との妥協を探る者。
すでに王権そのものを信用していない者。
同じ議場に座っていても、彼らが思い描くフランスの未来は異なっていた。
ネッケルは議場の中央へ進み、議長へ一礼した。
この日は通常の会議とは違っていた。
国王の大臣が国民の代表から質問を受け、国家財政について説明するための特別な審議だった。
ルイ十六世も、議場の片隅に用意された席に座っていた。
玉座は置かれていない。
王室会議でもない。
議会へ命令を伝えるために来たのでもなかった。
自分も過去の財政運営について質問を受けるつもりで、議長の許可を得て出席していた。
国王を普通の傍聴者と同じ場所へ座らせることへ、宮廷の者たちは強く反対した。
王が議会の質問へ答えるなど、王権の威厳を傷つける。
国王は臣下から尋問される存在ではない。
そう訴える者もいた。
ルイ自身も、何度も出席を取りやめようとした。
議場へ向かう馬車の中では、掌に汗が滲んだ。
人々の声が大きくなるたび、群衆に囲まれた時の記憶が蘇った。
議場へ入った時には、何百もの視線が自分の首へ向けられているように感じた。
死刑判決を決める国民公会。
一人ずつ壇上へ上がり、死刑と口にする議員たち。
太鼓の音に消された最後の言葉。
ここは一七九三年ではない。
自分は囚人ではない。
まだ国王である。
そう言い聞かせても、身体は簡単には信じてくれなかった。
出発する直前、マリー・アントワネットは夫の震える手を握っていた。
「途中で怖くなったら、帰ってきてもよいのです。」
王妃は言った。
ルイは驚いて妻を見た。
「逃げてもよいと言うのか。」
「いいえ。」
王妃は首を横へ振った。
「怖くなったことを、失敗だと思わなくてよいと言っているのです。」
「震えながらでも、言うべきことを一つだけ言ってください。」
「あなたにも責任がある。」
「その一言を言えたなら、以前とは違います。」
今、ルイはその言葉を胸の中で繰り返していた。
議長が木槌を鳴らした。
「静粛に。」
議場が静まっていく。
「本日の議題は、王国財政の現状及び一七八一年に公表された『国王への財政報告書』についてである。」
「財務長官ジャック・ネッケル殿より説明を受け、その後、議員の質問を認める。」
ネッケルは立ち上がった。
「諸君。」
声は落ち着いていた。
だが、帳簿へ置いた指先には、わずかに力が入っていた。
「まず、一七八一年の報告書が、何を示したものであったのかを説明しなければなりません。」
「同報告書は、王国の経常的な歳入と経常的な支出を比較し、その差額を示したものです。」
「当時の計算では、経常収支には約一千万リーブルの余剰があるとされました。」
その数字が告げられた瞬間、議場がざわめいた。
「やはり黒字だったのではないか。」
「それなら、なぜ今になって金がないのだ。」
「何年間で全て使い果たした。」
声が飛ぶ。
議長が再び木槌を鳴らした。
ネッケルは続けた。
「しかし、ここで注意していただかなければなりません。」
「この余剰は、王国が負う全ての支出と債務を計算した結果ではありません。」
「アメリカ独立戦争に伴う臨時の軍事支出。」
「その支出を賄うために発行された国債。」
「将来にわたって残る元本。」
「増え続ける利払い。」
「それら全体を一つにまとめ、王国財政の完全な姿として示したものではありませんでした。」
一人の議員が勢いよく立ち上がった。
「では、財政が健全であるように見せただけではありませんか。」
「国民は、あの報告書を見て、国王政府には余裕があると信じた。」
「国庫が黒字であるにもかかわらず、宮廷が浪費しているから新たな税を求めるのだと考えた。」
「その誤解によって、後の改革は妨げられた。」
「ネッケル殿は、その責任をどうお考えですか。」
ネッケルは質問した議員を見た。
「責任がないとは申しません。」
「では、認めるのですか。」
「報告書に記載された個々の数字を、全て虚偽だったとは考えておりません。」
「ですが、報告書全体が国民へ与える印象について、私の判断が誤っていたことは認めます。」
議場が大きくどよめいた。
「誤りを認めたぞ。」
「やはり我々は欺かれていた。」
「静粛に。」
議長が叫ぶ。
ネッケルはざわめきが収まるのを待った。
「私は、王国に債務がないと記したことはありません。」
「戦争に費用が掛かっていないと述べたこともありません。」
「しかし、経常収支の余剰を強く示し、臨時支出と借入が将来へ与える影響を十分に説明しなかった。」
「そのため、多くの人々が、フランスの財政全体に余裕があると受け取りました。」
「意図したかどうかにかかわらず、誤った印象を与えた責任はあります。」
別の議員が立ち上がった。
まだ若い第三身分の代表だった。
「なぜ、そのような示し方を選んだのですか。」
「国民に真実を知らせるよりも、大臣の評判を守ることを優先したのではありませんか。」
「違います。」
ネッケルは即座に答えた。
「では、何を守ろうとしたのです。」
ネッケルは一瞬だけ目を閉じた。
そして、はっきりと答えた。
「信用です。」
議場が静まった。
「国家財政において、信用は金貨や銀貨と同じほど重要です。」
「王国の金庫に、未来の全ての支払いを賄えるだけの現金が保管されているわけではありません。」
「税収が入る前に、兵士の給与を支払わなければならない。」
「穀物を買わなければならない。」
「行政を動かさなければならない。」
「満期を迎えた債務を返済しなければならない。」
「そのため、政府は将来の歳入を担保として資金を借ります。」
「国王が約束を守ると信じる者がいるからこそ、国債は売れる。」
「その信用が失われれば、まだ支払い能力を残している国家であっても、直ちに資金を得られなくなるのです。」
「だから、国民へ全てを知らせなかったのですか。」
若い議員が問い返した。
「破綻していると思われれば、本当に破綻する。」
「その危険を避けようとしました。」
「それを、真実を隠したと言うのではありませんか。」
ネッケルは答えなかった。
短い沈黙だった。
だが、議場にいる者たちには、長く感じられた。
「結果として、そのように受け取られても反論できません。」
ネッケルは、苦しそうに認めた。
「当時、フランスはアメリカ独立戦争へ参加していました。」
「戦争を続けるためには、莫大な資金が必要だった。」
「新たな広範な増税は、特権階級と高等法院の抵抗によって実現できなかった。」
「それでも、艦隊を出し、兵士へ給与を支払い、同盟国を支援しなければならなかった。」
「借入に頼る以外の方法を、当時の政府は見いだせませんでした。」
「もし王国の債務と赤字を、何の対策も示さずに公表していれば、国債の価格は下がり、利率は上昇し、新たな借入は困難になったでしょう。」
「アメリカ独立戦争から撤退すべきだったと?」
議員の一人が叫んだ。
「私は、その是非を決める立場ではありませんでした。」
ネッケルは答えた。
「私へ与えられた任務は、国王が決定した戦争へ資金を供給することでした。」
その言葉によって、議場の視線が一斉にルイへ向いた。
ルイの胸が跳ねた。
呼吸が浅くなる。
ネッケルが自分へ責任を押しつけたように感じた。
議員たちの目が、処刑台を囲む群衆の目に変わっていく。
責任を認めれば、王権が崩れる。
知らなかったと言え。
大臣が勝手に行ったと言え。
戦争費用の扱いまでは報告を受けていなかったと言えばよい。
頭の中で、逃げ道が次々に浮かんだ。
「陛下も、知っていたのですか。」
一人の議員が問いかけた。
王党派の議員が立ち上がった。
「国王陛下へ直接質問することは許されない。」
「本日は財務長官の説明を受ける場だ。」
「国王は国民議会の尋問を受けるために来られたのではない。」
議場が再び騒然となる。
「だが、報告書は王の名で出された。」
「国民に説明する必要がある。」
「国王に責任はない。」
「大臣が国王を欺いた可能性もある。」
声が重なった。
ルイは座ったまま、両手で椅子の肘掛けを握っていた。
立ち上がろうとしても、膝が動かない。
怖くなったら、言うべきことを一つだけ言ってください。
出発前のマリー・アントワネットの声が蘇った。
あなたにも責任がある。
ルイは肘掛けを押し、震える足で立ち上がった。
それだけで議場の声が少しずつ小さくなった。
「議長。」
ルイは呼びかけた。
声が掠れている。
一度唾を飲み込み、言い直した。
「発言を求めたい。」
議長は驚きを隠せなかった。
国王が国民議会の議長へ発言の許可を求めた。
それ自体が、これまでの王政では考えられない光景だった。
しばらく迷った後、議長は頭を下げた。
「陛下の発言を認めます。」
ルイは議員たちを見渡した。
何百もの顔がある。
敵意を浮かべる者。
困惑する者。
期待する者。
国王が何を言うのか、固唾をのんで見守る者。
視界の端で、処刑台の木枠が見えたような気がした。
ルイは一度目を閉じた。
そして、最初の一言を口にした。
「知っていた。」
議場の空気が凍りついた。
「私は、報告書が経常的な歳入と支出を中心に作られていることを知っていた。」
「戦争のために借入が増えていることも知っていた。」
「将来、利払いが王国を苦しめることも、全く知らなかったわけではない。」
騒然となった。
「陛下が認めたぞ。」
「国王政府による欺瞞だ。」
「静粛に。」
議長が木槌を鳴らした。
ルイの心臓は激しく打っていた。
今すぐ座りたかった。
それ以上、何も言わずに議場から逃げ出したかった。
だが、ネッケルだけを中央へ立たせ、自分が沈黙すれば、罷免命令書を渡す代わりに、議会へ彼を差し出したことになる。
「報告書は、ネッケル一人の名で公表されたものではない。」
ルイは続けた。
「『国王への財政報告書』として、私の許可を得て公表された。」
「私は、アメリカ独立戦争を継続するために資金を必要としていた。」
「増税を行わず、新たな国債によって戦費を調達することを認めた。」
「フランスには債務を返済できる力があると示し、低い利率で金を借りることを望んだ。」
「だから、私にも責任がある。」
王党派の席から声が上がった。
「陛下が責任を認める必要はありません。」
「大臣は国王へ仕える者です。」
「行政上の誤りは、大臣が負うべきです。」
ルイはその言葉へ首を横に振った。
「都合のよい時だけ大臣の信用を使い、都合が悪くなれば全てを大臣の罪とするのであれば、誰が国王へ真実を告げるようになる。」
議場が静まった。
ネッケルが驚いたようにルイを見た。
「私は、ネッケルの示し方が正しかったと言うつもりはない。」
ルイは続けた。
「国民へ誤解を与えたことは事実だ。」
「だが、それを彼一人の嘘として終わらせることもできない。」
「国家の信用を守ろうとした。」
「それが、当時の我々の目的だった。」
一人の議員が立ち上がった。
「しかし、結果はどうです。」
「今、国庫には金がない。」
「国債の利払いは増え続けている。」
「パンを買えない国民がいる。」
「国家の信用を守ったとおっしゃいますが、その代償を支払っているのは国民ではありませんか。」
ルイは反論しようとした。
アメリカの独立を助けた。
宿敵イギリスへ勝利した。
七年戦争で傷ついたフランスの威信を回復した。
戦争には意味があった。
そう答えることはできた。
だが、それで目の前の事実が消えるわけではない。
「その通りだ。」
ルイは答えた。
議場が再びざわめいた。
「戦争の利益は、国家の威信として語られた。」
「だが、その費用は国債となり、利払いとなって残った。」
「しかも、税を負担する力を持つ者の多くが、特権によって十分な負担を免れていた。」
「戦争だけが財政危機の原因ではない。」
「古い税制を変えられなかったこと。」
「支出を管理できなかったこと。」
「借入によって改革を先送りしたこと。」
「その全てが、今の危機を作った。」
貴族議員の一人が立ち上がった。
「陛下は、貴族と聖職者の特権を財政危機の原因とされるのですか。」
「全ての特権が悪だとは言っていない。」
ルイは答えた。
「だが、負担できる者が負担を免れ、その不足を借金で埋め続ける仕組みが永遠に続かないことは、もう明らかだ。」
議場のあちこちから声が上がった。
賛同。
反発。
机を叩く音。
国王の言葉を称える声。
王権が議会へ屈したと非難する声。
ルイは怒号の中で肩を震わせた。
誰かが机を叩くたび、銃声のように聞こえた。
それでも座らなかった。
やがて、議場の中央近くから一人の議員が立ち上がった。
オノーレ・ガブリエル・ド・ミラボー。
貴族の出身でありながら、第三身分の代表として選ばれた男だった。
「陛下。」
ミラボーの太い声が議場へ響いた。
「ネッケル殿は、国家の信用を守るために全てを明らかにしなかったと説明された。」
「陛下も、その判断を認めたとおっしゃった。」
「そこでお尋ねしたい。」
ミラボーは積み上げられた帳簿を指した。
「信用とは、国民が真実を知らないことによって成り立つものなのでしょうか。」
「それとも、真実を知った後でも、国家が約束を守ると信じられることによって成り立つものなのでしょうか。」
ルイは答えられなかった。
視線をネッケルへ向ける。
ネッケルも、すぐには答えなかった。
やがてネッケルが立ち上がった。
「本来の信用とは、後者でなければなりません。」
「では、一七八一年の信用は偽物だったと。」
「脆弱な信用でした。」
ネッケルは認めた。
「真実の一部にしか耐えられない信用だった。」
「私は、それを失うことを恐れた。」
「だから、全体を示すことを避けた。」
「しかし、その結果として、現在の我々はさらに大きな不信と向き合っています。」
ミラボーは追及を止めなかった。
「それでは、今度は何を公表するのです。」
「また、大臣が見せたい数字だけを選ぶのですか。」
ネッケルは机の上に置かれた帳簿へ手を伸ばした。
「経常的な歳入。」
「経常的な支出。」
「臨時支出。」
「現在残っている国債の元本。」
「一年ごとの利払い。」
「陸軍と海軍の維持費。」
「王室費。」
「年金と恩給。」
「徴税のために失われている費用。」
「地方から報告されている税額と、実際に国庫へ届いた金額の差。」
「可能な限り、その全てを示します。」
「可能な限り、とは。」
「王国の財政は、一つの帳簿だけで管理されているわけではありません。」
ネッケルは苦い表情を浮かべた。
「各省庁が別々の帳簿を持っている。」
「地方の会計報告には、何年も遅れているものがある。」
「徴税請負人が集めた金額と、国庫へ納めた金額を確認するには時間が掛かる。」
「王室から与えられた年金の中には、別の名目へ移されているものもある。」
「現時点で、誰一人として王国財政の全てを完全に把握していない。」
議場に不安が広がった。
「財務長官であるあなたにも分からないのか。」
「分からない部分があることを、これまで認めようとしなかったのです。」
ネッケルは答えた。
「分からない数字を推計で埋め、確実であるかのように示せば、また同じ過ちを繰り返します。」
「今度の報告書では、確認できた事実と推計を分けます。」
「把握できていない支出があるなら、把握できていないと記します。」
「それが、全てを公表するという意味です。」
一人の議員が声を上げた。
「それだけでは足りない。」
「大臣自身が帳簿を選び、大臣自身が正しいと判断するなら、国民は何を根拠に信用すればよいのです。」
「国民議会から監査する者を選んでください。」
ネッケルは答えた。
「財政委員会を設け、政府の帳簿を確認していただきたい。」
「大臣の報告を信じろとは申しません。」
「検証してください。」
その言葉は、議場へ新たなざわめきを生んだ。
国民の代表が、王国政府の帳簿を監査する。
それは単なる財政公開ではない。
国王の行政へ議会が関与することを意味していた。
王党派の議員が立ち上がる。
「財政を監督する権限まで議会へ渡すつもりか。」
「それでは、大臣は国王ではなく議会へ従うことになる。」
「国王の行政権を奪うものだ。」
反対側から声が返る。
「国民の税で成り立つ政府が、国民の代表へ帳簿を見せることの何が問題なのだ。」
「これまで秘密にしてきた結果が、現在の危機ではないか。」
「王国の信用を回復したいのであれば、検証を拒むべきではない。」
議論は再び激しくなった。
ルイは目を閉じた。
財政委員会を認めれば、王権の一部を失うかもしれない。
認めなければ、公開すると約束した言葉が疑われる。
どちらを選んでも、何かを失う。
以前のルイなら、決断を先送りしただろう。
時間が解決してくれることを願い、何も決めないまま状況が悪化するのを待っただろう。
「認める。」
ルイは言った。
声が小さく、最初は誰にも届かなかった。
「財政委員会の設置を認める。」
今度は、はっきりと告げた。
議場が静まった。
「ただし、政府の執行を停止させない範囲で、帳簿を共同で検証してほしい。」
「国家は、監査が終わるまで支払いを待つことができない。」
「兵士も、役人も、穀物を運ぶ商人も、金を必要としている。」
「何を公開するのかを争っている間に国庫が止まれば、真実を明らかにする前に国家が倒れる。」
ネッケルが頷いた。
「その点について、もう一つ申し上げなければなりません。」
ネッケルは新たな書類を取り出した。
「現在の国庫は、数か月先の収入を待つ余裕さえ失いつつあります。」
「満期を迎える債務。」
「軍と行政への支払い。」
「パリへ穀物を供給するための資金。」
「それらを維持するため、緊急の借入が必要です。」
議員の一人が呆れたように叫んだ。
「これほど借金の危険を説明した直後に、さらに借金を求めるのですか。」
「他に、今日支払う金がありません。」
ネッケルは答えた。
「税制改革が成立しても、新たな税収が国庫へ届くまでには時間が掛かる。」
「支出を削減しても、すでに約束した債務は直ちには消えない。」
「国家が明日も動き続けるためには、短期の資金が必要です。」
「額は。」
「まず、三千万リーブル。」
議場に重いざわめきが広がった。
「三千万。」
「また国債を発行するのか。」
「誰が引き受ける。」
「そのためにも、信用が必要なのです。」
ネッケルは答えた。
「ですが今度は、財政が健全であると装って資金を集めるのではありません。」
「危機の内容を示す。」
「返済のために何を変えるのかも示す。」
「国民議会が税制改革と支出管理へ協力することを約束する。」
「その上で、フランスには債務を返済する意思と能力があると訴えます。」
ミラボーが腕を組んだ。
「真実を見せれば、かえって誰も金を貸さなくなるかもしれない。」
「その可能性はあります。」
ネッケルは認めた。
「ですが、嘘によって借り続ければ、最後には真実そのものが信用されなくなる。」
「我々は今、その限界へ到達しています。」
議論は昼を越え、夕刻になっても終わらなかった。
王党派は、議会による財政監査が王権を侵害すると訴えた。
改革派は、帳簿の全面公開と特権階級への課税を求めた。
慎重派は、急激な情報公開が国債市場を混乱させると警告した。
地方代表は、パリの食糧問題ばかりを優先すれば地方の穀物が奪われると反発した。
年金で生活する者を代表する議員は、国家が債務を整理する名目で小さな受給者を切り捨てるのではないかと問いただした。
何をしても、誰かが損をする。
支出を削れば、その金で生活していた者が困窮する。
増税すれば、すでに苦しい者へさらに負担が掛かる。
特権へ課税すれば、貴族と聖職者が抵抗する。
国債を増やせば、将来の税収が利払いへ消える。
債務を減額すれば、国債を持つ者の財産を奪うことになる。
財政危機とは、単に帳簿の数字が足りないという問題ではなかった。
誰が、これまでの国家の費用を負担するのか。
誰が、過去の失敗の代償を支払うのか。
それを決める政治の問題だった。
夜になり、ようやく一つの決議がまとめられた。
国民議会に財政委員会を設置する。
政府は、委員会へ主要な帳簿を提出する。
新たな財務報告書では、経常収支だけでなく、臨時支出、国債残高、利払い、王室費、軍事費を区別して示す。
確認された数字と推計を分け、把握できていない項目も隠さない。
緊急借入については、新たな財務報告の概要を受け取った後、改めて審議する。
ネッケルの責任が許されたわけではない。
ルイの責任が消えたわけでもない。
だが、少なくとも、誰か一人を追放して終わらせることはしなかった。
閉会が宣言されると、ネッケルは力を失ったように椅子へ座り込んだ。
議員たちは議論を続けながら、次々に議場を出ていく。
ルイも席を立った。
足元がふらついた。
何時間も恐怖に耐え続けたことで、全身から力が抜けていた。
廊下へ出たところで、ネッケルが後ろから追いついた。
「陛下。」
ルイは立ち止まった。
「大丈夫か。」
そう尋ねた直後、自分の方が大丈夫ではないことに気づいた。
声は掠れ、顔には汗が浮かんでいる。
ネッケルは疲れた表情で苦笑した。
「私は、民衆から必要とされていると聞いておりました。」
「パリでは、私の留任を祝う声が上がったとも。」
「ですが今日、議場で最も疑われていたのは私でした。」
「期待された者ほど、失望された時の反動も大きい。」
ルイは答えた。
「余も、何度もそれを見た。」
「ネッケルなら救ってくれる。」
「国王なら守ってくれる。」
「国民議会ならパンを安くしてくれる。」
「人は、誰かへ大きな期待を託す。」
「だが、その者が全てを解決できないと分かった時、期待は怒りに変わる。」
ネッケルは黙って聞いていた。
「それが政治というものなのだろう。」
ルイは続けた。
「余は、その怒りが怖くて仕方がない。」
「今日も、途中で何度も逃げたくなった。」
「では、なぜ責任を認められたのですか。」
「君一人に背負わせれば、あの夜に君を追放しようとしたことと同じだからだ。」
ルイは答えた。
「形を変えて逃げるだけになる。」
「私は、陛下へ責任を押しつけるつもりで、戦争について述べたのではありません。」
「分かっている。」
「いや。」
ルイは少し考え、言い直した。
「最初は、そう思った。」
「君が余を議会へ差し出そうとしているように聞こえた。」
「腹も立った。」
「だが、それは事実だった。」
「戦争を決めたのは余だ。」
「君に資金を用意させたのも余だ。」
「事実を口にした者を、裏切り者と呼ぶことはできない。」
ネッケルは足を止めた。
「陛下。」
「何だ。」
「今日のお言葉によって、国王への信用が回復するかもしれません。」
「逆かもしれない。」
ルイは自嘲するように笑った。
「国王が国民を欺いたと、自ら認めたのだから。」
「それでも、何も知らなかったとおっしゃるよりは。」
「どちらが正しかったのかは、まだ分からない。」
ルイは廊下の窓から、暗くなった空を見た。
「真実を語れば、人々が理解してくれると思うのは簡単だ。」
「だが、真実が耐え難いものであれば、人々は希望ではなく絶望を抱く。」
「国庫には金がない。」
「借金は多い。」
「改革には時間が掛かる。」
「しかも、国家を維持するために、さらに金を借りなければならない。」
「それを知った者が、フランスを信用し続けるだろうか。」
ネッケルも窓の外を見た。
「分かりません。」
「正直だな。」
「今度は、分からないことまで分かるとは申しません。」
ネッケルは答えた。
「ですが、真実を隠して作った信用が、長く続かないことだけは分かりました。」
「ならば、始めよう。」
「はい。」
その夜。
ネッケルの執務室には、各省庁から運ばれた帳簿が積み上げられた。
机の上だけでは足りず、椅子にも、窓際にも、床の上にも書類が置かれた。
ネッケルは部下たちへ、帳簿を三つに分けるよう命じた。
確認できた数字。
根拠はあるが、推計を含む数字。
現時点では確認できない数字。
それまでの財政報告では、曖昧な数字を一つの数字へまとめることが行われてきた。
地方から四千万リーブルの税収があると報告されれば、その四千万を歳入として記す。
だが、実際には徴税請負人の手数料が引かれ、輸送費が引かれ、地方行政の費用が引かれる。
国庫へ届く金額は、それより少ない。
官職の売却によって一時的な収入を得ても、その官職を持つ者へ将来にわたって給与や免税特権を与えなければならない。
国債によって得た金は、その年の収入になる。
だが、翌年以降には利払いが支出として残る。
帳簿の一行だけを見れば利益に見えるものが、十年後の負担を増やしている。
何が収入で、何が借金なのか。
何が通常の支出で、何が臨時の支出なのか。
国王政府そのものが、それを一つの基準で把握できていなかった。
深夜になっても、作業は続いた。
ルイも執務室へ残っていた。
国王が自ら計算する必要はないとネッケルは止めたが、ルイは帰らなかった。
幼い頃から見続けてきた数字だった。
歳入。
支出。
国債。
利払い。
何度計算しても、希望のある答えにはならなかった。
「陛下。」
ネッケルが一枚の紙を差し出した。
「現在確認できる範囲での、債務と利払いの概要です。」
ルイは受け取った。
紙の上に並ぶ数字を見た瞬間、胃が締めつけられた。
分かっていたはずだった。
前の人生でも、何度も見た。
それでも、国家の負債が一枚の紙へまとめられると、その重さが改めて目の前へ突きつけられた。
「これを公表すれば。」
ルイの声が震えた。
「国債が売られるかもしれない。」
「はい。」
「新たな借入を拒まれるかもしれない。」
「はい。」
「国民が、もうフランスは破産していると思うかもしれない。」
「その危険はあります。」
「怖くないのか。」
ネッケルは少し考えた。
「怖いです。」
「私が作り上げてきた信用が、一夜で消えるかもしれない。」
「人々が私を、改革者ではなく詐欺師と呼ぶかもしれない。」
「ですが、今度はその恐怖も報告書の中へ隠さないつもりです。」
ルイは紙を机へ置いた。
「確認できないものは、確認できないと書け。」
「推計は、推計だと書け。」
「最悪の場合も示せ。」
「その代わり、何をすれば返済できるのかも示してくれ。」
「ただ絶望を並べるのではなく、選べる道を示す。」
「承知いたしました。」
夜が明ける頃、パリでは早くも議会の出来事を伝えるパンフレットが売られていた。
『ネッケル、財政上の誤りを認める。』
『国王、自らの責任を告白。』
『ついに王国の帳簿が国民へ開かれる。』
『政府の欺瞞、議場で暴かれる。』
同じ出来事が、全く異なる言葉で伝えられた。
ある者は、国王が誠実になったと評価した。
ある者は、国王が国民を欺いていた証拠だと非難した。
ある者は、ネッケルの勇気を称えた。
ある者は、ネッケルこそ財政危機を作った張本人だと怒った。
国債を持つ者は、これから公表される数字を恐れた。
銀行家は、新たな公債へどれほどの利率を求めるべきか計算を始めた。
パンを買えない市民は、帳簿の公開より、明日のパンが安くなるのかを気にした。
真実を語ったからといって、信用がただちに回復するわけではない。
むしろ、隠されていた問題が明らかになることで、不安は一時的に大きくなる。
それでも、ルイとネッケルは、もう以前と同じ方法へ戻ることはできなかった。
都合のよい数字だけを示し、今日を乗り切るために明日の負担を隠す。
その道の先に何があるのか、二人とも知っていた。
財政危機は、もはや帳簿だけの問題ではなかった。
国民が政府を信じるのか。
政府が国民へ真実を託せるのか。
真実を知った人々が、それでも国家は約束を守ると信じられるのか。
信用とは、何も知らないことから生まれる安心ではない。
全てを知った後でも、共に立て直せると信じることだった。
そして今、フランスは初めて、その最も困難な信用を作ろうとしていた。




